鉄槌 1



 夜の公園は肌寒い。特に冬も深まったこの時期ともなれば。
 からんからん。空き缶が風に煽られ、転がってゆく。ぽつぽつと点在する街灯は、寒色の世界を退屈そうに照らし出している。人通りは無い。動くものも無い。昏い街路樹が、通り過ぎる風に、ただ煽られるだけ。全てに見捨てられた、つまらない空間。誰もがここに背を向け、足早に去ってゆくだろう。実際、随分な時間が過ぎたのに、この周辺には人っ子一人近づいていなかった。冷静な観察者がいれば、なんと不自然な、と呟いたことだろう。
 そんな奇妙に寒々しい空間を、空っ風がざあっと吹き抜けていった。それが足早に通り過ぎた後に、忽然と立つ二つの影。
 人影の一つは、街灯の下を避け、暗がりに立っていた。それでもその白い姿は目立つ。闇の中で、なおも仄かに輝くかのように見える。
 相対する人影も一つ。こちらは近くの高校の制服を身に着けていた。眼鏡越しに青い、冷静な眼差しが投げかけられている。
 白い人影はアルクェイド・ブリュンスタッド。するともう一つは埋葬機関の弓ことシエルなのだろう。この二人がこの街にとどまり、しかも共存しているらしいという情報は、その名を知る者たちを困惑させ、半信半疑にしてきた。かの二人がそこに留まる、いかなる理由があるのか、と。
「シエル――」
 アルクェイドが一歩進み出た。穏やかな声だったが、目元にわずかな険がある。
「昨夜は志貴と一緒に居たの?」
 声は平静だったが、聞く者を思わずたじろがせる威圧が込められていた。返答次第では――と、微笑すら浮かべているその美貌に、得体の知れぬ凶悪な情念が潜んでいるのが分かる。
「ええ、遠野くんは優しくしてくれましたよ?」
 アルクェイドの底意に気づいているのかどうか、シエルは微妙に外した答えを返す。と、アルクェイドの美麗な眉間に、微かに険が宿った。
「そんなことまで聞いて無いわよ。志貴がいたかどうかを聞いたのよ」
「ですから、遠野くんと楽しい時間を過ごしましたよ?」
 相変わらず、シエルの声は楽しげで、どこかからかうようだった
「そう。じゃあ、二度と志貴に寄り付かないことね」
 アルクェイドは切り捨てるようにいう。
「あら、どうしてアルクェイドが、わたしと遠野くんの恋路を邪魔するんですか? 人の恋路を邪魔する者は、馬に蹴られて死んでしまえって、いいません?」
「うるさい」
 シエルの、人を小馬鹿にしたような話し方に、アルクェイドはいつに無くピリピリしているようだ。
「あなたの下らない軽口はたくさん。イエスかノーかよ。それ以外の答えなんて、聞きたくない」
「どうしたというのです」
 シエルは、ふと眉根を寄せた。
「いつものあなたらしくはない。いつものあなたなら、むしろ遠野くんの所まで飛んでいって、どこかに攫っていってしまうのに」
「そうね。そうしたら、あなたや妹が割り込んできて、いつものような痴話喧嘩が始まるわけね」
 アルクェイドは、ギリッと奥歯をかみ締めた。
「そんなのは、もうたくさん。原因を無くす時が来たのよ」
「あれあれ、なんだか物騒な話になってきましたね」
 相変わらず軽口を叩きながらも、シエルはさりげなく構えを固めている。いつでも戦えるように、どこからか黒鍵の柄を滑り出させる。冷や汗が一筋、その首筋を伝った。
「ケリをつけるのよ」
 アルクェイドは、急に怖いほど醒めた顔になると、スッと足を踏み出した。シエルは、わずかに顔を強張らせると、アルクェイドと距離を取るべく後ずさり始める。
 10メートルほども下がっただろうか、シエルは厳しい顔になると、音もなく黒鍵の刃を編んだ。スッ――と、街灯の無機質な灯りを煌かせ、危険な刃が伸びる。
「それ以上近づくと、討ちますよ?」
「やってみれば?」
 アルクェイドは冷然と言い返すと、なおも平然と歩み寄ってくる。シエルの表情が厳しくなった。
 先に動いたのはシエルだった。地を蹴り、弾丸のように低く、アルクェイドめがけて飛び出す。白銀の煌きが走る。
 シエルは剣を一閃していた。その切っ先はアルクェイドを捉えたはずだ。だが――アルクェイドは避けたとも見えなかったのに、傷ひとつ負うことなくシエルの脇をすり抜けていた。
「うっ……」
 シエルは黒鍵に目をやった。微かな衝撃すら感じなかったというのに、それは根元から、まるで飴のように折り曲げられている。
「ははっ、馬鹿の一つ覚えじゃないの!」
 アルクェイドは嘲りながら、凄まじい蹴りを繰り出した。文字通り、目にも留まらぬ速さだ。風切る音すらしなかった。それは文字通り爆発的に行使された。
 だが、シエルもまたそれを交わして見せた。アルクェイドの強力は、シエルの背にしていた木立をなぎ払い勢い余って地面を一坪ほども吹き飛ばしてしまう。それでも、シエルは身を海老のように折り曲げ、見事かわしたのだ。
「このっ――」
 シエルが体勢を立て直す暇があればこそ。アルクェイドの次の一撃が繰り出される。右手の爪の一撃がシエルの首を狙う。だが、シエルは立て続けに横っ飛びになると、それすら交わしきった。しかし、それでもこの神業には代償が付いて回った。飛んだ先の街灯に対して受身を取れず、強かに体を打ちつけてしまったのだ。わずかにうめき、思わずふらついた。
「ちっ」
 アルクェイドは追いすがり、情け容赦なく肘打ちを繰り出す。至近距離から繰り出される危険な一撃。しかし、シエルはそれさえも交わした。あらん限りの速さでアルクェイドに突進し、繰り出される肘を横打ちにして交わしたのだ。だが――
「――!」
 シエルは声さえも立てず、数歩飛び下がり、それから初めて吐いた。血を――
 アルクェイドは、肘打ちをかわされると見るや、即座に地に足を止め、飛びすぎるシエルの背中を片足で打ったのだ。無理に無理を重ねた一撃。だがそれは、シエルの守りきれない弱点を、その背骨を一撃していた。
 思わず身を折って血を吐きながら、しかしシエルは後ろに飛び退っている。果たして、アルクェイドは素早く、猛禽のように追いすがっていた。まるで感性の研ぎ澄まされた野生と、狩人の戦いを見るようだった。
 戦いは一方的になってきた。シエルはなんとかアルクェイドの攻撃を凌ぐ。が、致命的な一撃を避ける度に受けるダメージが、神ならぬシエルの肉体を蝕んでいた。驚異の回復力も、これほど一方的に攻撃され続ければ、もはや意味を持たない。
 ふと風が止んだ時、そこには遂に地にうつぶせになったシエルと、そのシエルの頭に足をかけているアルクェイドの姿があった。決着がついたのだ。二人とも血で朱に染まっている。だがシエルが全身に傷を負っているのに対し、アルクェイドのそれは返り血だった。彼女は、小憎らしいほど余裕のある、その癖になにかピリピリとした剣呑な表情を貼り付けたまま、シエルを見下している。シエルの全身は、ほとんど無事な部分がなかった。辛うじて機能しているに過ぎないほどだった。もはや抵抗する力は残されていない。
「分かったでしょう、あなたはわたしに敵いっこないの。所詮は人から成ったものと、最初から至高の真祖であったものとで、勝負になるわけ無いじゃない?」
 まるで優しく言い聞かせるような口調だが、あふれ出る傲慢さと、シエルを足蹴にしている態度が裏切っている。だがそれは、いかにもアルクェイドらしいともいえた。
「ねえシエル――」
 アルクェイドは、ふと思いついたとでも言うように、口にした。
「あなた、もう不死じゃないのよねえ――」
「――」
「このまま殺してしまったら、あなたはもう生き返れないのよねえ。志貴とも二度と会えないのよねえ」
 まるで歌うように、シエルにとって逃れがたい過酷な運命を指し示すアルクェイド。シエルは黙して返さないが、そのことを恐怖とともに考えざるを得ないのは明白だ。今、アルクェイドが足を振り下ろしただけで、シエルの生は遂に終わる。
「どうかしら――」
 どこか楽しげに、アルクェイドは切り出した。
「あなたが志貴から身を引いてくれるだけでいいのよ」
「なに――」
「それだけでいいのよ。簡単なことじゃないの。バチカンに帰ればいい。以前と同じ生活をすればいい。それだけじゃない。簡単な和解案でしょう?」
 アルクェイドは、本当に簡単で、寛大な和解だと思っている。それがアルクェイドのどうしようもなく傲慢で、愚かな部分だとは、自分自身では考えてもいなかった。自分を寛大で、物分りのよい大君主かなにかだと思い込んでいるのだ。多くの愚かな独裁者同様に。
「たった一つの約束だけで、あなたを見逃してあげるわ。どうシエル、悪い条件じゃないでしょう?」
「そこまで――」
「ん?」
「あなたは、そこまで愚か者だったのですか」
「――!」
 静かな、しかし怒りを秘め断固とした断罪。それを予期していなかったアルクェイドは、全身がカッと熱くなるのを感じた。怒りに血が上るのを感じる。その瞬間、勝者と敗者は、まるで逆転していた。
「なん、ですって」
 怒りを辛うじてこらえつつ、アルクェイドはシエルを踏みつける足に力を込めた。ごきり、と何かが砕ける音がする。シエルは、苦痛をこらえきれず、微かな呻きをあげた。
「もう一度言ってみなさい、シエル。あなたを後悔させてあげる。いいえ、後悔すら出来ないようにしてやるんだから。その小憎らしい口を二度と利けないように――」
「愚か者には愚かという他にありません。あなたは、人がただパンのみに生きていると思っているのですか? そんな浅はかな愚か者に頭を下げるのは御免です。まして、遠野君をあなたに委ねるなど。顔を洗って出直してきなさい、自称高貴な吸血鬼。愚かで傲慢なあなたに、そもそも遠野君が靡くわけがありません」
 自分の運命を悟りつつも、シエルは気高く拒絶の言葉を発した。それを理解したとたん、アルクェイドの頭の中で、何かがふつりと切れた。目の前が真っ赤に染まるほどの怒り。傲慢で、己を絶対と考える者たちの全てがそうであるように、アルクェイドにとっても自身の浅慮と愚劣さを指摘されるほど、怒りを掻き立てられる事態は無い。アルクェイドは、文字通り目の前が見えなくなるほどの怒りに支配された。そして、それに突き動かされるまま、アルクェイドはシエルに掛けた足に、渾身の力を込めた。
 力任せにシエルの頭を踏み砕いていた。卵が割れるような音と共に、シエルの頭があっけなく砕け散る。かつてシエルだったものの飛沫が、周囲に血しぶきを散らす。勢い余って、地面のアスファルトまで踏み抜いてしまい、耳障りな音と共に、アスファルトが陥没する。踏み抜くまで、アルクェイドはまったく力を緩めなかった。
 激しい破壊の後の、一瞬の弛緩。アルクェイドはふと我に返った。そして、ゆっくりと後ずさった。目の前に奇妙なオブジェがあった。路面のアスファルトに、蜘蛛の巣状の割れ目が走り、その真ん中から女の身体が生えている。シエルの身体は一瞬痙攣すると、それきりで動かなくなった。
「あ――」
 それを見て、アルクェイドは何かを悟った。死を知らなかったシエルに、終に死が訪れたのだと。それも、こんな形で。
「――――」
 なにか、取り返しの付かないことをしてしまった気がして、我知らず立ちすくむ。シエルに死を与えたのは彼女だというのに、その事に自分自身が驚いている。およそ真祖の姫らしくも無い、間の抜けた顔だった。シエルが本当に死んでしまうなんて、今の今まで考えたことが無かったとでもいうように。たった今、自分が仕出かした行為に、既に激しく後悔しているとでもいうように。
 シエルの死骸が冷え切る程の時間が過ぎてゆく。アルクェイドは、まるで凍り付いてしまったかのようだ。青褪めた顔には、取り返しの付かないことをしてしまったという、恐怖に似た色が張り付いていた。冷や汗が幾筋も垂れ落ちた。
 が、やがて彼女は、なにかの覚悟を固めたような顔になると、ニヤリ、と凄絶な笑みを浮かべた。
 なにを恐れているというのか。異端の長たる真祖の姫と、異端を狩る代行者との間に、平和などありえない。仮初の平和は、お互いの政治的駆け引きと、遠野志貴という融和要素のもたらした奇跡に過ぎないのだ。その融和要素が対立要素へと変わった時、最終的対立に至るのも当然といえた。これは必然の結果なのだ。
「わたしがやらなかったとしても、シエル、あなたがわたしをやったはずよね」
 無惨な骸へと、言葉を投げる。
「わたしとあなたが肩を並べて笑いあう。そんなのは偽りの奇跡に過ぎなかったの。所詮は滅ぼしあう者同士。幻想が破れる日が来たってことじゃないの。さよなら、シエル。わたしは、志貴と幸せに生きるから」
 もちろん、骸から答えが返る訳がなかった。
 アルクェイドは、青褪めた微笑を唇の端に宿すと、背を向けて歩き出した。一つの仕事が終わり、一つの束縛から解放された気分だった。だというのに、心が寒い。なにか、夢を見ているような気分だった。

 マンションに帰り着いた。
「レン、おいで」
 ベッドの上に寝そべっていた黒猫に、手を差し伸べた。レンはチラリとアルクェイドの方を見たが、急に立ち上がると、そろそろと後ずさった。その目に、なにか咎めるような色が浮かんでいる。
「レン」
 アルクェイドの声が厳しくなる。今は、レンの気まぐれに付き合う余裕が無かった。が、差し伸べている我が手に目をやり、不意に思い至った。レンが嫌がるのも当然だ、と。なぜならば、その手は、シエルの血で汚れているのだから――
「ごめん」
 一言だけ詫びると、服を脱ぎ捨てながら、シャワールームへと向かった。
 濡れた髪のままベッドに戻ると、裸のまま寝そべって、やはり寝そべっていたレンを、その手に抱いた。今度は、レンも嫌がらない。大人しく、アルクェイドに抱かれてくれた。
 レンの柔らかい毛並みを撫でる。こうしてレンを抱いてやるなんて、以前のアルクェイドからすれば、考えられないことだった。アルクェイドとレンの関係は、単に預かっただけ。その事に尽きる。以前は、たまに便利に使うくらいで、手許に置いて保護してやるだけの関係だった。だというのに、今はこうして抱いて眠ることが増えている。
 そもそも、レンは志貴の使い魔になったのだから、もはやアルクェイドの部屋に置いておく理由は無い。屋敷にずっと置いておくのはまずいから、と志貴に頼まれたのは事実だが、こんな風にアルクェイドの方から引き止める理由など無いはずだ。だというのに――
「――」
 アルクェイドは、無意識にレンを抱きしめた。そっと、壊さないように。なぜだか、今夜は心が冷えている。
 あいつのせいだ――と、アルクェイドは心の裡でつぶやいた。だが、その"あいつ"が誰なのか、彼女自身にも判然としない。ちらちらと誰かの顔が脳裏を掠める。だが、それは忘れてしまいたい顔のはずだった。
 レンは、ちょっと迷惑そうな顔をしている。だからといって逃げ出すわけでもなく、大人しくしている。
「ねえ、レン。まだ血の臭いはする?」
 腕の中の黒猫に、そう問いかけてみた。レンは興味無さそうに顔を上げると、それでも首を振って見せた。
 なにを聞いてるんだろう、と、アルクェイドは僅かに自己嫌悪を覚えた。血の臭いなど、もう残ってないはずだ。そんなこと、誰よりも鋭敏で狂いの無い、彼女の感覚が教えてくれる。だというのに、気になる。
「――あの馬鹿……」
 そんなアルクェイドのつぶやきに、レンは片耳を立てて反応した。いったい、誰のことを言ったのだろう。だがそれは、果たしてアルクェイドにも分かっているのだろうか。
 心は冷えている。せめて温もりを感じたくて、レンを胸に抱いて、じっとベッドにうずくまっていた。

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