全てが終わるとき/ポロロッカの砕ける川辺で/蝉の声を聴いた 4


「――――」
 ぽかんと口を開けたまま、周りを見回した。川原といっても、絶対に日本のそれではない。濃厚な緑の真っ只中に、海と見紛うばかりの広大な川面が広がっている。水は豪雨でもあったのかと思うほど、茶色く濁っていた。茶色い水面が、ゆっくりと流れてゆく。ここはどこだ? 周囲の森は、熱帯雨林のように思えた。すると、ここは――
 いずれにせよ、ここが終着点であることは間違いない。俺が立っているのは、広大な川の中州で、ここからはどこにも行けない。川を渡ってゆくにしても、広大な川を過ぎってゆくのは、ほとんど不可能事に思えた。なによりも、ここには終わりの気配が濃厚に漂っていたのだ。そもそも、今まで飛ばされてきた場所は、どこか俺の琴線に触れるような、どこか覚えのある場所ばかりだった。しかし、ここでは皆無だ。全くの異邦、最果ての地だ。全てが終わる場所なのだ。
 終わりの気配――そう、まるで『ここで打ち止め』と、誰かに宣言されたような気分だった。ここからは、もうどこにも行けないと、俺にははっきり分かった。なるほど、やはり夢なんだな。ここが俺の心象世界であるからこそ、この世界の意味がわかるのだろう。
 俺は耳を澄ませた。これほどの川なのに、水音は微かだ。耳を澄ませても、川辺に打ち寄せる小波が、ちゃぷちゃぷと鳴っているだけだ。だが――
 なにかがやってくる。遥か彼方から、なにかがやってくる。俺はそれを、聴覚ではなくて、心で感じた。なにか不吉な予感がする。なにもかもを真っ黒に塗りつぶす、不吉ななにかがやってくる。そんな予感だった。
 五感を研ぎ澄ませ、視界の彼方をじっとうかがった。こんなに緑の豊かな世界なのに、さっきから動物の姿を見かけないのはなぜだろう。と、微かに、なにかが聞こえた気がした。
 ただ耳だけを澄ませるうちに、ようやくなにかが耳に届いた。それは、そう、水音の向こうから迫ってくる、何かの轟音。
 ずっと下流に目をやったとき、まるで沸き立つようにして、なにかが遡ってくるのが見えた。あれは、津波?
 それは、確かに津波のようなものだった。木々をなぎ倒し、中州を飲み込み、川面をかき回してゆく。それが通った後には、もはやなにも残らないように思えた。全てが、この世界の全てが、それに征服されて行く。それに打ち勝てる物など、なにひとつ無い。そびえ立つ高山さえも、それの前には消え失せてしまう運命にあるのだと、俺は思い込んだ。そして俺も。俺にもどうしようもない。それから逃げ出すことも、それに立ち向かうこともできない。為す術もなく、中州ごと飲み込まれる運命にあるのだ。
 この儚い身など、その暴威の前にはどうしようもなかった。それが立てる風を感じ、波飛沫すら感じ始めたとき、ようやく胸に激しい恐怖が迫ってきた。地響きと共に、大波が目の前に立ちはだかる壁のようになった時、俺は自分の死を悟った。それに巻き込まれたとき、俺は死ぬのだ。だが、その悟りに打たれたとき、俺の心に宿ったのは、なぜだかしみじみとした安らぎだった。これでやっと――
「――――!」
 不意に、近くで誰かが叫びつつ、俺の手を引いた。あっと声を上げつつ、振り向いたとき――
 俺はまたしてもテラスにいた。
「志貴様、お気を確かに」
 ふと見ると、翡翠が俺の手を取って、必死の表情で呼びかけていた。
「えっ、翡翠――」
 俺は目をこすりつつ、椅子から身を起こした。はらりとタオルケットが落ちる。
「志貴さん!」
 手に水の入ったコップを持った琥珀さんが、大急ぎでやってくるところだった。珍しく、青い顔をしている。
 俺は額にびっしょり浮かんだ汗を拭うと、翡翠に顔を向けた。それだけで意を汲んだのだろう。
「志貴様は、先ほどからずっと魘されておられました。私が呼びかけても、肩をゆすっても、一向にお目覚めになられませんでした。姉さんに声を掛けて、また志貴様の手をお取りして声をお掛けしたところ、ようやくお目覚めになられたのです」翡翠は慇懃に答えた。
「そうだったのか。翡翠、琥珀さん、ありがとう」
 俺は心底感謝した。あのまま、あの大波に飲まれていたら、俺はこの世に無かったかもしれない。そう思えた。
「志貴さん、お水をどうぞ」と、琥珀さんは水の入ったコップを差し出してきた。
「もういいよ、目が覚めたんだし」
「それだけ汗を掻かれたのですから、脱水症状を起こすかもしれません。お飲みください」
 翡翠が、断固とした口調でいった。俺は気圧されるようにして、コップ一杯の水を飲み干した。うむ、最高級フィルタで濾過した水に間違いなし。
 空になったコップをテーブルに置くと、俺はしばし、あらぬ方向に目をやったまま、頭の中で激しくせめぎ合う思考と格闘した。俺は何かに気づきかけている。そしてそれを何度も忘れている。いや、忘れさせられている。それでも、あの広場の謎と、たった今の体験は、はっきりとおぼえている。それが夢だったなどとはとても取り繕えないほど、はっきりと覚えている。夢の中の現実――夢に立ち現れた現実。その象徴なのだと、俺は直感した。
「琥珀さん、翡翠――」
 衝動的に、口を開いた。
「あのさ。もしもこの世界が偽りで、みんな夢だとしたら、どう思う?」
「夢、ですか」
 翡翠は、ひどく困惑した顔になった。質問が悪かったかな。いきなりそういわれても、誰だって困惑するばかりだ。
 しかし、大抵の事に困惑しない人もいるものだ。
「そうですねー。私だったら、たとえ夢だと分かっていても、楽しんじゃいますねー」
 琥珀さんがそう答えたのは、ある程度は俺の想像の範疇にあった。
「翡翠はどう思う?」
「私ですか」
 困惑している翡翠に、それでも聞いてみた。
「所詮夢は夢なので……。でも、所詮夢だからこそ、好きなように楽しむという考えもあるかと思います」
 意外に、翡翠の考えも、琥珀さんのそれに近いのかもしれない。
「そうか。ごめん、くだらないことを聞いちゃって」
 夢の中の登場人物にこんなことをこんな事を聞いても仕方ないだろう。そもそも、これが、今俺が見ている世界が夢なのかどうか、どうしてもあやふやだ。全てが俺の妄想だといえばいえる。それでも、俺はこの世界に対して、今や拭いがたい違和感を抱いていた。

 夜、夕食をとりながら、琥珀さんたちと俺が見た『夢』について話してみた。
「それはポロロッカですよ」
 そう答えたのは、意外にも翡翠の方だった。
「ははあ、いわゆる大海嘯ですねー。アマゾンではポロロッカというのだそうです」
「あ、なんか聞き覚えがある」
 そう、テレビで見たのかな。
「まるで世界中が飲み込まれそうな勢いだったよ。名前からして大海嘯だもんな」
「あははは、志貴さんは心配性ですねー。実際には、川が東西方向に走って、河口が東に大きく開いている川だと、割と一般的な現象なんですよ。地理的要因と、月と地球との位置関係で発生するので、規模の大小はありますけど、毎月必ず起きる現象なんですよ。見た目は派手ですけど、上流に向かうとあっという間に弱っちゃうので、そんな何もかもを飲み込むようなものではないんですよ」
 さすが、こういう雑学に関しては、琥珀さんの右に出るものはいない。
「そうか。なら次に夢に見ても、心配することは無いな」
 俺はそう口にした。が、あれが現実のポロロッカではなく、なにかの象徴であることに、俺は既に気づいていた。きっと俺にとって避けがたい脅威を意味するのだろうとも思った。そう、たとえば死とか。
「それにしても志貴さん、魘されている間に凄い夢を見てらしたんですねー」
「ああ、他にもいろいろ見た気はするけれど、憶えてないよ」
「姉さんが志貴様にお出しした薬の影響では?」と、翡翠。
「うーん、あのお薬では、むしろレム睡眠は抑止されるはずなんですけどねえ」
 俺は食事を終えると、自室に引きこもった。そしてじっと考え込んだ。今、俺が身を置いているこの世界は、果たして夢なのか。確かめる方法はある。あの広場に、この世界でリアリティが壊れる魔法の場所に飛び込めばいい。もしも夢でないのなら、俺はただ単にあの広場に立つだろう。だが夢ならば、俺はきっと、どこかに飛ばされてしまうに違いない。ところが、飛ばされて、再び目覚めた世界が夢なのかどうかを検証するには、やっぱりあの広場に飛び込むしかないのだ。手詰まり感全開だな。
 俺は息をつくと、ベッドに腰掛けて、窓の外に目をやった。いやらしいくらい大きな月が、俺の部屋を覗き込んでいる。今にも、そいつがげらげらと笑い出しそうなくらいに。
 まあ、夢なんだろうな――ふと、そう思った。結局のところ、これほど俺にとって都合よく出来ている世界なんて、夢としか思えない。過去を思い出そうとしても、霞がかかったように手が届かない。だから、俺には『今』しかないのだ。過去も、恐らくは未来もない男、それが遠野志貴だ。
 どうしたって、心の真ん中にぽっかり開いた空洞から、目を逸らすことは出来ない。それを埋めない限り、遠野志貴は、きっと人間にはなれないんだ。たくさんの餌を与えられながらも、なにか宙ぶらりんな気持ちのまま生きている俺――
 幸せってなんだろう。俺はそれなりに幸せだ。うん、確かにそうだ。でも、俺の心は、それでは満たされることがないのだ。なぜならば、俺は――もっと、ずっと、遥かに、幸せだったことを憶えているからだ。体中に溢れかえるくらいの幸福感を憶えているからだ。誰かに与えられた偽物ではない、俺が手にした本当の幸せだったことを憶えているからだ。記憶から消されても、体に刻み込まれた感覚までは騙せないのだ。
 それでも、俺は、俺自身が、周囲の人々の支えになっていることを感じる。琥珀さんと翡翠にとって、俺は主人として仕える対象以上のものなのだろう。たとえ二人との関係が夢の中だけの話なのだとしても、それでもあの二人は現実に存在しているのだろう。そしてシエル先輩も実在しているのだろう。この世界に対する小細工は、きっとあの人の仕業に違いない。だけど、俺はシエル先輩が、俺を何度も助けてくれたことを憶えている。何度も――具体的には思い出せないけれど、意識に上らない信頼を、あの人に抱いている。それは夢なんかじゃない。あの人たちのためにいくらかでも力になれるのなら、俺はこの空虚に耐えて生きてゆかねばならないのではないか。
 それでも嫌だ――何度も心の奥底から跳ね返ってくる衝動。それは、自分でも驚くほど執拗で、強かった。つまり、俺は、みんなよりも、この空虚を埋める道の方を求めているのだ。狂おしいくらいに求めているのだ。
 ふと、目を上げると、さっきまで窓に大きくかかっていた月は、もう視界の外へと逃れていた。さて、今夜は誰を抱こうか、なんて事は考えなかった。そんな気になれなかった。たぶん、公園の散歩でもしていれば、月姫蒼香、あるいは別の誰かが、都合よく現れるだろう。でも、夢であろうこの世界で、色事に耽る気には、なかなかなれなかった。
 そういえば、と思い出した。この世界での主要な登場人物なのに、俺自身との関係には実感を伴っていない女が。だけどとびきりの上玉が。俺は窓をそっと開くと、すぐ傍まで枝を伸ばしている木に飛び移り、身軽に駆け下りて行った。
 俺が向かったのは、アルクェイドのマンションだった。恐らく、十中八九実在しないであろう女。きっと、際立って魅力的な容姿だからこそ、俺の世界へと誰かが加えたのだろう。あるいはまるきりの創造ではなくて、実在の人物をヒントにしたのかもしれない。あいつに溺れてみるのも悪くないだろう。そして、これは賭けなのだ。俺の深層心理を試す、賭けなのだ。

 想像以上に、アルクェイドは俺を歓迎してくれた。まるきりストレートに、俺たちは――
 目くるめく体験ってのはこういうのをいうのだろうか。アルクェイドという女は、麻薬みたいな存在だ。こんなきれいな女なのにスレてない。物知りなのに、常識がない。まるで、どこかの城かなんかで、純粋培養されたような女だった。男なら、誰だって溺れてしまうだろう。俺もそうだった。今までの、どこか煮え切らない気分など、どこかに吹き飛んでしまった。俺は思った。本当に求めていたものを、心の空白を埋めてくれる女に出会ったのだ、と。
「んふふー、しーき」
 素っ裸で俺の胸に頬擦りしながら、アルクェイドは心底幸せそうだった。多分、俺も。満ち足りた気分だった――少なくとも、琥珀さんや翡翠を抱いたときくらいには。
「志貴の方から来てくれるなんて珍しいなー。もしかして、双子やシエルに飽きちゃった?」
 無責任なことを口走りながら伸びをしてみせると、グラビアですら見たことがないくらい形のいい双丘が、たわわに震えながら盛り上がっていった。俺はいたずら心を出して、その先っぽの果実をつまむ。
「あんっ、もう、えっち」
 俺はアルクェイドを後ろから抱きしめてやると、そのまま頬を寄せあって、睦み合った。
 幸せだ。これこそ男の幸せだ。俺が求めると、アルクェイドは体一杯に応えてくれる。素性はよく分からないものの、これくらい女を感じさせる女はいない。
「えへへー、しーきー。もう一回しよっ」
 望むところだ、とばかりに応えてやると、ベッドの上で、言葉のいらない共同作業にふけった。お互いの体中から快感を絞り出すくらいに。
「疲れた――」
 何戦したのか、すっかり汗だくになって、俺はベッドに突っ伏した。するとアルクェイドは、俺の背中にぴたりとそのたわわな双丘を押しつけて、いったもんだ。
「えへっ、気持ちよかった? 何度でもしてあげるよ?」
「まったく、お前は――」
 俺は振り向いて、アルクエィドをかき抱くと、そのままうっとりとした時間を過ごした。触れ合っている肌からとろけてしまいそうだ。
 まったく、大した女だ――いや、大した夢だというべきか。これほどのリアリティを作り出すなんて、どんな手を使っているのやら。抱いているアルクェイドは、まるきり本当の女としか思えない。――だが、これは夢だ。いくら考えても、アルクェイドと知り合った経緯を思い出せないのだ。だから夢だ。間違いない。
 それでも俺は、未来にこんな出会いがあるのなら、生きるのも悪くないかも知れないと思っていた。シエル先輩に琥珀さん、翡翠、そしてこのアルクェイドや蒼香のような娘たちと出会い、有彦のような親友を得られるのならば、いつかはきっと、この胸の空白も埋められるのではないか、と。
 しかし、それは――間違いだった。
 俺はむくりと起きあがると、「帰る」と告げた。
「えっ、帰っちゃうの」
 服を身に着け始めた俺を、素っ裸のアルクェイドは驚いた様子で見ている。
「朝まで、一緒にいてよ」と、拗ねるようにいう。
「すまない。明日の朝、やらなきゃならないことがあるんだ」
 俺はアルクェイドにお休みのキスをすると、振り切るようにして部屋を出た。
 屋敷に帰る道すがら、星空を眺めていた。いったい、前に雨が降ったのはいつだったろう。空はなぜ曇らないんだろう。なんだか、この世界は急に単純化しつつあるように思えた。それはたぶん、あの大海嘯が、俺の世界を急激に破壊しているからだ。世界の果てからひたひたと迫ってくるあれが、俺の世界を浸食しつつあるからだ。それが意味することはなんなのだろう。考えれば考えるほど、不安になってくる。
 まあ、それよりも――はっきり分かったことがある。俺の心の空白は埋められない。奪われたなにかの代わりになるものは見つからない。それが分かった。あのアルクェイドほどの女に溺れてみても、俺の心を埋めることは出来ない。新しい記憶で埋めようとしても、むなしく流れ落ちてしまうだけなのだ。俺の世界を形作る人々と、たとえどれほど強力で、かけがえのない出会いと関係を作ったところで、俺が失ったものには少しも釣り合わないのだ。
 このままでは狂ってしまう――そう思った。このまま生きていっても、俺はこの空虚に耐えなければならなくなるだけだ。それはとても怖い。唯一の親友といえる有彦、そして琥珀さんに翡翠、シエル先輩、このアルクェイドのような女たちを失うことに較べてすら。この恐ろしい空白を埋めることが出来ないなんて。どうすればいい……。
 この世界は回答を与えてくれない。なら、この世界を作った存在を引きずり出すだけだ。そのためにどうすればいいのか、俺はようやく思いついた。あまりに思い切った手なので躊躇われたが、しかし他に妙案がない。
 坂道を上り詰め、振り向いた。夜景が広がっている。綺麗だった。しかし、綺麗なものを見ているからそう感じているのか、逆に綺麗だと思いこまされているからそう感じているだけなのか、もう分からなかった。ただ、その向こうから押し迫るものの圧力は、どうしようもないくらいはっきり感じ始めていた。
 俺は、強いてその考えを振り払うと、屋敷へと、ベッドへと戻っていった。明日、俺は行動する。

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