La Campanella 〜鐘〜

1.投資と回収と

 遠く、街の方から鐘の音が聞こえてくる。町の教会で、夕暮れ時の礼拝が始まっているのだろう。殷々と、鐘の音が聞こえてくる。
 私は、裏庭をゆっくりと進み、一際草深い森の中へと歩み入った。夏は過ぎ、秋も深い。森は秋色に染まり、楓は艶やかな赤を誇る。
 赤は私の色。そう兄さんはいった。秋葉には秋の色が似合っている。そういってくれた。そうかもしれない。秋は豊穣の季節だ。豊かな資産家の家に生まれた私には、あるいは相応しい色かもしれない。
 でも赤は滅びの色でもある。豊穣の秋は、滅びの秋でもあるのだから。兄さんは、あるいは私から、滅びの匂いを嗅ぎ取ったのかもしれない。私の身は、いつだって滅びへの坂を転がって行きかねない、そういう脆さを秘めていた。兄さんは、私のそういう部分が心配なのかもしれない。それはきっと、兄さんも滅びを抱えた人だから。
 冷たい風が心地よい。薄着のまま出てきてしまっていたが、私は構わず風に身を晒していた。いっそのこと、この身が冷えきって、この景色の中に消えてしまえばいいと思った。
 どれくらい立っていただろうか。ふと、肩に何かがふわりと掛けられた。手をやると、毛糸の暖かな感触。振り向くと、七夜が立っていた。
「七夜」
「秋葉様、そろそろお屋敷に戻られた方が」
 七夜は、少し心配そうな顔をしている。きっと、私が体を冷やすのが心配なのだろう。そこには、かつて琥珀だった頃にいつだって抱いていた打算もなにも無くて、ただ人が人にそうするような、純粋な心遣いだけがあった。
「そうね。そろそろ兄さんも帰ってきたでしょうし」
「はい。志貴さんは、ついさっき。秋葉様がどこに行かれたのか、心配そうでしたよ」
「そう。兄さんったら、私には心配掛けてばかりなのに、ご自分はそんなことをおっしゃるのね」
 私は、軽く応えてみせた。遠野秋葉がそうするのにふさわしい応えを。
「じゃあ、戻りましょう」
 私は、七夜が掛けてくれたカーディガンを羽織りなおすと、灯りの点り始めた屋敷へと戻っていった。

 琥珀が七夜になって、かれこれ一年が経とうとしていた。
「時間の過ぎるのは早いな」
 兄さんがそんな感想を漏らしたのは、夕食後のお茶会の席でだった。
「本当でございますね。あの事件から、もう一年が経ってしまったなんて」
 兄さんの後ろで、翡翠もまたそういった。翡翠はあの事件を機に、兄さんと恋仲になっている。だから、お茶会の時くらいは一緒に座ればいいのに。だけど、翡翠にしてみれば、自分はあくまでも遠野家の使用人、というつもりらしい。本当に、こういう頑なさは、いかにも翡翠らしい。でも、今ではそれも快いとすら思える。
「そうですねー。私は逆に、ずいぶん長く感じましたねえ」
 そう言ったのは、私の後ろにやはり使用人然と控えている、七夜だった。翡翠がこうだから、七夜も使用人としてのスタンスを崩しそうに無い。朴訥な七夜にしてみれば、翡翠を置いてお茶会に加わるわけにはいかないということらしい。兄さんの努力にもかかわらず、遠野家軟弱化計画は頓挫の見通しだ。
「そうか。七夜さんは、あの時に生まれたようなものだもんな」と、兄さん。
「はい。あれからは毎日を過ごすのに一生懸命で……。翡翠ちゃんと秋葉様、志貴さんが助けてくださったから、なんとかここまで来れたようなものです」
 あの時、お父様の虐待の果てに自分というものを失ってしまった琥珀は、四季――お兄様を街に放ち、数多くの命を奪うという罪を犯してしまった。私すら死地に追いやろうとした琥珀は、最後には服毒自殺を図った。きっと、彼女なりに人生を清算しようとしたのだろう。兄さんのおかげで一命を取り留めたものの、<琥珀>を形作っていた記憶は、永久に失われてしまったのだ。残ったのは、罪も、悪意も無くした、七夜という存在だけ。
 かわいそうな琥珀。せめて、私がもっと助けてあげられたなら、そこまで追い込まれることもなかったろう。罪を犯すことも無かったかもしれない。でも、お兄様を牢から放った時、琥珀はもう二度と戻れない、地獄への坂道を転がり始めたのだった。せめて、あの子の魂に安らぎあれ。
 でも、今は七夜が居てくれる。琥珀という存在が消えたおかげで、七夜は罪を背負わないで、再出発することが出来た。それが不幸中の幸いだった。その代わり、なにもかも失って、真っ白になってしまった彼女に、元の琥珀が身に着けていた技術を教え込むのは大変だった。特に、琥珀が一手に担ってきた、料理に関しては。最初は箸にも棒にも掛からなかった。正直、私が料理した方がいいんじゃないかと思うくらい。でも、七夜は必死に精進してくれたし、私たちも辛抱強く励まし続けた。おかげで、今ではかつてと変わらないくらい、料理の腕は上達していた。しかし、掃除が出来ないのは相変わらずだけど。
 七夜がここまで来られたのは、とりわけ翡翠の献身がものを言っている。翡翠自身は料理の才に恵まれなかったが、七夜と一緒に台所に立ち、共に参考書を読みながら、励まし続けたのだ。翡翠の料理の腕に、なんの変化も無かったのは不思議だけれど。
「今のわたしがあるのは、皆さんが励まし続けてくださったからですよ。志貴さんはわたしのダメな料理を文句も言わないで食べてくださったし、秋葉様はいつも至らない部分を指摘してくださいましたね。そして翡翠ちゃん、あなたが支えてくれたから、なんとかここまで来れたんですよ。本当に、わたしって幸せな――」
 話しているうちにこみ上げてきたのだろう。次第に声が濡れてきて、遂には声を詰まらせてしまったようだ。私は顔を上げると、兄さんの背後で居ても立ってもいられない様子の翡翠に、軽く目配せをした。それで察したのだろう。翡翠は一礼すると、早足に七夜に歩み寄った。私の背後で、翡翠が七夜を抱きしめたようだ。向かいに座る兄さんが、私にウィンクをくれた。
 本当に良かった。琥珀は消えて、でも残された七夜は罪を逃れることが出来た。翡翠は兄さんという伴侶を得た。あの事件が、こんな形で収まったのは、実に奇跡的といえた。
 でも、と、私はふと思った。でも、私はどうなんだろう。いったい、私にはなにが残されたのかしら。

 寝る前に、一人でワインを飲んだ。いつもなら七夜が側に控えて、私の相手をしてくれるのだけれど、今日は翡翠と一緒にいるのを許してあげた。今頃はきっと、七夜の部屋でささやかな“誕生会”をやっているだろう。七夜が“生まれた”日なのだからと、兄さんが提案したのだ。私は、七夜と毎日接しているのだから、今日くらいは逆にと思い、その席を早々に辞した。その代わり、明日はみんなを美味しいレストランに連れて行ってあげよう。
 おつまみを片付けて、酔い覚ましの冷たい水を飲み干す。まだ冷たいグラスを火照った頬に当て、夜の裏庭をじっと見つめた。風も無いようだ。私は興に乗って、うかうかと裏庭へと誘い出された。
 外に出る。やはり寒い。羽織ったカーディガンを首元まで引き上げると、月が良く私を見てくれるように、裏庭の真中に歩み出た。
 金色に輝く大きな月が、森の上に懸かっている。零れる月光が、森を黄金色に染めている。
 そういえば、と私は思い出した。幼い頃、兄さんとお兄様と私とで、こうして月を無心に見上げていたことを。翡翠は居たかしら。ちょっとお姉さんだった翡翠は、私たちの子供っぽい遊びに付き合ってくれないこともあった。本当に、あの頃の翡翠“おねえちゃん”はおませさんだった。思わず、笑みを零す。
 兄さんは、私が月をもの欲しそうに見ているのに気づくと、私を肩車してくれた。少しでも、あの月に近づけるように、と。それをお兄様が笑った。月までの距離に対して、そんなの気休めにもならない、と。でも兄さんは、それでも月を捕まえることが出来るんだ、といった。
 その時のことを思い出しながら、私は森の奥へと足を運んだ。森には、子供たちしか知らなかった秘密が隠されていた。
 緑の一際濃い一角を越え、じめじめしたくぼ地に足を踏み入れた。そこには、梅雨時と秋雨の続く時期にだけ現れる、小さな池があった。周囲の森に降った水が溜まり、くぼ地は一時だけ池と化す。秋も深いこの時期には小さくなっていたけれど、まだ消えては居なかった。
 池にかがみこむと、頭上にかかる月が、水面に浮かんでいた。あの時、兄さんはコップに池の水を汲むと、ほら秋葉にあげる、と持たせてくれた。小さなコップには、確かに月が捕まえられていた。私が、兄さんありがとう、というと、兄さんは頭を撫でてくれたっけ。
 そうして時が流れ、その場に居なかった翡翠が、ちゃんと月を捕まえたのだった。めでたしめでたし。
 でも――そうして私は、十年も思い続け、支え続けてきた月に逃げられたのだった。
 水面に映る月を見下ろしながら、私の心の中に、ふと漣が立った。

 翌日、約束どおりに、みんなをレストランに連れて行った。フレンチに関しては神様のようなオーナーシェフが、自ら腕を揮っている店だ。フレンチといえばここ、という程にテレビで繰り返し紹介されてきたせいか、予約リストはなんと来年夏まで埋まっているという。でも、実はお父様が最初の店の資金を半分援助した関係で、私の場合には急な予約でも入れてくれる。
「凄い、絶品です」
「まいった。無知な俺にも、他の店との差が分かりすぎるよ」
「これが本当のフレンチなのですね」
 七夜、兄さん、そして翡翠が、口々に褒め称える。別に私が偉いわけでもないのだけれど、鼻が高い。とうとう、シェフ自身が挨拶に出向いてきた。テレビで頻繁に見かけるらしい有名人を目にしたからだろう、七夜も翡翠も珍しく興奮気味だった。
「いや、美味しかった。なんていうか、俺とは別世界だったな。でも、秋葉はしょっちゅう来てるんだな」
 帰り道、そんなことを話しながら、みんなで歩いて帰った。なんとなく怨念を感じるような、兄さんの口調だった。
「そんなに頻繁ではありません。でも外来のお客様との会食は、ここでのことが多いですね」
「そうなのか。ああ、兄妹だってのに、この差はなんだ」
 兄さんはなにやら嘆いている。まあ、最近は夜遊びしないようだし、そろそろカードを作って差し上げようかしら。来年、兄さんは大学に進学する。そうなれば、交友関係も広がるし、なにかと物入りになるだろう。
 後ろでは、翡翠と七夜が、仲良く話しながら付いてくる。一時は翡翠が姉のようだったが、今では七夜がリードするように戻っている。やはり、翡翠とすれば、姉に甘えられるのが嬉しいのだろう。
 私も、と、兄さんに腕を絡めてみる。妹として、兄に甘えるのは当然だもの。
「そういえば、昔、秋葉をぶら下げて、池の月を見に行ったことがあったなあ」
「あら、憶えてらしたんですか?」
 昨夜の散歩のことを思い出して、私はちょっと驚いた。兄さんも憶えていたとは。
「ああ、なんか、この時期になると、コップの月のことを思い出してね」
「コップの月ですか?」
 背後から、翡翠が割り込んできた。
「申し訳ありません。つい、前から気になっていたもので」
「そういえば、翡翠はあの場に居なかったんだな」
 兄さんは、翡翠にコップの月の話をしてやった。
「そういうお話でしたか――」
 翡翠はようやく合点がいった風だった。
「なるほどー。それで秋葉様は、ちゃっかりお月様を捕まえているのですね?」
 七夜が少し冷やかすように言う。もちろん、兄さんと腕を絡めている点なのだろう。
「そうね」
 コップの月だけど、と私は心の中でつぶやいた。本物の月を捕まえたのは、あの場に居た私ではなくて、居なかった翡翠だった。でもそれは、仕方が無い。兄さんは、私を女としては見ていないのだから。
「そうだ」
 兄さんは、少し先の橋まで急ぎ足で歩み寄った。
「ほら、ごらんよ」
 嬉しそうに橋の下を指差す。兄さんと並んで立つと、静かな川面に浮かぶ、丸い月が目に入った。
「ほら、今度はみんなで見れたよな」
「うふふ、このお月様はみんなのものですね」
 あの時、外に出られなかった琥珀、いや七夜も、嬉しそうにいう。
 そう、兄さんは私たちみんなのもの。そして誰のものでもない。兄さんは一人の人間で、誰にも所有されたりはしないのだ。そう、月のように。コップの月は手に入っても、本当の月は知らぬ顔で浮かんでいるのだ。
 でも、男としての月を捕まえたのは翡翠。空振りしたのは私――
「秋葉様?」
 七夜が、いつの間にか横に来て、少し心配そうに見ている。ううん、なんでもない――目顔で答える。少し、沈んだ顔をしていたようだ。
 隣を見ると、兄さんと翡翠が並んで、月に見入っている。兄さんの手は、橋の欄干に置かれた翡翠の手に、そっと重ねられていた。そこにあるのは、ごくさりげない、恋人たちの情景。
 私は、兄さんと絡めあっていた手をそっと離すと、みんなに背を向けて、反対側の星空を見上げた。胸が、胸がざわめいていた。

 その夜、やはり眠れなかった。
 寝室には窓が無い。なんだか月を見たくなった私は、裏庭へと出た。
 月は東に傾いている。しかし、森の上に低く懸かる月は、相変わらず白々と輝いて見えた。
 はーっ、とわずかに白い息を吐きながら、裏庭の真ん中に足を進めた。ちょっとだけ寒い。まあ、風は無いから大丈夫だろう。
 目を頭上高くに投げると、星たちが月に負けず輝いていた。上空は風があるのだろう、美しく瞬いている。あんなに綺麗なのに、手が届かない。私がいくら願っても、想っても、星は私を決して想ってはくれない。いつも超然と輝いている。私が兄さんよりも欲しいものがあるとすれば、きっとあの星なのだろう。なぜならば、決して手が届かないと分かっているから。手に入れてしまって、兄さんへの想いを忘れてしまうことなんてないのだから。
 しばし、星に目を留める。そこに、私の想いを映して。
 なんでこうなってしまったんだろう。思い返すことは、そればかり。どうして兄さんの隣に居るのは私じゃないんだろう。なぜ翡翠でなければならなかったのだろう。いくら思い返しても分かった気になれない。兄さんを支えてきたのは私なのに、兄さんを十年も想い続けてきたのに、他には何も要らなかったのに、兄さんに八年をあげたのに、兄さんを手に入れたのは翡翠だった。翡翠が兄さんになにをしてくれたというの?
 でも本当は分かっている。それが男女の仲なのだって。ずっと連れ添ってきた、思ってきた家族よりも、昨日会った異性に惹かれ、選んでしまうのが、男女の仲というものなのだと。まして、翡翠は私と同じくらい、兄さんとの付き合いが古いのだ。兄さんが、私で無く、翡翠を選んでしまっても無理は無い。第一――
 兄さんは、私を女として見てくれていないから――
 自分でも聞こえるかどうかというくらいに、小さくつぶやいたときだった。
「秋葉」
 私は、飛び上がらんばかりにして振り向いた。
「えっ、兄さん?」
 芝生の上をゆっくり歩み寄ってくるのは、やはり兄さんだった。
「どうされたんですか?」
「どうしたって、おまえこそどうしたんだよ。こんな夜更けに、そんな薄着で出ちゃ、体壊すだろう?」
 心配そうに言い返す兄さんの顔には、ただ人が人にそうするような、純粋な気遣いがあった。
「私なんかより、ご自分の事を心配してください。兄さんは身体が弱いのだから」
 兄さんの気遣いが嬉しいのに、私はついつい口を尖らせて、責めるように言ってしまう。だって、私は本当に、兄さんの身体が心配だから。
「馬鹿」
 兄さんは、笑いながら近寄ってくると、羽織っていた上着を脱いで、私の肩に掛けてくれた。
「兄さん」
 ついつい、怒ってみせてしまう私。だというのに、兄さんは笑っている。
「いいからさ。こうして秋葉といれば、俺も暖かいんだから」
 そういって、兄さんは肩を抱いてくれた。
 どうして、どうしてこの人は、私がこんな気持ちでいるときに限って、こんなに優しくしてくれるのだろう。心が挫けそうになる。翡翠との仲を認めて、私は身を引こうと思っていたのに。
 しばらく、私たちは寄り添って、輝く秋の夜空を見上げていた。まるで恋人たちがそうするように。互いの温かさを感じながら。
 目を横にやると、きらきらと輝く星を無心に目で追う、兄さんの横顔が目に入った。
「ねえ、兄さん」
「ん、なんだい?」
 少しためらってから、こういった。
「どうして翡翠だったんですか」
「――」
 兄さんは、私をまじまじと見つめ、それから目を逸らした。
「どうしてって、翡翠は俺にあんなに尽くしてくれたし」
「そうですか。私が尽くしたことなんて、どうでも良かったのですね」
「秋葉は俺の妹じゃないか」
 兄さんは笑顔を作りながらいった。
 いつものように、危ういところでかわし合おうとしていた私たち。でも失敗した。私の声が真剣すぎたから。そして兄さんの笑顔が平板だったから。兄さんの笑顔が消えた。きっと、私の目が、真剣に過ぎたのだろう。
 つかの間、憂鬱そうな視線が絡み合った。
「あのさ、秋葉」
 兄さんが再び口を開いたのは、ずいぶん経ってからだった。
「おまえの気持ちはわからないでも無いけどさ、俺たちは兄妹だろ?」
「ええ、そうですね」
 今夜の私も素直じゃない。いいえ、今夜はいつも以上に素直じゃなかった。いつもなら、私たちはお互いの危うい一線を超えたりはしない。
「血は繋がってないにせよ、兄妹です」
「だから、さ」
「でも、私は兄さんを男性として愛しています。今でも」
 きっぱりと言い切った。だって、それは事実だから。私は、翡翠よりもなお、兄さんのことを愛している。ずっと思い続けている。これだけは誰にだって否定させない。これを否定されたら、私の十年が無意味になってしまう。
「秋葉――」
 兄さんは、また絶句している。
「どうしても愛してはくださらないのですか?」
 私は、とうとう兄さんの胸にすがりついた。その温かな胸に、大きな傷跡が走っているのを、私は知っている。それこそが、私と兄さんが一つになつながった証。私と兄さんが結び付いている証なのだ。
「私は、兄さんさえいれば他になにも要らないんです。兄さんさえ、兄さんさえ私を愛してくれたなら、この遠野の家だって捨てられるのに」
「秋葉、俺は――」
 とうとう、矢も盾もたまらずという風に、兄さんに荒々しく抱きしめられた。兄さんの匂いに包まれる。顔を上げる。私の目は、きっと濡れているだろう。
「翡翠が一番でもいいんです。私も、私も愛してください」
 兄さんの腕の中で、そう唆す。兄さんの喉仏が、ごくりと動いた。兄さんの顔がゆっくりと近づいてくる。この裏庭で、兄さんに抱かれてしまおう。私を女にするのは兄さんしか居ない。ずっと昔に、そう決めたのだから。そうして、少しずつ兄さんの心を占領して、取り戻してゆくのだ。
 その時。
「志貴様、秋葉様?」
 最悪のタイミングでやってきたのは、翡翠。暗闇の中で目を凝らしながら、私たちを探しに来たのだろう。
「えっ、翡翠」
「翡翠っ!」
 兄さんは、あたふたと離れてしまう。兄さんは翡翠のために、私の絶好の機会を潰してしまったのだ。
 翡翠を睨みつけた。いったい、なにがあったのか分からないのだろう。呆然としている。私の怒りのこもった視線に、翡翠は身を硬くしながら後ずさった。
「秋葉、やめろ」
 兄さんが、翡翠と私の間に立ちふさがった。翡翠を庇うために。
 兄さんと翡翠を睨みつける。兄さんは、私をにらみ返している。最愛の女を守るために。血のつながらない妹など敵に過ぎないとでもいうように。怒りに狂った頭の中で、黒い衝動が湧き上がる。
 奪え――
 誰かがそう命じている。黒い衝動が弾けそうになる。
 奪え。この手に出来ないのなら、奪ってしまえ。
 だって、兄さんの命も、その身も、みんな私のものなのだから。頭の中に、甲高い音が大きくなり、そして一瞬で弾けた。
 兄さんが、小さく声を上げた。自分の頬に手をやると、そこに生じた小さな火傷を撫でる。それは、私が兄さんから奪った痕跡。
 兄さんは、一瞬だけ呆然としていた。でも、ゆっくりと手を下げると、なにかを悟ったような顔になった。
「秋葉」
 兄さんは、表情を和らげると、なにか諦めたような顔になった。
「そうか、そうなんだな。わかったよ、秋葉がそうしたいというのなら、俺はいつだっておまえに、この命を――」
「志貴様、いけません、秋葉様!」
 翡翠が、身を捨てて、割り込んできた。
「お止めください、志貴様、秋葉様。いかなお二人とて、人の命を簡単にやり取りしてよいわけがございません。それに、志貴様が行かれては、わたしは、わたしはどうすればいいのです」
 いつになく必死の表情の翡翠は、恋人への情念をありありと表している。
「翡翠」
 兄さんの目に、動揺が走った。そしてその瞬間、私は自分の敗北を悟った。兄さんは、命を与え、生かし、支え続けてきた私より、恋人である翡翠を選んだのだ。
 なにかが崩れ去った。私が一番欲しかったものは、もう永遠に手に入れられないのだ。
 涙など見せたくなかった。私は二人に背を向けると、黙って、唇をかみ締めた。ぎりっ、とかみ締めた唇は、鉄の味がした。それでも、嗚咽をこらえることは出来なかった。
「秋葉」
「秋葉様」
 二人の、戸惑ったような声。
「来ないで」
 私の拒絶。それは、精一杯の虚勢だった。子供の頃、一番小さかった私は、翡翠にからかわれ、兄さんにそっぽを向かれると、もう黙って耐えるしかなかった。それは結局、今だって変わりはしないのだ。今も一番小さいままの私。あの時から、何一つ変わってない
 しかし翡翠は、なにかを決意した顔で、危険も省みず私の前に回りこむと、抱きしめてくれた。きっと、私の泣き顔を兄さんに見せないで済むように。兄さんは、戸惑ったように、立ちすくんでいるようだ。
 私を抱きしめてくれる翡翠の柔らかい腕が、私には悲しい。そして私たちの耳に届くのは、純粋で単純だった子供の頃に別れを告げる、遠い鐘の音だった。

<続く>

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