全てが終わるとき/ポロロッカの砕ける川辺で/蝉の声を聴いた 5


 俺は幸せだ――そう信じていた。俺は幸福な男だと信じていた。いや、そう信じさせられていた。俺には思いを寄せてくれる女たちとの楽しい生活があり、遠野家の名目上の跡取りとしての財もあった。学生としてあり余る時間を好きなだけ浪費してもいいし、気心の知れた悪友と密やかな悪徳に耽るのもいい。俺がどっちを向こうと自由だし、なにをしようと勝手だ。気ままに生き、死んで行くだけだ。
 だけど――俺は幸せなんかじゃなかった。俺の周りに集まる人々は、それぞれみんな大切な存在だし、今の生活を失いたくない気持ちも強い。だけど、無いんだ。一番大切なものが。俺の心の真ん中にあった、俺の一番大切なものが無いんだ。それは、誰かが、どうにかして、俺の心から奪い取ってしまったのだ。俺は<それ>を知っている。どれほど大切な――ものだったかを知っている。だけど、この世界では、<それ>自身について考えることはおろか、<それ>が何であったのかを考えることすら難しい。なにか、強い規制が掛かっている。俺は<それ>について、指示代名詞で指し示すことしか出来ないんだ。
 それでも、それがどれほど大切なものだったか、はっきり分かる。<それ>が抜け落ちた空虚が、俺の心の中に大きく口を開けている。その空虚の巨大さが、俺にとっての<それ>の存在の大きさを、まざまざと見せつけるのだ。
 <それ>があること――幸せ。<それ>が無いこと――不幸。それが、俺にとっての、一番単純な真実なんだ。

 いつものように目覚める。目覚めようとする。ふと翡翠の声を聞いたような気がして、意識が徐々に覚醒してゆくのだ。やがて目を開けて、翡翠に朝の挨拶をするだろう。が、それ以前に、俺はすぐに成すべきことを思い出していたのだった。
「志貴様、おはようござい――」
 目を開けた途端、翡翠がそう言いかかるのも無視して、俺はベッドから飛び降りた。
「志貴様?」
 驚いて立ちすくむ翡翠を無視して、俺は机に投げ出してあった七つ夜を手にすると、いきなりベッドに見えている死線を切った。ベッドが崩れ落ちる前に、窓を蹴破って外に飛び出す。足が地面に着くや否や、屋敷の壁に見えている死線を大きくなぞりながら、俺は突っ走った。屋敷が崩壊する。その轟音に混じって、琥珀さんか翡翠かどちらかの悲鳴が聞こえた気がしたが、俺は気にも留めず駆け出すと、屋敷の塀をも一瞬で崩壊させた。さらに庭の地面に見えている死線を次々に切る。堅固なものと思われた地面すら崩壊し、遠野家の敷地はあっという間に陥没、崩壊してゆく。
 崩れ落ちる塀を飛び越し、坂道に沿って走りながら、目に付くもの全ての死線を切って、切って、切りまくった。電柱が、家屋が、車が、そして車道すら崩壊してゆく。闇雲に走り回りつつも、俺は冷静に死線を目で追い、大きく切っていった。まるで、遠野家の立つ丘を巡るようにして、破壊の手を広げていった。手当たり次第に切る、切る、切る。俺はこの世界を構成するもの全てを崩壊させるつもりだった。中に人が居ようが関係ない。だって、これは誰かが俺に見せている夢なんだから。誰かが、いかなる目的でか、俺にこんな夢を見せている。一番大切なものだけが無い世界を与えている。俺が聞きたいのは、それがなぜなのかということだ。その為には、俺に夢を見せている張本人を引っ張り出す必要があった。
 まあそれは、あの人なんだろう。こんなことが可能なのは、あの人しか思いつかない。そう、シエル先輩だ。俺が夢の構造に気づき始めてから、あたかも自然な形を装って、俺との接触を避けてきたあの人だ。そのシエル先輩を引っ張り出すには――この世界を壊し尽くせばいい。そうすれば、シエル先輩は俺がなぜそうしたのか、確かめる必要を感じるだろう。
 丘の裾野に沿って、ぐるりと回ったようだ。ちらりと振り向くと、背後には爆撃にでも遭ったかのような惨状が広がっていた。だというのに、俺はただ一人の人間も見かけてないじゃないか。どうやら、夢を見せている者は、この非常事態に追われ、リアリティを維持できていないらしい。ふと、目眩のようなものが襲ってきた。無理もない、これはポンコツのエンジンに鞭打って、無理矢理に馬力を絞り出すようなものだから。いや、むしろ、切れかけた電池から、最後の電力を絞り出すようなものなのかも知れない。予感はますます強まっているのだが――どうやら俺は危険な状況にあるらしい。夢の世界の俺ではなくて、現実の俺だ。これほど目覚めず、夢を見ているという事は、現実の俺になんらかのアクシデントがあったという事だ。だが俺は、その考えを強いて振り払った。
 元の坂道に戻り、そこに走るひときわ大きな死線を切ったとき、最終的な崩壊が始まった。足元がガラガラと崩れ、丘そのものが砕け散ってゆく。どうやら俺は、想像の彼岸を踏み越えてしまったらしい。虚空に投げ出されて、ふと周りを見渡すと、そこはなにもない空間に、俺の見続けてきた夢の残骸が転がっている、そんな世界だった。学校、有間家、月姫蒼香と逢引した公園、アルクェイドのマンション、シエル先輩のアパート、喫茶店、繁華街、七夜の森――それらが断片となって漂っている。俺はますます凶暴な気分になると、それらにも襲い掛かった。周囲に浮かぶ岩を蹴って飛びつくと、死線をなぞり、粉々に打ち砕いてゆく。それらを維持してきた何者かの悲鳴が聞こえてきそうだ。俺は目の前にあるもの全てを<殺し>た。この世界の全てを殺し続けた。だって要らないんだから。<それ>の無い世界なんて、俺には丸ごと不要なものなんだから。俺は躊躇無く、破壊の手を揮い続けた。そして、遂にはこの世界そのものの死線を視界に捉えた。そして、それをも躊躇無く切ろうと身構えたとき――
 やめて――
 声にならない声が、意思が、俺の頭の中に直接飛び込んできた。そして、誰かが、俺の後ろから飛びついてきた。
 ハッと我に返った。俺は強いて落ち着いて七つ夜を収めると、飛びついてきた者に向き合った。なにより驚いたのは、そいつがシエル先輩ではないということだった。まだ小さな女の子だ。ちょうど都古ちゃんくらいだろうか。戸惑い、怯えた顔で、俺を必死に制止しようとしている。確かに意外だが、同時にこの世界の作り主であることも疑いない。なぜなら、その子からは、濃い魔物の匂いがしていたからだ。とはいえ、俺に危害を加える相手では無さそうだ。
 どうしてそういうことするの――その子は無口だったが、意思ははっきりと伝わってくる。俺の行為に心底困惑している。俺は息を整えると、その子の顔を覗き込むようにして、語りかけた。
「あのさ、君がこの世界を作って、俺に夢を見せているんだね。どうしてから知らないけれど、俺にこんな夢を見せてくれてるんだね」
 女の子は、じーっと俺を見ている。それを同意の意味と取った俺は、その子の両肩に手を掛けて、目線を合わせた。
「――君が見せてくれる夢は楽しいし、凄くリアルなんだね。びっくりしたよ。多分、ふつうに生きているだけなら、これを現実だと思って生きていたに違いない。楽しかったよ、でもね」
 俺は女の子を怯えさせないように、少し距離を取って、話し続けた。
「でもね、この世界には、俺にとって一番大切なものがない。それが分かるんだ。それを思い出すことすら出来ない。だけど、無いってことは分かるんだ。それが俺にとってあまりに大切なものだから、いくら君が隠そうとしたって、分かってしまうんだ。俺は、こんな楽しい夢を見せてくれた君を怒りたいわけじゃない。でも、一番大切なものを隠してしまうのはどうしてなんだ。きっとなにか理由があるはず。それを聞きたい。そして、そんなことはやめて欲しいんだ」
 分かるね――と、俺はその子に語りかけた。女の子は戸惑ったような顔をしている。なるほど、どうやらこの子も理由は知らないらしい。誰か、別の誰かから頼まれたのか。あるいは、それは誰か別の者の仕業なのか。
「人に頼まれたからやったんだね」と問いかけると、しばし迷った様子ではあったが、果たして大きくうなずいた。そうなると、こんな人外の存在に知り合いが居る人は、たった一人だ。なんとか理由を聞きたいが、当人を引っ張り出さなければ無理だろう。
「分かったよ。頼まれただけというのなら、君はなおさら悪くない。でも、もうこんなことは止めてくれるかい? 俺に夢を見せるのも、大切なものを隠すのもさ」
 女の子は、小首を傾げて俺を見た。どうして、どうしてそんなことを望むの――そういっている。今のまま、楽しい夢を見ていればいいのに。そうすれば、ずっと生きていられるのに――そういっている。
「この夢は楽しいけどさ、幸せじゃないんだ。俺にとっての幸せは、君が隠している一番大切なものを抱きしめることなんだよ」
 ああ、そうか――女の子の様子から、一つ分かったことがある。
「やっぱり、俺は死に掛けているんだね。だから目覚めることが出来ないんだね。なるほど、夢を見るしかないのか。だったらさ、なおのこと大切なものを隠さないでくれよ。たとえこの先短いんだとしても、あれさえあれば、俺はきっと幸せに違いないんだから」
 頼むよ――俺は、年端も行かないように見える、しかも人間ですらない女の子に、頭を下げた。ともかく、それが最優先だった。<それ>さえ取り戻せれば、夢であっても構わない。
 女の子は、悲しげな顔で、じっと考え込んでいたが、やがてこくんとうなずくと、くるりと背を向けていってしまった。
 なんの前触れも無く、世界が歪み、消滅してゆく。そして俺の意識もまた。だがその時、俺の心は、今までに無いくらい平穏だった。なぜならば、次に目覚めたとき、俺は<それ>を取り戻せるに違いないんだから。

TOP / Novels