La Campanella 〜鐘〜

4.幸福と取引と

 企業の長として、忙しい日々を送っていた。
 私の場合、長であり、オーナーでもあるわけで、責任は余計に重い。時間の多くを、会社での仕事に取られてしまう。つまらない仕事ならば人任せにしてもいいのだけど、困ったことに非常にやりがいのある仕事だったのだ。まだ二十代の小娘が、世界の超巨大企業と対等の取引をし、さらに大きなイノベーションを生み出して行けるというのは。
 例えば、シベリアでは巨大なガス田の開発が進み、それを受け入れる日本のコンビナート、さらには中小企業主体の設備業者において、市民生活に欠かせないインフラの刷新が始まっていた。良かれ悪しかれ、何年もしないうちに市民生活は一変してしまうかもしれない。
 アメリカの穀倉地帯では、枯渇しつつある地下水に代わる、一種の水工場の実験が始まっていた。都市部で生み出される膨大な下水を、原油のそれのようなパイプラインで集め、一括して処理するのだ。下水には希少な金属資源が含まれていることもあり、小さな実験は有望な未来を予見させている。
 インドの農村地帯では、先進諸国のそれに較べればはるかに貧弱な、しかし確実な通信手段を内蔵した、小さな情報端末のフィールドテストが始まっていた。他の大規模な投資に較べれば、問題にもならないほど小さな資金投下だったけれど、私には思い入れがある。というのも、この投資は、社内の反対を押し切って私が推し進めた、最初の事例だったからだ。小さな端末だが、識字率の低い農村地帯では、大きな意味がある。都市との情報格差の巨大さゆえに、これらの地域の資本は拡充してゆかない。世界のすばやい変動に、こうした地域の人々は追随できず、自然環境、そして社会環境の変動に、為す術も無い。だが小さな端末とはいえ、世界を覆う巨大な情報網に直接つながることが出来るようになれば、少しずつ変動に着いてゆけるようになる。少なくとも、自分たちの貧困と、こうした情報格差とに、強い相関があると気づくだろう。豊かな暮らしのためには、毎日田畑の雑草を取るだけではなく、彼らの作物の値を下げ、買い叩かせる、市場の動きに注目しなければならない。そんな必要に気づけば、必死に学ぶようになるだろう。文字だって、それに生活が掛かっていると知れば、学ぶようになるに違いない。彼らの生活を援助するのではなくて、いわば彼らが世界に追随できるように、時を貸すのだ。
 今のところ、この実験の経過は芳しくない。特に実験の対象となる農民たちの反応は、予想をはるかに下回っている。でもそれは、参加への誘惑が足りないからなのかもしれない。私は、毎週届けられるレポートを読み、実験の行く末、さらには次の一手へと思いを馳せていた。もしもインドの農村地帯に素朴だが確実なITの根を張ることが出来れば、アフリカに、中南米に、さらには中国にこの手法を持ち込めるだろう。
 私の会社は、これらのプロジェクトに投資することはもちろん、傘下の企業に関与させて、直接的に技術的な問題の解決に当たったりもした。成功すれば、もちろん大きな利益を得られるだろう。でも私は、なにかを変えてゆけることの方が面白かった。インドの貧困地帯に、何億もの市民層が育てばどうなるだろう。アメリカの穀物生産の中枢を、輸入者である日本の企業が握ったとすればどうなるだろう。そんな変化は、私をわくわくさせた。
 だが、会社を一歩出れば、私には家庭があり、そしてそこでの生活がある。会社での時間を削ってでも、帰宅を早めなければならない理由が、今の私にはあった。
 その日も、夜の八時過ぎには会社を出た。朝は早くに出社し、昼食を取りながらも書類を作り、帰りの車中ですらレポートを読んでいたというのに。
 玄関前に止まった車を降りると、お帰りなさいませ、と、二人の使用人が出迎えてくれた。七夜と翡翠ではない。事情があって、新しい使用人を雇い入れたのだ。いずれも遠野に連なる一族の出で、躾は行き届いていた。
 玄関を抜けると、「ママーッ!」と、元気な声が迎えてくれた。
 とことこと、覚束ない足取りで歩み寄ってくる、三歳の男の子。私と幹也さんの長男、春樹だった。
 私は、その場にかがみこみ、手を広げて、春樹がやってくるのを待った。そして、腕の中に駆け入ってきた我が子を抱きしめてあげる。小さな、温かな身体を抱きしめると、一日の疲れなど吹き飛んでしまいそう。
「春樹ちゃん、いい子にしてた?」
 腕の中の我が子に語りかけながら立ち上がると、見守っていた翡翠と幹也さんに顔を向けた。
「お帰り、秋葉」
「ただいま、あなた、翡翠」
 幹也さんと軽くキスをかわすと、翡翠が「お帰りなさいませ」とお辞儀をくれた。翡翠の腕には、こちらはおしめも取れていない幼子が抱かれている。私はその子の良く動く瞳を覗き込んで、優しく語りかけた。
「夏美ちゃんも、いい子にしていたかしら。翡翠の手を煩わせなかった?」
 こちらは長女で一才の女の子。夏美と名づけていた。私の名が秋葉だから、という単純な理由で、幹也さんは子供たちに季節にちなんだ名前をつけようと目論んでいた。次は私がいるので秋を飛ばし、冬にちなんだ名前にしようと。その次のサイクルでは四季それぞれの花にちなんだ名前を。次は鳥を、などと話してもいた。
「夏美様はとても大人しくて、手間の掛からないお子様です。きっと、おっとりした方になられるのでしょう」
 翡翠が優しく微笑みながら、夏美をゆっくりとあやしている。幹也さんが私の手から春樹を抱きとると、「夕食にしなよ」といってくれた。
「じゃあ、後で。春樹ちゃん、ママとお風呂に入りましょうね」
「うん!」
 我が子の元気な返事に微笑みながら、私は食堂に向かった。そこには七夜はいない。新しい料理人と使用人が待っている。七夜は、去年の始めに、私たちが促すので、仕方無しという顔で新居へと越していった。新居、つまり七夜の夫である秋巳さんの待つ家に。七夜が結婚する時、最大の問題が、遠野家の食事をどうするかだった。秋巳さんの勤務地が離れているから、七夜に通ってもらうのは不可能だし、ここに秋巳さんともども住んでもらうわけにも行かない。どうしても、遠野家を出てゆくしかないのだ。寂しかったけど、七夜の幸せを考えれば、それが最良の選択だと思えた。案の定、七夜は難色を示したけれど、私は秋巳さんのために新居を調達してしまい、さらに新しい料理人と使用人まで雇ってしまった。とうとう、七夜はお名残惜しそうに、それでも嬉しそうに新居へと出て行ったのだった。七夜が去る晩は、さすがに私も涙をこらえることが出来なくて、抱き合って泣いてしまった。彼女が琥珀だった頃から、私たちは何年も寄り添い、生きてきたのだ。寂しくないはずが無い。でも、あの琥珀だった七夜が、こうして幸せを手に入れることが出来たのだから、私は文句なんか言わない。考えてみれば、奇跡のような話ではないかしら。
 もっとも、七夜は今だって毎週遊びに来て、その料理の腕を揮ってくれるのだから、寂しがることなんて無いのだけれど。秋巳さんとの生活は、慎ましやかで平和なものらしい。七夜が遊びに来る度に話してくれる秋巳さんの意外な姿が、私たちの興味を大いに掻き立てた。
 料理人は、息子さんと共に親子でレストランを経営していたという女性だった。数年前に引退したのだけど、お父様と縁があったこの人に、七夜の後釜をお願いしたのだった。本場でみっちりと学び、実戦の場で磨いてきたプロの業は素晴らしく、これ以上の料理人を望むことなど無理だと思えた。それでも、時々大雑把になる七夜の料理が恋しくなることもあるのだけど。
 疲れを忘れさせてくれるような、見事な夕食を取ると、お風呂の用意が出来るまで、居間で団欒する。幹也さんと、二人の子供たちを挟んで、今日あったこと、近々子供たちを連れて遊びに行こうということ、会社の用件でロシアに数日滞在することになりそうだということなどを話した。春樹は遊びたい盛りなので、こうしている間にも、私と幹也さんの膝の上を、行ったり来たりしている。かと思えば翡翠に甘えたりもする。夏美は、ベビーベッドの中で、私たちのなにが面白いのか、目をキョロキョロさせながら、きゃっきゃと笑っている。
 春樹をお風呂に入れてやると、寝付いてしまうまでお話を聞かせてあげる。白雪姫の話を聞かせてあげて、日本の昔話から短いのを一つ、二つ聞かせてあげていると、春樹は寝息を立て始めた。掛布をしっかり掛けなおして、額にそっとキスをすると、部屋を出た。
 廊下を歩きながら、しみじみと幸せをかみ締めた。お父様がご存命でいらして、使用人が今の何倍も屋敷を満たしていた頃、私は孤独だった。お父様は、私を常に突き放していらしたし、使用人たちは敬意あるよそよそしさで傅いて来た。私には、心の底から笑いあえる相手なんて居なかったし、それがふつうなんだと思っていた。
 今はどうだろう。大切な子供たちと幹也さんは、かけがえの無い家族だ。私たちは心の底から愛し合って、小さな家庭を親愛の情で満たしている。翡翠に七夜、そして新しい使用人や料理人にも、私は心を開いている。それはきっと、幹也さんと出会い、こんな家庭を築くことが出来たからだろう。ここに大切な人たちがいるからこそ、外でいくらでも強くなれるのだ。それは、かつての私がしがみついてきた虚勢ではなくて、きっと本当の強さなのだ。遠野秋葉は、この十年足らずの間に目覚しく成長した。私自身、そう思っている。
 やりがいのある仕事と幸せな家庭。十年前、高校に進んだ頃には、こんなものが手に入る日が来るなんて思いもしなかった。私は、この固く締め切られた屋敷の中で、生きながら朽ちてゆくのだと信じていた。それが、遠野の当主の生き方なのだと。それに引き換え、今の私は幸せだ。本当に幸せだ。
 だけど、と、どうしても心がそこに行ってしまう。だけど、この幸せの構図の中に、本当に居て欲しかった人が居ない。私の世界から、あの人は外れてしまっている。それが、私の心をざわめかせるのだ。

「翡翠、兄さんは起きてらっしゃる?」
 寝る前に、翡翠が居間に戻ってきたのを見計らって、確かめてみた。
「はい。まだ眠くないようで、本を読んでいらっしゃいました」
「そう」
 私は立ち上がると、兄さんの部屋へと向かった。
 ドアをノックすると、微かに応じる声が帰ってきた。「失礼します」と声をかけ、中へと入った。
 兄さんは、ベッドに寝そべって、文庫本を読んでいたようだ。
「よう、秋葉」
「兄さん、そのままで」
 上半身を起こそうとする兄さんを、私は慌てて押し留めた。兄さんは、苦笑しながら、ベッドに身を預けた。
「今夜は、そんなに気分も悪くないんだけどな」
「でも、お体に触るといけませんから」
 私はベッドの側に椅子を引いて、兄さんを見つめた。
 見る者が見れば、今の兄さんの有様には驚くことだろう。兄さんと再会した頃、私は兄さんのことを、線の細い人だと思っていた。でも、今にして思えば、兄さんは十分にたくましかった。今の、変わり果てた兄さんからすれば。
 ベッドに仰臥し、私を静かに見つめ返している兄さんの顔は、げっそりと痩せこけていた。胸に置かれた本に添えられた手も、裾から覗く腕も、痛ましいほどに肉が落ち、細くなっている。近年、どうも調子が思わしくないと思っていたら、段々ベッドから出られない日が増えて、今では寝たきりに等しい状態だ。こんな兄さんを見る度に、私は涙が出そうになる。
 そんな気持ちを押し込めて、私は兄さんに微笑みかけた。
「確かに気分は良さそうですね。顔色がいいです」
「ああ、さっき翡翠が身体を拭いてくれたから、凄く気分がいいんだ。久しぶりに、夜遊びに行きたいくらいでさ」
「それもいいかもしれませんね」
 私たちは、顔を突き合わせて、くすくすと笑いあった。
 それからしばらく、私は今日あったこと、外で起きているニュースを、兄さんと話した。もっとも、ほとんどは私が話してばかりだったのだけれど。兄さんは、私が興味の赴くまま話す内容を、どれほど理解しているのか、ただ黙って微笑みながら、聞いてくれる。
「秋葉は立派になったよなあ。もうすっかり、遠野家の屋台骨じゃないか。世界中の企業を相手にしているんだもんな」
「それも、遠野の財閥としての力があればこそですよ」
「それでも、それをちゃんと使いこなすなんて、秋葉にしか出来ないよ」
 兄さんは、まるで自分のことのように喜んでくれる。目を細めて、優しく微笑んでくれる。兄さんは、いつだって遠野秋葉の兄さんで居てくれた。私を女として愛してくれなかったけれど、兄さんがたった一人の肉親として愛してくれるのは私だけ。こればかりは、たとえ翡翠であっても、幹也さんであっても、決して割り込むことの出来ない領域だ。私は、兄さんが翡翠を選び、それでも私を妹として愛してくれているという、この現実を受け入れていた。なのに、兄さんの体調が思わしくないなんて。
「兄さんだって、会社では高く評価されていたんですから。早く身体を直して復帰すれば、もっとやりがいのある仕事が待ってますよ」
 悲しみをこらえて、そう答えた。嘘ではない。兄さんには、経験を積んでもらうつもりで、遠野家の所有する一企業の専務役員になってもらっていた。いきなり専務に就かされて戸惑いはあったようだけど、仕事振りは上等というレベルでは済まないほど素晴らしかった。周囲の評価を総合すると、問題点の把握がこの上なく的確で、解決にも率先して当たってくれる、頼れる専務ということらしい。兄さん特有の、あの人当たりの良さも好感されているのだろう。ともあれ、兄さんの仕事振りは、私が胸を張って誇れるほどのものだった。何年かしたら、いいえ、出来るだけ早く、私の仕事を助けて欲しいと思うくらいに。でも、兄さんに慣れない会社勤めを強いたことが、兄さんの不調に関係しているとしたら。
「うーん、そうだな。ああいう生活も悪くはないな。でも、やっぱり俺には合わないかも」
「兄さん」
「怒るなよ」
 兄さんは、少しからかうようにいった。
「大丈夫さ。元々ポンコツな身体、ちょっとした不調で大きく崩れる事だってあるんだ。その事を、俺は忘れてたよ。復帰には時間が掛かるかもしれないけど、今度はちゃんと治して、今度こそ秋葉の役に立てるように頑張るよ」
「期待していいのですね? でも、あんまり無理なさらないで、まずはご自分で散歩に出られるくらいに治しましょう。優しい叔父さんが遊んでくれないものだから、春樹も寂しがってます」
「そうだなー。春樹とも、もっと遊んでやらないと。そろそろ俺の顔も忘れてるだろうし、夏美ちゃんなんて、まだ顔も憶えられてないだろうな」
 兄さんは、本を枕元のテーブルに置いた。
「秋葉と話せてすっきりしたからかな、眠くなってきたよ。今夜はこのまま寝るから」
「はい、お休みなさい、兄さん」
 私は、毛布を兄さんの首許まで丁寧に引き上げると、一礼して部屋を出た。灯りは消さなかった。後で翡翠が来ることは分かっていたのだから。
 果たして、私が廊下を歩いてくると、階段を登ってきた翡翠と鉢合わせになった。
「兄さんはお休みになるそうだけど、灯りは消さなかったわ。まだ眠ってはいらっしゃらないはずよ」
「ありがとうございます。後はわたしがお世話いたしますので」
 うなずき返して、そのまま立ち去ろうとした。ふと思い出したことがあって、私を見送っている翡翠に向き直り、たずねた。
「ねえ、翡翠。兄さんの容態、あなたはどう思うかしら」
「そうでございますね。最悪の時期よりはよほど良好かと」
 どこかに視線をさ迷わせながら、翡翠はそう答えた。私は嘘が下手だと言われるけれど、翡翠も相当のものだ。
「そう。やっぱりずいぶん悪いのね」
 私は、思わずため息を吐いた。さっきの兄さんの様子から、あるいは無理して元気そうに見せているのではないかと思っていたのだけれど。
「申し訳ありません。私の力が足りないばかりに」
 翡翠は悲痛な顔をして、私にそう詫びた。
「なにを言ってるの? 兄さんの容態が悪いのは、翡翠のせいではないのよ。むしろ、翡翠は兄さんを支えてくれているでしょう」
「はい、わたしに出来る限りのことは。でも、志貴様はどんどんお体を悪くされて。わたしがどんなに力をお分けしてさしあげても、どこかに吸い込まれてゆくようです。まるで、砂漠に水を注ぐようなもので」
 話しているうちに気が高ぶってきたのだろう、翡翠の顔には恐怖のようなものが見て取れた。
「以前なら、わたしが力を分けて差し上げれば、志貴様はすぐに立ち直ってくださいました。力が及ばなくとも、志貴様がわたしの力に反応してくださったことが、いつだってわかったのです。でも今は、まるで反応が無くて、本当に砂に水を注ぐようで」
 翡翠は自分の身を抱きしめると、小さく震え始めた。
「わたし、わたし、もう、どうすればいいのか分かりません。このままでは、志貴様はいつか、どうにかなってしまうのじゃないかと思えてしまって」
「もう、馬鹿ね」
 珍しくも激情を溢れさせた翡翠を、私はすばやく抱きしめた。
「そんなわけ無いじゃない。兄さんには翡翠が居て、私がいて、時南先生までいるのよ? どうにかなりようなんてないじゃないの」
 出来るだけ明るい口調でいいながら、翡翠の背中を優しく撫でた。
「いい、翡翠。あなたの努力は、きっと兄さんを良くしているのよ。見た目がどうであれ、あなたの献身が実らないわけが無いじゃないの。それを信じなきゃダメよ。反応が無いように思えても、兄さんの体調はきっと良くなっているわ。ただ、兄さんは鈍い人だから、身体の反応も鈍いだけなのよ」
 翡翠は、目元の涙を拭うと、はい、と小さくうなずいた。
「翡翠、頑張りましょう。兄さんの前で涙を見せないようにしましょう。その代わり、私の前では、いくら泣いてもいいのだから」
「はい、そうですね。志貴様の前で、こんな顔はできませんから」
 翡翠はようやく笑うと、私に一礼して、兄さんの部屋へと去って行った。
 階段を降り、居間に入ると、窓際に立っていた幹也さんが振り向いた。私の顔から何かを察したのだろう、なにか憂鬱そうな顔になった。
「やっぱり、志貴君の容態は、あまり良くないんだね」
「ええ、あまり安定はしてません。翡翠も、ちょっと参りかけているようです」
「そうか。翡翠ちゃんが先に参ってしまってはいけないね。ちょっとだけでも、志貴君の世話を忘れる時間が必要そうだ。うまく言いくるめて、息抜きさせてあげることにするよ」
「でも、あの頑固な翡翠が、兄さんの傍を離れてくれるかしら」
「その点は、七夜ちゃんに協力してもらって、僕がなんとかするよ」
 幹也さんは、私にウィンクをくれると、肩に手を回してくれた。
「さっ、秋葉も寝なよ。志貴君の不調で、秋葉の方もちょっと参り始めているよ。せめて、睡眠時間だけは確保しなよ」
「そうですか。やっぱり顔に出ているのかしら」
 幹也さんに連れられて、私も寝室へと向かった。でも、その間にも心を占めていたのは、兄さんがなぜ体調を崩したのかという疑問だった。あんなに安定していた兄さんが、なぜ。

 それからしばらくして、翡翠は七夜に誘われる形で、近郊の温泉地へと出かけていった。久しぶりの姉妹水入らずの旅。翡翠も心待ちにしていたようだけど、同時に兄さんのことも気にかかるようだった。そこで幹也さんは手を打った。主治医である時南先生に相談して、その娘である朱鷺恵さんに泊り掛けでお世話していただくことにしたのだ。朱鷺恵さんは既に結婚されていたけれど、この要望を快く承諾していただけた。
 週末、朱鷺恵さんが来るのと入れ替わりに、翡翠は迎えに来た七夜と共に出かけていったのだった。
「翡翠ちゃん、これで元気になってくれればいいんだけど」
 兄さんの部屋で、兄さんの診察をしながら、朱鷺恵さんはいった。
「本当だよ。俺の心配をしすぎて、翡翠が先に倒れちゃたまんないよ。どうせポンコツな身体だ、たまには低空飛行することだってあるよ」
 朱鷺恵さんから背中の触診を受けながら、兄さんは相変わらず気楽そうに笑う。本当に、自分のことなんて、なんでもないみたいに。
「志貴君も、そんな軽口叩ける体調じゃないでしょう? わたしがいる間は、言うことを聞いて静養しているのよ」
 朱鷺恵さんは、まるで兄さんが小さな悪戯っ子であるかのように、たしなめる。
「へいへい。せっかく翡翠が遊びに行ったのにな」
 兄さんも心得たもので、わざと拗ねたように答えて見せた。
 一通りの診察が終わり、朱鷺恵さんと共に部屋を後にした。戸口の横には、椅子と小さなテーブルが置かれ、使用人の一人が待機していた。私たちが出てくると、読んでいた本を閉じて、お辞儀をくれた。翡翠が心配しないように、負担を掛けないようにと、使用人たちが交代で待機することにしてくれたのだ。
 居間に戻り、朱鷺恵さんと共にお茶の時間とした。紅茶を飲みながら、朱鷺恵さんはなにか思い悩んでいるように見えた。
「朱鷺恵さん、兄さんの容態は」
 そう聞いてみると、案の定、暗い顔を見せた。
「そうね。意外に安定しているというべきか、満遍なく悪いというべきかしら」
 そんなに、と、絶句していると、朱鷺恵さんは慌てて言葉を足した。
「どこかが悪いというわけじゃないの。癌だとか、別の病気だとか。そうね、病気というわけじゃないわね。いちばん近い症状というと、変な話だけど、老衰かしら」
「老衰ですか」
 私は、目をむいた。
「そう。志貴君の生命力が低下している。そうとしか形容しようが無いの。あるいはお父さんなら、もっと的確に診断できるかもしれないけれど」
 私は、胸がざわめくのを感じた。朱鷺恵さんは考え考え、言葉を繋いだ。
「これは異常なことよ。志貴君は、自分でも言うように、ポンコツとしか言いようが無い体をしているわ。ふつうに生きていられるのが不思議なくらい、壊れてしまっている。だけど、志貴君には翡翠ちゃんが居るじゃない。翡翠ちゃんが生命力を注ぎ込んでくれているのだから、ふつうならば志貴君の生命力が低下するなんて考えられないことよ。第一、志貴君には秋葉ちゃんだっているんだから」
「私が?」
 ちょっと唐突に思えたので、そう聞き返していた。
「そう。秋葉ちゃんは、志貴君の命の、そもそもの持ち主じゃない。志貴君への影響力は、翡翠ちゃんよりもずっと大きいのよ」
「前に、時南先生からもそういわれましたけど」
「そうね。翡翠ちゃんは、いわば志貴君の燃料タンクのようなものなの。翡翠ちゃんが志貴君に分けているのは、いうならば車にとってのガソリンのようなものなのよ。その質によって志貴君という車の性能も変わるけど、結局はそれだけに過ぎないの。それで志貴君という車に変化があるわけじゃないわけ。でも秋葉ちゃんは、いわば志貴君のもう一つのエンジンのようなものなの。ううん、むしろ、志貴君の唯一のエンジンというべきかしら。志貴君は自分の命では生きてゆけなくて、秋葉ちゃんのエンジンを借りて生きているのよ。だから、翡翠ちゃんの場合と違って、秋葉ちゃんの体調が、志貴君には大きく響くわけ。もちろん、その逆も」
 そこで、朱鷺恵さんは首を傾げた。
「だというのに、志貴君の不調が秋葉ちゃんに響いている様子は無さそうね。これはどういうことかしら。秋葉ちゃん、なにか感じない?」
 そういわれても。私は困惑してしまう。私自身は、兄さんの不調をこの上なく感じている。兄さんと私は、命を共有している。朱鷺恵さんの言葉を借りれば、エンジンを共用しているということかしら。だから、兄さんに不調があれば、私にはすぐに分かる。現に、今だってこの心臓の傍に、もう一つの心臓があるような感覚。これが兄さんの命だ。私と共用している部分だ。それが弱っている。次第に弱っていることが、私には分かる。ここ数年、兄さんの体調が悪化してゆく様が、私には手に取るように分かっていた。夏美を産んで一息ついた頃、兄さんの異変が一段と進んだことに気づいて、愕然としたものだ。でも、確かに私の負担は増えてはいないのだ。
 私は、窓の外にじっと目を注ぎ、考え込んだ。子供たちを身ごもっている間は、兄さんの病状は進行しなかったのだ。そう、妊娠している間は――
 いや、違う。
「朱鷺恵さん、時南先生はご在宅でしょうか」
 私が振り向きざまにそういうと、朱鷺恵さんはちょっと驚いたようだ。
「お父さん? ええ、今日は夫共々、診療所にいるはずよ」
「ちょっとお話をうかがってきます。ごめんなさい、兄さんのことをお願いします」
 私は慌しく屋敷を出ると、車で時南医院へと向かった。

 看護婦さんに取り次いでいただき、時南先生と面会した。
「先生、兄さんの体調が悪化し始めたのは、いつのことなのでしょうか」
「小僧のか? そりゃ秋葉お嬢ちゃんが一番知っておるだろうが」
 次第に真っ白になりつつある髭をしごきながら、時南先生はしれりと答えた。なんというのだろう、狸親爺というべきか。容易に内心をうかがい知ることが出来そうに無い。
 私はしばらく、時南先生の顔を凝視した。無言の凝視に、時南先生の顔に、ようやく微かな狼狽が浮かんだ。
「なんじゃな。なにか納得できないのかの?」
「先生には、兄さんを毎月見ていただいてました」
 私は、先生を見据えて、わずかに声を低めた。
「ああ、お嬢ちゃん方が小僧を毎月寄越してきたからの」
「ならば、兄さんの異変に最初に気づいて当然ですね。だというのに、時南先生から、兄さんの不調についてうかがったことがありません」
「なんのことじゃ。現に、朱鷺恵をやったり、わしや婿が診察に出向いたりしておるだろう」
「ええ、兄さんが明らかに不調になってからは」
 私は、時南先生から目を逸らさないで、逸らすことを許さないで、続けた。
「でも、兄さんの不調に最初に気づいたのは私です。妊娠して、周りに目を配る余裕の無かった私だったんです」
 そう、時南先生でも朱鷺恵さんでも無くて、さらには翡翠でも無かったのだ。
「そんなの変です。私が気づいたときには、兄さんはすっかり不調でしたわ。会社に出る気力も無いくらいに。なのに、誰も予兆に気づかなかったなんて、不自然です」
 時南先生はため息をついた。
「そうか、そこまで気づいたのだから、もう想像はつこう。いかにも、秋葉お嬢ちゃんにだけは告げるなといわれての」
「他ならぬ」
「うむ、他ならぬ、小僧自身からの」
 まったく、兄さんは。私の胸中は複雑だった。あの人は、私に負担を掛けたくなかったのだろう。私を心配させるより、自分が不調に耐える方がいいと考えたのだ。本当に、兄さんらしい。
「小僧を責めんでやってくれ。あれは本当に秋葉お嬢ちゃんのことを心配しておる。それに、お嬢ちゃんに子供が出来て、家族が増えることを、我がことのように喜んでおった。あれの気持ちを酌んでやってはくれぬか」
 時南先生は、私に諭すようにいった。しんみりした空気が流れる。そうだ、と私は思い返した。危うく忘れるところだったけれど、聞きたかったのはそのことではないのだ。
「兄さんが体調を崩されたのは、いつだったのですか」
 時南先生の顔に、なにか怯むようなものが浮かんだ。上手くごまかしたつもりだったのだろうが、今日の私は引き下がるつもりなんてない。兄さんの命が掛かっているのだから。
「いえないのですか?」
「じゃから、それはお嬢ちゃんがよく知っておろうと」
「私が妊娠したときだったんですね」
 ずばり言った。
「私が春樹を身ごもった時、兄さんの不調が始まったのですね」
 時南先生は、ぐっと詰まってしまった。その顔を見て、私はやっと事実を知ることが出来たと思った。
「兄さんの不調は、私が妊娠したからなのですね」と、駄目を押すようにいう。
「待たぬか。そう先走るのではない。たまたま、たまたまじゃ。運悪く時期が重なっただけじゃ」
「私と兄さんは命を共有しています。兄さんも私も、互いに負担を掛け合っています。そこに、子供を産むなんていう大事業が重なったら、もっと大きな負担が掛かってしまいます。だけど、もしも兄さんに力を注いでしまったら、お腹の子供に影響が出てしまう。私は、子供と兄さんを無意識に秤にかけて、子供を守ることを優先したんだわ」
 なんて馬鹿な私。耐え切れなくて、とうとう声を詰まらせてしまった。そんなこと、考えてみれば分かることなのに。私も兄さんも、互いの体調が敏感に影響しあう。どちらかが風邪をこじらせたくらいで、もう一方も床に伏せる破目になるくらいなのだ。まして、子供を身ごもるなどという大事件があれば……。
 私は、子供が出来たという喜びにかまけて、兄さんのことをすっかり忘れていたのだ。兄さんと命を分け合ってから、いつだって兄さんのことを気に掛けてきたというのに。肝心要の時、私は幸せのあまり、大切な人のことを忘れてしまっていたのだ。
 そして馬鹿な兄さん。私にとって兄さんはかけがえの無い人だ。兄さんを苦しめるくらいなら、私は子供を作らない。せめて春樹を産んだときに分かっていれば、兄さんをこんなに苦しめることは無かったのに。
「秋葉お嬢ちゃん、さりとても、仕方ないことじゃろう。小僧はお嬢ちゃんに命を借りて生きておるのだ。お嬢ちゃんに何かがあれば、小僧に響くのも致し方ないことじゃ。妊娠に限らぬ。秋葉お嬢ちゃんが病に伏せれば、あれにも響く。その通りじゃ。場合によっては、死に至ろう」
 死、という禍々しい言葉に、私の胸は竦みあがった。
「しかし、お嬢ちゃんも婿を取り、幸せな家庭を作ろうとすれば、子供を儲けるのも自然なことじゃ。小僧は、その邪魔をしたくは無かったのだろう。お嬢ちゃんの幸せを心の底から願っておったのだ。じゃから、あえて己が体調を隠しておったのじゃよ」
 時南先生の声を遠く聞きながら、私はじっと考え込んでいた。どうすればいいのだろう。

 屋敷に戻る道すがら、車を運転しながらも、私は考え続けていた。やることは決まっている。もう子供は産まない。その事に尽きる。今の兄さんの体調では、私が次に出産すれば、その影響に耐えられないだろう。だから、もう産まない。
 それは簡単なはず。春樹と夏美がいるのだから、幹也さんを説得するのは難しくないだろう。本当は、四季それぞれにちなんだ名前が何巡もするくらい、一杯産みたかった。幹也さんと、野球やサッカーのチームを作れるくらい、子供が欲しいなと話していた。
 もう何世代も、遠野は子供に恵まれなかった。段々先細りになって、遂に私とお兄様の二人きりになり、最後にはお兄様も私の手に掛かって居なくなってしまった。私一人きりになってしまった。そんな不吉な、滅びを感じさせる空気を変えたかった。この家を子供たちで満たして、その元気な声で空気を変えたかった。だけど、兄さんを苦しめるくらいなら、それだって諦めることが出来る。私には、やはり兄さんが大切なのだ。誰にも代え難い人だ。二人の子供たちを大切に育てて、次の世代へと繋いでゆこう。
 だけど。だけど、最後の難問が待っている。まだ誰にも話していない。だけど、私のお腹には、もう次の子供が宿っているのだ。つい最近、かかりつけの産婦人科医で、妊娠初期であることが分かったのだ。私はそのことを、もう少ししたら幹也さんに打ち明けようと思っていた。きっと喜ぶだろう。幹也さんは、男の子なら冬夜、女の子なら冬乃にしようと、ずいぶん前から楽しみにしていたのだ。それはいい、打ち明けなければいいだけだから。幹也さんは妊娠の事実を知らないのだから、もう子供は作らないと説得すればいい。産婦人科医に関しては、いくらでも手のうちようはある。法律にも抜け道はあるだろう。だから、問題は私の気持ちだけのはず。なら、迷うことは無い。無いのだけれど。
 それは恐い。やはり、恐ろしいことだと思う。これから産まれようとする子供を、いかにやむを得ないこととはいえ、親の都合で抹殺してしまうなんて……。春樹を、夏美を、そうしていたならばと思うと、居たたまれなくなる。あの子達の笑顔を、親である私が奪うなんて許されることなのだろうか。
 車を路肩に止めて、ハンドルに顔を突っ伏した。しばらく、動悸が収まるまでじっと考え込んでいた。いや、本当は考えたくなんてない。兄さんと、お腹の子供と、どちらかを選ばなければならないなんて。惨すぎる……。

 帰宅しても、気分は晴れなかった。晴れるわけが無い。
「お父さん、なにかいってたかしら?」
 朱鷺恵さんには、私と時南先生のやりとりは、まだ伝わってないようだ。
「ええ、ちょっと兄さんのことで、確かめなくてはならなかったことがあったもので」
 私が取り繕うと、朱鷺恵さんは「そう、秋葉ちゃんは、本当に志貴くんのことが心配なのね」と、あまり気にした風も見せなかった。
「じゃあ、わたしは部屋に控えさせていただくから。なにかあったら呼んでね」
 私がうなずき返すと、朱鷺恵さんは微笑んでくれて、居間を出て行った。私の様子に、不審を覚えた形跡は無い。
 お茶を淹れると、気を落ち着かせようとしながら、窓から見える裏庭の光景にじっと目を注いだ。ここから見えている裏庭は、子供たちが生まれてからはきれいに刈り込んで、格好の遊び場になっている。幼い子供たちとともに、翡翠や幹也さん、そして兄さんと、陽だまりの中で遊ぶ私たち。それは、この遠野の家では、はるか昔に絶えたはずの光景だった。私は、家族の幸せという、思いも寄らなかったものを手に入れたのだ。
 お腹に手をやる。まだ膨らみは目立っていないけれど、そろそろ子宮の中には、生き物の形が出来上がっているはず。そうだ、まだこの中に居るのは、人間にもなりきっていないイキモノなのだ。だから、かわいそうだとか、悲しむとか、そんな人間的な感情を持つなんて、ナンセンスだ。そう、兄さんの方が大事なんだから。
 駄目。私は、思わず頭を抱えてしまった。なんと言い繕おうと、お腹の子供がやがて春樹や夏美のように産まれ出て、陽だまりの中を駆け回り、私たちに甘える、一人の人間に育つことは間違いないのだ。だというのに、それを否定してしまうなんて……。いったい、母親である私が、この子を守らないでどうするのだ。私以外に頼る者など無い、この小さな命。それを、私自身が否定しなければならないなんて。
 しばらく、頭を抱えていた。
 どうすれば、どうすればいい。
 言葉ばかりが空回りする。
 私は、この子を守ってあげなければならない。私は母親だから。そんな単純な理由なのだ。
 だけど、私には兄さん以上に大切なものなんてない。兄さんという存在は、私には本当にかけがえの無いものなのだ。他に較べるものなんてない。だから。
 この子を堕ろす。
 顔を上げて、窓の外に目をやった。白々と、月が上っていた。月の光を浴びると、私の中の古い血が騒ぐのだろう。いつもよりずっと、冷酷な気分になれる。
 そう。遠野は鬼の一族。そして私は鬼の娘。だから、自分の子供にさえ、鬼のように振舞える。きっと、私はやり遂げられる。
 そう決心しても、私の心に安らぎは無かった。きっと、この先一生、私はこの罪を背負ってゆくのだろう。それでもいい。兄さんさえ生きていてくれるのなら。
 ごめんなさい。
 お腹の子供に謝る。
 ごめんなさい。あなたを産んであげたかった。あなただって生まれてきたかったはず。でも、あなたを兄さんの命と引き換えにするわけにはいかない。ひどい母親だと恨んでもいい。でも、兄さんを助けてあげて欲しいの。そう、お腹の子供にささやいた。
 その兄さんの声が恋しくなって、私は立ち上がると、兄さんの部屋へと向かった。

 兄さんは起きていた。
「ご気分はいかがですか?」
 椅子に腰を下ろしながら、さっきまでの葛藤を隠して、兄さんに微笑みかける。兄さんは読んでいた雑誌を閉じた。
「うーん、悪くないな。っていうか、何度も何度も聞かれるから、他に答える言葉が無くなっちゃったよ」と、屈託無く笑った。
「そうですか」
 椅子に腰掛けたまま、兄さんの目をじっと見た。兄さんの目は、とてもきれいだ。深く、吸い込まれそうな色。時に蒼が揺らめく。それが不思議で、小さな頃、私は兄さんの目をじーっと見ているのが好きだった。そして、そんな兄さんの目に見つめられるのも。
「翡翠は元気になったかなあ」
 兄さんは、しばし、じっと見詰め合った後で、思い出したようにつぶやいた。
「七夜は、翡翠を元気にするんだって、張り切ってましたよ。きっと、久しぶりの姉妹水入らずで、兄さんの事なんか忘れてしまってるかも知れませんね」
「そう願いたいね。だいたい、翡翠も秋葉も、俺のことを心配しすぎだよ」
「そうでしょうか?」
「そうだよ。俺がいうんだから、間違いないさ」と、兄さんはまた笑った。
 しばし、二人が行った温泉地の話や、幹也さんから聞いた伽藍の洞の近況などを話した。鮮花と両儀式が、相次いで結婚したという話には、心底驚いたようだけれど。
「なんかさあ、俺が臥せってる間にも、世の中は動いてるんだよなあ」
 兄さんは、しみじみという風につぶやいた。
「そうですよ。兄さんはのんびり屋さんなんだから、うかうかしているうちに取り残されるかも知れませんよ」
「そうだなあ。翡翠とも式を挙げてやらないと、安心できないだろうし」
 そういえば、兄さんと翡翠は、まだ式を挙げていない。皮肉なものだと思う。私が幹也さんと結婚したのは、兄さんと翡翠の仲が進展してしまい、私の割り込む余地が無くなったからだ。そして私と幹也さんが出会ったからこそ、七夜が秋巳さんと出会ったのだ。そして、幹也さんという当てが無くなったからこそ、鮮花と両儀さんも別の相手を見つけたのだ。だというのに、兄さんがのんびり屋で、翡翠も遠慮がちだから、二人の結婚は先延ばしにされてきた。そして、いつやるとも決まらないうちに、兄さんの体調が崩れていったというわけだ。こんなことなら、兄さんたちを急かして、さっさと式を挙げさせればよかった。
「なら、さっさとお体を癒してくださいな。そして今度こそ、ちゃんと翡翠を口説いて、式を挙げてくださいね? 兄さんも翡翠も、私が尻を叩かないと、いつまで経っても恋人気分のままなんだから……」
「ああ、そうだな。所帯じみた翡翠というのも、なんだか悪くない」
 私たちは、それっきり黙ってしまう。でも、決して居心地の悪い沈黙ではなかった。むしろ、ずっとこうしていたくなる。私たちは無言で見つめあった。こうして静かに心を通わせている時間。昔、兄さんやお兄様と裏庭を駆け回っていた頃、私と兄さんは、夕暮れ時の木陰に立って、こうして黙って見詰め合うことがあったっけ。兄さんの優しい目に見つめられるのが、子供心にもどきどきする時間だった。そして今も。
 こうして見詰め合っているだけで、兄さんの考えていることが分かりそう。そして、その身体の事も、それがはっきりと衰えていることも……。私は、仕事や家庭のことに感けて、ずいぶん長い間、大切な兄さんとこうした時間を持つことが無かった。だから、兄さんの変調に気づいたときには、血も凍るほどの恐怖を覚えた。兄さんを失ってしまうなんて、私には考えられなかった。
 ふと壁の時計を見る。もう日付が変わる頃だ。
「じゃあ兄さん、私はそろそろお休みします。なにかあったら、部屋の前に誰か待機させておきますし、朱鷺恵さんも時々見回りに来るそうですので」
「ああ、いい子にしてるから、安心してお休み」
 私は、「はい」と頷いて、立ち上がった。兄さんに一礼して、ドアに向かいながら、この週末にスケジュールを入れようと考え始めていた。この子を堕ろすために、少し入院する必要があるだろう。そうだ、流産したことにしよう。
「秋葉」
 ふと、兄さんに呼び止められた。
「ちゃんと、産んでやるんだぞ」
 その言葉を背中で聞いた。我知らず振り向いて、何かに平手打ちされたような気分で、兄さんをまじまじと見返した。
 兄さんは、ベッドから、私をじっと見つめている。優しい、でも有無を言わせないその目。その目が、私の罪を咎め、同時に赦してもいる。私という存在を包み込んでしまう、その目。
「に、にいさん」舌がもつれる。どうして、兄さんがお腹の子のことを。
「可哀想だろう? せっかくおまえのお腹に宿ったんだ。ちゃんとこの世に生まれて、遊びまわりたいはずだ。春樹や夏美だって、心待ちにしてるだろう」
「どうして、どうしてご存知なんですか……?」
 思わずベッドににじり寄った。この事は、幹也さんにすら告げてない。
「あのさ、秋葉」と、兄さんは苦笑のようなものを浮かべている。
「俺とおまえは、命がつながってるだろう。おまえは俺の体調が敏感に分かるというじゃないか。なら、逆だってあるだろう」
 そうか。兄さんは、私の体調の影響を受けやすいのだ。だから、理屈としては、私の変調が分かるはず。でも、まだ目立って影響の出ていない、妊娠初期のことすらも分かるというのだろうか。信じられない。
「信じてないな。でも本当なんだ」
 兄さんは、その目を窓の外に向けた。
「おまえが春樹を身籠った時、俺にははっきりと分かったよ。だって、命の流れが変わったものな」
「命の、流れ」
 私は呆然とつぶやいた。
「そうとしか言いようがないな。俺と秋葉の間で、命だか生命力だか、そんなもののやり取りが続いてるんだ。ところが、おまえが春樹を身籠った時に、それが細ってね。ああ、もしかして、って思ったよ。それから、秋葉のことを前よりももっと強く感じるようになったんだ。おまえの中で、お腹の子供に向けて、命が優しく流れ込んでいるのが分かったんだ。もうすぐ家族が増えるんだなって思うと、嬉しくて仕方なかったよ」
 兄さんは、優しい目をしている。そうだ、春樹を身籠っている時、生まれてくるのを心底心待ちにしていてくれたっけ。兄さんは、私が子供たちを身籠っていた時、その子供たちが、結果的に兄さんの命を削っているのを知っていたのだ。次第に自分の身体が動かなくなる恐怖に耐えながら。だというのに、この人は。
「そんな目をするなよ」と、兄さんは笑った。
「仕方ないだろう? 俺はおまえから命を借りてたんだ。だったら、いつかは返さなきゃならないはずじゃないか。それが新しい命へと引き継がれるというのなら、俺は文句なんていわないよ」
「ダメです、兄さん、それはダメです」
 恐怖が募ってきて、私は思わず責め立てるような口調になる。
「ダメッ。兄さんが死んじゃうなんて。そうしたら、秋葉はどうすればいいの?」
「秋葉」
 兄さんは宥めるようにいう。
「ダメです。ダメなんです。兄さんが死んじゃうくらいなら、秋葉はこの子を産みません」
「なあ、秋葉、聞いてくれよ」
「嫌です。兄さんを失うくらいなら、私も死んだ方がマシなんです!」
 我を忘れて、そう叫んでいた。もう二十年近くも兄さんのことを考え続けていた。兄さんさえ居てくれれば、この家も家族も、さらには私自身すら失っても恐くない。だというのに、この人は私の子供のために死んでゆくのだという。そんなの許せるはずがない。耐えられるはずがない。私は、恐怖に血が凍えるのを感じた。たった一つの、一番大切なものが消えてしまうなんて。
「秋葉」
 兄さんの目が、一瞬だけ強く光った。
 なにか衝撃を感じた。訳が分からないまま、反射的に頬を押さえる。視線の先で、兄さんの手が、ベッドにぱたんと落ちた。その時になって初めて、私は兄さんに頬を打たれたのを知った。生まれて初めてのことだった。
 心の中に、色んな思いが渦巻いている。私は、それをじっとかみ締めた。悔恨の念が後から後からこみ上げてきて、思わず膝へと涙をこぼした。
 俯いて、涙を流している頭に、兄さんの手がそっと載せられた。
「秋葉、ごめんな」
 顔を上げると、兄さんは必死に手を伸ばして、私の頭を撫でてくれていた。
「俺はおまえの想いに応えてやれなかったのに、おまえに辛い思いばかりさせている。俺は本当に、駄目な兄貴だ」
「兄さん」
 私は、兄さんのその手にすがって、泣いた。
「そんなコト、そんなコトありません。兄さんは生きていてくれるだけでいいの。秋葉は兄さんが生きていてくれるだけでいいんです。兄さんが居ない人生なんて考えられません」
「なあ秋葉」
 兄さんは、その手で、私の涙をそっと、大事そうに拭ってくれた。
「どのみち、俺は長くない」
 どこにも迷いのない言葉。全き断言。兄さんは、寿命を悟っているのだ。そう理解すると、私は悲しくなって、はらはらと涙を流した。
「“先生”に言われたって事もあるけど、俺自身がそれを強く感じてるんだ。この身体は、その昔に秋葉から分けてもらった命で動いてたんだ。夢を見ていたようなものなんだ。俺は、いい夢を見せてもらえたと思う」
 兄さんは、私に微笑んでくれた。
「だからさ。最後は、秋葉にちゃんと返したいんだ。秋葉のために使ってやりたいんだ」
 私が涙に濡れた顔を上げると、兄さんは優しく、諭すように話してくれる。
「俺は、そんなに長くは居てやれない。でもその子は、おまえの側にずっと居てくれるよ。俺の寿命を延ばそうなんて足掻くより、その子を産む方がおまえのためになるんだ」
 兄さんは、やつれた顔で、それでも私を優しく見つめてくれる。
「だからさ、ちゃんと産んでやるんだぜ」
 愛しげに私の髪を撫でるその手の細さが、私には悲しかった。そんな私の暗い予感を裏打ちするかのように、遠い教会の鐘が、低く、長く鳴り響いていた。
<続く>

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