全てが終わるとき/ポロロッカの砕ける川辺で/蝉の声を聴いた 6


 久しぶりに、平穏な気持ちで目覚めた。誰かに吹き込まれた上滑りな幸福感に浮つくわけでもなく、心の中心にあったはずのものの喪失感に苛立つわけでもなく。
 もう、この目覚めで最後だと分かっていた。もうすぐ、俺から奪われたものを取り戻せると分かっていた。そして、二度と目覚めぬ眠りへと、続いてゆくのだとも。
 ベッドから身を起こした。翡翠はいない。恐らく琥珀さんも居ないのだろう。それどころか、この世界には、俺以外の誰も居ないに違いない。それが俺の、遠野志貴の終焉にはふさわしい。どうせなら、ごちゃごちゃな日常の中で消えてゆくのがいいかなと思ってきたけれど、静かに、一人きりで消えてゆくのも悪くない。それに、もうすぐ取り戻せるのだから、俺の、一番大切な――
 なぜか、それだけがベッドサイドに置かれていた着替えに腕を通した。なんだか、翡翠の気持ちだけが、ここに現れたかのようだ。眼鏡をかけると、俺は強いて落ち着いて、屋敷の階段を降り、裏庭へと向かった。歩く度に目がかすむ。世界はこんなに明るくて、全てがシンプルで美しい。でもそれは、この夢を見ている主体、遠野志貴が、もはや夢見る余力さえ持っていないことを意味していた。だから、世界からは、それをリアルに見せていたディテールが欠けていた。空はあくまでも青く、雲はあくまでも白く、森はあくまでも瑞々しい。子供が水彩絵の具で精一杯に描き出した世界。でもそれが、この遠野志貴に残された全てなのだ。そしてその中には、ちゃんと<それ>も残されている。
 <それ>は、間違いなく、森の奥のあの小さな広場にある。木立の開けたところ、カエデの樹の立つ傍に。この世界で唯一、リアリティが壊れる魔法の場所、そこに隠されている。木を隠すなら森なんていうけれど、この場合は階段の下に秘密の隠し場所を作ったって事か。いやむしろ、隠したいものの上に階段を作ったということなのだ。きっと、そこからだけは、<それ>を奪うことが出来なかったのだろう。なにかの理由で、<それ>とあの広場の関係を断ち切れなかったのだ。おそらくは、あの場所が、俺にとっても、<それ>にとっても、とても重い意味を持っているからなのだろう。あるいは、俺から<それ>を奪おうとした者の、良心の現れなのだろうか。
 裏庭を歩きながら、終わりの到来を肌で感じていた。十歩進む度に立ち止まり、意識を奮い立たせる必要があった。でも大丈夫。とうとう終電の時間になったけれど、なんとか間に合った。こんな状況なのに、まるでピクニックにでも出かけるように、少しうきうきした気分だった。
 やがて、あの広場に続く、低い草むらが見えてきた。その草むらを越えたところに、きっと待っている。待ってくれている。心が浮き立ってきた。意識の隅々までが明瞭になり、高揚感が行き渡ってゆく。絶えてなかった感覚が蘇ってくる。そう、待っているんだ、<それ>が。
 その時だった、「遠野君」と、背後から声をかけられたのは。
 まったく想像もしていなかった事態だったので、俺は内心大いに驚いた。が、すぐに当然の結果なのだと気づいた。俺があの子――夢を司っていた魔物の少女――を説得したとき、夢見させるように依頼していた者もまた、そのことを知ったはずなのだから。
 振り向くと、果たしてシエル先輩が、俺を睨んで立っていた。
 驚いた。だって、シエル先輩は、今までの夢に出ていたそれとは全然異なっていたからだ。生きている者だけがまとっている生気、俺の想像を超えるディテールを、そのシエル先輩はまとっていたからだ。
「シエル先輩。本物なんだね?」と、思わず間抜けな質問をしていた。
「はい。もう一刻の猶予も無いと分かりましたから、夢魔に頼んで夢に強制介入させてもらったのです。平たく言えば、遠野君の意識に、私の意識を繋げたのです。遠野君にとっても、私にとっても危険なことですが、仕方がありませんでした」
「そうかい。ごめん、先輩。ずいぶん心配を掛けたようだね」
 俺は一瞬、シエル先輩から目を逸らし、森の向こう、この屋敷の外へと思いをめぐらした。なにかが迫ってくるのが分かった。その圧迫感が、脅威が、俺の心に届いている。俺は衝動的に、シエル先輩に向かっていった。
「先輩、俺は死にかけているんだな」
 シエル先輩は、無表情に、しかしその実、一瞬だけなにかをこらえるような顔になった。
「――ええ、遠野君は、既に危機的な状態にあります」
「だから――あれは俺の終わりなんだな」
「恐らくは。あの大海嘯は、遠野君の終末を視覚化したものなのでしょう。現実的に対処可能な敵や事象でなく、どうしようもない自然現象を真似ているところに、事態の回避不可能性が表現されているのでしょう」
 つまりあれは、俺の、遠野志貴の、不可避の死を意味しているのだ。
「遠野君、思い違いはしないでください。確かにあれは遠野君の必然の死を意味していますが、その意味では誰もが抱えている脅威に過ぎません。遠野君が生きる気力を持てば、あれはその分遠ざかります。遠野君がふつうの暮らしに戻って行ければ、象徴としての死などもはや視界の外へと消えるでしょう。あれが見えているのは、遠野君が生きる力を失っているからです」
 俺の心にもやもやとしたものが渦巻いた。もしかしたら、それは迷いなのかもしれない。
「先輩、俺の死と、先輩が俺から奪ったものとは、関係があるんだな」
 先輩が奪った――俺がそう口走ったとき、シエル先輩の顔には苦痛に似た色が浮かんだ。
「遠野君。他にどうしようも無かったのです。遠野君は、<それ>を思うあまり、思い続けるあまり、世界に対する関心を失ってしまったのです。遠野君は、生き続ける動機を失ってしまったのです」
「どうして――」
「遠野君は、<それ>を自分の手で殺してしまったのです」
 シエル先輩が痛みすら感じる口ぶりで告げた時、俺の心の真ん中をなにかが打ち抜いていった。俺が殺した――そうか、そうだったのか……。
「察しの通り、<それ>は遠野君にとってなにより大切な――ものでした」
 俺に掛けられた強い規制は、俺の世界にとどまっているシエル先輩にも作用しているのだろう。もどかしげな口調だった。
「だけど、<それ>は、自分が壊れたとき、遠野君の手で殺してくれるように願いました。そしてその願いを、遠野君は聞き入れてしまったのです」
 俺の頭の中を、言葉になる前のものが、イメージになる前のものが、ぐるぐると駆け巡っている。もどかしい、頭が爆発しそうだ。すべてを理解しているのに、言葉にすることも、思い出すことさえもできない。
「その時、遠野君は生きる理由を失ってしまったのです。生き続けてゆく理由を。最初のうちこそは、遠野君も生きる意味を見つけようとしました。きっと、遠野君を支えようとした、琥珀さん、翡翠さん、私のために。そしてなにより、遠野君が願いを聞き入れた<それ>のために。でも結局、出来なかったのです。遠野君は<それ>を思い続けるあまり、<それ>との思い出を抱きしめるあまり、今を生きることを止めてしまったのです」
 シエル先輩は、俺の方に歩み寄ると、手を取った。久しぶりに感じる、生きた人間の暖かさ。シエル先輩は、必死の表情で続けた。
「遠野君。あなたは<それ>を忘れなければなりません。いえ、本当に忘れることは無いんです。目を外に、私たちに向けて欲しいんです。遠野君にとって<それ>の無い世界は不幸なものなのかも知れません。でも耐えてください。今、生きている私たちのために生きてください。琥珀さんに翡翠さん、乾君に有間のご一家、そして私のために生きてください。私のことを女として愛してくれなくてもいいのです。私たちの生きる導になってください。この世界の不幸に耐える勇気を取り戻してください」
 信じられない。あのシエル先輩が、こんなに涙を流しながら、他ならぬ俺に懇願するなんて。でも――シエル先輩は勘違いしている。俺はそれに気づいてしまった。俺は一拍置くと、俺を見つめているシエル先輩の肩に手を置き、自分の心をしっかり見つめながら、こういった。
「ありがとう、先輩。先輩が俺のことをそこまで大切に思ってくれているなんて、知らなかった。そしてきっと、琥珀さんや翡翠も、もしかしたら有彦や有間の人たちだって、俺のことを大切に思ってくれているのかもしれないね」
「だから、遠野君――」
「でもね、先輩、俺は不幸だから生きてゆけないわけじゃないんだ。俺はね――幸せになりたいだけなんだ」
「遠野君、それはどういう――」
 シエル先輩の目に、なにかを恐れるような色が宿った。
「そりゃあ俺だって長生きはしたいと思うよ。でも、俺にとって、<それ>が、大切なものが無い人生なんて、意味無いんだ。どのみち、俺に残された時間はとても短い。他に道が無いなら、それをなんとか引き伸ばそうと足掻いてもみるんだけど、その必要は無いんだ。だって、あそこに、あの広場に、俺の幸せがあるんだから」
 俺の結論を予期したのだろう。シエル先輩の顔に、恐怖に似た色が走った。
「でも、でも、<それ>はもう、失われたものなんですよ?」
「違うよ。<それ>は、俺の心にあるんだ。ちゃんとあるんだ。失いようが無いんだ。探すまでも無く、いつだって、ずっと、<ここ>にあったんだ。俺を待っていてくれたんだ」
 その時、俺はきっと笑っていたのだろう。だって、そのことについて考えると、あまりに幸せだから。<それ>が戻ってくることを考えただけで、こんなに幸せだから。本当にそれを取り戻せたら、俺はどれくらい幸せになってしまうんだろう、と。
「だからね。俺は<それ>を取り戻せるだけでいいんだ。それだけで、遠野志貴の一生はハッピーエンドなんだ。きっと、俺くらい幸せな死に方をする奴はいないよ。だって、心がこんなに弾んでるし、<それ>の思い出を抱きしめるだけで、俺がどんなに幸せになれたか、憶えているし。そのまま死んでしまったとしても、それは単にそれだけのことさ。人生が長いか短いかの違いでしかないのさ。一番大切なものを抱きしめて死ねる。それ以上幸せな死に方なんて無いのさ。たとえ夢の中であってもね。だから、遠野志貴は、<それ>だけを選択するんだ」
 話すべきことを話し終えた。後はやるべきことをやるだけだった。俺はきっと、<それ>を失ってからも、なおも未来に生きる意味を求めていたのだろう。やはり死んでしまうのは怖かった。無になるのは怖かったから。結局、そんなもの見つからなかった。でも今を生きることを諦めて、時の回廊のわき道へと逸れた時、俺は<永遠>を見つけてしまったのだ。
 シエル先輩は、まだ諦めきれないのか、どこか呆然とした顔でいった。
「こんなにお願いしても、私たちのために生きてくれないのですか」
「ごめん。みんなの力になりたいとは思う。でもね、たとえ俺がいなくっても、みんなは自分の人生をちゃんと生きてゆけるよ。先輩、俺にはもうチャンスが無いんだ。俺が本当に<それ>を忘れることなんてできないし、忘れようとすることすらできない。それでほんの数年の違いでしかないのなら、みんなには悪いけど、俺は自分の幸せのために正直になるよ」
「そう、ですか――」
 うな垂れて、しかし俺に怒りを向けて見せながら、シエル先輩はつぶやいた。
「これだけいっても分かってくれないのですか。遠野君は、本当に愚か者だったのですね……」
 シエル先輩は声を震わせながら、俺に背を向けた。
「そんな大馬鹿者のことなど知りません。生きている者より、死んだものを選ぶ愚か者など知りません。私が好きになった遠野君は、そんな愚か者ではありません。もう、好きなようにすればいい――」
 かすれた声でそう告げて、シエル先輩は立ち去ろうとした。シエル先輩は怒ってない。怒って見せようとしているだけだ。シエル先輩は悲しんでいる。俺は、俺たちのことを何度も助けてくれた心やさしい人を、こんな形で傷つけてしまったことを悔やんでいた。だから、立ち去ろうとしているシエル先輩に、こう言わずにはいられなかった。
「先輩、ごめん。そして、本当にありがとう」
 シエル先輩は、一瞬だけ肩を震わすと、それから屋敷の方に歩み去っていった。
 俺は裏庭の奥へと顔を向けた。ああ、とうとう、エピローグが来ちまったな。

 裏庭の奥の小さな広場。この世界の特異点へと、俺は足を踏み入れた。もう、どこかに飛ばされることは無いはずだ。その、こぢんまりとした広場に立った時、俺の頭の中をなにかが荒れ狂った。草地の上に横たわるその姿を目にした時、俺の中でなにかが解放された。禁忌が解けたのだ。そしてなによりも、あれ――いや、あいつが、その広場で待っていたのだから。胸が張り裂けそうだ。両目から、俺の意思とは無関係に、涙があふれ出した。俺は、口にしたくても口に出来なかった、思い出したくても思い出せなかった愛しい名を、やっと叫ぶことが出来た。
「秋葉――!」
 俺は、広場の真中に駆け寄ると、恐る恐る手を差し伸べた。この瞬間に魔法が解けて、すべてが白紙に返るのを恐れるように。そんな必要は無かった。もう、秋葉は、俺の心の中から失われることが無いのだから。
 秋葉は、赤い和服を着て、草地の上に気持ち良さそうに横たわっていた。まるで午睡しているように。まるで生きているように。少し微笑んでさえいて。
 俺は手を差し伸べると、自由が利かず震える手で秋葉を抱き起こし、力いっぱい抱きしめてやった。秋葉の匂いが蘇る。胸が、胸が一杯になる。
「秋葉、ごめん、ごめんな。待ってたんだろう?」
 抱きしめた秋葉の体は温かかった。でも秋葉は死んでいた。たった今死んだ者の温かさだった。俺が殺したからだ。俺が秋葉の願いを受け入れてしまったからだ。そんなことはするべきじゃなかった。俺が秋葉のために死ぬべきだったんだ。
 秋葉、お前には、俺の何倍も、何倍も幸せになって欲しかった。ずっと笑っていて欲しかった。そのためなら、俺の命なんてどうでもいいものだったのに。それなのに、俺は、お前の願いを聞き入れてしまった。この遠野志貴は、なんていう馬鹿だったのだろう。いまさら全てが遅い。もうすぐ俺も、お前と共に黄泉の住人になるだろう。
 意識が朦朧としている。もう限界だった。舞台にはカーテンが降り始めている。でも大丈夫。俺は間に合ったんだ。こうして秋葉を取り戻せたんだから。自由の利かないまま、俺は両手に、秋葉を抱きしめた。胸一杯に暖かな想いが溢れてきた。この遠野志貴は、遠野秋葉のことを、どれほど大事に、愛しく想ってきたのだろう。世界中に背を向けても構わないほど、俺は秋葉を想っていたのだ。秋葉が願いさえしてくれたならば、俺は世界を敵に回してでも、秋葉を守り抜いたというのに。なのに、秋葉が望んだのは死だった。
 秋葉、これでも、死が救いになったというのか。俺はお前の死を、とうとう乗り越えることが出来なかった。でもいいんだ。ちゃんとお前の望みをかなえてやったし、俺の望み通りに添い遂げることも出来たじゃないか。これでいいんだ。これで良かったんだ。
 薄れてゆく身体感覚を通して、世界が崩壊してゆく様が分かった。世界は、天を突くような高波に取り囲まれている。もうすぐ、あの大海嘯がすべてを飲み込んでしまうだろう。もう、この小さな広場の他には、俺の世界は何一つ存在しない。でも十分だ。俺と秋葉さえいれば。
 抱きしめた腕の中で、俺と秋葉の体温が近づいてゆく。秋葉が生き返ることは無いんだから、それはきっと、俺が死んでゆくということなんだろう。
 俺の鼓動が秋葉の中に溶けてゆく。秋葉が蘇ることは無いんだから、それはきっと、俺が終わってゆくということなんだろう。
 俺と秋葉が溶けてゆく。一つになってゆく。やっと間に合ったんだ。俺はきっと、笑顔を浮かべていただろう。

――そうして、遠野志貴の世界に、死がやさしい翼を広げ、覆い尽くしてゆく。森も、俺たちも、共々に消えてゆく。だというのに、死に行く俺の耳に、それだけがはっきり届いていた。

 どこかとおくで、せみのこえが、みーん、と――――

TOP / Novels