つまらないものですが


  ここは、とある御館の、とあるお部屋。広さは、そう、十畳くらいはあるでしょうか。調度品は極端なくらい少なくて、あまり使われている形跡の無い机と、こ れも火が入った形跡の無い暖炉があるくらいです。そして、窓際の一番いい場所にはベッド。そこに、この部屋の主が、静かな寝息を立てていました。
 主は、まだ少年期から抜け切って無い頃合でしょうか。男というには少し幼く、さりとて男の子と呼ぶには成熟している。そんな年頃の少年です。
  窓から漏れる微かな明かりに照らされたその顔は、とても安らかです。もしかしたら――と心配になって、思わず顔を近づけてしまいそう。でも良く見ると、微 かに胸が上下して、安らかな寝息を立てているのが分かります。それにしても、寝返りさえも打つことが無いみたいです。本当に、死んでいるような、静かな眠 りです。
 消灯時間の早いこの館では、まだまだ日付が変わるのは先のことです。時々、静かな風が、窓の外をさぁっと通って行くだけ。眠りそのもののような静寂が続きます。
 と、何の前触れも無くドアが開きました。ほんの少し開かれて、外から誰かがうかがっている様子。程なく、猫のようにしなやかな影が、するりと忍び込んできました。
 音も無く、ベッドににじり寄ったのは、和服に身を包んだ若い娘です。手には、なにやら小さな包みが。少し悪戯っぽい目で、眠る少年をうかがいます。弟を見守るお姉さんのような、優しい目線です。
 志貴さん――と、娘は心の中でつぶやきました。
 この様子だと、翡翠ちゃんからも秋葉様からも貰えてないようですね。ふふふ、二人とも頑固で恥ずかしがり屋さんだから、渡しそびれちゃったのかな。でもまだ時間はあるし、明日の朝になって差し出されても、ちゃんと受け取ってあげてくださいね。
  さて、抜け駆けになってしまうかもしれませんが、わたしからのチョコレートですよ。本当は琥珀スペシャルを差し上げたかったんですが、志貴さんはずいぶん 警戒されるでしょうからねー。ま、それはわたしの自業自得だと、ちゃんと心得てますよ。ふふふ。だから、このチョコはお店で買ってきたものです。雑誌にも 載った有名店の最高級品ですよ。一口一口、わたしの想いを味わってくださいな。
 志貴さんの一番は秋葉さまでしょうけど、それでもわたしのこと を、いいえ翡翠ちゃんのことも、たまにはちゃんと一人の女の子として見てやってくださいな。せっかく手に入れたこの幸せを、どんな些細なことでも壊したく ないから、ちょっと控えめにしておきます。いつもは愚鈍で愛らしいあなた。でも今度くらいは、少しくらい察してやってくださいな。
 おやすみなさい、志貴さん。あなたのことが密かに好きな女の子から、愛を込めて――
 娘は、広いベッドのシーツに包みを隠してしまうと、再び音も無く出てゆきました。

 窓の外で、月が少しだけ位置を変えました。再び静寂に戻ったのも束の間、今度は微かに引っかくような音が。
 微かなカチリという音と共に、ドアが薄く開きます。一拍置いて、スッと忍び入ってきたのは、さっきと良く似た、こちらはメイド風の娘でした。緊張しているのか、硬い顔つきです。
 そろそろと慎重ににじり寄り、眠る少年の顔を覗き込んだ時、やっとその顔が和らぎました。優しい、ちょっと年上の女の子が、遊び友達の男の子を見るような目をしています。後ろ手にしていた包みを胸に抱しめます。
 志貴さま――と、娘は心の中でつぶやきました。
  もうしわけありません。わたしも努力はしたのですが、持って生まれた味覚の限界は超えられませんでした。志貴さま好みの『究極の梅チョコ』を今年こそ、と 研鑽を重ねたのですが、お口に合いそうなものはとうとう開発できませんでした。姉さんにも、秋葉様にも、時南先生にもダメ出しを受けてしまいました。特に 時南先生には『小僧の命に関わるゆえ止めよ』と、妙に必死に拒絶される始末。きっと、酸っぱいものを取りすぎると、志貴さまのお体に障るということなので しょう。みなさん、どうして分かってくださらないのでしょう、このプログレッシヴな味覚を……。
 ともあれ、もはや時間切れ。手作りのチョコレートを用意する時間はありませんでした。最後の手段として、以前姉さんが読んでいた雑誌で知った、近所のお菓子屋さんからチョコレートを調達してまいりました。お味は保証いたします。
 いつもは主と使用人として接している身ですが、この贈り物で、わたしも一人の女なのだと、少しは気にかけてやってください。
 おやすみなさい、志貴さま。明日も心地よい目覚めであられますように。
 娘は、広いベッドのシーツに包みを隠してしまうと、再び慎重に出てゆきました。

 月は、もう少しだけ歩を進めます。さすがに日付も変わろうかという頃でした。
  不意に、がちゃりと無遠慮な音と共に、ドアが開かれました。トトッと入り込んできたのは、さっきの娘たちよりも少し年下に見える、見事な黒髪の少女でし た。妙に切迫した顔でベッドに歩み寄ると、なにやらドキドキしながら少年を見下ろしているようです。胸には、なにやら包みを抱き締めています。しかし、こ の騒ぎにも目覚めない少年、なかなか大した肝っ玉の持ち主のようで。
 兄さん――と、少女はなにやらつぶやいています。
 か、勘違いして いただきたくないのですが、わたしは俗世間の俗な風習などには興味なくてよ。これを差し上げるのは、どうやら一つも貰えてないらしい兄さんが、哀れに思え たからです。遠野家の長男ともあろうものが、いかに俗な風習と言え、親愛の証を一つも貰えないなんて、許されざることですもの。その、妹として、いいえ恋 人としては、むしろ望むべきことといえますけど……。
 と、とにかく、これを差し上げますから、がっかりなさらない でくださいな。自分で作って差し上げようと思っていたのですが、遠野家の長が作るに相応しいものには、なかなか仕上がらず、近所の店で調達せざるを得ませ んでした。申し訳ありません。もっと時間があれば良かったのですが……。こんなことでは、兄さんをしかることも出来ません ね、ふふっ。
 出来合いの物ではありますけど、このチョコレートの上品な味わいに、すぐに私のことを思い浮かべてくださるはずですね。そんな風に、毎日のように私を味わってくださっている、せめてものお礼です。
 兄さん、いくら愚鈍なあなたでも、それくらいのことは分かってくださいますよね――
 少女は、広いベッドのシーツに包みを隠してしまうと、再び足早に出てゆきました。

 さて、朝です。
「誰のだろう?」
 珍しく、翡翠が来る前に目覚めた志貴は、ベッドの中に三つの包みを見つけ、驚愕しました。
 いえ、さすがの志貴も、それが何の意味を持つのかは分かりました。恐らくは、前日の夜に差し入れられたのだろう事も。しかし、頭を抱えてしまいます。
「これ、誰のなんだろう――」
 シーツの上に並べられたのは、全く同じ色、形、大きさの、綺麗にラッピングされた小箱でした。いかな志貴とて、中身がチョコレートであることは分かります。しかし、誰がくれたものか、どこにも書かれていないのです。
 念のために開けてはみましたが、思った通り、中のチョコレートも全く同じ、近所の高級菓子店のものと思しきものでした。中身も、梱包も全く同じチョコレートが三つ。そこで、志貴は頭を抱えてしまいます。
「これ、三人が別々にくれたのかなあ。それとも一人が三つくれたのかなあ――」
 それ次第で、三人への対応も変えなければなりませんし、対応を誤れば自分の首を絞めることになりかねません。
 こうして、愛しき朴念仁は、大切な人たちの想いに至る遥か手前で、頭を抱えて懊悩する破目になるのでした。

<了>

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