La Campanella 〜鐘〜

2.喪失と獲得と

 二十年ほども生きていると、それなりに思いもかけない事態に遭うものだ。例えば、今この時のように。
「お見合いですか」
 その時、私の声は、少し甲高かったろう。その日、久しぶりに来られた有間のおば様の用件は、それほど意表を突くものだった。
「ええ、そろそろ秋葉様も、お見合いの機会をお持ちになられた方が、と思ってね」
 おば様は、私の反応をうかがいながら、そういった。居間のテーブルにはお見合い相手の写真とプロフィール。私はそれをろくに見もしないで、言下に断ろうと口を開きかけた。遠野の当主の生き方は、自分自身で決める。たとえ親族であろうとも、他人に決めさせることなどない。が、有間のおば様がため息とともに口にした言葉が、私を押しとどめた。
「そうよねえ。嫌よねえ。若い人は恋愛結婚がいいに決まってるのに。志貴は、なにを考えてこの話を持ってきたのかしら……」
「えっ、兄さんが」
 私が思わず問い返すと、有間のおば様は、あっという顔になった。
「あら、ごめんなさい。この事は口外するつもりなかったんだけど」
「もう少し詳しく話してはいただけませんか」
 私が少し声を低めて見せると、おば様は少しためらって、また口を開いた。
「詳しくもなにも、このお相手を見つけてきたのが志貴だという話。先方とどういうお話になったのかは良く知らないのだけど、どうも志貴は少し強引にお相手に話をつけたらしくってね。『この人になら秋葉を任せられるから』って、私に見合いの話を秋葉様に持ってゆけって」
 話の後半は耳に入らなかった。悲しいとも、遣る瀬無いともいえる気持ちで一杯だった。そんなに私が邪魔ですか、兄さん――
「あの、秋葉様」というおば様の言葉で我に返った。
「志貴のこと、悪く思わないでやって欲しいの。あの子はあなたのことが本当に心配なのよ」
「そうでしょうね」
 私は視線を落とした。兄さんは、私が誰とも恋愛しないで、一生を過ごすのではないかと心配しているのだ。兄さんも、やっと私の想いに気づいてくれた。でも、兄さんには翡翠が居るから、私の想いを受け止めるわけには行かないのだ。だから、私はその気持ちを墓場まで持って行くつもり。でも、いまさら兄さん以外の人を好きになれるわけでもない。私は、一生涯、独身を通すつもりだった。それで困るとすれば、遠野本家の血を残せないことくらいだろう。でもそれだって、分家筋から適当に跡取りを選べばいいだけの話だ。でも兄さんは、私がそうやって生きてゆくのに耐えられなかったようだ。
「秋葉様」
 なにかを決意したのか、有間のおば様は顔を上げていった。
「秋葉様には不本意なのかもしれませんが、志貴の気持ちも酌んでやってください。あの子はあなたを一人にしてしまうのが心配なのよ。それに、翡翠ちゃんのことも考えてあげては下さらないかしら」
「翡翠?」私は首をかしげた。
「ええ、翡翠ちゃんよ。翡翠ちゃんから見れば、自分は主人から、主人の思い人を取り上げてしまったわけでしょう。翡翠ちゃんの性格からして、その事をとても気にしているはずよ。それなのに、主人を差し置いて、結婚式なんて挙げられるかしら」
 そんなの、私は平気です。そう答えようとして、私はそれが翡翠の気持ちの問題なのだと気づいた。そうか、翡翠の方は、平気ではいられないのか……。それは兄さんには耐えられない事に違いない。最愛の女が、私が片付かないからと結婚を渋るなんて。
 その後、有間のおば様がなんと言っていたのか、ろくに覚えてない。ただ、手元に見合い写真が残されたのだから、結局は承諾していたのだろう。でも私の胸にあるのは、兄さんの一番は、結局私では無かったんですね、という苦い想いだけだった。

 見合いの日取りは、その翌週となっていた。私にはどうでもいい話だ。その日がくれば、見合いの席に赴いて、そこで縁談を断るだけのことだ。だが、私の内面の怒り、遣る瀬無さが滲み出ていたのだろう。それまでの間、屋敷はぴりぴりとした空気に満たされていた。兄さんも翡翠も、私に腫れ物を扱うかのような態度で接した。七夜がマイペースを保っていたのには救われた。七夜は、事件から三年経ち、いくぶん琥珀らしさを取り戻しているように見えた。まあ、あれほどの悪辣さを取り戻すわけも無いだろうけれど。
「お怒りは分かりますけど、志貴さんと翡翠ちゃんの、秋葉様を大切に思う気持ちも酌んであげてくださいな」
 翌日に見合いという日の夕刻、大学から帰ってきた私のコートを片付けながら、七夜はそういった。
「やっぱり、女の幸せは、幸せな家庭を築くことですからねー」
 ブラウスに着替えながら、その声を背中で聞いた。やはり、兄さんや翡翠から見て、私は幸せには見えないのだろうか。私は、兄さんがともかくもいてくれて、翡翠、そして七夜がいるここは、十分幸せだと思っているのに。
「もっと幸せになれる可能性があるということですよ、秋葉様」
 私の気持ちを見透かしてか、七夜は言葉を継ぎ足した。まったく、この子は、いつの間にか琥珀っぽくなってきて。
「志貴さんも翡翠ちゃんも、もちろんこの先ずっと秋葉様のお側に居て、支えてくれるでしょう。でも二人には二人の人生がありますからね……。秋葉様より、お互いを優先しなければならないことだってあるはずです」
 ずばり発せられた七夜の言葉に、私はギクリとした。そう、兄さんにも、翡翠にも、既にお互いというなによりも大切な存在があるのだ。私のわがままなんかに、いつまでも付き合っていられないという事なのだろう。そして七夜だって。
 いいえ、七夜こそ、いつかは私と離れて、自分の人生を歩む資格があるのだ。もう琥珀ではない七夜を、いつまでも私に、そして遠野家に縛り付けておくわけには行かないのだから。
「だから秋葉様も、ご自分を一番に思っていただける殿方を、ちゃんと捕まえなければならないんですよ。……秋葉様、どうなされました?」
 ふと我に返ると、真正面に回り込んで私を覗き込む、七夜の心配そうな顔が目に入った。
「なんでもないわ」
 私はブラウスのボタンを留めると、七夜を従えて居間へと向かった。そう、私のためにみんなを振り回す権利など、私には元からなかったのだ。

 だというのに私は、その朝、またしてもサボタージュに出てしまったのだった。
「嫌です。行きたくありません」
 私は居間に仁王立ちになって、みんなに硬い声でいった。
 きっかけがなんだったのか、憶えてない。翡翠と兄さんの距離が近すぎたから? 七夜の励ましが当てこすりに聞こえたから? いいえ、そのどちらでもない。分かっている。私はお見合いの席に出るのが嫌なだけなのだ。子供のように駄々をこねているだけなのだ。だというのに、あたかも兄さんたちが悪いかのように振る舞うのは、全く子供もいいところだ。
「秋葉様、せめてお見合いの席には顔を出してくださいませんか。そこでお断りしましょう。そうしないと、先方に失礼ですし」
 そう取り成す七夜の態度すら、私には怒りに火を注ぐ効果しかなかった。
「イヤといったらイヤです。私は行きません」
 馬鹿だ、私は。こんなところで駄々をこねたところで、兄さんたちを困らせるだけだと分かっているのに。なのに、やめられない。どうしても見合いの席に出るのが嫌だった。だって、そんなことしたら、私が兄さんを諦めたって認めることになるじゃないの――
「秋葉、どうしたんだよ。お見合いを受けると決めたのはお前じゃないか」
 兄さんの声に苛立ちが混じる。私は兄さんにキッと目をやると、なにか詰る言葉を搾り出そうとした。が、「秋葉様」と、思いがけない人物が、私の前に立った。翡翠だった。
「秋葉様、そのように我儘な態度を取られては、先方にもご迷惑をお掛けすることになります。使用人やお兄様に当たられるのも結構ですが、まずは遠野家としての体面をお考えください」
 わずかに声を低め、私を睨みつける翡翠の姿は、今まで見たことの無かったものだった。怒りを感じ取れた。それは多分、翡翠が兄さんを思うが故の態度だったろう。反射的に、翡翠を叱りつけようと、口を開きかけた。が、
「翡翠」
 その前に、兄さんの叱責するような声が飛んだ。
 翡翠はビクッと身を竦ませると、兄さんに目をやった。そして自分の行為の結果を恐れるかのように、その身を自ら抱き締めた。兄さんは翡翠と目線を交わすと、再び私に視線を戻した。
 私は、兄さんと翡翠、そして七夜と対峙した。私は孤独だった。当主とそれ以外。雇い主とそれ以外。みんなと私の間には、高くて分厚い壁が立ちふさがっていて、もうどうしようもなかったのだ。私が望んだわけではなかった。だがその壁の半分は、私が作り出したものでもあったろう。
「いまさら見合いをしたところで、私が誰かを愛せるわけ無いじゃないの。放っておきなさいよ」
 私はみんなに吼えた。きっと私は、追い詰められた顔をしていたろう。
「秋葉」
 兄さんは躊躇いがちに口を開くと、しかしなにかを思い出して、翡翠と七夜に目配せでなにかを伝えた。翡翠と七夜は兄さんの意を解したらしく、無言でうなずいた。その以心伝心ぶりも私の怒りを掻き立てる。
 と、翡翠と七夜は、私に一礼すると、部屋から出て行ったのだ。ドアが静かに閉まり、私と、兄さんだけが残された。
 私は、兄さんに背を向けた。この醜い顔を見せたくは無かったから。怒りと憎しみ、そして悲しみに支配されたこの顔を、兄さんにだけは見せたくなかったから。
「秋葉」その声は、私のすぐ後ろから聞こえた。
「なんですか、兄さん。いったい、あなたという人は、どこまで――」
 最後の虚勢をかき集めて、きつい声を出してみた。だが次の瞬間、私は兄さんに抱きしめられていた。後ろから。
「あっ――」
 驚いた。身が竦みかけた。だが、なによりも、ただ単純に嬉しかった。兄さんに抱きしめられて、この身が喜びに打ち震えている。たったそれだけのことなのに、私の身を満たしていた頑なな氷は、さっと溶け出していた。
「秋葉、ごめんな」
 抱きしめられたまま、兄さんの声を聞いた。
「お前の気持ちは分かってる。お前が見合いを嫌がる理由も分かってるつもりだ。でも秋葉、それじゃダメなんだ。俺はもう、翡翠以外を愛するわけにはいかないんだ。お前を女として愛してやるわけにはいかないんだ」
 それは一番聞きたくなかった言葉。そして一番分かりたくなかった理由。私は、両頬を涙がはらはらと流れ落ちるのを感じた。瞬きさえ、息することさえ忘れていた。
「秋葉には、秋葉を支えてくれる人が必要なんだ。お前は俺を憎むかもしれない。お前に俺以外の誰かを押しつけるのかって。いい、憎んでくれ。でも俺には、お前のためにそれが絶対に必要だと分かっている。お前は脆い。お前は強いけど脆い。俺が支えてやらなければならないんだけど、ごめん、どうしても手が届かない部分があるんだ。いや、手は届くかもしれない。でもそのために、俺は翡翠を裏切らなければならなくなってしまう。それは、どうしても出来ないんだ。なあ、秋葉には、秋葉を一番に愛してくれる男が必要なんだ。お前は一生涯を一人で過ごすことなんて出来ないよ。俺はお前が、そんな痛みを感じながら暮らして行くのに耐えられないんだ」
「そんな、兄さん」
 私は言葉を失い、兄さんに抱きしめられたまま、ただ泣きじゃくった。兄さんの言葉は、たとえどんなにオブラードに包んであったにせよ、女としての私への拒絶宣言に他ならなかったからだ。
「ごめんな」
 泣きじゃくる私を、兄さんはただ抱きしめてくれた。背中に感じる暖かさが、ただ悲しかった。

 見合いの場所に向かう車中で、私は琥珀と翡翠に、冷たいタオルで目を何度も冷やしてもらっていた。涙で乱れた化粧は、あっという間に戻せる。もともと、ごく薄くしか化粧しないのだし。でも、泣き腫らした目は、簡単には戻せなかった。二人は、私の両側に座り、氷嚢でタオルを冷やしては、せっせと私の目に当てている。
 私は、時折目を開け、車窓から見える光景から、現在位置を読み取ろうとした。まだ半分も行ってないくらいだろう。
「もういいわよ、自分でやるから」
 私は、七夜からタオルを取ろうとした。
「目を閉じて休んでらっしゃいませ。お化粧が崩れないようにしますから」
 そういう七夜の顔には、純粋な気遣いが感じられた。翡翠はわずかに笑んでくれた。その笑みに、密やかな陰りを見た私は、それ以上はなにも言えず、二人の成すがままに委ねた。
 翡翠の笑みに見えた陰りは、私がもたらしたものだ。翡翠は、私の荒れた原因が、兄さんに女として愛してもらえなかったからだと知っている。兄さんに翡翠がいるから、私を愛することができないのだと。そして、兄さんの命を支えてきたのが、他ならぬ私なのだとも。だというのに、兄さんに女として愛されたのは翡翠だった。そのことが、翡翠の表情を重くしているのだ。私は、翡翠の背負っている十字架に、またしても重みを付け加えてしまったのだと悟っていた。翡翠は翡翠の人生を歩んでいるのに。兄さんの目が翡翠に向いたのは、翡翠の責任ではないのに。本当に、私は駄目な女だ。
 努めて見ないようにしているけれど、兄さんはパッセンジャーシートでうな垂れているようだ。兄さんは兄さんで、私の思いに応えられなかったことを、ひどく悔いているのだろう。ふふ、兄さんには、いい薬です。本当に、鈍い人なんだから。
 やはり、みんなに迷惑を掛けるわけにはいかない。私が我儘であればあるほど、みんなが傷ついてしまう。それくらいなら、私が十字架を背負って生きる方がましだから。
 ともかくも、先方にお会いして、その場で無礼を詫び、お断りしよう。それが、一番波風の立たないやり方なのだ。
 そう、断ろうと思っていたのだ。その時は。

 お見合いの場所は、隣の県にある豪華な料亭だった。豪華なだけでなく、歴史と風格も備わっている。大物政治家や、外国からのVIPを迎えるときに、常用されているほどだ。私は、ここには馴染みがある。というのも、ここは遠野家の所有物で、一族での会合や、外からの客人を迎える際にも使われているからだ。まさか私が、ここでお見合いしようなどとは思ってもいなかったけれど。
 先方はまだ到着していない。それもそうだ。約束の時間まで、まだ三十分もある。私たちは、会食の場で迎えるよりは、庭で待つ方を選んだ。部屋で待っているなんて、やりきれない。
「お相手はどんな方なんですか?」と、七夜。やはり、それが気になるのだろう。
「知りません」
 私は、つんと答えてみせた。
「ごく普通のご両親を持つ、ごく普通の男性らしいです」
 朝方、おば様が持ってきた資料に、いちおう目を通しておいた。写真の男性は、まあ優しそうな人だった。兄さんと似ていた。だから兄さんとは気が合うのかもしれない。大学を中退したとか、パッとしない設計事務所に勤めているとか、実家から勘当されているらしいとかいったことも、どうでも良かった。どのみち断るのだから。ただ、ここまでご足労頂いたのだから、断るにしても言葉を選ばなければ。後日返事する、ということでもいいかもしれない。それと、なぜ兄さんが熱心に勧めるのか、その理由も見極めたかった。
 翡翠と七夜は、その資料を見ながら、あれこれと想像を巡らしているようだ。兄さんはというと、なぜか一言も口を挟まず、それでいて私の反応をうかがっているようだ。
「兄さんが探して下さったそうですね、お見合いのお相手」
 嫌味のフレーバーを混ぜて、兄さんに問うてみた。
「ああ。たまたま、俺の大学に、なんかの調査のためとかでやってきてね。一発で意気投合してしまって、それから付き合いが続いている。すごくいい人なんだよ。きっと秋葉だって気に入るさ」
「そうですか。兄さんの取って置きというわけですか。お気の毒さまでした」
 私が少しからかうように言うと、兄さんは少し気落ちしたような顔になった。それくらいじゃ許してあげませんよ。よりによって、お見合いの話を持ってくるなんて。私は許しませんからね。一生涯、兄さんに妹としてくっついていってあげるんですから。
 庭の木立の向こうから、誰かが近づいてくる気配があった。いや、やっぱりまずいよ、なんて声が。そんなこというな、先方に悪いし、こんなすげえ逆玉の輿なんてめったにありえないぜ、なんて声も。
 私たちが呆れながら見ていると、まず二人の男性が角を曲がってきた。一人は少しいかつい男性で、もう一人は眼鏡をかけた、あの写真の男性だった。後ろに、ほやっとした、育ちの良さそうな女性、そして凛とした眼差しが印象的な女性が続く。
 前を並んで歩いていた二人の男性は、私たちが視界に入るなり、あっという顔になった。まさか、角のすぐ向こうに、その『逆玉の輿』がいるとは思わなかったのだろう。
「あー、こ、これは失礼」
 いかつい方の男性が、頭を下げた。
「黒桐さまですね?」
 先方がなにやら弁解するより早く、七夜がにこやかに声を掛けた。
「お待ち申し上げておりました。こちらが遠野秋葉様です」
「あっ、あっ、こりゃどうも。その、こいつ、この人が黒桐幹也と申しまして」
 なにやら珍妙なやり取りが続いているようだが、私の耳にはほとんど入らなかった。私は、黒桐幹也さんから目を離せなかったのだ。
 写真で見た通りだった。なんとなく兄さんに似て、優しそうな目をしている。身なりは黒ずくめ。ちょっと異様だったが、その人にはとても似合っていた。でもそれだけのこと。取り立てて目を引く方ではない。容姿は少し可愛い感じというところだろうか。だというのに、私は幹也さんから目を離せなかった。惹きつけられるように、その目を見つめてしまう。幹也さんは、やはり私に目を向け、離さない。時折、うろたえたように視線が離れるが、すぐに戻ってくるのだ。その頬に赤みが差しているのに気づいた。もしかして、私の頬が熱っぽいのも、やはり赤くなっているから? ポーカーフェースをなんとか保っているけれど、それがどんどん難しくなる。思わず表情が崩れそう。そんな、私がうろたえているなんて。兄さん以外の殿方になど、いくら見つめられても、なんにも感じないはずなのに。
「秋葉様、ご挨拶ですよ」
 その時、七夜が私の背中を叩いて、注意を促してくれた。危ないところだった。私は我に返ると、思わず頬に手をやり、それから慌てて表情を作り、腰を折った。
「遠野秋葉です」
「黒桐幹也です」
 先方も、我に返った様子で、深々とお辞儀をくれた。
 私は顔をあげると、それぞれに自己紹介をするその他大勢にそれとなく注意を向けながらも、幹也さんから目を離すことが出来なかった。

 みんな揃っての会食。和食主体の、それも贅を尽くしたものだ。幹也さんの付き添いで来た男性――秋巳大輔という御親戚らしい――が、いちいち唸り、感激するのが楽しい。幹也さんの隣の女性は、妹という鮮花さん、最後のほやっとした女性は、兄妹共通の御友人で浅上藤乃さんとおっしゃるらしい。もしかしたら、浅上のおじ様のご親族かしら? 鮮花さんはきつい感じの女性だが、なぜか馬が合いそうな予感があった。
「いや、驚きました。写真で拝見して大変お美しい方とは思っておりましたが、実物はそれ以上、いや写真とは比べ物にならないくらいでいらっしゃる。写真などといいますが、真実の半分も写してないのですなあ」
 そう話したのは、秋巳さんの方だった。決してお世辞というわけでもないようだ。でも、私にはどうでもいいこと。だというのに、私は思わず幹也さんに目をやって、その反応をうかがってしまった。幹也さんは、わが意を得たりという風に大きくうなずいた。
「本当に。驚きました。息が止まるくらいの美女っているんだなあって……」
 そこで、幹也さんは、自分の言葉に驚いたように、声を詰まらせた。見る見る顔が赤くなる。
「すいません、僕、なにを口走ってるんだろう」
「いいえ、うれしいです」
 私が、思わず答えると、幹也さんはますます顔を赤くしてしまった。たぶん、私も。
 そんな私を、兄さんが、してやってりという顔で見ているのが、少し気に触ったけれど。

 食後は、庭を幹也さんと二人で歩いた。正確には、みんなで庭に出たところで、他の全員に置いてきぼりにされてしまったのだけれど。
「きれいな庭ですね。僕はこういう知識は無いけれど、よほど由緒あるものなんでしょうね」
 庭の小道を歩きながら、幹也さんは庭中を感心したように見回している。こういう場所にはあまりいらっしゃらないのかしら。私は、世間一般でも、一族の行事があれば、こういうところに集まるものだと思っていたのだけれど。
「まあそうですね。たまに会食してたけど、こんな立派な場所でなんて無いですよ。そもそも一族が集まるなんて、滅多に無いし。そんな大した一族でもないし」
 私の疑問に、幹也さんはそう答えた。遠野一族の結束ぶりは、あまり例が無いものなのかもしれない。
 確か、と、以前に斗波から聞いた事を思い出した。
「へえ、江戸時代に出来た庭なんですか」
 私が庭の謂れを話すと、幹也さんはますます感心した顔になった。
「その頃に、一族で商家を営んでいた者が、金に飽かせて作ったものだと……」
「すごいな。遠野さんの御一族って、その頃からこんなに裕福でいらしたんですか」
 幹也さんは、なぜかため息をついた。なぜか、わが身と引き比べて、という言葉を思い浮かべた。
「確かにそうですけど、私が稼いだわけではないし、私が歴史を築いたわけでもないし。別に誰が偉いというわけでもないんですよ」
 私が取り成すようにいうと、幹也さんはなぜかますます落ち込んだ様子だった。
「はあ、本当に自然体でいらっしゃるんですね。遠野さんみたいに綺麗で裕福な方が、僕みたいな凡人と釣り合うわけ無いですよね」
 幹也さんが独り言のように漏らした言葉が、私を慌てさせた。
「い、いえ、そんな。お見合いって言っても結局は二人の問題ですから。そんな、家のことなんて考えなくても」
「あ、うん、そうですね。ごめんなさい。でも正直、遠野さんには圧倒されっぱなしで……。僕なんかと釣り合うんだろうかって」
「そんなことありません。お会いできて、すごく楽しかったです」
 そういいながら、私はいつの間にか幹也さんの手を取って詰め寄っていた。
「あらっ、ごめんなさい」
「い、いえ、いいんです。遠野さんの手って柔らかいなあって――ああっ、僕はなにを口走って……」
 真剣な表情になったり、頭を抱えたり、ころころと表情を変える幹也さんを、私は微笑ましく思うようになっていた。

 結局、返答は後日、ということになった。
「またお会いできる日を楽しみにしています」
 別れる時、私がそう挨拶すると、幹也さんは少し赤らんだ顔のまま、「こちらこそ」と答えてくれた。いってしまって気づいたのだけど、これはまるで、話をお受けするようなものだった。
「どうだい、いい人だったろう」
 帰りの車の中で、兄さんは悪戯っぽくいった。
「そうですね。素敵な方だと思います」
 兄さんの思惑に乗った形なのが悔しいけれど、幹也さんが魅力的な男性であることは間違いない。でもなぜ、私は幹也さんにあれほどまでに惹かれてしまったのだろう。きっと、他の女性からすれば、なんということもない人だろうに。
「素敵な方ですね。兄さんとは違う意味で、誠実な方だと思いました」
 一つ思いついて、私はそう付け加えた。
「俺と違う意味でって?」と、兄さん。
「それは秘密です」
 私がはぐらかす様に答えると、兄さんはなんともいえない顔になった。とはいえ、実は私にも答えにくい問いだった。
 こう答えるべきだったろうか。幹也さんは死に向き合っても、死など目にも留めないで誠実で居られる人だ。一方、兄さんは、死を見つめながらも誠実で居られる人だろう。意識しない者とする者。二人の違いは、きっとそこにある。そんな奇妙な確信があった。

 私がまずやったことは、斗波に幹也さんの身辺を調査するように命じることだった。そう命じたのは、単に幹也さんのことをもっと知りたいからだった。が、斗波は私の見合いのことをとっくに知っていたのだろう。翌日には、調査資料を携えて、直接私の下にやってきた。
「黒桐幹也氏自身には、取り立てて危険な部分は見当たりませんな。強いて申せば、異常に調査能力に優れることでしょうかな」
 私に資料を見せながら、斗波はまずそういった。
「自身には、ということは?」
「はい、近辺に要注意人物が密集しております。まず友人の両儀式と申す女性は、直死の魔眼の持ち主です」
「なんですって」
 絶句した。それは兄さんが、兄さんだけが持っているものだと思い込んでいたから。
「非常に稀ではありますが、歴史上何度も発現してきた能力です。同じ時に二人居合わせても不思議ではありませんな。とは申しても、大変稀なことではありますな」
 私は唸った。兄さんの周囲には、私を初めとして超常的な能力の持ち主が多い。もしかしたら幹也さんもそういう環境にいるのだろうか。
 私の疑念を、斗波は果たして首肯した。
「密集していると申しましたな。他にも、幹也氏の妹君は、駆け出しとはいえ魔術師として錬成中の身。浅上藤乃と申す兄妹共通のご友人は、あらゆる物をねじ切る超能力の持ち主。浅神、両儀と申せば、退魔の巨頭でございますぞ。またこれらの方々が集まる事務所のオーナーは、当代一流の魔術師。簡単に申し上げれば、その事務所で常人の身は、幹也氏ただ一人と申し上げてもいいでしょうな」
 絶句した。まさか、そんな相手だったなんて。
 でも、幹也さん自身はふつうの人なのか。私は斗波の資料にじっと目を注いだ。思わぬ結果が出たなと、少し戸惑ってもいた。
「まあ、それらのことは、知っておればそれまでのことでしょうな。しかし、もう一つ、気になることがありましてな」
「なんですの?」
 うかうかと乗せられているのを自覚しつつ、私は斗波の方に身を乗り出した。
「先ほどの両儀式女史が、黒桐幹也氏と男女の付き合いをしておるらしいということです。つまり、恋人同士らしいと」
 私の視界の中で、斗波がにやりと笑うのが見えた。斗波は、自分との婚約を破棄させた私に、ちょっとした仕返しをやってのけたという事だろう。だがそんなもの、まるで目に入らなかった。斗波の言葉を理解した時、私はこの身がカッと熱くなるのを感じたからだ。もちろん、怒りで。

 ずいぶん悩んだ末に、私は次に会う機会を作ることにした。やはり会いたい。ただし会って、問い質したいこともある。もしかしたら、これでお終いということもありうるけれど。
「しかし、秋葉がこんな乗り気になってくれるとはな」
 約束の日、つまりデートの日ということになるのだろうか。出かける前に七夜と身だしなみのチェックをしていた私に、兄さんが複雑そうな顔でいった。
「どうしました。それを望んだのは兄さんではありませんか」
 私が澄まして答えると、兄さんは「そうなんだけど……」と妙に元気なく答えた。
「ふふふ、花嫁の父って心境ですかねえ」
 七夜がからかうようにいうと、兄さんは目に見えてうろたえた。
「い、いやそんなことない。ただ、お嬢様育ちの秋葉が、どこまでも一般人な幹也さんと上手く行くかなって」
 まったくこの人は、一言多いんだから。私は振り向いて文句を言う前に、兄さんは翡翠の咎めるような目に射すくめられてしまったようだ。
「心配なのは確かですけど。秋葉様がその気でいらっしゃるのなら、黒桐様のリードに従っていればいいんです。きっと大丈夫ですよ」
 七夜は楽観的だった。まあ私も浅上の女子寮でそれなりに質素な暮らしに甘んじてきたのだから、幹也さんに無茶な要求をしたりするつもりは無い。その点は大丈夫だ。きっと。
「そうなんだけど、幹也さんはそこまで気の利いた人じゃないからな」と、兄さんはあくまでも不安そうだ。しかし、そんなことを、朴念仁の見本市みたいな兄さんがおっしゃいますか。
「それとなあ。その服装、考え直したほうがいいぞ」
「えっ、そうですか?」
「そうだよ。幹也さん、物凄いプレッシャーを感じると思う。サテンのドレスなんて、あんまりにお嬢様っぽくて、どこに連れて行けばいいのかわかんなくなるよ」
 そうなんだろうか。これは一族の内々の催事に着て行くくらいのもので、私の手持ちのものでは決して上等なものではないのだけれど。
 結局、みんなであれこれ考えてみて、これが穏当らしいと選んだのは、普段着の一つ、赤いワンピースだった。兄さんは、「これもどうかなあ」と悩んでいるようだが、翡翠も七夜もこれが可愛いといってくれた。
 小さなバッグだけ持って、待ち合わせの場所に向かった。七夜が着いてきたがったけれど、それは断った。デートの場所まで付き添いなんて、それこそ幹也さんには凄い圧力になるだろう。
 待ち合わせの場所は、公園の時計塔の前。十分前に着くと、既に幹也さんは待っていた。相変わらずの黒ずくめ。でもこの人には妙に似合っている。
「こんにちは。今日はよろしくお願いします」
 私が、まずは当たり障りの無いと思える挨拶をすると、なぜか幹也さんはひどく緊張したようだった。
「こ、こちらこそ、よろしく」
 幹也さんは、きちんと腰を折った挨拶をくれた。しゃちほこ張ったという言葉がぴったり来そう。よけいに緊張させてしまったかしら。
 私は、幹也さんの間近に立つと、いったいどこに連れて行ってくれるのかなと思いながら、その顔を見つめた。私の凝視に、幹也さんはますます緊張してしまったようだ。その顔に浮かぶのは、もはや恐慌というのがぴったりの表情だった。思わず、吹き出してしまう。
「黒桐さん、そんなに緊張しなくても結構です。私、取って食ったりはしませんから」
 私が少しからかうようにいうと、幹也さんはようやく笑みを浮かべてくれた。
「ははは、そうですね。なんだか身分の差を感じてしまって。でも、せっかく付き合っていただいたんだから、今日は退屈させないように頑張りますよ」
 少しおどけながら、そういってみせてくれた。基本的に、明るい人のようだ。

 最初に連れて行ってくれたのは、なぜだか楽器店だった。不思議に思っていると、「いや、僕が楽器欲しくて」などという。基本的に、マイペースな人のようだ。
「遠野さんは音楽とかやられるのですか?」
 フォークギターを爪弾きながら話す幹也さんは、なんとも楽しそうだ。さっきまでの緊張振りはどこに行ったのやら。
「習い事でバイオリンを。それと、好きでピアノと、フルートも」
「そうですか。遠野さんが演奏されている姿、凄くきれいなんだろうなあ」
「お望みならば、ご覧に入れてさしあげますわ」
 いずれもお嬢様らしい趣味として、お父様から半ば押し付けられてきたものだ。けれど、演奏すること自体は嫌いではなかった。
「じゃあ、ピアノとかお持ちなんですね」
「ええ。インペリアルという大きなものを。大きすぎて邪魔になるんですけれど」
 少しおどけていって見せたのに、幹也さんはなぜか青ざめてしまった。
「それって、確か、ベーゼンドルファーってのじゃ……」
「はい、そうですよ」
 お父様が程度のいい中古品を買ってきたものだ。一千万円ほどもして、部屋もエアコンで一定のコンディションに保たなければならないなど、手間が掛かって仕方ないものだった。ただ、弾くとえもいえぬ深みのある音色で、学校の音楽室にあるスタインウェイとは、また一味違った弾き味があって好きだった。
「そうですか。あんなお化けピアノまでお持ちなんですか」と、幹也さんはますます青ざめてしまう。さすがの私も、もはやどうフォローすればいいのか分からなくなってしまった。

 もっとも、金管楽器のコーナーを歩いたり、電子楽器のコーナーで弾いて見せたりしてくれるうちに、また幹也さんの機嫌は良くなってきた。いろいろカルチャーショックはあるけれど、基本的には回復の早い人のようだ。
 結局、幹也さんはギターの弦を買って、店を出た。
「いやあ、手元のギターの弦、ずいぶん張り替えてなかったんで。そろそろ替えなければと思ってたんですよ」
 連れてこられた瀟洒な喫茶店で、幹也さんは機嫌よく話している。私は、どうやら裏工作がうまく行ったらしいと確信できた。
 事前に幹也さんの周辺を調査させた結果、一番驚いたのは――両儀式のこともあるけれど――幹也さんの貧しさだった。実家に勘当同然の状況で、その援助は期待できないのだが、本来なら職の給料で食べてゆけるはずだ。ところが、幹也さんの勤める事務所は、その所長が信じられないほどの放蕩で、事務所の金を使い込んでしまうらしい。おかげで幹也さんは、本来得られるはずの給料がろくに支払われていないというのだ。まあ、魔術師というのは、だいたいそういった人格破綻者ばかりでございますよ――とは斗波の言葉だ。
 しかし、食費にすら事欠く人に、デートの費用を負担させるわけには行かない。とはいえ、私がいちいち支払って見せるのも、幹也さんからすれば惨めな気持ちになるだろう。そこで一計を案じた。かの所長に、私の持ち家の一つの改装作業を発注したのだ。その際、幹也さんに給料が渡らなかったらこれっきりです、とはっきり告げたのだ。使いの者によれば、その所長は苦笑いしながらも同意したらしい。この計が功を奏し、幹也さんの懐は無事潤ったというわけだ。
「それにしても、所長に圧力をかけて僕の給料を出させるなんて、考えましたね」
 幹也さんが何気なく口にした言葉に、私は思わずカップを取り落としそうになった。
「――お気づきだったんですか」
 仕方なく、私は幹也さんに同意して見せた。
「ええ。その、悪く取らないでください。遠野さん、僕が傷つかないように、良く考えてくれたんだなって、純粋に嬉しかったんですよ」
 そう口にしつつ私を見る目は、あまり嬉しそうではなかった。
「でもその、やっぱり気を回しすぎじゃないかな。僕だって、無いなら無いで頭を絞って考えますよ。お金が無くても、遠野さんが喜んでくれそうなところを探してね」
「ごめんなさい」
 私は、素直に頭を下げた。
「いえ、謝る必要は無いです。本当に嬉しかったんだから」
 幹也さんは、慌てて打ち消してみせた。
「ただ、デートってのは僕たち二人の共同の事業でしょう。それなのに遠野さんばかりがあんな負担を、しかも僕に黙ってやってしまうのは、僕にすれば後ろめたい面もある。だから、次からはあんなことは止めてくださいね。仕事をもらえるのは嬉しいけど、正直なところ、あの所長に金を渡すのは、ざるに水を注ぐようなものだから」
「はい、すいませんでした」
 私は素直に反省した。やはり、今回のことは、気を回しすぎだったか。
「本当に嬉しかったんですよ。今月の給料が無事に出たのは。だから、今日は僕におごらせてくださいね」
 にこにこしながら、幹也さんはいう。どうも、その点が嬉しいのは間違いないようだ。
「そうですね。では、次回は私に支払わせてください」
「それはダメです。デートで女の子に奢らせるなんて、男のプライドが許さないから」
「あら、デートは二人の共同事業ではなかったのかしら?」
 お互いに軽口を叩きあいながら、いつの間にか楽しい時間は過ぎていった。

「秋葉様、今日は何時に戻られますか?」
 何度目かのデートの日だった。今日は夕暮れ時のデートになる。
「そうね。今日は遅くなると思うわ。もしかしたら、外で泊まって帰るかも」
 何気なく口にした言葉に、七夜は驚いた顔になった。しかし、それ以上に驚いたのが、口にした当人、すなわち私だった。
「い、いえ、そういう意味じゃなくて――」
「まーあ、秋葉様ったら。黒桐様とそこまで発展されてらしたんですね」
 慌てて弁解しかかる私に、嬉し恥ずかしといった風で、七夜は私をはやし立てる。
「も、もう、そういう意味じゃないの。行ってきます!」
 恥ずかしくなってきて、私は七夜の声援を背に、慌てて屋敷を出た。
「秋葉様、いってらっしゃいませ」
 兄さんを出迎えるつもりだったのだろう。ちょうど玄関前に立っていた翡翠が、私に気づいて見送ってくれた。ということは、兄さんの帰宅も近いということなのだろう。私は少し急ぎ足で門を出た。兄さんに、デートに向かう私の姿を見せるのは、兄さんの思惑にはまっているようで面白くない。だというのに、私が坂道を下り始めた途端、登ってきた兄さんとばったり会ってしまったのだった。
「秋葉、あれ、デート?」
 そう。今日のデートは、兄さんには黙っていたのだった。なにか、面白くなくて。
「そ、そうですよ」
 それがなにか、と睨み返すと、兄さんはにやっと笑った。
「いや、予想以上に幹也さんのことを気に入ってくれたみたいで、お兄さんは本当に嬉しいよ」
「も、もう。もう兄さんには関係ないことです!」
 思わず怒鳴り散らすと、兄さんはわずかに傷ついた顔になった。なんだか、私をきっぱりと振ってみせたくせに、いざ私が男性と付き合う段になると、どうにも複雑な感情を抱くものらしい。七夜は、それを指して『花嫁の父』といったわけだ。
「それで、幹也さんとはうまく行きそう?」
 気を取り直して、兄さんはそう聞いてきた。それくらい、私の顔を見て察せられないものなのかしら。
「そうですね。こんなにお会いするのが楽しみな男性は初めてです。でも、一つ、引っかかるものがあって」
「ん、それはなに?」
「今日は、それを確かめるためにお会いするんです。じゃあ兄さん、行ってきます」
 私はわざと答えをはぐらかすと、兄さんに一礼して、坂を下り始めた。後ろで、兄さんが苦笑しながら、私を見送ってくれているようだ。

 デートも回を重ねると、定番のコースというものが出来るものだ。私たちの場合、近郊の美術館巡りというものだった。私は、美しいものを見るには時間の経過を感じない性質だし、幹也さんも退屈はしないらしい。なにより、二人であれこれ話しながら歩き回る時間は、とても楽しいものだった。
 幹也さんの『僕だって、無いなら無いで頭を絞って考えますよ』という言葉に嘘は無かったようだ。あれから、幹也さんは、お金が無いなら無いなりに、私が楽しめるコースを考えてくれたようだ。およそデートスポットには似つかわしくない、図書館まで含まれている辺りなど。結局、幹也さんがお金の代わりに費やしてくれたのは、彼の時間と、彼自身だった。図書館でお互いに好きな本について話したり、楽器店でギターに関して――これは相当の腕前だった――熱く語ってくれたり。そうやって、幹也さんは、私に等身大の黒桐幹也をさらけ出してくれたのだ。幹也さんの誠実さを感じられて、小さなエピソードに触れるたび、私は嬉しくなってしまった。
 でも、そう、だからこそ、あの一点だけが引っかかっている。誠実な幹也さんの、不誠実な隠し事。いや、いつかは幹也さん自身が明かしてくれるのかもしれない。だけど、だからこそ一刻も早く明らかにしたいのだ。こんな不安を抱え続けているのは、私には不可能だ。なにより、それは今度は幹也さんに対して誠実な態度とはいえない。
 夕食をホテルのレストランで取って、最上階の展望ラウンジで一息入れる。このまま別れて帰ってもいい。でも決断さえつけば、このまま幹也さんとホテルで――
 夜景を見ながら、あの辺にうちの事務所がとか、あそこ再開発計画が頓挫して、などといったことを話していた。周囲には誰もいない。修羅場になっても、まず大丈夫だろう。
「黒桐さん、一つ、お訊ねしてよろしいでしょうか」と、私は切り出した。
「はい、なんですか?」
「あの、お気を悪くしないでくださいね」
 私がそう前置きすると、幹也さんはまじめな顔になった。
「両儀式さんのことなんですけど」
 幹也さんは、うっ、という顔になった。明らかに、突かれるのは嫌そうな顔だ。だが、私は構わず続けた。
「私も大きな一族を率いていますから、お付き合いする男性に関して、出来るだけ把握しておかなければならないと思いました。それで、黒桐さんの交友関係を洗ったところ――」
「僕と式の関係に気づいた、というわけですか」
 堅い表情で、幹也さんはいった。やはり、身辺調査までされるのは、不快だろう。
「はい。男女の関係にある、と報告されました」
 私は、幹也さんの顔を、じっと見上げた。
「なのに、なぜ私とお付き合いする気になられました? 黒桐さんの誠意を疑うわけではありません。でも、だからこそ不可解なんです」
 いってしまった。ここまでいってしまえば、もう後戻りは出来ない。もしかしたら、幹也さんとはこれっきりということになるかもしれない。
「そうですね――」
 幹也さんは、しばし考えていたが、やがて口を開いた。
「それは、あなたをどうにも放っておけなくって」
「それはどういう意味ですか?」
 幹也さんの口調に、ますます不可解なものを感じ取って、私はますます語気を強めた。
「鮮花のことをご存じですか?」
 不意に、思いもよらなかった名前を出されて、私は混乱した。
「鮮花さん? 黒桐さんの妹さんですね」
「ええ。実は、あの子は、僕を男として見ているんです」
 私は、ぽかんと幹也さんを見た。それがどうしたというのだろう。
「ええ、文字通り、異性として見ているんです。あなたが、志貴くんをそう見ているように」
「な、な、な」
 驚愕のあまり、私は叫び出しそうになった。そんな私を見る幹也さんの目は、今までにもなかったくらい、優しそうだった。
「僕も遠野さんの事を調べさせてもらったんです。いや、それ以前から、志貴くんの口ぶりから、もしかしたらそうじゃないかと思ってましたけど。それで、あなたが志貴くんを男性として愛しているという事実に、僕は、その、複雑な気持ちになったんです」
 幹也さんは、ラウンジから見える夜景に、再び目を投げた。
「実を言えば、順番が逆だったんです。あなたが志貴くんを異性として愛していることが分かってから、僕を見る鮮花の目の意味に気づいたんです」
「そうですか。黒桐さんも、罪な人なんですね」
 少し意地悪く言うと、幹也さんは少しかげりのある笑みで答えてくれた。
「本当に。特に鮮花には悪いことをしていると思います。僕は、どうしても、あいつの想いに応えてやることだけは出来ない。僕とあいつは、あなたと志貴くんと違って、本当の兄妹ですからね」
 そうか、幹也さんは、そんなところにまで調査の手を入れていたのか。
「でも、私と兄さんだって、兄弟には違いないんですよ」
 私の声は、ついつい高くなる。
「たったそれだけのことなのに、あの人は私を女として見てくれない。そんな私や鮮花さんの気持ちが、あなたには分かるというのですか」
「分かる、と思う。今は」
 幹也さんは、私をじっと見つめた。
「僕には、鮮花の想いに応えてやれなかったという負い目がある。だから今は、遠野さんの気持ちも、志貴くんの気持ちも分かっていると思う」
 私は幹也さんから目を逸らすと、夜景に目をやった。幹也さんは、兄さんが私に対して感じているような負い目を、痛みを、知っているのだ。
「でも、両儀さんのことは――」
「そうですね。式はこの事とは無関係だ。だから、お見合いして、遠野さんとお付き合いしようかどうか迷っているときに、式に訊いたんです。反対かって」
 幹也さんの目は、遠いところを見つめている。
「式はこういったんです。『わたしは幹也を信じている。だから、幹也のやりたいようにやればいい』って」
 幹也さんは、寂しそうな顔になった。
「それで、僕はその時、式が分からなくなってしまった。てっきり、物凄い剣幕で反対されるものだとばかり思っていたのに」
「黒桐さん、それは文字通り、幹也さんが自分を選んでくれると確信されているからですよ」と、私は解説してあげたのだが。
「いや、違う」と、幹也さんは即答した。
「式の考えは違う。式が、僕の知っている式なら、もっとストレートに反対するか、口では承知しながらも顔だけで反対するか、どちらかです。でも、あの時の式は、本当に僕が見合いすることに賛成する顔だった」
 幹也さんは、私をまっすぐに見た。
「だからね、後で思ったんですよ。僕と式の関係は、そんな男女の関係だけでつながるようなものじゃない、って。僕らは、本当に命のやり取りでつながっている。式にすれば、僕は男であるというより、そういう価値の方が高いんだって」
「でも、愛し合ってらしたのでしょう?」
「ええ。でも、式の僕に対しての思いは、そんな枠に収まるようなものじゃなかったんです。式は、きっと僕を縛り付けたくないんだ。恋愛は、他の女として欲しいんだって、本気でそう思ってるんだ」
 私は絶句した。そんなことが、愛し合っていると確信している男性に見合いしろと勧めるような女性が、本当に居るのだろうか。
 でも、と、私は思い返した。私は、兄さんを男としか見てなかった。兄さんに女として愛してもらえないと分かった時、これで全てが終わったと思った。兄さんという存在を失ってしまったと思った。でも、たとえ翡翠を女として選び、愛していても、兄さんは私を妹として愛してくれている。その手の及ぶ限り、兄さんは私を愛してくれているのだ。男と女。それは確かに大きな要素だ。でも、それ以上に、肉親として、そして一人の人として愛するということがあるのではないか。
 私たちは、しばし沈黙を続けた。私は、蒙を啓かれた思いだった。自分の兄さんを見る目が、いかに狭量なものだったか。そして、そんな私を愛し続けてくれた、兄さんの愛の大きさも。同じように、幹也さんと両儀式の関係も、恋愛感情だけで理解することは出来ないものなのだろう。それは、二人にとって、ほんの小さな部分に過ぎないのだから。
「そうですか。私さんと黒桐さんは、どこか似ているところがあると思っていました」
「同じように、最愛の人を手に入れられなかったというわけですね」
「そうです、ここまでは」
 私は、黒桐さんから一歩身を退けた。
「でも、ここまでです、黒桐さん。ここでお別れすれば、あなたはきっと両儀さんを手に入れることが出来ます。だから、私とはここでお別れするべきです」
 さよなら、と言おうとした。幹也さんにはずっと心惹かれて来た。今の話をうかがって、ますます惹かれてしまった。もしかしたら、兄さん以外の男性で、私が生涯を共に出来そうな方は、この人だけなのではないかと思うくらい。でも、幹也さん、そしてお相手の両儀さんに、私と同じ思いをさせるわけには行かなかった。
 なのに、その時、幹也さんの手が、私の背中に回されたのだった。そんなに大きな人でもない。肩幅だって、兄さんの方が広いかも。だというのに、その手は、胸は、温かかった。私が蕩けて行くほどに。たった今の決心が砕けて行くくらいに。そして、幹也さんの決意が伝わってくるくらいに。
「僕は、式の声に従おうと思います」
 幹也さんは、私を抱きしめたまま、そうささやいた。
「式が僕を縛り付けているのと同じように、僕も式を縛り付けている。あの式に、凡人の僕が男として寄り添うことで、どれほど危険な目に遭わせてきたか――そんな過去と決別するつもりです。秋葉さん、あなたを選んでね」
「――」
 無言で抱き返し、この身を預けた。抱き返す手には、幹也さんの決意が込められていた。
「いいんですね、幹也さん」
「いいんだよ、秋葉さん」
 問う者と問われる者が普通と逆だけれど、どうでもいいこと。私たちは、それぞれのしがらみに、ある程度の別れを告げる決意をしたのだ。
 背伸びして、幹也さんと口づけをかわした。私が殿方と交わす、最初の口づけ。それはずっと兄さんがくれるんだと信じていたもの。でも、ほんの少し前まで、思いもよらなかった人が、私に最初の口づけをくれた。そして、きっと私の純潔も。
 幹也さんに肩を抱かれ、ホテルの方に歩いて行く。なにか夢を見ている気分だった。半分は悪夢、そして残りは紛れもない夢。そんな私たちの耳に、教会の鐘の音が聞こえている。祝福するように、そして弔うように――

<続く>

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