君のためのホワイトデイ


「で、志貴さんは、どうされるんですか?」
「はぁ?」
 遠野家の居間。いつもの様に四人で食後のお茶を楽しんでいる時でした。なんの話題だったのか、琥珀は志貴に、不意に話を振ったのでした。
 今まで、コンビニの袋入りホットケーキはどこのものが美味しいか、などという安い話題が続いていたはずです。秋葉も翡翠も全く縁が無い世界の話なので、専ら志貴と琥珀が論議していたのですが。
  琥珀に目をやると、なにか企んでいるような顔で、志貴の方を期待するように見ています。琥珀はどんな話であっても、無数の暗黙の前提をきっちり弁えて続け る性質なので、他人にもそれを期待します。だから、ほとんどの者にとっては、琥珀は急に話題を変えるように見えるのです。しかし、実は琥珀にとっては、 ちゃんとした一続きの話題のつもりだったりするわけです。その事は、志貴には分かっています。しかし、いざ急に振られると、話が見えなくなって困惑するの はどうしようもないことです。
「琥珀、いったい何のことを言ってるの?」
 秋葉は不機嫌そうに口を出します。秋葉は隠し事が嫌いな性質なので、なにか議論する場合には、前提事項を徹底的に明確にするのを信条としています。主従で正反対の性質なのが、良く出来ているというべきか、なんというべきか。
「あら、志貴さん、秋葉様、お分かりになりません? だってお菓子の話題で、チョコレートの話が出たじゃありませんが。そして今日この頃ですよ。殿方の義務なんて、明確なことでしょうに」
 琥珀は、袖で口元を隠しつつ、思わせぶりに含み笑いを漏らします。そこまでいわれれば、志貴にもなんのことか、思い至ります。
「はあ、ホワイトデイですか」
「そうですよー。世の殿方は、製菓業界の陰謀に荷担する義務があるのですよー」
「いやあ、それは無いと思う」
 志貴は言下に否定しました。琥珀のテンションについてゆくのは大変です。
「それはそれとして、頂いた物のお返しはしなければなりませんねー」
「うん、そりゃそうだ」
 志貴は思わず首肯しました。もらったもの、つまりバレンタインデイのお返しはしなければと、志貴とてちゃんと考えていました。しかし、よくよく考えると一つ問題が……。
「そうですかー。やはり志貴さんはマメなスケコマシさんですねー」
「スケコマシじゃねえよ」
「ふふふー、そうするとお返しは……」
「あー、今年はいくつも貰えたんだよなあ。学校の級友から一つ、シエル先輩と、アルクェイド、有彦のお姉さんの一子さん、朱鷺絵さん、なぜだか秋葉の級友や後輩の子達から四つだろう、それからもちろん琥珀さんに翡翠、と。あっ」
 志貴は何かに気付き、慌てて言葉を繋ごうと口を開きかけます。それより早く、ガチャン、と高価なカップが叩き付けられる音が響きます。
「……申し訳ないのですが、体調が優れないので、早々に部屋に引き取らせていただきます。兄さん、おやすみなさい」
 凍りついたような雰囲気の中、秋葉はそれだけ告げると、足早に部屋を出てゆきました。ドアが乱暴に閉じられるのを、三人はただ見ているしかありませんでした。
「――琥珀さん……」
「あはー、ちょっと志貴さんをいじりすぎましたねえ」
 志貴が抗議すると、さすがの琥珀も頭をかきながら詫びます。翡翠が氷のような視線を投げてくるからでもありました。
「と、とにかく、秋葉様はわたしが宥めておきますから。志貴さんは……分かってますね?」
「ああ、わかってるよ。でもさあ、もらってないのにお返しってわけにも行かないだろう?」
  志貴が困っていること。それは、秋葉からだけは、チョコレートをもらい損ねたことです。ホワイトデイは、バレンタインデイにチョコをもらったお返しという のが筋書きです。でももらってないのに、どうお返しすれば? いろいろ気難しい秋葉にプレゼントを贈るには、それなりの口実と戦略が必要なのです。
「そこはそれ、愛というものですよ、志貴さん」
 琥珀は志貴の肩をポンと叩きます。翡翠も、ちゃんと分ってますね、といいたげに微笑を浮かべました。

 部屋に戻っても、秋葉は鬱々とした気分のままです。
「私、本当に可愛くないなあ……」
 いつもの秋葉らしくなく、机に突っ伏して、力なく呟きます。それは、最愛の兄さんの前ですら、素直になれない自分への恨み節です。
  意地っ張りだから――と、冷たい机に頬を乗せたまま、小さく呟きます。意地っ張りな秋葉。物事にはいちいち厳格で、家長としてこの家の決まりごとを厳守さ せる、堅物お嬢様。でも本当は、小さな時のままの女の子なのです。今でも、兄さんの後をとことことついて回っている、小さなままの秋葉がいます。本当に 思っていることを口に出せない、小さなままの秋葉です。兄さんに抱きしめられたら、それだけで蕩けてしまうか弱いお嬢様。
「はあ、こんなことなら――」
 秋葉は、なおもため息をつきます。後悔しても仕切れません。あの時、ちゃんと渡しておけば――
 コンコン。ノックの音に、秋葉は顔を上げました。
「琥珀? 入りなさい」
 ノックの音にも個性があって、秋葉は使用人姉妹、志貴それぞれのものを聞き分けることが出来ます。琥珀は、秋葉の部屋に一番出入りしているのですから、聴き分けが出来るのも当然です。
「はい、失礼します」
 案の定、琥珀でした。琥珀はお盆に紅茶を載せて、運んできました。
「お休みまで、もう少しお時間がありますから、紅茶でも楽しみなさいませ」
 万事気が回る琥珀は、秋葉が物足りない思いをしていたのを、ちゃんと見抜いていました。
「もう結構」
 それでも、秋葉はプイとそっぽを向きます。が、琥珀はくすくす笑いながら、テーブルにカップを並べます。そして、話を明後日の方に向けました。
「そんなに志貴さんを苛めてはいけませんよ? 確かに気が回らないところはありますけど、そこがいいじゃありませんか。あんな優しくて愚直な方、付き合って差し上げるには、こちらから気を回して差し上げなければならないんですよー」
 娘に言い聞かせる母親のように、秋葉に優しく諭します。もちろん、そんなことくらいは秋葉には分かっています。でも、改めて人の口から聞かされることで、もう一度考える事が出来るのです。
「わかっています」
 それでも秋葉は、まだそっぽを向いたままです。琥珀は気にした風も無く、ソファに腰を下ろします。
「だいたい、秋葉様がそんな態度を取られるのなら、志貴さんもせっかくのプレゼントが出来ないじゃありませんか」
「当たり前よ。もらう理由が無いもの」
「もう、秋葉様ったら」
 拗ねたように言い返す秋葉に、琥珀は苦笑しています。秋葉が気にするのも分からなくはありませんが、それにしても気にしすぎではないかと思っていました。
「秋葉様。ホワイトデイはバレンタインデイのお返し云々なんて、口実に過ぎないじゃありませんか。殿方は好きな女に贈り物をしたいもの。そして女は好きな殿方からの贈り物が嬉しいものじゃありませんか。もっと素直になさいませ」
「でも――」
 それでも、秋葉は煮え切らない様子です。以前のこと、ホワイトデイなどというお菓子屋さんの陰謀に加担されるのですから、最後まで建前に沿ってればいいでしょ――などと、志貴に言ってしまった手前もあります。あんなことを言わなければ――
「ふふふ、秋葉様は意地っ張りでらっしゃるから、簡単には引っ込みがつかないのですよねー」
 琥珀は可笑しげにいいます。
「ほっときなさい」
 秋葉がぶすっとむくれると、琥珀はコロコロ笑って、お盆を手に立ち上がりました。そのままドアを開けて退出かと思いきや、さも、ふと思い出したという風に、こういいました。
「でもですねー。志貴さんにとって、一番大切な女の子は秋葉様でいらっしゃるのですから、志貴さんは秋葉様に差し上げたくって仕方ないでしょうにねー」
 どこかの誰かさんみたいに、と可笑しげに付け加えると、今度こそ退出して行きました。
「どこかの誰かさん、ね」
  秋葉は、ほう、とため息を吐きました。それから、机の引き出しを開けると、綺麗にラップした小さな箱を取り出しました。それは、志貴にあげようと、琥珀に 教わりながら作った六ピースのチョコレートでした。バレンタインデイ当日、秋葉なりに渡すタイミングを計っていたのですが、たまたま使用人姉妹から受け 取っている時に出くわしたり、レンに優しそうに話しかけているときだったりして、なんとなく渡しそびれたのでした。そうこうしているうちに、どうも人外二 人組に呼び出された様子で、ふいと姿を消してしまったのです。それが面白くなかった秋葉は、すっかりヘソを曲げてしまい、絶対にやるもんかと決め込んでし まったのでした。志貴は、意外に早く、息せき切って戻ってきたのですが、秋葉は無視を決め込んでしまい、結局日が変わってしまったのでした。琥珀が気を利 かせてくれたり、珍しくも翡翠がそれとなく促してくれたにも関わらず、です。
「なーんだ。結局、私が悪いんじゃないの」
 先月の事を思い返して、秋葉は総括しました。お茶会が終わって部屋に戻る時、なんとも残念そうだった志貴の顔が忘れられません。志貴は、本当に秋葉からのチョコレートを期待していたんだなと、改めて思い返しました。
「本当に、私……、意固地で可愛く無い子」
 なんだか悲しくなって、秋葉はそのまま机に顔を埋めてしまいました。

 さてホワイトデイ当日。平日なので、志貴たちは普通に学校に登校します。朝食を取って、居間に顔を出します。案の定、秋葉がお茶しながら待っていました。当たり障りの無い挨拶、それから今日の予定などをさらりと話します。
「では、兄さんお先に」
 いつもより、心持ち早めの時間に、秋葉は出て行きました。いつもと変わらぬポーカーフェイスです。
「なんだ、欲しくないのかなあ」
 その態度に、志貴の方が意気消沈してしまった。その背中を見ながら、使用人姉妹はため息を吐いていたのですが。
 登校すると、早速シエルの姿を探します。探すまでも無く、靴箱の近くで、ニコニコしながら待っていました。
「先輩、はい」
 志貴は、今日最初のお返しを、シエルに差し出します。
「あらあら。お返しは手焼きのクッキーですか?」
 早速、包みを開けたシエルは、綺麗に包装されたクッキーを手にします。一つ一つ、微妙に不揃いなので、手焼きだと分かったのでしょう。
「うん。これなら量産が効くかなと思って」
「それと、材料は台所を漁れば出てきますからね」
「う、うん。でも、包装の方は自前だよ?」
 ギクリとしながらも、志貴は言い訳します。シエルはクスリと笑います。
「いいんですよ。これは遠野くんの心がこもっているかが問題ですからね」
 シエルはニコニコしています。が、ふと思いついたように、口にします。
「でも、お返しという意味では、遠野くんの一番身近な誰かさんはもらえないのですよねえ。気の毒に」
「――なんで先輩が知ってるの?」
「はて?」
 シエルは、なおもニコニコとしています。いったい、埋葬機関の長いナイフの刃先は、志貴の私生活のどこにまで及んでいるのでしょうか。
 志貴のお返しの旅は続きます。
「いよおぉぉぉぉ、遠野!」
  朝から奇怪なテンションで話しかけてくる有彦を、必殺のラリアートで仕留めます。それからキョロキョロと辺りを見回して、何人もの生徒に取り囲まれている 弓塚さつきを発見しました。どうも、次々にホワイトデイの贈り物を受け取っているようです。女生徒も多数混じっている点に、さつきのマメな性格を見て取れ ます。志貴はなんの気なしに列に着くと、順番が来るなりクッキーを差し出しました。すると、それまでニコニコと受け取っていたさつきが、まるで不意討ちを 食らったかのように、呆然とした顔になったのでした。
「と、遠野君――」
 さつきは、信じられないという顔になっています。
「あ、あのさ。机にチョコを入れてくれてたの、弓塚さんだって聞いたから……。もしも人違いだったらごめんな。じゃあ!」
 その沈黙に耐え切れず、志貴は慌てて逃げ出します。
「あーあー、単なる義理チョコに、手焼きのクッキーなんて大げさと思われたかな。失敗失敗」
 志貴は頭をかきつつ、席に戻ります。一方、さつきは。
「えっ、あっ、うそっ、遠野くんがお返し! うれしくてラッキーだけど、あー、わたしったらなにやってるのよ!」
 頭をかきむしりながら、のた打ち回っていたそうです。

 放課後、志貴は少し離れた時南医院を訪れ、折良く居合わせた朱鷺恵にお返しを贈りました。それから三咲町に取って返すと、アルクェイドのマンションを訪ねました。
「いらっしゃーい。ゆっくりして行けるよね?」
「ごめん、今日は用事が多いんだ」
 お日様のような笑顔で迎えてくれたお姫様に、志貴はいきなり頭を下げました。
「ふーん。ま、志貴も今日は忙しいだろうから、許してあげるわよ」
 案外に聞き分け良く、アルクェイドは許してくれます。志貴はホッとしながら、クッキーを贈ります。一緒に居た仔猫の姿のレンにもお裾分けです。
 少しだけ、コーヒーのご相伴に与りつつ、アルクェイドとお話します。
「おいしい。良く出来てるわよ」
「琥珀さんにマンツーマンで教えてもらったからな。そもそも材料も機材も最高なんだから、上手く焼けるに決まってる」
 まあ、ロハだけど、と志貴はこっそり呟きました。
「うんうん、これなら他の子たちにも大受けよ」
 しかし、とアルクェイド。志貴の抱えている包みを見て呆れます。
「いったい、何人の子に手を着けてるのよ。いくら絶倫超人とはいえ、身がもたないんじゃないの?」
「違うっつーの。これは有彦のお姉さんや、秋葉のお友達の分」
 とはいえ、それらの娘たちに手を掛けてないかといえば、実はアレなのですが。
「ふーん、妹のお友達からももらったんだ。それで、その妹にはどうするつもりよ?」
 アルクェイドはずばり言います。志貴は、秋葉からチョコをもらえなかったことは、公言して無いつもりなのですが。まったく、誰が言いふらしてるのやら。
「うん、参ってる。あいつ、こういう年中行事は嫌ってるみたいだし、もらっても無いわけだから、こっちからやるのもなあ。とはいえ、やらないとかわいそうな気もするし」
「ちゃんと妹の分も焼いてるんでしょ? あげちゃいなさいよ。妹、すごく喜ぶから」
「そうかなあ。あいつの性格からして、むしろ怒りそうだ」
「妹たちが、志貴を怒る気持ちも分かるわ」
 まだ分かって無い様子の志貴に、アルクェイドは密かにため息を吐きました。わたしでさえ分かることを、なんであなたが、と。
 マンションを辞して、次はアーネンエルベという喫茶店に直行です。瀟洒な店内に入ると、既に三人組が待ってました。珍しい、浅上女学院の制服です。
「あ、志貴さーん」
 立ち上がって手を振ってくれたのは、秋葉の後輩の瀬尾晶でした。志貴と会えるのが嬉しくてたまらないのでしょう。手を忙しなく振って迎えてくれる仕草が、子犬が尻尾を振って必死にじゃれ付いてくる様を思わせます。
「お兄さん、お久しぶりですねー」
  一方、ほわほわした笑みと共に迎えてくれたのは、一番大柄な女の子でした。晶が子犬なら、こちらはマイペースな大型犬でしょうか。人が見ていようがいまい が気にせず、マイペースに日向ぼっこしているような。もっとも、志貴の姿を認めるなり、晶同様に尻尾と耳を立てて親愛の情を表してくれる点では、ほぼ同上 なのですが。
「晶ちゃん、お久しぶり。羽居ちゃんもお出かけなんだ。珍しいね」
 対面に座りつつ、志貴は娘たちに微笑みかけます。
「だってー、お兄さんがお返ししてくれるって、晶ちゃんから誘われたんですよー? 晶ちゃんったら大喜びで、早々にホテルに予約を入れようとしたくらい――むがむが――」
 話が危うい方向に向くや否や、我関せずと言う態度を取っていた一番小柄な娘が、さっと羽居の口を塞ぎました。
「羽居、余計な事いうな。晶も志貴さんも困ってるだろうが」
 晶はわたわたと慌ててますし、志貴はというと事情を飲み込めず、きょとんとしています。
「あうー、晶ちゃん、ごめん」
 羽居が頭を掻きながら詫びます。
「蒼香ちゃんも来てくれたんだ。じゃあ、お返しするのにちょうどいいね」
 志貴がその小柄な娘、月姫蒼香にも微笑みかけると、蒼香は「べ、別に、晶たちにくっ付いてきただけだよ」と、顔を赤らめつつ、目を逸らします。
「じゃあ、お返しだよ。みんな、チョコありがとうね」
 志貴は、三人それぞれに、クッキーの包みを差し出します。
「ありがとうございます、喫茶店での持ち込み飲食は問題ですから、持ち帰ってからいただきます」
「わー、おいしー。お兄さん、お上手ですねー」
 晶の場所を弁えた言葉と、まるで弁えてない羽居の対照的なこと。羽居は何の躊躇も無く封を切ると、クッキーをぽりぽりと齧っています。それを目の当たりにした晶は、明らかに葛藤していたようですが、やがて頭を振って誘惑を断ち切りました。
「しかしまあ、志貴さんもマメというか、なんというか」
 自分の分の包みをしげしげと眺めつつ、蒼香は感心したように呟きます。
「その分だと、チョコもらった全員にお返しか? まったく、どれだけ女の子を誑かすつもりだ……」
「人聞きが悪い事いうなあ。手作りクッキーだったら、もらう方も、あげるこちらも負担にならないだろう? これでも浮世の義理というものに気を遣ってるんだぜ」
 そうやってマメに義理を守るのが問題なんだけどなあ、と蒼香は小さく呟きます。
「まあ、大将が何人孕ませようが、わたしの知ったことじゃないね。しかし問題の、難物のアレはどうするつもりだよ?」
「アレ? ああ――」
 蒼香が指す対象に気づいて、志貴は弱った顔で頭を掻きます。
「困ってるんだ。義理を守ろうにも、その義理をもらってないからなあ。でもあげないと、仲間外れにしてるようで、かわいそうでね」
「ま、遠野はそういう仲間外れなんざ、気にする性質じゃない。でも、コトが大将のこととなると、話は別ってもんさ」
 蒼香は可笑しそうにいいます。
「そうだよねー。秋葉ちゃんの最愛のお兄さんのことなんだもん」
「でもあいつ、こういう浮世の俗事なんか嫌いそうだろう?」
「あのさあ」
 蒼香は苦笑いします。
「いい加減、遠野の乙女さ加減をわかってやれよ。あいつはちょっとやそっとの純情振りじゃないんだからさ。お兄さんからもらえるものなら、なんだって嬉しいに決まってる」
「そういうもんかな。まあ確かに、秋葉は乙女だけどな」
 果たして意思が通じたのか、二人は巧まずして微笑を浮かべます。もっとも、志貴にとっての秋葉の『乙女』というのは、夜の生活のことなのですが。
「だから、たまには男の方からアタックだよ。口実なんてどうでもいいだろう? 遠野の気持ちを分かってやりなよ」
「そうだな」
 志貴も、ようやくその気になってきました。せっかくクッキーを焼いたのだから、秋葉にあげないと。
 ひとしきり、楽しくお喋りした後は、アーネンエルベを出て別れます。と、晶と羽居が先に行ってしまうのを見届けて、志貴は蒼香を引き止めました。
「ついでで済まないんだけど、これもお願いできないかな」
 志貴は、そういって、もう一つの包みを蒼香に委ねました。
「いいけど、誰? 羽居や晶に渡した方が良くないか?」
「いや、ダメなんだ。これ、四条つかさちゃんに渡して欲しいんだけど、羽居ちゃんにお願いしたら、速攻で秋葉の耳に入っちゃうから」
「ああ、そういうことか」
 羽居が、そういう秘密を守れるはずがありません。すぐに秋葉の耳に入るでしょう。もしもそうなれば、つかさの命は風前の灯です。一方で下級生の晶に委ねるわけにもいかないのですから、蒼香に任せるのが一番という結論になります。
「承知した。しかしまあ、志貴さんに唾つけられた女の子は、全校生徒の何割になるんだろうね」
「そんなわけ無いだろう」
 志貴は憮然として答えます。
 アーネンエルベを辞すと、いよいよ外回りでは最後のお返しです。
 有彦の家を訪ねます。有彦か、志貴の目的の人か、どちらかはいるだろうという目論見でした。有彦は居ませんでしたが、目的の人、有彦の姉の一子が迎えてくれました。
「なんだ、有間。愚弟は不在だぞ」
 下着の上にワイシャツを羽織っただけという、およそ無防備な格好で迎え入れられましたが、志貴の方は慣れっこです。台所を借りてお茶を沸かすと、紅茶と一緒にクッキーを贈ります。
「なんだ、そういうことか。有間は本当にマメだな」
 一子は、ニヤニヤしながらクッキーをつまみ、うん上手だ、などと感心している。
「また、年上女との蕩けるような情事を楽しみに来たのかと思ったぞ。愚弟がいつ帰ってくるか、ひやひやしながらのな」
 一子にからかわれて、志貴は顔を青くしてます。一方で、わざと胸の谷間を見せ付けてくるので、志貴は顔を赤くしたりもします。
 なんとなく、この後の予定を話したりします。一子の職業は謎ですが、仕事で海に出かけるといいます。そういえば、これ見よがしに水着と、ドライスーツが並べられています。漁師でも始めたのでしょうか。
「有間は、まだ白いものを女の子に振り撒いて回るつもりか」
「なんすか、その危険な言い草は。まあ、後は屋敷の中だけです」
「ああ、そういえば、秋葉ちゃんからはもらえなかったんだな。それで、有間のことだから、贈っていいものかどうか困ってるんだろう」
 一子にずばり言い当てられ、志貴は顔をしかめます。
「いったい、誰が俺のチョコ事情を話して回ってます?」
「誰って、有間が前に愚痴ってたじゃないか。秋葉ちゃんからだけは貰えなかったって」
「へ……」
 志貴は呆けた顔になります。よもや、志貴の『最愛の秋葉からだけチョコもらえなかった事件』を吹聴して回っているのが、自分自身だったとは。
「――俺、そんなこと言ってました?」
「うん。かなり落ち込んで、心ここにあらずって様子で、ぐちぐちと愚痴ってたじゃないか。なんで一番欲しい人からもらえないんだー、って」
「そ、そんなこと、ほざいてましたか」
 こみ上げてくる頭痛に、眉間を揉み解す志貴です。なんということでしょう、それほどまでに落ち込んでいたとは。
「まあ、な――」
 そんな志貴に、一子は謎めいた笑みを向けます。
「有間のことだから、まず貰ったから、貰ってないからってのが問題なんだろうけど、気にしすぎだ。問題は有間の気持ちだろう? 有間は秋葉ちゃんのことをなんて思ってる。可愛いと思ってるんだろう。喜ばせてやりたいんだろう。なら、その気持ちに、素直に従えよ」
  その言葉に、志貴はハッと顔色を変えました。確かにそうです。浮世の義理が、秋葉から見た道理がどうのと拘るなんて、馬鹿げていると痛感しました。この クッキーを秋葉にあげれば、秋葉は――まあ素直にではないにしても――喜んでくれるはずです。そして、志貴は喜んで欲しいから、このクッキーを焼いたので す。ならば、その気持ちに従うだけのことです。
「そうか、俺らしくも、馬鹿げた遠回りしてたってことだな」
 急に真剣な顔になった志貴を、一子は可笑しげに見守っていました。

 一通り、お返しして回ると、ようやく屋敷へと戻ります。既に日はとっぷり暮れています。
  夕食はいつもの通り。秋葉と向かい合って、使用人姉妹の給仕を受けます。いつものようで、しかしどこかが違ってます。秋葉は、珍しくも失敗を犯し、何度か 食器をカチリと鳴らしてしまいました。が、志貴の方も考え事で頭が一杯で、それにまるで気づきません。そんな兄弟を前に、琥珀は笑いをかみ殺しているよう です。
 食後はお茶の時間です。これも、どこかちぐはぐな展開です。秋葉が常より饒舌に話題を振るかと思えば、志貴は心ここにあらずという顔。ふ と志貴が我に返り、秋葉の振った話題を精一杯受けるや否や、秋葉はなぜか不機嫌そうに黙り込む。そんな居心地の悪い時間が、しばらく続きました。
「――では兄さん、お先にお休みさせていただきます」
 切欠をつかめないまま、時間ばかりが過ぎた後、秋葉は急に腰を上げました。志貴が慌てて顔を向けると、秋葉の向こうで琥珀が必死に合図を送っているのが見えました。確かに、今しかありません。が、志貴が贈り物に頭を向ける間に、秋葉はスッと出て行ってしまいました。
「んもー、志貴さん。どうしてここで渡してくださらないんですか」
 琥珀は、地団駄を踏まんばかりです。
「ごめん。なんか、秋葉に却下されちゃいそうでさ」
 志貴は頭を掻いてます。しかし、秋葉の身構えようから、下手に切り出すと、ご機嫌を損ねてしまう恐れはありそうでした。
「はあ、確かにそうですねえ。秋葉様は、志貴さんのこととなると、物凄く気難しい偏屈屋さんになっちゃいますから」
 琥珀も、そして翡翠も、思案顔になります。
「ああ、お嬢様を攻略するには、それなりの戦略が必要でね。あ、その前に」
 志貴は、クッキーを二人、それぞれに手渡します。
「ふふふー、大好評だったでしょう? 女の子は、殿方が自分のために手間隙掛けてくださるのが嬉しいんですから」
 琥珀は、当然のことながら、クッキーの出来を知っています。満足そうな顔です。翡翠も、わずかに顔を赤らめ、嬉しそうです。
「ああ、みんなに上げてよかったと思った」
「なら、秋葉様にも喜んでいただいてくださいな」
 琥珀は志貴の背中を押します。志貴も、いよいよ覚悟を固めました。
「そうだな。もう、直接アタックしかないか」
 志貴は居間を後にすると、秋葉の私室に足を向けました。
 その秋葉の部屋の前。志貴は最後の逡巡を乗り越えると、ノックします。
「兄さん?」
 ドア越しに聞こえる秋葉の応えは、心なしか硬いものでした。
「帰ってください。秋葉は、今夜は誰とも会いたくありません」
 志貴が口を開くより早く、秋葉は一気にまくし立てました。こりゃ重症だ――と、志貴は顔をしかめました。
「秋葉、あげたいものがあるんだ」
「なんですか、下らない世俗の年中行事にお付き合いしろと? ごめん被ります。そのような下らないことは、他の方々にお願いします」
 いつも人心に疎い志貴ですが、この時ばかりは悪魔的な敏さを発揮します。扉の向こうで、秋葉が泣かんばかりの顔をしているのを察知したのです。
「だいたい、私は兄さんにチョコをあげるなんて下らないことをしてません。頂く理由がありません」
 ひどく固い声でしたが、その癖に期待が滲んでいます。秋葉の心の揺れを察知した志貴は、咄嗟に戦術を変えました。
「――そうか、残念だ。俺はそれでも秋葉にあげたかったんだけどな。おやすみ」
 志貴は、声を思い切り低めて、秋葉に言い返します。それから、わざと足音を響かせ、ドアを離れて行きました。いや、実際には、ずっとドアの傍に居たのですが。
 志貴が気配を殺し、様子を窺います。秋葉は、ドアの向こうに何かを期待するように立ち尽くしていました。が、やがてのろのろと離れて行きました。きっと、肩をがっくりと落としていることでしょう。そしてそれこそが、志貴の狙った瞬間だったのです。
 音もなくドアを開けると、肩を落として寝室に向かう、秋葉の後姿が見えました。志貴はスッと近づきます。そして、なにかを察知した秋葉が「えっ」と顔を上げるより早く、その身体を抱きしめていました。
「――っ、兄さん!」
「こんばんは、秋葉」
 志貴は腕の中の妹に、優しく微笑みかけます。
「こんばんはって――なんのおつもりですか!」
「いっただろう、俺は秋葉に、ただあげたいんだって」
  志貴は、後ろ手にクッキーの包みを取り出すと、秋葉が反射的に抗うより早く、そのたおやかな手に握らせて、そのまま腕の中に抱きしめてしまいました。いつ もの志貴からは考えられないくらい、強引な行動です。秋葉は、目を白黒させています。が、やがて強張った体から力を抜くと、志貴に丸ごと預けてきました。
「――もう、兄さんは」
 なにか、諦めたような、ホッとしたような顔です。
「本当に、ときどき兄さんが悪魔に見えます。いつもは私たちの気持ちなんてこれっぽっちもお気づきにならないのに、こういう時は超能力者みたいなんですね」
「それも、秋葉が可愛いからだよ」
 志貴は、自分の奇襲作戦が上手く行ったことに満足です。肩越しに、秋葉の優美な喉元を愛撫すると、口づけを交わします。そして、そのまま腕の中に抱きしめてしまいました。
「世話の焼ける妹を持つと、兄貴が苦労するんだよ」
「そういう言葉は、私の苦労をなくしてからおっしゃってください」
 軽口を交わすと、秋葉はふと思い出し、机の引き出しから小さな箱を取り出しました。
「兄さん、これをどうぞ」
「えっ――いいの?」
「いいのです。一月遅れですけど。私が差し上げたいから、差し上げるんです」
「じゃあ、ありがたく頂かないとな」
 二人は顔を突き合わせて、くすくす笑っていましたが、ふと真顔になると、再び唇を重ねました。それは確かに、志貴にとっての秋葉が、単なる妹では無い、最愛の恋人であることを意味していました。
 唇が離れ、上気した目と目が合うと、志貴はなにやら決意した顔になりました。
「よし決めた。今夜は秋葉とエッチする日にする。覚悟しとけよ、秋葉のためのプレゼントは二部構成だからな」
「えっ、えっ、今からですか?」
「そうだよ。寝不足を覚悟しておけよ」
 秋葉は慌てた様子でしたが、志貴は有無を言わせず、その細い身体を抱き上げます。そのままベッドに運ばれながら、秋葉は途方に暮れた顔をしていました。が、やがてくすっと笑うと、志貴にその身を委ねきってしまいました。

 秋葉の寝室から、濡れた音と嬌声とが続いている頃、琥珀はその様子をモニターで見ていました。
「うっわー、ブラックホール的らぶらぶ。志貴さん――凄いですねえ。いつの間にこんな上級テクニックを。初心な秋葉様なんて、一発で昇天ですねえ。これは、明日の朝は大変だわ。秋葉様、腰が抜けてるでしょうからねえ」
 などと、煎餅を齧りつつ、のん気にほざいている腹黒家政婦です。
「お二人とも似た者同士というか、手間が掛かるというか――まあ、この画像を人外ズや秋葉様の御学友に送り付けて、憂さ晴らしですよー」
 琥珀は、くすくすと含み笑いを漏らします。と、
 ぐしゃ
 不意にビデオデッキに、モップが突き刺さったのです。
「はぁっ! いやあああぁぁぁぁ、わたしのビデオがー!」
 琥珀は絶叫します。モップを叩き込んだのは、いつの間にか現れた翡翠でした。
「ひ、翡翠ちゃん、なんてことを!」
 琥珀は、モップを突き刺した犯人に食って掛かります。いかに最愛の妹とはいえ、これは――
 が、その翡翠の氷のような視線に射すくめられ、琥珀はヒッと恐怖の声をあげました。
「ひ、翡翠ちゃん」
「姉さん、人のプライバシーを覗いちゃダメだって、前にわたしは言いましたね?」
 引き抜いたモップを構え直しながら、翡翠は姉を見下ろします。その視線に、声にこもる怒りに、琥珀は顔面蒼白。身体はガタガタと震えます。まだしも、怒り75%くらいの秋葉に出くわす方がマシです。さすがに100%モードでは命がありませんから論外ですが。
「一度言ってもお分かりにならなかったということは、姉さんの身体にたっぷり言い聞かせるしかありませんね」
「ひ、翡翠ちゃん、タ・ス・ケ・テ――」
「姉さん、生き延びてくださいね」
「ひ、いやああ、お助けぇぇぇ!」

 その夜、遠野家では、熱く濡れた空気と共に、殺伐とした闘気も荒れ狂ったとかなんとか。

<了>

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