全てが終わるとき/ポロロッカの砕ける川辺で/蝉の声を聴いた 3


 毎日が幸せだった。幸福に満ちているというわけではないが、そこここに幸せを感じることがあって、幸せにしてあげたい人たちが居て。世界中が幸せに満ちているわけじゃないけれど、ポケットに手を突っ込んだら、そこには幸せの素があって、いつでも俺自身の幸せを確かめられるのだ。程良く事足りた人生、それが今の俺だった。いやいや、こと女たちに関しては、事足りるなんてレベルですらなかった。使用人の双子、優しい先輩、金髪美女……。俺を取り囲む世界は、俺に対する善意と愛情が行き渡っている。決して満ちている、などというほど濃密なものではないのがいい。居心地がいいのだ。だが――
 そんな幸福感がなんになるというのだろう。それは俺の心の奥底までは届かなかった。上滑りな、誰かがペンキで描き出した、幸福の情景。それが精緻であればあるほど、俺の心の中の<不在>が、どうしようもないほどくっきりと浮かび上がってくる。
 そう、無いのだ。俺の心の真ん中を占めていたはずのものが。いつ、どうして失くしてしまったのかは分からない。だけど、それが無いということだけははっきりと分かる。それがなんだったか、どういうものだったのかさえも分からない。だけど、その空白と、周囲を埋める幸福感との断絶があまりにくっきりしているので、<それ>が無いことだけははっきり分かる。そして、それがこの遠野志貴にとって、どれほど大きかったのかということも。
 俺は決して不幸ではない。これは夢で、現実は違うかもしれない。それでも、翡翠がいて、琥珀さんがいて、シエル先輩がいる世界は、決して不幸なものなんかではない。
 でも、俺にとって一番大きな幸せ、それは決して手にすることが出来ないのだ。

 いつものような目覚め。起き抜けに翡翠と交わしたキスがぎこちなかったのは、なぜなんだろう。琥珀さんのいつもと変わらぬ笑顔がまぶしかったのはなぜなんだろう。こんなに明るい世界の真ん中で、俺の気持ちは少し沈みかけていた。目覚める前、まどろみの中で思い巡らせた、様々な事柄ゆえだろうか? しかし、なにを考えていたのか、もう思い出せなかった。そういえば、このところ、こんな塩梅で、俺の心の中に得体の知れないものが巣食っている気がしてならない。それが、俺の不調の原因だろうか。逆に体調不良が心に影響しているのかもしれない。
「志貴様、ご気分はいかがですか?」
 よほど冴えない顔をしていたのだろう、心配して、翡翠がそういってくれた。正直、学校を休みたい気分だ。なに、学校? ああ、今日は無いのか。今は夏のはずだが、夏休みに入っているのか、そうでないのかさえもとっさには思い出せない。重症だな。
「いまいちだね。なんか、体がだるい」
「志貴さんはちょっとした体調不良が大きく響きますからねー。今日は屋敷でゆっくりなさってくださいな」
 朝食を並べつつ、琥珀さんもそういってくれた。今日は屋敷でのんびり過ごそうか。いや、どうしてもシエル先輩と会いたい気持ちもある。下半身の気持ちとは別に。なにか、シエル先輩に訊きたいことがあったはずだ。
 朝食後、裏庭のテーブルセットに座り込んで、涼しい風に当たろうと思った。翡翠も琥珀さんも,手が空いたら俺の相手をしてくれるのだが、午前中は掃除洗濯で大忙しだ。ペーパーバックを読みながら、のんびりと過ごそうとした。――いや、実際には、なにも手に着かないというのが事実だった。気持ちは沈みかけているのに、浮ついた感じもある。苛ついていた。なにかにせきたてられるような気分だった。シエル先輩に訊きたいことと関係があるのかもしれない。――なにを訊きたかったんだろう、俺は。
 意識を集中するのがわずらわしい。それでも、使用人姉妹を心配させるのは悪いから、強いて気持ちを落ち着けようとした。だが、気持ちを落ち着けようとする度に、再び苛立ちが募り、大きくなってくる。自分の気持ちをうまく収められない。次第に振幅が大きくなってゆく。
 くそっ――
 俺はペーパーバックを乱暴に投げ出すと、両目を押さえて大きく息をついた。このままでは、誰かに怒鳴り散らしてしまいそうだ。なぜ、どうして、俺はこれほどまでに苛立っているのか。
「志貴さん、お薬お出ししましょうか?」
 気がつくと、琥珀さんがすぐ隣に立って、俺の顔を心配そうに覗き込んでいた。その後ろに、箒を持った翡翠が、やはり心配そうに俺を見ている。俺はハッと我に返った。やはり、この二人をごまかすことは出来ない。そして心配させるわけにも行かない。どうにも俺は変だ。なら、薬に頼るのも、悪くはあるまい。
「ああ、なんか苛々してね。ごめん、なんか薬出してよ」
 琥珀さんは、すぐに精神安定剤を出してくれた。身近に薬剤師が居るっていうのは、こういうときに便利だな。その無味無臭の粉薬を飲んでしばらくすると、俺の気分は嘘のように落ち着いていった。
「体のバランスが崩れるだけでも、心のバランスも崩れてしまうものなんですよ」と、琥珀さん。
 なるほど、人間にとって一番大切なのは心とはいえ、たかがその程度のことでも崩れてしまうんだな。しかし、薬を飲んだせいか、また眠くなってきた。このところ、夜の睡眠時間が短めだったし、一日中活動的だったからな。今日は本当に、ゆっくりしよう。
 そんなことを考えているうちに、俺は眠りの中に落ちていった。

 浅い、なにか不快な思いだけを残す睡眠だった。目覚めても、どんな夢を見たのか、そもそも夢を見たのか、まるで思い出せない。なのに、ひどく不快な気分だけが残っている。なぜか。原因ははっきりしている。無いからだ。<それ>が無いからだ。俺の心の中から、それがこっそりと抜き取られているからだ。返せ、戻せ。そう叫びたいのだ。
 意識がはっきりするに従って、その混沌は、朧な世界という別種な混沌に取って代わられた。幸せな世界、幸せな俺。だが、その演出は、もう破綻に瀕している。琥珀さんの、翡翠の過去がどうだったのか、そして二人と、いつからあんな関係になったのか、まるで思い出せない。シエル先輩と俺の過去も判然としない。アルクェイドと俺の関係は、まったく実感を伴っていない。この間、月姫蒼香を抱いたはずだ。なのに、彼女の肌のぬくもりを、まるで思い出せない。いつ知り合ったのか、浅上の生徒となぜ知り合えたのかも。そもそも、この遠野志貴が、いつこの屋敷にやってきたのか、どうして有間の家から出てきたのかも。
 この世界は、俺にとって都合のいい事柄ばかりで構成されている。だが、その背景を探ろうとすると、朧な闇へと吸い込まれてしまう。夢か、本当に夢なのか。ならばなぜ、俺は目覚めることがないのか。ただ夢の世界をたゆとうばかりなのか。
 忘れてしまえ――あたかも俺の心の声であるかのように装って、この世界が俺を唆す。
 夢だからなんだよ。楽しめばいいじゃないか。どうだい、素敵な世界だろう? みんなお前を大切にしてくれる。お前にしてもみんなが大切なんだろう? なにが失われたものだ。そんなもの、この素敵な世界に較べれば、きっと大したもんじゃないよ――そうささやきかけるのだ。まるで濃厚な蜂蜜のように俺に纏わり付き、俺の心を支配しようとする。夢かもしれないという認識を含めて、全ては俺の妄想に過ぎないのか。
「くそっ」
 俺はその誘惑を振り払いながら、椅子から荒っぽく立ち上がった。その拍子に、掛けられていたタオルケットがずり落ちた。きっと、琥珀さんか翡翠が、俺を気遣って掛けてくれたんだろう。だが、その心遣いが、俺には見えない束縛のように感じられた。
 暑い。既に日差しは強まり、焼け付くようだった。俺はその真っ只中を歩いて、屋敷の正門へと足を向けた。

 街に向かう。がむしゃらに歩いてゆく。暑い。冷房の効いていそうな喫茶店を見つけて、逃げ込んだ。汗がスーッと引いてゆく。心地よい。アイスコーヒーを頼み、それを飲みながら、道行く人々を眺めていた。それぞれ暑そうだったり、きびきびしていたり、ぐったりしていたり、嬉しそうだったり。鮮明な印象を俺に与えた。だというのに、一瞬後にその顔を思い出そうとすると、もう朧な霧の彼方に去ってしまう。
 そうか――と、俺は悟った。あたかもこの世界の全てを、くっきりと、鮮明に見ているように、俺自身は信じていた。しかし実際には、鮮明に見ていることと、鮮明に見ているように感じることとは、それぞれ別のことなのだ。俺は鮮明に見ているつもりだったが、実際にはそう感じているだけなのだ。だから、実際には、見ているものの事を憶えてはいないのだ。なにせ、端から見てないのだから。
 しかし、この考察がなんの役に立つというんだ――
 俺は席を立つと、シエル先輩のアパートへと向かった。

 シエル先輩は、またも留守だった。俺は無言で、反応のないドアの前に立ち尽くした。会いたい時に会えない。問い質したい時に問い質せない。あのアルクェイドの出現も含めて、俺には作為的に感じられた。俺とシエル先輩を会わせない。少なくとも、まともに質問できる状況を作らない。そういう演出が感じられた。誰かの見えない手が、この世界で俺の疑問に答えられそうな相手を、俺から遠ざけてしまうのだとでもいうように。
 暑い――このおんぼろな体には堪える。立っているだけでも、俺の意識が揺らぐのが分かる。たった今まで頭にあったはずの思考が、次の瞬間には蒸発している。なぜ俺はここに立っているんだろう? くそっ――俺は、なにかが俺の頭を支配しようとしているのを実感した。俺は歩き出した。闇雲に。

 闇雲に歩き回っていたはずなのに、俺の足は、いつの間にか屋敷へと向かっていた。屋敷の姿が見えたとき、俺の心に、僅かな安らぎの光が差した。屋敷に戻れば、とにかく眠れる――
 いや、果たして眠っているのか。今が眠りの中にあるのなら、この世界での眠りなど何の意味も無いのではないか。
 物思いに沈みつつ、俺はいつの間にか裏庭の木々の奥深い一角へと進んでいた。
 ここは――なぜか胸を突かれた思いがして、俺はさらに奥へと進んでいった。そこにはちょっと開けた場所があって、楓の木が立っていて――俺はなぜか鼓動が高まるのを感じながら、さらに奥へと足を踏み入れた。
 しかし、木々の間を抜けた先には、おぼろげな記憶より遥かに開けた草原が広がっていた。というか、ここは屋敷の裏庭ではない。懐かしい思いが胸いっぱいに広がった。ここは先生と出会った場所じゃないか。
 やっぱり夢か。夢なのか。少なくとも、今俺が立っているこの世界は夢だった。いや、思えば、先生との出会い自体も、まるで夢のような出来事だった。そしてこの世界も。
 ごろんと横になって、空を見上げた。青い空に白い雲が流れてゆく。単純で美しい世界じゃないか。でも、いくら美しくても、それが作り物の世界であることは間違いない。
 思えば――俺は自分が幸福であるかどうかに拘りすぎているのかもしれない。俺を取り巻く人々――少なくとも琥珀さん、翡翠、シエル先輩は実在するように思う――の幸福のことを考えてなかったな。仮令、俺が不幸を託つとしても、あの人たちを幸せに出来るのなら、それでいいじゃないか。それがきっと、俺の幸福なんだ。
 いやだ。
 俺の頭の中に、大文字で書かれた叫びが響き渡った。そんなの我慢できない。俺はそれでも、たとえ世界に背を向けたとしても、奪われたものを取り返したいんだ。もう一度、抱きしめたいんだ――

 飛び起きた。嫌な汗をかいている。
「えっ――」
 間抜けな声を上げながら上体を起こすと、掛けられていたタオルケットがずり落ちた。俺は、テラスのデッキチェアに座り込んで、居眠りしていたようだ。
 なにか、ひどく不快な気分だった。どんな夢を見たのか、そもそも夢を見たのかさえも思い出せない。
「――」
 頭の中を、獣じみた衝動が、ぐるぐると駆け回っている。俺は、なにかに気づき始めている。なのに、そのなにかに思い当たることは、決して無いのだ。俺は大切なものを奪われたらしい。その事はもう明らかだ。その不在が徹底しているので、俺の心の真ん中の空虚が、ありありと分かってしまう。だが、それを語る言葉さえも奪われてしまったので、それがなにであるのか、どんなものだったか、それさえも思考に上ることは無いのだ。だが、それでも、俺はそれを<知って>いる。指示代名詞でしか認識できない<それ>を、俺は知っている。この遠野志貴にとって大切なものだったことが、俺自身よりもなお大切なものだったことが分かるのだ。
 思考が沸騰点に達した。ほとんど怒りに近い感情に任せて、俺は闇雲に駆け出した。我ながらあきれるような勢いで、あの場所、なんの変哲も無いはずなのに俺の心をひきつけて止まないあの小さな広場に、一足飛びに飛び込んだ。すると――
 そこは夜の草原だった。森の中にある、小さく開けた場所。しかし、飛び込んだはずの、屋敷の裏庭のそれではない。第一、いつの間にか夜だ。
「…………」
 そこがどこなのか、あるいはこんな場所に俺を連れ込むことに何の意味があるのか、皆目見当がつかない。ただ、そこには――
「………………」
 俺は無言で、ゆっくりと歩き出した。そこには、強烈な死の臭いが漂っている。辺りに散乱しているのは、かつて人間だったモノ、モノ、モノ。乱雑に散りばめられた人体のパーツに、彩のつもりなのか大量の血が撒き散らされている。咽るような血の臭い、そして焼けた肉の臭い。
 まともな神経の持ち主なら、一瞬だって直視できないだろう。だが俺には、そんなものは、なんということも無かった。その中央に立つ獣に較べれば。
 無数の死骸の真ん中に、それは傲然と屹立していた。姿形は人間だが、それが獣であることははっきり分かった。そして多分、俺などまったく歯が立たない相手であることも。
 それが、俺をぎろりと睨んだ。まるで心臓を打ち抜かれたように、俺の全身に衝撃が走った。その隻眼に射抜かれた瞬間、俺の心は恐怖に鷲づかみにされてしまった。その獣は、たった一睨みで、俺を圧倒してしまったのだ。
「――」
 だが獣は、俺の方にほとんど注意を払わなかった。その足元に横たわる、頭を吹き飛ばされた――たぶんたくましい男の――死体に目を戻すと、奇妙に感慨深げな色を浮かべている。
 こんな化け物に関わり合うつもりは無かった。俺はそろそろと後ずさりすると、恐怖に任せて、一目散に駆け出した。

 ふと我に返ると、俺はまたテラスで転寝していた。あの奇妙な森の奥ではない。白昼夢? まさか。たった今まで、俺はひどい、恐怖に満ちた時間を過ごしていた実感がある。なのに、記憶からはさっぱり抜け落ちているのだ。なんて馬鹿な。なんて人を馬鹿にした話だ。
 俺は怒りに任せ、またしてもあの広場と一目散に飛び込んだ。
――そこは奇妙な城の一角だった。城? そう、中世の城だ。ただし、日本のではなくて、ヨーロッパのそれだ。重々しい石造りの、しかし奇妙なくらい清潔な城だった。
 俺が立っているのは中庭らしい。俺はなんの考えも無く、城内へと入っていった。
 大きな尖塔を持つ城へと足を踏み入れると、ひときわ大きな部屋に出た。そこには、この世界で出会った、初めての人物もあった。
 あった――そういうべきだろうか。その人物は、あたかも城の修飾物であるかのように、無数の鎖で壁に張り付けられていたのだ。この城のお姫様とも思えるその人物には、なぜか見覚えがあった。そうだ、あのアルクェイドに似ている。
「むう……」
 俺はわずかに考え込むと、背を向けて、城から駆け出していった。そのお姫様に声を掛けたい気もあった。が、その優美な外見とは裏腹に、魔物の濃厚な気配を発しているのが分かった。関わり合うのは危険だと思ったのだ。
 俺は中庭に飛び出し、走り回って、やがて城門から外へと飛び出した。

 気がつくと、またしても俺は屋敷の裏庭にいた。なんの躊躇も無く、俺は駆け出していた。裏庭の、あの広場へと。既に数え切れないくらいに、同じ事を繰り返してきた気がする。記憶はあやふやで、さっぱり覚えてない。同時に、おぼろげに憶えているようにも思えた。誰にもたどり着けない廃ビル、女だけで構成された閉鎖的な学園、恐怖が具現しつつある高層ビルの屋上――そんな場所に立った気もする。だが、ちっとも現実味の無い、夢のように、おぼろげな記憶だ。それでも、あの広場には、なにか俺を惹きつけて止まないものがある。あそこには何かがある。あの特異な場所には、何か秘密がある。それが分かるからこそ、俺は狂ったように挑み続けた。息が切れ、意識が朦朧とし始めても、たとえ生命の危機に曝されるのだとしても、俺は諦めない。この秘密を解き明かしてやる。それがこの世界の秘密を解き明かすことにつながるのだ。誰が、どうして俺に、こんな世界を与えているのか――
 もう、何度繰り返したか分からない。止まることなく走りつづけ、おんぼろな体のおんぼろな呼吸器は、ぜいぜいと悲鳴をあげている。それでも、俺は狂ったように、いや恐らくは狂ってしまったからこそ、このサイクルを尽きることなく繰り返していたのだ。そして――
 我に返った。数え切れないほどのサイクルの果てにたどり着いたのは、どこか見知らぬ川原だった。

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