鉄槌 2



 志貴とは一週間ほども会わなかった。より正確に言えば、マンションを一歩も出なかったのだ。三日過ぎ、四日過ぎ、さすがに志貴も心配してくれるのではないかと思っていたのだが、一向に来てくれない。こうなると意地になってしまい、志貴が迎えに来るまで篭城していたわけだ。
 その間、鬱々とした気分で過ごしていた。彼女は、生まれてこの方、鬱屈した気分というものを味わったことが無い。原因も対策もまるで分からないから、ひたすらベッドに寝転がって、埒も無いことを思い浮かべていた。脳裏に、振り払いたい影がまといついている。
 だが、それを何かにぶつける気にもならない。ひたすら下降気味の気分だった。今まで生きてきて、こんな気分を味わうのは初めてだった。
 それでも、七日も経つと、さすがに志貴の音沙汰無さに腹が立ってきた。恋人たる姫君が(というのはアルクェイドの一方的な思いかもしれないけれど)顔も合わさず、こうして引きこもっているというのに、ナイトたる志貴はどうしたというのか。いくらなんでも、安否の確認くらいはするだろうに。
 だが、ある事を思い出して、アルクェイドは胆の冷える思いもしていた。それは、シエルの死体の始末。あれほど派手に戦って、公園に損害を及ぼした上、死体まで残したとあっては。恐らく、シエルの死体は、魔物のように灰になって消えたりはしないはずだ。事件は、志貴の耳にも入ったはず。すると、志貴は誰がシエルを殺したのか、思い当たるだろう。
 それを隠すつもりは無い。シエルと自分との対立の歴史は、今に始まったものではない。これが必然の結果なのだと、志貴に弁明するつもりだった。だが、それでも志貴は怒るだろう。怒られることは恐くない。だが、志貴と距離が出来てしまうのが、たまらなく恐かった。もう、志貴無しに、彼女の時間など考えられない。こうして顔をみせてくれないのも、あるいは――
 ドアのチャイムが甲高い音を立てた。ドキリとしながら、アルクェイドはドアに目をやった。勧誘の類は、ここに寄せ付けないように結界を廻らせてある。来るのは志貴と、その関係者くらいだ。遠野家の女たちが、好んでここに来るとは考えられないから、志貴以外にはありえない。
 覚悟を固めると、アルクェイドはドアを開けた。果たして、そこには彼女の想い人が立っていた。志貴は、アルクェイドの顔を見ると、ホッとしたような顔になった。
「なんだよ、元気じゃないか。ずいぶん心配したんだぜ」
「――なにいってるのよ」
 思わず、憮然とした顔になる。心配していた? なら、なぜ恋人のもとに駆けつけてくれなかったのだ。そう、素直すぎるくらい素直に思って、つまり拗ねてしまったのだ。
「ごめん、その、取り込んでてさ」
 何かを察したのか、志貴の顔が少し優しくなる。が、すぐに表情を引き締めると、なにか覚悟を固めた顔でいった。
「あのさ、アルクェイド、シエル先輩となにがあったかは知らないけど――」
「その名はもう出さないで」
 先手を打って、アルクェイドはぴしゃりといった。
「もう過去の話。必然の結末なのよ。ああなるしかなかったんだから」
「そんな――やっぱりおまえがなにかやったんだな」
「ええ、その通り。でもね、志貴、これはあいつとわたしの因縁がもたらした、当然の結果じゃないの」
「なにいってるんだ。今まで仲良くやってきたじゃないか。おまえに原因があるのなら、素直に謝れよ」
「なによ、今さら謝って――」
 そこで初めて、志貴との会話に微妙な齟齬があるのに気づいた。
「ねえ、志貴」
「なんだよ」
 志貴は憤然とした顔だ。だが、それはアルクェイドが取り返しの付かないことをしたから、という顔ではない。
「シエルが、どうかしたの?」

 とにかく落ち着いて、と志貴がお茶を入れてくれて、それから聞かされた話は意外なものだった。
「――ヨーロッパに帰った?」
 その言葉が、シエルの最期と結びつかず、アルクェイドはきょとんとした顔になった。
「ああ、なんか知らないけど、急に帰ったらしくって」
 志貴の話によれば、先週――そう、アルクェイドがシエルを"殺した"次の日のことらしい――のこと、シエルが急に遠野家を訪れ、『しばらく家を空けますので』と言い残し、欧州に帰還したというのだ。志貴は不在で、琥珀が受けたらしい。琥珀は、シエルがバチカンに一時帰還したのだと、素直に受け取ったというのだが。
「でも、秋葉の情報網によれば、シエルはバチカンに立ち寄って無いっていうんだ。良く分からないけど、どうも北欧に向かった形跡があったって」
「――――」
 アルクェイドは、じっと沈思している。
「秋葉は嫌がってるんだけど、無理に頼んでさらに調べてもらってる。でも、どう考えても、シエル先輩の行動は異常だ。どんなわけがあって、あんなに急に北欧なんかに飛んだんだ。それも、バチカンとも接触して無いなんて」
 志貴の口調は、自然に詰問するそれになっている。明らかに、アルクェイドに原因があると考えているようだ。そのこと自体に間違いは無い。
 でも、シエルは死んだ――と、アルクェイドは思い返した。あの時、確かに殺したのだ。そして、ロアが死んだ今、シエルが蘇る理由が無い。シエルは冥界の住人となったはずだ。
 ところが、その死んだはずのシエルが遠野家を訪れ、しかも何の意味があるのか北欧に旅立ったというのだ。死んだはずのシエルが。
 一つの可能性として、そのシエルが偽物だったということが考えられる。例えばバチカンがなんらかの必要性から作り出した。だが、バチカンがわざわざそんなことをするとは考えられない。そもそも、昨日の今日で、そんな芸当が可能とも思えない。
 やはり、シエルは生きているのだ。そうとしか考えられない。だが、あれほどの打撃を与えたのに。もう不死ではないはずなのに――
 煮え切らない思考が頭の中に渦巻いて、志貴の声もろくに耳に入って無い。志貴があれこれ問い続けるのに生返事を返しながら、アルクェイドは自己の奥底でじっと考え込んでいた。

 結局、志貴は帰ってしまった。アルクェイドの煮え切らない態度になにかを察したのだろう、また来ると言い残して、帰って行った。
 取り残されたアルクェイドは、ベッドに座り込むと、じっと考え込んでいた。もちろん、なぜシエルが生きていたかをだ。ロアが死んだ時、シエルは死する運命を取り戻したはずだ。ならば、アルクェイドが彼女の頭を踏み砕いた時、その生命も終わったはずなのだ。過去のように、再び蘇ることなど無く。
 いや、そうか――と、考え続けるうちに、ようやく思い至った。確かに志貴はロアを"殺した"。それは事実だ。しかしロアの魂は滅びたのか。確かに志貴はロアの"死の点"を突いたといった。ならば、ロアには死する運命しか待ってない。しかし、その時、同時にロアそのものでもあるシエルが生きている。ロアが生きている限り、シエルは死ぬことが無い。正確には、死する運命を剥奪されている。そしてロアにだって、シエルが生きている限り、同じように世界からの修正が働くはずだ。つまり――
「ロアは殺されて、でも滅びることが出来なくて、永遠に『死に続けている』んだわ」
 呆然とする思いで、アルクェイドはつぶやいた。ロアを完全に殺そうとすれば、結局のところロアとシエルとを同一視し、その生命を修正し続けているこの世界そのものを、少なくともそのような機能を持つ部分を、同時に殺しきるほどの力が必要だ。そして、志貴の目ですら、それほどの力を発揮できなかったのだ。結果、ロアは生と死の狭間に投げ込まれ、永遠に『死に続ける』状況に陥ったのだ。
 なんと、恐ろしい運命なのだろう。確かにロアは最悪の敵だった。多くの罪無き人々を苦しめ、殺してきた悪党ではあったが、それでもあまりに過酷な運命だと、アルクェイドには思えた。なぜならば、ロアがいかに罪を重ねようとも、それは所詮は有限の重さに留まっており、永遠の死という無限の重さを持つ刑罰とは、到底釣り合わないものと思えたからだ。
 いや、と少し考え直した。もしも志貴以上の目を持つ誰かが現れ、シエルと、シエルを生かし続けている世界の理を同時に殺しきることが出来たなら、その時こそロアは完全に滅びるだろう。だがそれは、志貴の目の存在すら奇跡の中の奇跡といえるのだから、宇宙開闢から滅びまでの時までに、果たして現れるかどうか分からないほどの奇跡だろう。
「ともあれ、シエルは生きていると考えた方が良さそうね」
 志貴が淹れてくれた、もう冷え切ったお茶を飲み干しながら、アルクェイドはぼんやり考えた。その事に、どこかホッとしている自分がいる。やはり、一時の感情でシエルを殺そうと図ったのは、我ながら最悪の選択だと思えた。それは、いかにも幼い。大人になりきれない、身体だけが大きくなった子供が、簡単に殺人を犯すようなものだ。いや、シエルはやはりアルクェイドの敵なのだし、志貴を巡ってまたのっぴきならぬ事態になるのは目に見えている。なにより、今度の事件で、シエルとの仲は完全に決裂したのだ。二人は、もはや不倶戴天の敵でしかない。やはり、あの時に殺すべきだった。だが、それでも――
 考え続けるうちに苛々してくる。なんで自分が、こんなにも悩ましく、狂おしい思いをしなければならないのだ。
「くそっ」
 およそ彼女らしくも無い、汚い言葉で罵りながら、アルクェイドは湯呑をテーブルに叩きつけた。乾いた音と共に、湯呑は簡単に壊れる。ハッと我に返ると、アルクェイドの手から、湯呑の残骸がガランと転がり落ちた。
 うっ、と喉の奥で呻いた。見たくない事実を突きつけられた気分だった。こんなに簡単に壊れてしまうなんて――と。そうだ、あの時にはシエルも、こんな風に『壊れ』て転がっていたのだ。その光景を、まざまざと思い出す。
 そこに、志貴やレン、そして秋葉の顔を重ねていた。みんな、大切なものだ。今になってアルクェイドが得た、かけがえの無いものだ。レンや志貴はともかく、秋葉はアルクェイドに冷たく当たる。でも、本気で嫌われているわけではないと、彼女は知っていた。秋葉のことを妹と呼ぶのは、別に自分と志貴の仲を持ち出しているだけではなくて、本当に妹のように思っているからでもあるのだ。つんけんした態度の奥に仄見える好意が嬉しくて、アルクェイドはついつい親しげにからかってしまうのだった。みんな、とても大切に思っているのだ。秋葉など、抱きしめて可愛がってやりたいくらいだ。でも、もしも抱きしめたその腕に、力が入りすぎたら――レンが、秋葉が壊れてしまったら――
 それは、とても、とても、恐い。大切なものを自分で壊してしまうなんて。そんなこと、ありえない、自分がやるはずは無いと思っている。でも、シエルにそうしたように、勢い余って――
「――――」
 我知らず、湯呑の残骸を握り締めていた。強靭で優美な指の中で、それは粉微塵になり、さらさらと流れ落ちてゆく。だがそれさえも気づかないで、動悸が収まるまで、視線の先の闇をじっと見詰めていた。

『あははは、それで僕に電話をくれたんだ』
 夜、ふと思い立って、バチカンで唯一、彼女の頼みを聞いてくれる人物に、電話を入れた。もちろん、アルクェイドの能力ならば、一瞬にして欧州に現れることも出来る。しかし、そうなると、バチカンや各種の勢力が、アルクェイドの意図を勘繰り、身辺がいささか喧しいことになる。彼らは、アルクェイドが遠く離れた地にいることを怪しみつつも、同時に安堵もしているのだ。それを乱して、鬱陶しい思いをしたくは無い。それに、かの地ではシエルが動き回っているのだ。なにを意図しているのか、不気味だった。代わりに、電話という平凡な手段を思いついたのは、なにかと世俗的なことを教えてくれる、当の電話相手のおかげだともいえるだろう。
『うんうん、確かにシエルはこっちにいるよ。バチカンには立ち寄って無いので、ナルバレックも不審に思ってはいるようだけどね』
 電話の相手、埋葬機関の第四位たる死徒、メレム・ソロモンは、なんとも楽しげに答えた。
「で、シエルは何をしているわけ?」
 メレムの躁気質は、今に始まったことでは無い。多少の不快はあったが、我慢して用件の先を促した。
『ああ、ちょっと待ってね』
 受話器を置いて、何事か調べ始めたらしい。魔術か、メレムの配下にある魔獣を使って、シエルの行動を調べているのだろう。
『北欧、それもノルウェーの先の方の北極圏にいるようだねえ』
 ほどなく、メレムはそう答えた。
「知ってるわ。問題は、目的がなにかよ」
 さすがに、アルクェイドの忍耐にも限界はある。声に怒りが滲み出てしまう。
『姫様、落ち着いてよ。僕だって、そんなに一気に全てを調べられないよ』
 宥めるようなメレムの声に、アルクェイドは渋々怒りを飲み込んだ。
『シエルの方が僕らとの接触を避けているんだよ。だから、簡単には分からない。分からないけど、ヒントはある』
「ヒント? なに?」
 性急に先を促すと、メレムは僅かに声を低めて、答えた。
『なんでも、今は北のあの辺りを、例のアルトルージュの番犬たちがうろついているようなんだ』
「――――」
 なにか、言葉に出来ない衝撃を覚え、アルクェイドは思わず電話を取り落としそうになった。アルトルージュの番犬――すなわち、その護衛役である二人の死徒たちのことだ。シエルとはもちろん、アルクェイドとも不倶戴天の仲だ。通常ならば、なにかの理由で狩りに行ったとしか考えられない。
 だが――今は、シエルとアルクェイドも不倶戴天の仲となってしまっている。敵の敵は味方。と、なると――
『姫様、本当にどうしたの? シエルとなにがあったのさ』
 電話の向こう、メレムの声が、僅かに気遣わしげになった。
「ちょっと、ね。シエルといざこざがあって」
 かいつまんで経緯を話してやった。最初のうち、ふんふん、などと軽く受け止めていたメレムだが、二人の対決がシビアなものだったと分かると次第に言葉少なくなり、遂にシエル殺害に至ったところで、思わず息を呑んだ。
『姫君、それはもういざこざなんてものじゃないよ。シエルは――そうか、とうとう、姫君との最終的な対決を思い立ったか』
 メレムも、シエルの意図に考えをやると、すぐにアルトルージュの番犬たちとの関係に思い至った。
「そうね。あれはもう、決定的な殺し合いだったわ」
 実際に殺そうとしたのはこっちの方だったけど、と、アルクェイドは胸の内でつぶやいた。
「シエルがわたしとの決戦を思い立つのは自然よね。もう、わたしたちは殺し合う仲でしか無いんだから。だから、シエルは本来の敵である、アルトルージュとも手を組めるのよ」
 シエルがアルトルージュと手を組む――アルクェイドにはそうとしか思えなかった。死徒たちの中にあって、その魔を統べる存在であるアルトルージュは、アルクェイドにも無視できない存在だった。真祖たちが生み出した最終兵器たるアルクェイドに対し、そのネガとしてこの世に生み出されたアルトルージュは、アルクェイドには無い力を持っている。そこに、シエルが手を組もうとする意味があるのだろう。
『姫様。間に合うかどうか知らないけど、僕の手勢を使って、シエルと黒姫様が手を組むの、妨害しようか?』
 それは、アルクェイドのファンを自認するメレムにすれば、当然の提案だったろう。
「いいえ、結構。シエルがどんな汚い手を使おうが、勝つのはわたしなんだから。せいぜい、足掻いて見せるが良いわ」
『でも、危険だよ。弓の二つ名を持つシエルを軽く見ない方がいい。そんなの、姫君だって分かってるだろう?』
「見てなさい、メレム。しょせん常命の人間が、どれほど背伸びしても、真祖たるわたしには敵わないってこと、教えてあげるから」
『うわあ、酷薄。それでこそ、姫様だよ』
 電話の向こうで、メレムが誉めそやすように言う。確かに、これがかつてのアルクェイドだったのだ。この世にただ一人、屹然と立つこの身は、最後の真祖であり、この世界でもっとも高貴な存在なのだ。誰かを頼ることも、信じることも許されない。
 だが――こんな風に、あえて危険に身を晒すやり方は、かつての彼女のものでは無い。無意識の内に選び取ったこの道は、今の彼女の心境を、密やかに反映しているのだった。しかし、彼女自身は、それに気づいていない。
 じゃあ、と電話を切る寸前、メレムはふと、まるで独り言のようにつぶやいた。
『でも、シエルやお知り合いと馴れ合って、いつもニコニコしていた姫君も、僕は嫌いじゃ無かったよ。ううん、今はそっちの方が、よほど好きだよ』
 一瞬、受話器を置きかけた手が止まった。が、結局それ以上はなにも答えず、彼女は受話器を置いた。

 電話の後。アルクェイドは夜の街に出た。なんとなく、志貴が動き回っている気配は感じたが、今は顔を合わせたくは無かった。あえて避けながら、公園や、繁華街を歩き回った。そしてその足は、いつしか遠野家に向かっていた。ある意味では、今この瞬間、志貴と会う可能性が低い場所の一つだった。
「あら、アルクェイドさん」
 正門から玄関へと向かう途中、箒を持った遠野家の女中と会った。
「残念ですねー。志貴さんは、今日はずっといらっしゃいませんよ?」
「んー、いいわよ、別に。なんだか、妹の顔を見たくなっちゃって」
「まあまあ。秋葉様は純粋な方でいらっしゃいますから、あんまりからかわないで差し上げてくださいな」
 そんなことを言いつつも、女中は彼女を屋敷に入れてくれた。
「あら、珍しいですね。玄関からいらっしゃるなんて」
 居間に入ると、秋葉が出迎えてくれた。案の定、微妙に角のある、しかし戸惑いも見せる態度だった。
「ふうん、やっぱりね」
「なにが、やっぱりなんですか?」
 ソファーにアルクェイドを招きつつ、秋葉は不思議そうな顔になった。
「いいえ、いつも志貴の部屋から入ってくるわたしが、ふつうに玄関から入ったら戸惑うかなって」
「自覚があるのなら、ご自分で改めてくださいません?」
 そういって、つんと顔を背ける仕草が可愛くて、アルクェイドはクスクス笑った。
 メイドがお茶を淹れてくれたので、他愛無い世間話に耽った。お気に入りの喫茶店の新作ケーキの話だとか、公園の花壇に大きな花時計が出来たとか。志貴を挟んでいない時の秋葉は、アルクェイドを邪険には扱わない。二人にとって対立項は、志貴の存在だけなのだから、ある意味では当然だ。もっとも、二人を結び付けているものもまた、志貴の存在なのだ。
「それにしても、珍しいですね。兄さんを追いかけてないアルクェイドさんなんて」
 秋葉は、やはり不思議そうにいう。秋葉にとって志貴の存在は大きいのだろう。隠し事が出来ない娘だから、いくら否定しても態度で分かってしまう。だからこそ、アルクェイドにとっての志貴の存在の大きさも、彼女にはわかるのだろう。
「そうね。志貴は、わたしにとって、日常の象徴だから」と、思わず自然に答えていた。その言葉は、以前に志貴が、シエルのことを形容して口にしたものだ。シエルのことを――
「そうですか。兄さんが、アルクェイドさんにとっての、毎日の生活での象徴なんですね」
 思いがけず、まっすぐだけど、少し狙いを外した答えが返ってきて、秋葉は少し面食らっている。
「だって、わたしが外に出かけて楽しいと思うようになったのは、志貴が居てくれたからだし、人のことに興味を持って、その上好きになっちゃうなんてことも、志貴が居たから覚えたのよ。志貴がいなければ、日常が回ることも無かった。わたしにとって、時間なんて、ひたすらまっすぐ続いてゆくだけのものだったんだもの」
 話しているうちに、心の中が浮き立ってくる。ああ、とアルクェイドは嘆息した。このアルクェイド・ブリュンスタッドが、遠野志貴をどれほど愛しているのか。二つを等しくして、今も顔を出し続けている溝を埋めてゆきたい。
 だが、秋葉は妙に翳りのある顔になって、「そうですか――」とだけ答えた。どこか不自然な沈黙が落ち、それに慌てたアルクェイドが口を開くより早く、秋葉は言葉を繋いだ。
「そうですか。アルクェイドさんにとっても、兄さんはかけがえの無い存在なのですね。なのに、今日はどういう風の吹き回しなので?」と、話をひょいと戻した。
「うーん。そりゃ志貴のことが好きだし、いつも一緒に居て欲しいと思うけれど、それでも一人になりたいと思う瞬間はあるじゃない」
 咄嗟にごまかそうとしたアルクェイドだが、秋葉からじっと注がれる視線に、フッと心が冷えていった。なに、そんなに知りたいの、と。
「シエルさんのことですね」と、秋葉は決め付けるようにいう。アルクェイドは、思わず顔をしかめた。
「なにかあったのですか。教えてくださいませんか」
「妹には関係の無いことよ」と、アルクェイドは素っ気無くかわそうとした。
「そうは行きません。シエル先輩のこと、兄さんは本当に心配して、私にも調査するように頼んできたくらいなんです。兄さんの心配の種は無くして差し上げたいのです」
 秋葉の訴えかけるような視線が、アルクェイドの仮面を突き崩した。心が冷えてゆくのが分かった。自分は、きっと冷酷な目をしているだろう。
「そう、どうしてもシエルのことを話さなきゃならないのね。いいわ、教えてあげる。妹、シエルはわたしが殺したのよ」
「殺した――?」秋葉は少し首を傾げた。アルクェイドとシエル、不死に限りなく近い二人のことを知っているからだろうか、アルクェイドの口から出た『殺した』という言葉の重みを量りかねているようだ。
 アルクェイドは、二人が夜の公園でのっぴきならぬ対決に至った経緯、シエルを本当に殺そうとしたこと。そして今度は、シエルがアルクェイドを本気で駆逐するために、最古参の死徒たちと手を組んだであろう事――などなど、かいつまんで話した。
 秋葉は、アルクェイドが無慈悲にシエルを殺害しようとしたことに衝撃を受けたようだ。そしてシエルと最終的な対決に至るだろうという認識に、顔が青褪めてさえいた。
「そんな――なんとか、和解することは出来ませんか。私に仲介できる事なら、労は惜しみませんから」
 秋葉は、まるで懇願するように言う。
「無理ね。いい、妹。わたしとシエルの関係は、あなたや志貴とのそれよりずっと古くて、根の深いものなのよ。いつかこうなることは分かっていた。偽りの平和など、うじ虫にくれてやるが良い。真祖アルクェイド・ブリュンスタッドと教会の犬に、和解など最初からありえないのよ」
 アルクェイドの言葉は、まるで自分に言い聞かせるようだった。
「ねえ妹、そもそもシエルが消えれば、あなたにも好都合なんじゃない? ライバルが減るわけだし」
 秋葉の志貴への好意を見抜いているアルクェイドは、わざと意地悪く言ってみせた。そうすれば、秋葉が激するだろうと思って。
 が、案に反して、秋葉はむしろ憂鬱そうな顔になって、こう答えた。
「そうですね。私にとっては、先輩が消えてくれるのは喜ぶべきことでしょう。でも、兄さんの気持ちを思うと――」
「――」
 アルクェイドは、不機嫌そうに黙り込んだ。志貴とシエルとの間に確かにある絆。それを意識することは、今もって不愉快な事態だった。が、秋葉はそんなアルクェイドの様子に気づかないまま、言葉を繋いだ。
「アルクェイドさん、お気づきですか? シエル先輩に対する、兄さんの態度を――」
「――」
「兄さんは、私のことをとても大切に思って下さっています。家族として、妹として。でも、女としてはどうでしょう。兄さんは、私よりはシエル先輩のことを、女として見ているようです。そしてアルクェイドさん、あなたと較べても――」
「――うるさい」
 秋葉の嘆くような口調が、アルクェイドの逆鱗に触れた。
「シエルがなんだっていうの? 志貴から女として見られてる? わたしより? はんっ、今はそうかもしれないわね。でも所詮は教会の犬じゃないの。異端を狩ることしか考えてなかったあいつが、女らしいですって? 笑わせないで、妹。あいつの性根を誰もわかってない。あいつはロアだったのよ? ロアだったエレイシアがどんな所業をしたのか、あなたは分かっているの?」
 話し続けるうちに、次第に檄してきたようだ。アルクェイドは眦を吊り上げると、シエルを口汚く罵り始めた。
「あいつは正真正銘の雌犬よ。あいつがどれほどたくさんの人を苦しめ、殺したのか、あなたは知らないじゃない。あいつは楽しむために人を苦しめ、殺したのよ。人の絶望が、苦悩が、あいつの糧だった」
 アルクェイドは立ち上がると、窓の外の風景に目を向けながら、罵倒を続けようとした。憎むべき仇敵となった女を、言葉の刃で切り刻んでやろうと。が、不意に言葉を失うと、彼女は口を開きかけたまま、立ち往生してしまった。
 わたしは、なにをしている――?
 シエルの過去を、ロアたるエレイシアとしての過去を罵り、憎んだとところで、今のシエルに何の罪を問えるというのか。そのロアの企みにまんまと載せられ、その猛悪を夜に解き放ったアルクェイドに、シエルを責める資格がかけら足りとてあろうか。あるはずも無い。そのことは、彼女には分かりすぎるほど分かっていた。そんな彼女に、シエルを罵る資格があろうか。
「――帰る」
 不意に、決定的ななにかが冷めてしまい、アルクェイドは秋葉に背を向けた。
 背後で、秋葉の呼び止める声がしたが、彼女は屋敷を飛び出すと、マンションへとひた走っていった。暗闇から暗闇へと駆けながら、心の中がやりきれないものに満たされている。頭は沸騰寸前なのに、心はどうしようもなく冷えている。アルクェイドは、まるでなにかから逃れるようにして、闇をひた走っていった。

 その足は、マンションに向けていたはずだ。だというのに――
「――」
 今、アルクェイドが立っているのは、シエルのアパート前だった。十日ほど前、なぜだかシエルの部屋に上がりこんで、お茶を飲みながら話したことを思い出した。内容は憶えていないが、話したことだけは憶えていた。その時は、なんと言うことも無く、くだらないことに時間を費やしたなという淡い感慨があっただけだった。今となっては、あれがどれほど貴重な時間だったか、胸が痛くなるくらいに分かっていた。
「もう、あの時間は戻らない……」
 視線を、アパートの方にさ迷わせながら、彼女は我知らずつぶやいた。本来ならば、不倶戴天の敵だというのに、まるで友人のように、なんでもない会話を交わす。そんな時間は、もう戻らないのだ。
 なにを後悔しているんだ、と、アルクェイドはなにもかもが嫌になってきた。こんな感傷など、真祖の姫には似合わない。所詮こうなる運命。真祖の姫と、異端を狩る者とに、平穏な関係などありえないのだ。偽りの平和が終わっただけではないか。そんな風に、もう何度も自分に言い聞かせてきた。だというのに、この期に及んで――
「――」
 我知らず、アルクェイドの美貌が歪む。しかしそれは、怒りではなく、限りなく悲哀に近いものだった。もう、元には戻れない――そう、彼女の背中が語っていた。あの平凡でつまらない、その癖に限りなく輝いていた時間は、もうこの手には戻らないのだ。
 まったくの不審者の体で、彼女はシエルのアパートを睨んでいた。時折通り過ぎる人々が、不思議そうに目をやり、しかし通り過ぎていった。
 どれほどそうしていたのだろうか、ふと、その顔に微かな不審の色が浮かんだ。
 いる――
 ほとんど聞き取れないほど小さな声でつぶやくと、アルクェイドは階段に足を掛けた。
 別段、足音を忍ばせるわけではなく、しかし用心しながら階段を上る。目の前には、シエルの部屋の扉。
「やっぱり、いる」
 扉の向こうを窺いながら、アルクェイドはつぶやいた。なんの躊躇いも無く、ノブに手を掛け、一気に回しきった。鍵を強引にねじ切るつもりだった。が、案に相違して、鍵は掛かってなかった。何の抵抗も無く、ドアは開く。が、その瞬間。
「――つっ……」
 激しい衝撃を感じて、アルクェイドはよろめいた。目の前でフラッシュを焚かれたように、なにかが目の前で無音の内に炸裂したのだった。その正体には、すぐに思い至った。魔法障壁だ。シエルが、侵入者に対してなんの備えもしてないはずが無かった。
「シエルらしい、陰湿な罠ね」
 悪態を吐きつつ、アルクェイドは部屋に足を踏み入れた。すぐそこに、当の本人がいると予想しつつ。
 が、土足でキッチンに上がりこむと、案に相違してもぬけの殻。おかしい。いぶかしむ。さっきまで、外からすら感じられるような、強力な魔力の存在を感じていたのだ。実は、あれこそが罠だったのか。考えをめぐらせつつ、キッチンに立ち尽くしていた。
「アルクェイドさん!」
 不意に、横合いから怒鳴りつけられた。アルクェイドは、ん、と腕組みを解き、目を横にやった。隣室の襖を開けて顔を出したのは、シエルが持つ最強兵器、第七経典の精霊だった。
「セブン――?」
 すぐに合点が行った。アルクェイドがさっきから感じていた、強力な魔力は、この精霊の存在ゆえのものだったのだ。
「なによ、紛らわしいことしないで。シエルが居るのかと思ったじゃないの」
「なによじゃありません。人様の家に土足で上がりこむなんて、どういう了見ですか!」
「どうもこうも、敵地に乗り込むのよ? なんでお行儀良く靴を脱いで上がらなきゃならないっていうのよ。それに、わたしとシエルの間でしょう。他人行儀なんて似合わないわよ」
 アルクェイドは、平然として答えた。『彼女とシエルの間』というのは、決して親しいからという意味ではなくて、その真逆だろう。
 はぐらかす様な答えに、案の定、セブンはむーっ、と顔をしかめた。いささか人外の特徴を帯びてはいるが、元は恐いほどの美少女だったのだろう。本気で怒ると、意外に迫力がある。が、真祖の姫君には無駄なことだ。
「そうか、シエルはあなたを置いていったんだ」
 ぶらぶらと部屋を見回しながら、誰に言うとも無くつぶやいた。シエルにとっての最強兵器を置いていたのは、当然のことだろう。シエルは死徒を狩るのではなくて、交渉に赴いたのだろうから。
「マスターは……」
 セブンは不満げな顔になると、何かを口にしかけた。が、ハッとした顔になると、慌てて口を噤む。
「シエルが?」
 その言葉を聞きとがめたアルクェイドは、セブンに向き直った。
「シエルがどうしたっていうの?」
 言葉面こそ優しげであったが、口調は威圧的だ。
「シエルがなに? いいなさい、セブン」
 なおも促すアルクェイドに、しかしセブンは口を噤んだまま、そっぽを向いている。アルクェイドは、なぜかセブンの頭を小さく撫でている。が、次の瞬間、無造作に頭を鷲掴みにしたのだった。セブンは、ヒッと身を固くする。
「セブン、なんで言えないの?」
 アルクェイドは相変わらず静かな口調のままだ。だが、その繊手はセブンの頭を締め付け、まるで多重人格者のようにセブンを痛め付けはじめている。セブンは純粋な霊体だ。常人には触る事はおろか、目にすることも出来ない。が、真祖の姫には関係の無いこと。セブンは小さく悲鳴を上げた。
「真祖に隠し事する気? セブン、身の程って言葉、解ってる?」
 アルクェイドはわずかに力を入れたように見えた。別にそれほど力を込めたようには見えない。だが、セブンの頭から、軋む音が確かに聞こえた。
「シエルはなにをしているの? なぜわたしにいえないの?」
 アルクェイドの声に、わずかな苛立ちが感じられた。セブンは歯を食いしばり、アルクェイドの手をもぎ離そうと、空しい努力をしている。
「何様のつもり? たかが精霊の身でわたしに逆らう気?」
 いかに冷静を装っていても、アルクェイドの声には怒りがにじみ出ている。わずかに目尻が吊りあがる。セブンは苦痛にうめき声をあげた。
「さあおっしゃい、シエルがなに?」
「痛い……痛いです。アルクェイドさん、やめてください」
 セブンはとうとう音を上げ始めた。その小さな蹄で、アルクェイドの手をもぎ離そうと四苦八苦している。
「なぜ、どうしていえないの? どうせつまらないことなんでしょう。さあ、おっしゃい」
 アルクェイドは、苛々と眉間に皺を寄せ、セブンを痛めつけている。なぜか、自分の言葉に余計に苛立っているように見えた。
「痛い――離して――」
「そんなに死にたいの? たかがモノのくせに――さも意思があるように!」
 アルクェイドは次第に檄して行く。その豪腕に、力が入ったように見えた。
「痛い、痛い! 痛い! 割れちゃう!」
 セブンは身を捩って逃れようとする。アルクェイドの指先が、少女らしく肌理細かい肌に、ギリッと食い込んでいる。突き刺さらんばかりだ。
「早く口を割りなさい。頭を砕いて欲しいの? さあ、はやくおっしゃい。なんでいえないのよ! なんで、なんで!」
 アルクェイドは、もはや苛立ちを隠そうともせず、セブンの頭を掴んだまま、揺さぶった。
「痛い……痛いよ……」
 セブンは気絶寸前の態だった。指があまりにめり込みすぎて、突き刺さっているように見える。
「セブン――」
 とうとう怒りが一線を越えたようだ。アルクェイドは、その豪腕に力を込めた。どこかで、なにかが軋む音がはっきり聞こえた。そしてアルクェイドの手に、なにかが壊れる予兆が伝わる。セブンの甲高い悲鳴も、彼女の耳には届いてないようだ。だが、手の中で、セブンの頭が――
「――!」
 不意に夢から覚めたように、アルクェイドは目を見開くと、反射的にセブンを放り出した。固いもの同士がぶつかる音が響き、精霊の身が床に投げ出される。
「あっ――」
 奇妙にねじくれた形で投げ出された、セブンの四肢。アルクェイドは、その手に着いた青い血に目をやった。精霊の尊い青い血に。
 セブンは床に投げ出された格好のまま、ピクリともしない。青い血が一筋、そのこめかみから流れ落ちる。ゾッとするような静寂が流れた。アルクェイドは事の重大さにやっと気付いたとでもいうように、ハッとした顔になった。
 てっきり、セブンを殺してしまったのだと思った。だから、セブンが弱々しく身じろぎし、めそめそと泣きじゃくり始めたときには、かえってホッとしたくらいだった。
「セブン、脅かさないで。あなたが悪いんだからね」
「ひどい、です、アルクェイドさん――」
 セブンは苦しげに頭を押さえている。だが割れてしまったということも無いようだ。傷つけてはしまったが、精霊の事だから、勝手に治るだろう。
「あなたが、つまらないことで口を割らないのが悪いんだからね」
 内心の不快感を抑えて、アルクェイドは冷たく言い放つ。そして冷酷にも背を向けると、ドアに歩き出した。
「マスターは――」
 精霊の呟きが、アルクェイドの足を再び引きとめた。怒りに顔を歪ませ、なにか怒鳴り散らそうと振り向くより先に、セブンはその先を続けた。
「マスターは、アルクェイドさんのことをすごく心配してたんです。このままじゃ、アルクェイドさんが大変なことになるって――心配してたんですよ……」
 その後は、声も無くすすり泣くばかり。アルクェイドは、じっと何かに耐えるような顔になると、そのまま外へと出た。その豪腕ならば、手も無く捻り殺せるような、か弱い精霊の一言。しかし、それがアルクェイドを打ちのめしていた。セブンの泣き声に追われるように、彼女はアパートを飛び出していた。
 マンションへと早足で歩きながら、ふと血の臭いに気づいた。思わず両手を目の前にやり、まじまじと見つめた。そこにべっとりとこびりついているのは、セブンの青い血。指先に、セブンの頭蓋が確かに壊れる予兆を感じた、あの戦くような感触が蘇ってきた。
「――――」
 世界が飴細工のように歪む。喉元にむかむかとこみ上げてきて、アルクェイドはたまらず吐いた。いや、吐くものも無くて、ひたすら餌付くだけだったのだが。知らぬ人の家の壁に手を突いて、しばらく吐き気に耐えていた。数え切れないくらいの戦いの中で、何度も返り血を浴びてきたというのに、セブンの血の臭いにだけは耐えられなかった。無害な少女を危うく手にかけるところだったという、その事実に耐えられなかったのだ。

 夜、志貴の部屋の窓を、ほとほとと叩く者があった。
「ん、レンじゃないか?」
 窓を開けた志貴は、黒い仔猫を招き入れた。黒猫は部屋の床に降り立つと同時に、可憐な少女の姿に変わった。
「どうした、なにがあったんだい?」
 レンは志貴の使い魔となってはいるが、普段はアルクェイドの元に預けられている。秋葉がレンの侵入を嫌うのだ。だから、秋葉が黙認してくれる昼のうちだけ、手許に置いている。たまには志貴の下に忍んでくるのだが、今日はレンの顔色が違う。恋愛沙汰には恐るべき鈍感さを発揮する志貴だが、こんな場合には驚異の敏感さを見せる。
「どうした、アルクェイドになにかあったのか?」
 レンの冴えない顔色を見て取った志貴は、すぐにアルクェイドに何かがあったのだと感づいた。そんな志貴に、レンは身振り手振りでなにかを伝えようとする。
「なに、暴れてる?」
 傍目にはレンが慌しく手を振ったり、志貴の顔を見上げたりしているだけのように見える。だが志貴には、レンの伝えたいことが分かっているようだ。使い魔と主の間には、不思議な縁があるようだ。
「淡々と暴れてるって?」
 レンが言わんとすることは理解できても、それがなにを意味するかは想像の外にあった。レンがいうには、アルクェイドが夕方に帰宅するなり、無表情に部屋のものを投げ捨て、叩き壊し、打ち倒し始めたというのだ。レンが怯えて、部屋の隅に逃げても、お構い無しに暴れまわっていたという。いや、その顔は、むしろ怒りを抑えているようだったらしい。
「あいつ、どうしちまったんだ」
 志貴は、いても立ってもいられぬという顔になると、ハンガーに掛かった上着を取り、ドアを開けた。と。
「兄さん、どうなさいました?」
 今まさに階段を上がってきた、秋葉とばったり出くわしたのだった。
「ちょっと出かけてくる」
 いつもは優しい志貴も、今はそんな余裕が無い。素っ気無くすり抜けるつもりだった。
「お待ちください」
「そうですよ、志貴さん。そんな、つれなくしないでくださいな」
 が、使用人姉妹が素早く道を塞ぐ。志貴は困った顔になった。
「どこに行かれるつもりですか?」
 答えは薄々分かっているはずなのに、目の前で邪魔する妹は、知らん顔で聞いてくる。思わず、舌打ちをもらす。
「なあ、秋葉。今日ばかりは見逃してくれないか」
 それでも下手に出たのは、誰も傷つけたくは無いという、志貴の優しさだったろうか。
「兄さん、今日ばかりはダメです」
 すると秋葉は真顔になり、ずいと顔を突き出してきた。
「いつもなら、兄さんのお気持ちを汲んで見逃すこともあるでしょう。たとえ私の意に染まぬと言っても、兄さんが逃げ出すのなら深追いはしません。でも今夜はだめです。絶対に、あの二人の下には行かせません」
 知ってるんだ――志貴は感づいた。秋葉は、そして使用人姉妹は、アルクェイドの身になにが起こりつつあるのか知っているのだ。
「行かせてくれ。アルクェイドが危ない」
「行かせませんよ」
 あっという間も無かった。なにか、かすかな違和感を感じた時、志貴は反射的に飛び退ろうとした。が、その時には、既にその力も無かった。
「なん、で……」
 意識を奈落へと墜落させながら、志貴は辛うじてつぶやいた。
「琥珀、いつの間に注射器を」
 やはり琥珀に、なにか注射されたのか。
「速さよりタイミングですよー」
 琥珀は上機嫌だ。
 秋葉は、志貴の上に屈みこむと、こういった。
「今、アルクェイドさんの所に兄さんを行かせると、アルクェイドさんとシエルさんの身が危ういのです。それ以上に、兄さんの身が。シエルさんからそう警告されました。余事はともかく、今日ばかりはシエルさんの警告に従うことにします」
 薄れ行く意識の中で、そこまで聞いた。が、どうして――と思い返す間も無く、志貴は気を失ったのだった。

 まるで爆弾テロにでも遭ったようだ。小物という小物は蹴散らされ、カーテンは引きちぎられ、椅子はトイレに叩き込まれている。窓枠の残骸がキッチンのガスレンジに突き刺さっている。木ネジも接着剤も使わず、見事に組まれていたウッドチェアは、製作者の苦労を踏みにじるように粉砕され、ベッドから隣室にかけて飛び散っていた。そしてそのベッドは、羽毛布団が引き裂かれ、ぶちまけられ、ベッドそのものは真っ二つにへし折られていた。
 そんな自室の惨状を、アルクェイドはボーっと眺めている。風通しの良すぎる窓の跡に腰掛けて、なにか途方に暮れたような顔になっている。
 疲れた――微かに、そうつぶやいた。確かに、疲れたのだろう。慣れない感情との格闘に。抑えがたい感情の振幅に。生まれてこの方、そんなものに煩わされることなど無かった。そもそも、感情などというものを持たされていなかった。そんなもの、志貴に『壊され』るまで、これっぽちも持っていなかったのだ。そしてなにものも持たず、ただ武器として保有されていただけだったのだ。
「疲れちゃった――」
 声に出してつぶやいた。本当に疲れきっていた。肉体は疲れなどかけらも感じて無い。外敵と戦うというのなら、どんな相手であっても、どんな手段であっても、問題では無い。ただ引き裂き、壊し、ぶちのめすだけだ。疲労など問題にならない。
 だが、この内なる敵は、今まで相対したことが無かったものだ。鋼の爪も、無敵の空想具現化も、なんの意味も無かった。心の中で暴れまわる感情、いや、彼女の心そのものこそが、彼女を苦しめている。
 シエルは敵なのに、同時にトモダチでもある――そんな不可解な関係にも疲れてしまった。秋葉は志貴の妹だが恋敵でもある。女中とメイドも、錬金術師も、同じようにいくつもの顔を持っているのだ。そんな複雑な世界にも倦んでしまった。全てが敵と味方に別れていた、そんな単純だった世界が懐かしい。人間ならば、生まれて育ってゆく間に、次第に理解してゆくことだ。生きるということは、そういう人間社会の有様を、その身に刻みつけてゆくことだ。幾度となく傷を負い、幾度となく挫折し、幾度となく学んでゆくのだ。だが、真祖の姫には、そんな生活史など、学ぶために生きてゆく時間など、かけらも与えられなかったのだ。なぜなら、彼女は殺戮機械だから。心など不要だったのだから。だから、誰もが自然に身に着けている、心の傷を癒す手段を知らず、ただただ混乱し続けているのだ。こんなに苦しいのなら、心など目覚めなければ良かったのに、とさえ思った。
 不意に、ヒッ、と顔をゆがめて笑った。ヒヒッ、と笑った。どこか凄惨な、歪な笑いだった。
 なあんだ、と思った。なんだ、そういうことか、と。
「要するに、世の中が複雑すぎるからじゃない」
 アルクェイドは立ち上がると、その強靭で優美な指を逸らせ、頭上に掲げた。
「なら、簡単にすればいい」
 一つの結論が下された。アルクェイドは、嘘のように安らかな顔で、窓越しに世界を眺めた。彼女が征服し、屈服させるべき世界を。それは、アルクェイドがその欲望に敗北した瞬間だった。真祖が吸血という欲望に敗北した姿を魔王と呼ぶのなら、アルクェイドは別種の欲望に屈した魔王に堕したのだ。
 秋葉が志貴に固執するのなら、誰が志貴の隣にいるべきか、分からせてやればいい。女中も、メイドも、その他の誰だって、同じように。誰だって、アルクェイドの邪魔をするのなら、排除すればいいだけだ。そうすればいいのだ。そうすれば、世界は敵と味方に綺麗に分かれる。いや、たとえ味方がいなくても――
「こんな、こんなことで苦しみ続けるのなら、たとえ味方がいなくても、ただ一人立っているほうがいい。わたしは全てを手に入れるわよ、シエル」
 その名を呼んだ瞬間、アルクェイドはキッと顔を上げた。
「来た――」
 音も無く窓から飛び出すと、まるで弾丸のように駆けた。因縁の公園までは、ほんのわずかな時間しか要さなかった。
 アルクェイドが噴水の側に姿を現した時、街灯の向こうの暗がりから、厳しく武装した姿が現れた。弓のシエル。
「あら、懐かしいわね、シエル。おめおめと生き延びていたのね?」
 見慣れたカソック姿に剣を提げたライバルに、アルクェイドはからかうようにいった。
「ええ、どうやら、わたしは相変わらず死ぬことが出来ないようですからね」
 いささか憮然とした顔で、シエルは言い返した。
「そう、良かったわ。これからいくらでも、何度でも、あなたを殺してあげることが出来るんだから」
「アルクェイド、まさか――」
 シエルの顔がひきつった。
「どうしたの? 恐くなったのかしら? そうね、いくら不死身でも、何度も殺されれば嫌気が――」
「まさか、わたし以外に誰か手をかけたのですか?」
 アルクェイドが、まるで自分に酔ったかのように続ける言葉を遮ると、シエルは強い口調で問い返した。
 アルクェイドの顔が怒りに歪む。高貴な真祖の姫君たる自分の言葉を遮った不届き者に。しかし、フッと嘲笑を取り返すと、馬鹿にしたようにいった。
「残念ね、まだ誰も片付けて無いわ。わたし、真理に気づくのが遅かったから」
「真理?」
「そう。この世は、このアルクェイド・ブリュンスタッドのためにあるんだって」
 あははは、と乾いた笑いをあげつつ、アルクェイドはゆっくりとシエルに歩み出した。
「わたしって馬鹿みたい。志貴に怒られるのが嫌だからって、ご馳走を前にずっとお預けを食らっていたって言うのに、大人しく順番が来るまで待ってたなんてね。そんな必要が無かったのよ、ご馳走が欲しければ、真っ先に飛びつけばいい。邪魔する者は全て片付ければいい。わたしにはそうする力があるのだから」
「アルクェイド、そうしてあなたが力でごり押しすれば、たくさんの善良な人が傷つくのです。その中には、あなたに好意を抱いている人だっているんです。遠野君だけじゃなく、秋葉さんだって、シオンさんだって翡翠さんや琥珀さんだって、みんな心の底ではあなたを気にかけているんですよ? それなのに、あなたは力にものを言わせるつもりですか。誰もが傷ついてしまうと分かっているのに」
 そう問い返すシエルは、まるで説得するような口調だった。
「そうね。みんな傷つくかもね。でも、そんなの気にするの、もううんざり」
 その一瞬、アルクェイドの顔に浮かんだのは、深い深い疲労の色だった。
「わたしは自由に生きたいのに、ただ思うがままに生きたいのに、どうしてまっすぐに歩いてゆけないの? そんなこと、もうたくさん。人が作ったルールに従う必要なんて無いもの」
「人の世界で生きてゆくのなら、人のルールに従うべきでは無いですか」
「そう思いこんでいたけれど――」
 アルクェイドは、ククッ、と歪んだ笑いを浮かべた。
「分かったのよ、もう、そんな必要は無いって。わたしは思うままに奪い、気の向くままに世界を支配するわ。まずは志貴の身の回りを綺麗にしてあげて、城に連れてゆくわ。死徒も教会も魔術師も、人間たちの世界だって、目に付くものは全部叩き潰してやる。そうすれば、世界は単純で、美しくなるでしょう?」
 一時、陰鬱な沈黙が落ちた。どこか歪で、陰惨な笑い顔のアルクェイドを、シエルはしばし見つめていた。やがて、なにか諦めたような顔になってゆく。
「――そうですか、そこまで思い至ってしまったのなら、もはや言葉で止める手立てはありませんね」
「ふふふ、それでどうするのかしら?」
「――腕ずくで止めるだけです。この剣にかけて」
 シエルは眦を決すると、右手に下げた黒鍵をかざし、アルクェイドへと身構えた。
「よくいったわ」
 アルクェイドは余裕の笑みを浮かべると、シエルに向かって足を踏み出した。シエルはじっと待ち構えている。ゾッとするような戦いの予感。シエルと数え切れないほど刃を交えてきたアルクェイドにも、今までとは違うものになる予感があった。
 二人は、戦いの一点へと近づいていった。

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