鉄槌 3



 白銀の刃を水平に構え、冷たい眼差しで待ち構えているシエル。それに対するアルクェイドは、散歩でもするような、いかにも気軽そうな足取りで、近づいてゆく。
「ねえ、シエル」と、アルクェイドは、シエルに歩み寄りながら声をかけた。
「なんですか」と、シエルも短く応える。厳しい表情も、構えた右手も、微動だにしない。
「わたしがあなたを、初めて殺したときのこと、覚えているかしら?」
「――ええ、憶えてますよ」
 シエルは微動だにしない。それでも、一瞬だけ応答が遅れた。
「あの日も、こんな寒い夜だったわね」
「そうでしたか? そういえば、あの日も今夜みたいに月が出てましたね」
「ええ、血のように赤い月がね」
「あなたが屠った死徒の血のようにですか?」
「ええ、シエルが殺した街の人たちの血のようにね」
 互いに挑発しあいながらも、間合いを計っている二人。ある意味で、二人は互いのことを熟知していた。
「今度は、あなたが魔王として振舞うつもりでしょう」
「そうね、別に殺して回りたいわけじゃないけれど。邪魔なものは消すと決めただけ」
「あなたが血に酔うまで、ほんの一歩のことですよ。そう、ロアの血を吸った時のように」
「そうかしら? まあ、そうなっても気にしないけどね」
 アルクェイドは両手をだらりと垂らして、いかにも気楽そうに歩いてくる。しかしシエルは、ますます厳しい顔になると、アルクェイドを射抜くような視線を投げてくる。もしも常人ならば、その視線で射殺せたかもしれない。それほど峻烈な眼差しに射抜かれているというのに、アルクェイドは微笑すら浮かべていた。
 後五歩。既に剣の切っ先は届く距離だ。が、シエルは微動だにせず、アルクェイドも悠然と足を進める。
 後三歩。後一歩で、シエルは懐に飛び込まれる。だというのに、間近に迫ったアルクェイドをにらみつけるだけ。アルクェイドは、ほんのわずかに不審の色を浮かべたが、しかし足取りを変えず、なおも歩む。
 後二歩。アルクェイドはシエルの懐に飛び込んだ格好だ。それでもシエル動かない。アルクェイドの歩みが、初めて止まりかけた。その時――
 弾けるような音とともに、足元から何かが飛び上がった。拳大の薄い石片。それが砲弾のように、アルクェイドに襲い掛かってきたのだ。直撃されれば、いかな彼女とて負傷していたろう。
 それを避け得たのは、彼女が人間など足元にも及ばない反射神経を持っていたからだ。ただ、歩行の向きを逆転させただけ。しかも、目にも留まらぬ速さで。間一髪だった。
 アルクェイドはそのまま数歩、すばやく下がり、シエルのリーチから逃れた。
「小細工」
 アルクェイドは、ごく短い評価を下した。
「――ならば」
 シエルが動いた。背後に飛ぶ。追うべくベクトルを再度逆転させるアルクェイド。が、微かな気配を察知した彼女は、咄嗟に飛び上がった。たった今まで彼女の腰があった辺りを、何かが過ぎった。黒鍵ではない。細く鋭い、しかし猛々しいまでに長い鉄針だ。
「いやらしいものを」
 アルクェイドは怒りに顔を歪めた。一瞬、地に降り立つと、地を蹴ってすれすれに飛ぶ。目標は街灯の一つ。そこにシエルが降り立つ寸前、アルクェイドは肩で一気に街灯をへし折った。耳障りな音とともに、頑丈な鋳鉄製の街灯があっけなく倒壊する。足場を失ったシエルは、さらに地面へと落ちてくる。アルクェイドは必殺の右手を振り上げた。シエルの身を引き裂く寸前、石のように落ちてくるばかりに思えたシエルと目が合った。にやりと笑っていた。
「――!」
 アルクェイドは、思わず真後ろに飛び退いていた。
 身構える。頭上、左右、背後、真下、なにもない。ブラフだったか。
「――はめたわね?」
 しかしシエルは答えず、飛び起きるなり、再び黒鍵を構えなおした。
 振り出しに戻った。一瞬、沈黙が落ちる。が、今度の沈黙は短かった。
 三度、アルクェイドが動いた。
「はっ!」
 気合と共に、右の踵を地面に叩きつけた。その瞬間、電撃のような衝撃に襲われ、シエルは思わず飛び上がった。
 シエルが我に返ったとき、既にアルクェイドは目の前に迫っていた。アルクェイドは地脈を刺激することで、霊感に優れるシエルの感覚を、一瞬だけ麻痺させたのだ。その優美な左手を揮い、襲い掛かってくる。
「くっ――」
 シエルは素早いダッキングで交した。だがアルクェイドの一撃は、彼女のカソックの肩口を切り裂く。
 アルクェイドは、息もつかせぬ攻撃を浴びせる。右の拳、真下からの蹴り、そして左の肘打ち。常人ならば三度は即死していた攻撃を、しかしシエルは奇跡のように交して見せた。ほとんど金属的といえる轟音をたてて迫ってくるアルクェイドの攻撃を、シエルは経験と鋭い感覚に任せて交しきる。
 一瞬、シエルとアルクェイドの目が合った。その時には、シエルは黒鍵を振りかぶり、アルクェイドの背中へと振り下ろそうとしていた。
 非声の気合と共に、アルクェイドは右の掌底をシエルに叩きつけた。わずかにアルクェイドの速さが勝った。シエルは突風に巻き込まれた木の葉のように、突き飛ばされた。モノが砕ける音と共に、シエルはコンクリート製のモニュメントに叩きつけられた。いかな彼女とて、これは無事では済むまいと思えた。
 しかし、シエルは即座に飛び起きる。ダメージを受けた様子ではない。が、鮮血が一筋、シエルの額からツーッと垂れ落ちた。
「あのタイミングで防護魔術を使えるとはね。さすがに弓のシエルね」
 なにか誉めそやすような言葉を口にするアルクェイドだが、その表情は余裕そのものだ。今のシエルの機動は、アルクェイドには全く想定の範囲内だ。シエルの性能は、過去の経験の範囲をなんら凌駕するものではない。前回、公園で戦った時のままだ。それだけ確認できれば十分だった。
「今日のわたしを、なめて掛からない方が身のためですよ」
 対するシエルは無表情に、口数少ない。それでも挑発的に言い返す。
「そろそろ体も温まったかしら? 行くわよ」
 アルクェイドは、再び動き出す。今度は、シエルも真っ向から立ち向かってきた。
 鋭い金属音と共に、シエルの黒鍵とアルクェイドの爪とがぶつかった。己が力に満腔の自信を持つアルクェイドに対し、精緻なタイミングと技術で対抗するシエル。だが、それでも打ち勝ったのはアルクェイドだった。黒鍵がへし折られ、シエルは突き飛ばされた。
「はっ――!」
 シエルは蜻蛉を打って体勢を立て直す。が、顔を上げた時、既にアルクェイドに拳が、眼前に迫っていた。
 アルクェイドの一撃がシエルの顔面を捉える寸前、アルクェイドの胸元に銀色のものが迫る。それを視界の隅に捉えたアルクェイドは、わずかに勢いを緩めた。その機を逃さず、シエルはアルクェイドの拳をぎりぎりに交わしながら、横っ飛びに逃れようとした。だが、アルクェイドは、先ほどの銀色のもの――とっさに編まれた、シエルの黒鍵の切先――を、横合いから叩いていた。シエルの握力を、アルクェイドの強力が凌駕する。黒鍵が宙を舞うと、シエルは素手でアルクェイドと向き合う破目に陥ってしまった。
「死になさい」
 余裕の笑みを浮かべつつ、アルクェイドは手刀を放った。ぶん、と大気を断ち切って迫るそれを、シエルはどうしようもないはずだった。シエルは眼前に迫った死を、しかし奇妙なくらいに冷静に見ていた。
 指先に確かな手応え。土煙を立てて、どころか塵一つ立てることなく、アルクェイドは優雅に足を止めた。その手が捉えたものにちらりと目を落とす。手中にはシエルの心臓があったはず。だが――
「あはは、捨て身もいいところね」
 嘲笑いながら、それをシエルの足元に放った。それはシエルの左腕だった。シエルは苦痛をこらえながら、しかし引きちぎられた肘の断面に手をかざす。一瞬後、幻のように肘から先が再構成される。復元魔術だ。
 シエルが、心臓を射抜かれる代わりに、左腕を犠牲にしたのは明らかだった。まさに捨て身。
「まあ、あなたならいくらでも体を作り直せるんでしょうけど、やはり痛いでしょう? 腕を千切られ、目をえぐられ、頭を叩き潰され――そうなってもあなたは生き返るだけだろうけど、それでも死ぬのは嫌でしょう?」
 アルクェイドは、ほとんど憫笑に見える笑みを貼り付けて、シエルを傲然と見下した。
「今なら見逃してあげるわよ? わたし、他にやることが、いくらでもあるんだから」
「しつこいですね。わたしにだって義務と感じることはあるんです」
「ふーん、なにがさ?」
「あなたを止めることです」
「――可愛いこと言うじゃない」
 アルクェイドは嘲笑すると、するりと踏み出した。今度で仕留めるつもりだった。
 間髪入れず、シエルは疾る。両の手に黒鍵を一瞬で編み上げると、アルクェイドに切先を向けた。
 アルクェイドは目を細めると、あえて足を止め、シエルを迎え撃った。渾身の力を込めて、銀の刃を振るうシエル。それを両手の爪で迎え撃つアルクェイド。
 幾度目かの衝突は、しかしまたしてもアルクェイドが打ち勝った。アルクェイドは、シエルの両手の黒鍵を、強力な爪の一撃で跳ね返したのだ。
「くっ――」
 シエルは丸ごと弾き飛ばされると、地面に背中を打ちつけた。アルクェイドが追いすがる。凶暴な表情を見せて、偶蹄目に襲い掛かるライオンのように、激しく飛び掛ったのだ。シエルには立ち上がる暇さえ与えられない。息も吐かせぬ猛攻だ。咄嗟に、シエルは呪文を詠唱する。ほとんど超音波じみて聞こえる、超高速詠唱だ。
 ギラリとした光が、真下から延びた。シエルは黒鍵の切先を、さらに槍のように延ばしたのだ。アルクェイドは槍衾に飛び込むような形になった。彼女は身をかわさなかった。両手を振るい、槍衾をかき分ける。両手が傷つくのも構わず、アルクェイドは押し入った。だが、ほんの一瞬の遅滞がシエルに有利に働いた。アルクェイドのつま先が、石畳を激しく穿つ直前、シエルはかろうじて飛び退り、交わしたのだ。
 だが、今度ばかりは、アルクェイドはシエルの動きを予測していた。闇に消えようとするシエルの背中を、アルクェイドは視界に捉える。既に思念を集中していた。
「消えろ!」
 アルクェイドはシエルの位置に真空を想起する。空想具現化。アルクェイドの無敵を保証する、超越的能力。それを逃れるなど、彼女の存在を支える自然そのものを殺さない限り、ありえないはずだった。シエルの肉体は、真空に置換され、粉々になる――
「なっ――!」
 次の瞬間、アルクェイドは目を疑った。闇の中を何事も無く逃れてゆく、シエルのシルエットが目に入ったからだ。空想具現化が真空を生じせしめた証の、前方へと吸い込まれる風が巻き起こる。
「くっ――!」
 まだ、シエルの姿は、視界に捉えていた。アルクェイドはもう一度空想する。今度はシエルの進行方向に、鉄の壁を――
 今度こそ、アルクェイドははっきりと知覚した。シエルがなにか、きらきらと光るものを投げつけた途端、彼女の実体化しつつあった思念が妨げられ、遅滞が生じるのを。それは確かに、何物よりも速いはずの思念の拡がりを押さえ、空想の具現化に遅滞を生じせしめていた。シエルは、その一瞬の遅滞を見逃さず、具現した鉄の壁を身軽に交わしてしまう。
「なに、どういう――」
 アルクェイドの胸中に疑念が生じた。シエルが投げつけたもの、なにか薄い網のようなものが、空想具現化に干渉しているのはわかった。だが、これはシエルが今まで見せたことの無いものだ。アルクェイドと――ある意味で最も――豊富な戦闘経験を積み重ねてきたシエルだが、こんな手は今まで打ってきたことが無かった。全く未知のテクニックだったのだ。初めて、アルクェイドの背中にひやりとしたものが走った。もしかしたら、まんまと罠にはまってしまったのか……。
 そのアルクェイドの逡巡を見抜いたのだろう。シエルは逃げることを止め、石畳を駆けながら数本の黒鍵を放った。ただし、明後日の方向に。
「なっ――」
 シエルは明後日の方向に駆けながら、やはり黒鍵を次々に放ってゆく。規則正しく、数本ずつ。突如として無視された形になって、アルクェイドは束の間唖然として立ち止まっていた。が、それは彼女の思い違いだった。
 不意に、周囲から脅威が迫ってくるのを知覚した。心の中に禍禍しい影が落ち、急迫してくる。同時にシエルも急転すると、こちらに一直線に迫ってくる。戦略的な奇襲を喰らう形になって、アルクェイドは焦燥に浮かされた。常の冷静さを失い、何の考えも無く、右に向かって高く飛び上がったのだ。
 高々と飛んで、シエルの突進を交わした途端、彼女は想像したことも無かった脅威にさらされた。黒鍵――!
 周囲から迫ってくるものの正体、それは何十という黒鍵だった。しかも、それはアルクェイドの機動に追尾してくる。シエルが投げたにしては多すぎる。何らかの魔術で分裂させたのか。
 くそっ――心の中で、彼女らしくも無く汚い言葉で毒づく。形の上ではチェックメイトだった。いかな真祖の姫君とはいえ、全方位から知覚が飽和してしまうほどの数の黒鍵を喰らい、避けきれるわけが無い。万事休す――
 だが、最後の最後になって、アルクェイドの胸にふてぶてしい自信が蘇った。真祖の姫君に不可能事は無い。そう、避ける。わたしは避けきれる、と。
 駆けながらも、乏しい手数を裂いて、アルクェイドは進行方向に思念を集中した。鋼鉄の壁が、突如として出現する。
「ハッ!」
 アルクェイドは、その壁を足がかりに、高く飛んだ。彼女の足先が鋼鉄から離れた途端、黒鍵が分厚い装甲に突き刺さる轟音が響いた。前方からの黒鍵はやり過ごした。まだ無数とも思えるそれが、アルクェイドに迫っている。だが、自ら動いて、全ての黒鍵が同時に着弾する焦点を外すことで、それぞれにわずかな時間差を稼ぐことが出来た。それでも、逃げ切るには全然足りない。
 右――瞬間的な思考に任せ、アルクェイドは再びなにかを具現化した。ホンのわずかな負担で具現化できるくらいの、ごく小さな岩だ。右から銀色の刀身が揃って襲い掛かってきた瞬間、彼女は全力でその岩を蹴り上げた。小さな岩とはいえ、彼女の強力で蹴り上げれば、その反作用は大きなものになる。アルクェイドは真下に落ちてゆく。右からの攻撃をかわしきる。
 だが、背後と左が残っている。真下――シエル自身による攻撃――は無い。アルクェイドは頭から地面へと突っ込んでいった。
 激しい衝撃と共に、地面に叩き付けられる。だが、あえて受身も取らず、石畳に張り付いた形になる。風切る音が迫る。彼女ぎりぎりに、背後からの黒鍵の群れが飛びすぎてゆく。
 そして左。その刀身が反射する微かな光を目に留める。それはやや角度をもって、頭上から落下する形になっており、こうして地面に張り付いてやり過ごすことは出来ない。一方、最初に交わしたはずの前方からのもののいくらかが、大きく旋回し、その左からの攻撃と同時に迫っていた。ならば――
「――!」
 気合もろとも、彼女は拳で地を打った。後ろ向きに起き上がり、しかしそのまま背後へととんぼ返りする。そして、大きく振り上げた足を、今度は水平にぐるりと振り回した。絶好のタイミングで、彼女の足が黒鍵の側面を打つ。そしてそのまま、黒鍵を押しやるようにして足を振った。次々に黒鍵が弾かれる感触。
 そのまま全ての黒鍵をなぎ払う。乾いた音を立てて、黒鍵が石畳にぶちまけられた。周囲には何十という黒鍵が、もはや無為に転がっているばかり。すばやく立ち上がったアルクェイドの頬に、思わず会心の笑みが浮かんだ。これほどの攻撃を無傷で凌いだのだ。その勢いで、彼方に立ちすくんで見えるシエルに、顔を向けようとした途端だった。
「うっ――」
 思わず、小さな声をあげた。背中に、微かな衝撃を感じたのだ。これは予想もしてなかった。
 そのまま、シエルへの構えを崩さずに、背中に手をやった。硬く、冷たいものに手が触れる。そのまま引き抜いた。ぬるりとした感覚。出血しているのだろう。だが、たいしたことではない。
 引き抜いたものに目を落とした。それは、側面に禍禍しい修飾を施された、黒い、小さなナイフだった。なんらかの魔術的処置を施されていたのだろう。こうして手に持ってさえも、その存在を知覚するのが難しいような、そんな代物だった。だが、こんな小さなナイフなど、どうということも無い。
「たいしたものね。散々に練習したんでしょう? でもお気の毒様、渾身の攻撃も、この有様。小さなナイフ一本を当てるのが関の山だったわね」
 黒いナイフを放り出すと、アルクェイドは余裕の笑みを浮かべ、シエルに相対した。シエルは、厳しい表情を崩さず、アルクェイドを睨み付けている。
「さすが弓のシエルね。まだまだわたしの知らない技を持っているんじゃないの? でも出し惜しみしても意味無いわねえ。結局は今と同じことになるんだから。ここでわたしを止めないと意味無いのよ?」
 余裕の表情で、アルクェイドはゆっくりと足を踏み出した。
「いい、シエル。憶えておいて。この世には、支配するものとされるものしか居ない。支配する気が無いのなら、支配されるだけなのよ。あなたも支配する側に立たないのなら、支配されるだけじゃないの」
「それは、わたしに協力しろと言ってるのですか?」
「そう。今の技を見て、ちょっと惜しくなったわ。手を組めとは言わない。わたしの死徒になりなさい。ナルバレックを一緒にやっつけてあげるから」
「う、それは――」
 一瞬、シエルの顔が苦悩に歪んだ。よほどナルバレックをやっつけるという案に惹かれたのだろう。
「そ、それは確かに魅力的ですが――それでもダメですね。埋葬機関というのは鬱陶しい存在ではありますが、同時に非常に便利です。今はまだ、足抜けしたくは無いですから。それと――」
「それと?」
「堕落しそうな友人を止めようというのに、自分まで堕落に付き合うなんてごめんです。あなたには、この前に殺された借りもあるんです。きっちり返して差し上げますよ」
「いったわね」
 アルクェイドは不敵に笑った。
 もう言葉は不要だ。和平交渉は決裂したのだ。後は全力で叩き潰すだけ。
 アルクェイドは歩き出した。シエルも歩み寄る。薄暗い公園の石畳に、微かな足音が響く。
 アルクェイドは、シエルにぎりぎりまで近づいた。間近で相対する形になり、シエルと一時目が合った。激しい意志と意志が、一瞬のうちに飛び交う。火花が散るようだ。
 ほぼ同時に最後の一歩を踏み出した。アルクェイドはシエルに突進し、固めた拳をその胸に突き出した。鋭い吐気とともに、シエルは上体を傾け、その突きを皮一枚でかわす。風を切って繰り出されたアルクェイドの蹴りも、シエルは背後に蜻蛉を打ってかわす。その背中を、アルクェイドはさらに追いすがる。
 と――微かなきらめきを目の隅に留めたアルクェイドは、その瞬間に背後に飛び退さった。危ういタイミングで、真下から突然伸びてきた刃をかわす。シエルが仕掛けたものだ。シエルは更に飛び退ると、短い詠唱と共に、その両手に瞬時に黒鍵を編む。
 アルクェイドは即座に身を起こすと、シエル目掛けて爪を振るった。黒鍵の一撃を受けることも厭わない、捨て身の、いや彼女らしくも不遜で、黒鍵など意に介さない反撃。同じように捨て身の一撃を狙うシエルの肩口を、アルクェイドの一撃が切り裂く。血飛沫を飛び散らせながらも、シエルは態勢を崩すことなく、アルクェイドの傍をすばやく飛びすぎた。一方、アルクェイドは――
「く、ぅ――」
 アルクェイドは顔を歪めた。そして、胸に生えたものを引き抜いた。シエルがすれ違いざまに叩き込んだ黒鍵。それはアルクェイドの右胸を、見事に貫いていた。致命傷ではないが、その痛みに怒りが掻き立てられる。
「ちょこまかと動き回ってヒットエンドラン? ハンッ、どうせ最後には追い詰めて、八つ裂きにしてやるんだから。今度は頭といわないで、全身粉みじんにしてやるんだからっ!」
 アルクェイドの美しい顔は歪み、さながら鬼神のようだ。いや、魔王そのものか。
「いいわ、あんたの血を一番先に吸ってやる。どうせバラバラにして磨り潰しても生き返るんだろうから、永遠にわたしが支配してやるっ。エレイシアの記憶なんて優しい夢物語だったと夢見るくらいのことをさせてやる。わたしの支配の道具にしてやるっ!」
「やってみなさい」
 いきり立って恐ろしいことを並べ立てるアルクェイドに対し、シエルが返したのはそれだけだった。アルクェイドは一瞬呆気に取られると、すぐに怒りに身を打ち震わせた。この世でもっとも高貴な真祖に対して、この侮辱――
「後悔させてやる。絶対に、謝らせてもやらない」
 アルクェイドはまたしても飛びかかった。低く、刃のように飛び出し、シエルに襲い掛かる。シエルは距離をとるべく飛び退る。だがアルクェイドはさらに加速する。そしてその瞬間、アルクェイドの思念の網が投げつけられる。空想具現化。
 シエルの飛ぶ先に鉄の壁が現れた。いかなシエルとて、こんな至近距離で挟み撃ちにされてはかわしようがない。空想具現化を阻むにも、アルクェイドを阻止するにも、不可能な近さだった。アルクェイドとて、この距離で逆にシエルに打って出られれば、大きな損害をこうむりかねない。だがこれは、ぎりぎりまで思念を高めて仕掛けた、単純だが逃れようの無い仕掛けだ。挟み撃ちを確信したアルクェイドだった。が――
「なっ――」
 一瞬でシエルを見失った彼女は、無様にもたたらを踏んだ。その瞬間、左足に激痛が走る。何処からかシエルが投げつけた黒鍵が、アルクェイドの脛を削いでいた。が、彼女は構わず、噴水のほうへと身を投げ出し、シエルの追い討ちを避けようとした。
「――あれを避けた!?」
 危険を顧みない、渾身の一撃、そして大量の魔力を消費しての空想具現化。いかなシエルとて、逃れられるはずがない。タイミングは完璧だった。だというのに、シエルは完璧に逃れた。あまつさえ、アルクェイドに反撃する余裕すらあった。
どういうこと――アルクェイドの脳裏に、初めて強い危機感が生まれた。今まで無数に戦ってきた経験からいって、シエルがこの攻撃を逃れきることなど出来ないはずだ。だが、実際にかわし切り、その上にアルクェイドに傷を負わせることさえやってのけた。
「どうしましたか? ずいぶん鈍ってるじゃないですか」
 頭上から嘲るような言葉を投げかけられて、アルクェイドの感情は再び沸騰した。
「ほざきなさい、この、教会の犬!」
 次の瞬間、アルクェイドの周囲に、凄まじい砂塵が舞い上がった。
「――!」
 アルクェイドの頭上、木の枝に足を掛けていたシエルは、十分に予期していたにもかかわらず、その砂塵の規模に圧倒される。シエルが顔を上げたとき、アルクェイドは既に眼前にいた。
「――っ!」
 アルクェイドは右足を振り上げる。鋭い気合とともに繰り出された右の一撃。それは、少なくともシエルの肉を削いだはずだ。しかし、それもまた空を切る。驚く余裕もなかった。一瞬後、アルクェイドは激しく地面へと叩きつけられていた。
 うっ、と呻きながら、ようやく何が起こったかを理解した。シエルはアルクェイドの一撃を交わすと、その足を取り、そのまま組み伏せるようにして叩きつけたのだ。
「くっ!」
 地を蹴ってシエルから離れながら、アルクェイドは苛立たしげな声を上げていた。おかしい、シエルが速すぎる。シエルの機動はここまで速くないはずだ。
「少しは分かってきましたか?」
「うるさい」
 シエルは余裕綽々の様子だ。腹立たしかったが、アルクェイドの判断は早かった。なにかがおかしい、なにかが変わっている、ならば、一時撤退だ――
 後ろも見ずに駆け出す。一陣の風のように走ってゆく。ステップを踏んでの機動ならばシエルに追いつかれる可能性はあるが、直線的な運動ならば基本性能が違う。まず追いつけない。そのはずだ、が。
「もう少し冷静になってはいかがです?」
 シエルの声が、ありえない方向から聞こえてきた。アルクェイドの真後ろ――
「ひっ!」
 真祖の姫君ともあろうものが、その口から恐怖の叫びを上げていた。わずかに振り向き、すぐ後ろについたシエルの目とあった。シエルはにやりと笑っていた。アルクェイドは本能的に右へと跳ねた。だが次の瞬間、肩口をつかまれ、そのまま公園の立ち木に叩きつけられていた。耳障りな音とともに、立ち木は恐ろしい速さで倒壊する。逃れる隙も無く、アルクェイドを巻き込んで。
「この、教皇の雌ブタが――」
 悪態をつきながら、アルクェイドは立ち木を払いのけた。飛び起きる余裕は無い。受身を取る余裕も無かったのだ。ダメージをしっかり食らっていた。
「まだ懲りませんか」
 シエルはなぜか甲高い、耳障りな声で嘲っている。
「誰が――」
 怒りを込めて答えるより先に、またしてもシエルに抱えあげられていた。そして今度は、高々と飛び上がるなり、石畳にまともに叩きつけられていた。叩きつけられた石畳が蜘蛛の巣状に割れるほどの激しさ。かはっ、と、アルクェイドは血反吐を吐いた。
「なん、で……」
 ふらつきながら、アルクェイドはよろよろと立ち上がった。
 おかしい。アルクェイドはシエルにいいように弄ばれていた。確かにシエルはライバルといえる存在だ。だが多くの場合はアルクェイドが一方的に弄んできたのだ。それが、なぜ……。
「やっと分かってきたようですね」
 なんら恐れることなく、シエルはアルクェイドの方に歩を進めてきた。そう、今日の最初、アルクェイドがそうだったように。
「苦労しましたよ、あなたを仕留める仕掛けを考え出すのはね。禁忌を破ってロアの記憶すら探り、ようやく考え付いたのです」
「なにを、なにをしたっていうのっ!」
 なけなしの気力をかき集めて、アルクェイドは虚勢を張った。が、それさえも、シエルがニヤリと笑い返すのに圧倒され、雲散霧消してしまう。思わず後退ってさえいた。
「それは、お仕置きの終わりまで秘密です」
 その冷たく冴えた笑みを目にした途端、アルクェイドは闇雲に駆け出していた。もはやなんの考えも無く、ただただ恐怖に打ちのめされて。
 風がすごい速さで吹き付け、巻いている。木の葉が雨だれのように地に落ちてゆく。だというのに、この身はもどかしいほどに遅々として進まない。それに気づいた時、やっとアルクェイドの中に理解が生まれた。
 そうか、シエルが速くなったわけじゃないんだ――と。わたしが、この世界に対して遅くなってるんだ――
「――――!」
 激しい衝撃。アルクェイドは芝生の上にうつぶせに叩きつけられていた。起き上がろうとする四肢に激痛が走る。両手両足を黒鍵に射抜かれていた。まるで昆虫標本のように、芝生に縫い付けられている。
「ひゃっ――ああああ!」
 背中にも何本か食らっているらしい。もはや全身から抜けてゆく力をどうしようもない。アルクェイドは、もがくことさえ出来なかった。苦悶の声をあげるだけだ。なにもかもが狂っていた。いつもなら彼女の声に応え、力を分け与えてくれるはずの自然が、わずかな反応も返してこない。
 すぐ背後にかすかな靴音が迫ってきた。シエルが、悠々と歩み寄ってきたのだ。
「……覚悟は、いいですか?」
 ぞっとするような声でささやきかけられて、アルクェイドは遂に覚悟せざるを得なかった。怒りと屈辱、そしてそれらに倍する恐怖に、唇をかみ締める。
「よ、よかったじゃないの。大金星だって、ナルバレックに褒められるわよ」
 血反吐を吐きつつ、しかし最後の矜持をかき集め、アルクェイドは言い放った。
「でもね、たとえここで殺されたって――」
 どうせ生き返るんだから――それだけが最後の頼みの綱である言葉を吐こうとしたとき、アルクェイドの背中をゾクリと戦慄が走った。まさか――と、彼女はその可能性に気づいてしまったのだ。
 アルクェイドは不死の存在だ。たとえ殺されても、この世界が彼女を必ず蘇らせる。だが、シエルはそれを当然知っている。そしてシエルは、アルクェイドには理解できない手段で、彼女の反応速度を劣化させた。つまり――シエルはアルクェイドを<永久に>殺す未知の手段を持っているかもしれないのだ……。
 喉元までこみ上げてきた悲鳴を飲み込むのが、アルクェイドの最後の抵抗だった。
「理解しましたか?」
 アルクェイドに聞き取れるようにゆっくりと、低い声でシエルは話している。それでも、まるで甲高い早口言葉だ。今や世界は吹きすさぶ風のように速く、アルクェイドの周りからどんどん滑り落ちてゆく。もう、どうしようもない。世界は少しも応えてくれないのだ。
「アルクェイド――」
 シエルの声が殺気を帯びた。拭い難い怒りが滲み出ている。おそらくは、その手にアルクェイドを成立させている因果すらも分解する最終兵器、第七聖典が握られているのだろう。あれをまともに打ち込まれれば、今のアルクェイドの状態ならば、本当に消滅してしまう。
「人にも苦痛を感じる心があり、だからこそ怒りをも持ち得るのだと理解しましたか? 人を支配しようとすることの愚かしさ、そしてその代償を学びましたか?」
 シエルの声は低く、冷たい。いまや、真祖の姫君を、はるか高みから見下ろす得体の知れない存在と化している。
 志貴――アルクェイドの脳裏に、愛しい男の顔が浮かんだ。志貴だけではない。秋葉、女中にメイド、錬金術師――アルクェイドが世界を違う目で見るようになって知己を得た人々の顔が目に浮かぶ。あの人たちと、もっともっと時間を過ごしたかった。殺して、支配してなど、なんて馬鹿な思い違いだったんだろう。殺してしまえば二度と会えない。殺されてしまっても二度と会えないのだ。彼女の得た日常が、いかに奇跡のようなものだったか、どれほど儚いものだったか、今にして分かった。そして、それを守ろうとしなかった、自分の愚かしさも。人々とより良い関係を築く道は、他にも、いや、他にこそあったのに。自分は、愚かにもそれを見過ごしていた。そして、シエルとだって、別の時間を歩めたはずなのに――
 後悔と自責の念が、彼女の視界を真っ暗にしている。もうじき、全ての可能性が費えてしまうのだと思うと、自分が取ろうとした道の愚かしさに、就こうとした地位の虚しさに、悲鳴を上げそうになる。
「い、いや――」
 アルクェイドは必死に叫んでいた。
「いやぁ! 殺さないで、シエル! わたし、まだ死にたくない――!」
 次の瞬間、後頭部を一撃する衝撃に、真祖の姫君の世界はゆっくりとメルトダウンして行った。冥界、あるいは夢の中に――

――ひとつ、言っておこう。
 そんな声が聞こえる。
――我々は、おまえを感情というものを持たない存在として作ったのだが、その機能まで無くしたわけではない。それはちゃんと、いつか使われる日まで、おまえの中に眠っていることだろう。
 そっか。一つ、胸に落ちた。彼女を苦しめている感情は、別に新たに侵入した異物ではない。ずっと以前から、彼女の奥底に用意されていたのだ。なら、ちゃんと使ってあげたかったな、と思った。
――それをおまえに用意したのは、我々の善意だ。いつかおまえにも、他者を愛する心を持ってほしい。
 そうだったんだ、と思い出した。朧な記憶の底から湧き出た言葉、それは、彼女が生れ落ちた瞬間、彼女を作った者たちが残してくれた言葉だった――

 ボーっとしながら、反射的に頭を持ち上げた。ふわりと柔らかいものに妨げられる。その正体を認識し得ないまま、アルクェイドは急に反抗を諦め、持ち上げかけた頭を素直に落とした。すると、それはふわりと彼女に被さってきた。その暖かさ、心地よさに、再びうとうととしてしまう。
 が、ある瞬間にハッと目が覚めた。
「――――」
 柔らかいもの、つまり布団を除けて、身を起こした。彼女はベッドに寝かされていた。素っ裸だ。そのことは、別に気にならない。問題はこの場所だ。ベッドルームから見える隣の部屋にテーブル、その向こうに箪笥。見覚えがある。シエルの部屋だ――
「起きちゃいましたかぁ?」
 と、戸口に見慣れた姿が現れた。セブン。ということは、やはりシエルの部屋なのだ。
「お加減はいかがですかぁ?」
 セブンは、相変わらずのほほんとしている。アルクェイドへの警戒など、微塵も無い。
 あ、わたしは死んでないんだ――その時、アルクェイドは初めて気づいた。すると、ふわふわと夢見るようだった感覚が、どこかへ消えうせてゆく。そして実感した。確かに生きているんだ、と。
「セブン、シエルはいるの?」
 ベッドを降りながら、アルクェイドは訊いた。
「ふゎい、まふたーはおひょうりひゅうれす」
 なにが嬉しいのか、にんじんをポリポリとかじりながら、セブンは微笑んだ。
 アルクェイドは居間に入る。すぐ横手にある台所に目をやると、果たしてシエルの後姿が目に入った。こちらに背を向け、なにやら調理している。
「セブン? いい子にして座っていなさい」
 背を向けたまま、シエルはいった。肩越しに、湯気が立ち上っているのが見える。
「マスター、アルクェイドさんがお目覚めですよー」
「座っていなさい」
 シエルは、それから初めて、ちらりと振り向いた。
「あなたもです」
 シエルがまた背を向けてしまったので、アルクェイドは仕方なく、テーブルを前に座った。横にセブンも座る。
 テーブルには布団が掛けられていた。確かコタツというのだと思い出した。アルクェイドは、妙な決まり悪さを感じながら、コタツに体をねじ込んだ。羞恥心というものに駆られたわけではないが、なんとなく身の置き所が無い。みっともなく、かつまたおかしみを誘う状況だった。
 と、その肩に、ふわりとなにかが掛けられる。振り向くと、セブンがワイシャツを掛けてくれたところだった。
「マスターが、寒いから掛けてあげなさいって」
「あ、ありがとう」
「どういたしまして!」
 セブンはニコニコしている。と、そのこめかみに傷跡を見つけたアルクェイドは、なにかを思い出したような顔になった。
「見てる方が寒いから掛けてあげなさいって。マスターが――あっ、アルクェイドさん?」
 アルクェイドは、急にセブンの体を抱きしめ、その頭を胸にかき抱いたのだった。
「セブン――ごめんなさい、痛かったでしょう。ごめんね、ごめんなさい……」
 声を震わせながら、アルクェイドは精霊に詫びた。その細く、か弱い体を、無垢で優しい心を自分が踏みにじろうとしたのだと思うと、居たたまれない気持ちになる。
「アルクェイドさん」
 セブンは、アルクェイドからそっと身を離し、またにっこりと笑った。
「いいんですよぉ、分かっていただけたんだから。あんなの、マスターの虐待に較べたらなんてことないですよぉ」
「セブン、でたらめを言ってないで、皿を取ってきなさい」
 振り向くと、シエルが大鍋を捧げ持ってくるところだった。鍋敷きに載せると、傍らの炊飯器の蓋を開け、しゃもじでご飯を起こし、ほぐし始める。もうもうとした湯気から見て、5合や6合では無いだろう。
「アルクェイド、体はどうですか?」
「どうって――別にどうもなってないわよ」
 そこで初めて、自分の身に起こった不思議な現象が、きれいさっぱり解消されているのに気づいた。
「そうですか。やはりあなたに対しては、『時の呪い』も永続しないのですね」
「時の呪い――やはりアルトルージュと手を組んだのね」
 時の呪い、それはアルトルージュを護る黒騎士こと、リィゾ・シュトラウトの身に掛けられたもの。それを利用して、あの現象を引き起こしたのだと、アルクェイドはようやく悟った。
「はぁ? いいえ、用があったのはリィゾだけですよ」
 シエルは澄まして答えた。
「どういうこと? あなた、わたしを倒すために、アルトルージュと手を組んだんじゃなかったの?」
「ははあ、メレムがなにやら嗅ぎ回っているようでしたが、あなたに告げ口したのですね? お生憎様、いくらなんでもアルトルージュと手を組むなんて出来ません。向こうからしてもお断りでしょうし。わたしはリィゾとだけ交渉しました。まあ最後にはお互いに剣で話し合いましたけどね」
 シエルは、そこで初めて、にやりと笑った。
「ともあれ、十分な血を”いただけた”ので、そこから魔術的に呪素を抽出し、あの剣に仕込んだのですよ。あなたは、まんまと罠にはまってくれましたけどね」
「うるさい」
 アルクェイドは、恥ずかしくなって、コタツに身を丸めた。そうか、シエルはアルクェイドの大敵、アルトルージュ一派と手を組んだわけではなかったのか、と安心もしていた。
「ふふふ。どうです、痛かったですか?」
 直截的な問いに、アルクェイドはさらにムッとした。
「痛かったわよ、それは。志貴にやられた時だって、あそこまでは――」
 そこで、アルクェイドはハッとした顔になって、急に黙り込んだ。
「アルクェイド?」
「シエル」
 アルクェイドはコタツを出ると、なんと正座して、ぺこりと頭を下げた。
「ごめんなさい、シエル。わたし、まずは謝らなきゃ。前に戦ったとき、わたし、あんな仕打ちしてね、凄く痛かったでしょう?」
 シエルは微かに微笑むと、黙ってその先を待っている。
「わたし、勘違いしてたんだ。志貴に殺された時、こんなに痛いのは特別なことなんだ、死なないわたしが殺されたから感じる異常なものなんだって、そう思ってた。でも違うんだ。誰だって痛いんだ。誰だって、そんなの嫌なんだ。そんなの当たり前のことだし、わたしだって頭では分かってたつもりだったけど、本当は分かってなかったんだ。志貴に殺されて、痛みというものがあるって分かったし、二度と痛い目に遭いたくないって思った。それなのに、あなたを痛い目に遭わせてしまった。あなたに痛い目に遭わされるまで、他人もまた痛いんだって、実感できなかったのよ。だから――ごめんなさい。今度のことの原因は、わたしの方にあるって認める。わたしが傲慢で、馬鹿で、しかも間抜けだったから、あなたを遭わなくていい目に遭わせてしまった――」
 見れば、カーペットの上に揃えられた両の手に、ぽたりぽたりと水滴が滴り落ちている。アルクェイドの流す、悔恨の涙だった。
「世界を支配する魔王になったって、志貴も、誰も喜んではくれないのに。わたしはそうすればやりたいことが出来るなんて信じてしまったのよ。つくづく、自分の浅はかさが情けなくなるわ……」
 涙を流して悔やむアルクェイドの前に、コトンと皿が置かれた。大皿に盛られた白飯に、さらりと掛かったカレー。大皿一杯のカレーライス。
 潤んだ目を上げると、シエルが微笑した。からかう様な色があるくせに、慈悲深い、そして親しみ深い笑み。ちょっと、自分には出来ない顔だと思って、アルクェイドはわずかに嫉妬した。
「お食べなさい。謝罪のお礼です」
 アルクェイドは、謝罪のお礼などという概念に面食らったが、黙って皿を受け取ると、スプーンで一口、その艶唇に運んだ。
「自称、高貴な真祖の姫君に謝らせたんですからねえ、後でどんな仕返しをされるか分かったもんじゃありませんから」
「わたしは、そんなヤクザなことしないよ」
 アルクェイドは、やや憤然としながらカレーを咀嚼している。
 うまい。大振りにカットした野菜は歯ごたえ柔らかく、肉は舌の上でとろけるようだ。なにより、シエル独自のスパイス調合が、舌の上で見事なハーモニーを演出している。
「あなた、さすがにカレーだけで生きてるわね。おいしいじゃない」
「一言多いんです」
 シエルはまんざらでもない顔で、しかし額に青筋を浮かべるという、器用な真似をしてみせた。
 もう一口、口元に含んで、ふと何かを思いついたアルクェイドは、思わず「そっかぁ」と漏らした。
「なんですか?」
 既にカレーの世界に埋没しつつあるシエルは、それでもアルクェイドの呟きを聞き留めていた。
「あのね。世の中ってカレーなのよ。色んな人が色んな味や香りを出して、それでもって喧嘩したり仲良くしたりしながら、結局世の中って言う一つの味を作り出しているわけ」
「はあ。あなたは難解な哲学者なのか、ただのおかしな食いしん坊さんなのか、どちらなんでしょうねえ」
 二人の剣呑なハンターの会食を、空高くかかった太陽が、ただ見下ろしていた。

<了>

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