全てが終わるとき/ポロロッカの砕ける川辺で/蝉の声を聴いた 2


 俺は幸せだ。それが俺の実感だ。疑いようがないだろう? 俺の事を想う女たちに囲まれて、なに不自由なく暮らして、大した悩みも無く生きて行ける。たとえ残された人生が短いものだとしても、今までと同じように生き、そして死んでゆくだけだ。それで十分じゃないか。生きている間、幸せであればいいんだ。そうだろう? そりゃ気苦労も多いけど、みんなは俺を大事にしてくれているし、俺を頼りにしてくれてもいる。だから、毎日を生きて行くのが楽しい。死ぬのは少し怖いけど、それを気にしてたらなにも出来やしない。そうだろう?
 俺は幸せだ。それは確かなことじゃないか。

 だとすれば、なんとはなしに感じている、この拭い難い物足りなさは、いったいなんなのだろう――

 いつもの朝。翡翠の声に起こされて、キスして、琥珀さんの作ってくれた朝食をとって、お礼にキスして――
「志貴さん、どうされました?」
 琥珀さんの声で我に返った。いつものティータイム。テーブルを前に、ソファーに腰掛けて、琥珀さんが入れてくれた紅茶を嗜む。台所への扉の前には、お盆を手にした琥珀さんが立っていて、後ろには翡翠が控えている。いつもの光景、いつもの朝だ。だが――
「琥珀さん」
 俺は目の前の、ごく当たり前だと考えている光景に目を注ぎながら、琥珀さんに声をかけた。
「あのさ、もしかして模様替えした?」
「えっ、模様替えですか」
 なぜだか、琥珀さんは慌てたそぶりを見せた。うむ、これは珍しい。こんなあからさまに動揺を見せるなんて。なにか罠を掛けているか、逆にクリーンヒットだったか。
「姉さん。もう志貴様には隠し通せないわよ」と、翡翠がいう。うむ、これは、クリーンヒットだったか。
「あははー、やっぱり志貴さんは鋭いですねー。それでは、ご開帳ー」
 琥珀さんは突如として壁に手をやると、てりゃっ、となにかを押した。すると、壁際の天井辺りがパカッと開き、大きな箱型のものがするすると降りてきた。それは――
「テレビですね」
「大当たりー。当遠野家にも、ようやく文明開化の時がやってきたのですよー」
 琥珀さんは上機嫌で電源スイッチをぽちっと押した。こんな朝っぱらから、なにか、とてつもなく下らなさそうなバラエティ番組をやっているようだ。うん、俺は好きだぞ。だが、その前に言っておかなければならないことがある。
「これ、琥珀さんが欲しかったから買っただけなんだよね」
「な、な、なにをおっしゃいますか。主人の幸せは使用人の務め。志貴さんが退屈なさらないようにと、購入すべき機種を吟味して吟味して、これでようやく志貴さんにも満足していただけると思って購入したんじゃありませんか。それをそのようにおっしゃられるなんて、お姉さんはとっても悲しいですよー」
 琥珀さんは、よよよ、などと誰が見ても嘘泣きと分かる演技をして見せた。背後で、翡翠が頭を抱えているのが分かる。俺だって同じ気分だ。
「まあいいよ。これからみんなで退屈しないで済むしさ」
「そうですよー。私もどれを買うか頭を悩ました甲斐がありましたよー」
 人の金でな、と付け加えたかったが、コロッと変わったその笑顔があまりに明るかったので、それは言わないでおこうと思った。それにしても人騒がせな。だがこんなことで不安になった俺も馬鹿だな。たかが模様替えで。――もっとも、俺は、新しく何かが加わったわけじゃなくて、あるべきものが無いって感じたんだけど。でも、まあ、同じことか。こんなことで頭を悩ますなんて馬鹿らしい。せっかくの休日、たっぷり遊ぶ方に頭を使おうじゃないか。

 昼飯まで間がある。散歩に出てくることにした。門を出て、町の方に下っていった。
 公園をぶらぶらと散歩する。暑いなあ。そのせいか、人出は少ない。
 おやっと思うような人物を見かけた。
「蒼香ちゃん」
 なにやら考え事をしながら歩いていたようだ。その少女はハッと振り向いた。お嬢様学校で有名な浅上女学院の制服を着た、小柄な少女だった。名を月姫蒼香という。
「なんだ、遠野のお兄さんじゃないか。ナンパしてるのか?」
「馬鹿いうなよ。そんな飢えてないよ。それはそうと、蒼香ちゃん、今日は髪下ろしてるんだね」
 俺が見てきた蒼香は、いつも髪を後ろで結わえ、ボーイッシュな装いをしていた。だが、今日の蒼香は、そんなイメージを一掃してしまうくらい、女の子らしかった。
「うん? 大将、私がこうしているところ、何度も見ただろう?」
「そりゃ見たけど――」
 俺は蒼香の耳元に顔を寄せて、こうささやいた。
「蒼香ちゃんがそんな風に女の子らしく見せてくれるの、いつもベッドの中だけだろう? 暗がりで、近すぎるから、よく見えてなかったんだよ」
「た、大将」
 蒼香は、いつにないくらい動揺して、俺を突き放した。
「そんなこと、真っ昼間の公園で、よく言えるわね。少しは恥じらいってもんを持ちなさいよ」
 急に女の子言葉になって、俺に食ってかかった。ふふふ、動揺してる動揺してる。
「んー、じゃあさ、もっとゆっくり話せる方に歩こうか。二人っきりでさ」
 俺はそういいつつ、蒼香の手を取って、公園の緑が濃い辺りに歩き出した。蒼香は、頬を赤らめて、ボーっとしている。俺たちは、人影の全くない、森の奥深い場所へと歩いていった。

 あまり言葉を必要としない、その代わり多大なスキンシップを得られる行為を、しばし楽しんだ。
「大将、今日は朝からサカってるんだな」
 蒼香は、きちんと畳まれた下着を、再び身に着けている。服を脱ぐ状況を見れば、その人間の性格が分かるというけれど、蒼香の場合もそうだろうな。わざと乱暴な言葉遣いをして見せるけれど、実際にはその張りつめた艶やかな肌同様、とても女の子らしい性格を秘めているのだ。
「別にサカリがついてるわけじゃないよ。でも、蒼香ちゃんが女の子らしい所を見せてくれたんで、ついふらふらしただけさ」
 実際、男勝りの女の子が、ちゃんと女の子らしいところを見せるなんて、ある意味で反則行為だ。ましてや、裸になった蒼香は、女の子らしいところもある、なんてレベルじゃない。
 蒼香は、どこか満足げに、浅上の制服に袖を通している。俺はふと心配になった。
「あのさ、その、後始末はいいの?」
「えっ ああ、これからすぐに寮に帰るから、そしたらすぐシャワーを浴びるからいいよ。でもまあ、大将が気兼ね無く出してくれたんで、ナプキンは使った方がいいかな。そうしないと垂れてきて、下着が汚れるから」
 蒼香は、持ち歩いていたトートバッグからナプキンを取り出すと、俺の目があるのに――いや、恐らくはあるからこそ――スカートをたくし上げ、ショーツをめくって、ナプキンを張り付け始めた。さっき、俺がさんざんなぶった部分が露わになる。もう白濁した液体――だいたい俺が生産した物――が垂れてきている。まあ、そういう関係なんだから、別に見られても構わないってことなんだろう。でも、いつもボーイッシュな蒼香なのに、服の下はこんなにちゃんと女の子らしいってのは、どうしようもなく扇情的だ。俺は、またしても欲望が立ち上がるのを感じた。が、この後のことを考えて、なんとか抑圧した。
 蒼香は身支度を整えると、なにか期待するように俺を見た。
「たいしょ――志貴――」
 俺は、ん、とすっとぼけて見せた。
「もう、私に自分が女だって実感させたのは志貴なんだよ。志貴が悪いんだよ。キ、キスくらいしてくれていいじゃないか」
 ふふふ、男勝りの蒼香ちゃんに、とうとうキスのおねだりまでさせてしまった。
「ん、蒼香ちゃん、キスだけでいいのかい?」
「今は、いい」
 蒼香は恥じらいながら答えた。俺は、蒼香を抱き寄せると、乱暴なくらいの口づけをプレゼントしてやった。舌を淫らに絡み合わせて、互いの唾液をかき回して。蒼香の唾液には、危険な味が混じっていた。さっき、俺のものを飲んだ、残り香があるのだろう。唇が離れると、蒼香は上目遣いに俺を見た。名残惜しそうだ。
「蒼香ちゃんは、もう帰るんだね」
「ああ、今日はチケットを買いに出てきただけだからね。大将こそ、他の女の所を渡り歩くつもりかい」
「なにも考えてないよ。そうだ、昼飯食いに、屋敷に戻らないと」
「じゃ、お別れだね」
 サバサバした態度を見せて、蒼香は歩き去ろうとした。その時、俺は、ふと浮かんだ疑問を、なぜか、どうしても口にしなければならない気がした。
「蒼香ちゃん――」と、呼び止めていた。
「ん? 大将、まだ用?」
「あのさ、さっき会って最初に口を利いたとき、俺のことを『遠野のお兄さん』って呼んだだろう。あれはなんでだい?」
「なんでって、あんたは遠野さんで、おまけに私よりお兄さんじゃないか。ちっともおかしくないだろう?」
「うむ、その通りだね」
 蒼香は不思議そうな顔になったが、さっさと背を向けて歩いていった。まったく、こんなどうでもいい疑問を口に出すなんて、かなり変な奴と思われただろう。でも、蒼香にあんな風に呼びかけられたとき、なんだか形容しがたい違和感を感じたのは事実だ。
 まあともあれ、まずは飯だった。運動とタンパク質消費の結果、俺の胃袋はすっからかんになっていた。琥珀さんがおいしい昼食を作って、待っていてくれるだろう。昼食後は、シエル先輩のアパートに出かけよう。昨夜はあんな事になったから、今日こそは満足させてあげないと。あれで根に持つタイプだからなあ。

 シエル先輩は留守だった。
「見回りかなあ」
 それにしては早い時間だ。もしかしたら、バチカンからの指令で、どこは別の場所で行動しているのかも知れない。まあ、アパートを引き払った形跡はないから、いずれ戻ってくるのだろうが。それにしても当てが外れた。シエル先輩には、俺の感じている物足りなさについて相談するつもりだった。相談するほどのことは無いんだけど、それでもみんなが俺の事を気にかけて、些細なことでも心配するので、もしも俺自身に心配の種があるのなら、片付けておかなければと思ったのだ。まあ、それよりは、秋に旅行する話でもする方が楽しいに決まってるけど。秋に、紅葉を見にさ――
 秋、紅葉――
 俺はふと、眩暈のようなものを感じて、額に手をやった。秋、燃える紅葉――その光景が、なぜか生々しく脳裏に浮かんできたのだ。なにかを暗示するように。そう、それは――
 その時、突然、
「しーき!」と、後ろからドンとどやしつけられた。
「ア、アルクェイド」
 俺は思わずせき込みながら、俺は奇襲攻撃を掛けてきた金髪女に向き直った。女はにこにことお日様のような笑顔を作りながら、俺にいった。
「また尻デカ女の所に来たの? あの尻眼鏡がそんなに気に入ったの? あんなのより、私と遊ぼうよ」
 遠慮会釈のない奴だ。俺は思わずうなった。確かに、シエル先輩より、アルクェイドの方が美しい。かなり反則的な美しさだ。しかし、なぜか、俺はこいつを警戒していた。なぜか知らないが、容易に近づく気になれなかった。他の女たちとは違う、距離を感じていた。おかしいな、こいつとも何度も寝たはずだってのに……。
「んー、冷たいなあ。もしかして、私のこと、嫌いになっちゃった?」
 アルクェイドは、不安そうになって、もじもじと手を組み合わせている。まったく、反則的な可愛さだよ、こいつは。こんな美しい奴なんだから、近寄り難さを感じるのも当然じゃないか。こんな女が俺の方を向いて、しかもシナを作ってくるなんて、ほとんどあり得ないくらいの幸運だ。それに応えないなんて、馬鹿もいいところだ。
「じゃあ、とりあえず散歩するか」
「やった! じゃあー、私のマンションに行こう?」
 散歩云々を完全に無視して、アルクェイドは俺の手を取りながらいった。まあいいか、最後はそうなるに決まってるんだし。我ながら下半身原理に基づいて行動しすぎているなと思いつつ、俺はアルクェイドとともに歩き出した。途端――
「危ない!」
「きゃー!」
 えっ――一瞬のうちに、俺の隣に立っている人は、シエル先輩になっていた。アルクェイドはというと、五メートルほど離れた地面に突っ伏している。どうやら、背後から飛び込んできたシエル先輩が、アルクェイドを思い切り突き飛ばしたらしい。
「せ、先輩。どこから――」
「たまたま帰ってきたんですよ。そしたら遠野君が人外に拐かされる現場に出くわしたじゃありませか。本当に危機一髪でしたね、遠野君」
 言葉の内容は俺を心配しているかのように読めるんだけど、口調は完璧に脅迫モードになってる。俺はただ、ガクガクとうなずいているだけだ。
「シエルー! いったい、なんの真似よ!」
 アルクェイドはサッと飛び起きると、シエル先輩に指を突きつけてわめき散らした。
「可愛い後輩、いえ、恋人が人外の化け物に誘拐されようとしたんですよ。成敗するのが当然じゃありませんか」
「なにが恋人よ、拐かしてるのはあんたでしょう? 志貴は今から私のマンションに来るの。あんたの貧乏くさいボロアパートなんて一瞬だって居たくはないんだから。さっさと失せなさい」
「はは、は――」
 シエル先輩の顔色が変わった。どうも財力の点を突かれるのが、シエル先輩の弱点のようだ。
「そうですか。あなたも偶には人類の役に立つから生かしておいたのですが――間違いだったようですね」
「喧嘩上等!」
 アルクェイドは、先制攻撃とばかりにシエル先輩に飛びかかってきた。シエル先輩も真っ向から受ける。程なくアパートの前は、人外と歩く凶器がガチンコ勝負を繰り広げる、恐るべき戦場と化した。勝負がついたかどうかは分からない。あきれ果てた俺は、すぐにその場を立ち去ったからだ。

 夕焼け空の下、屋敷への坂道を上っていた。あれから、街をぶらついていたところ、有彦とばったり出くわした。俺たちは喫茶店で馬鹿話をしたり、前から入ってみたかった場末のゲームセンターを冷やかしたりしながら、まったりした時間を過ごした。まだ遊ぶつもりらしい有彦と別れ、俺は屋敷に戻ることにしたのだ。
 まあ、こういうのもいいかと思う。たくさんの女たちの中から選り取り見取り選んで、熱い時間を過ごす。そういう時間はたまらないものだが、反面神経と体力を使う。ホッと出来る時間が欲しい。今日はシエル先輩と過ごせなかったのは残念だが、その代わりにホッと出来る時間を過ごすことが出来た。まあ、帰ったら帰ったで、また熱い時間が待ってるんだろうが。
 こういうのは、男の夢って奴なのかな、と思った。俺は男として幸せなんだろうな、きっと。
 男冥利に尽きるというものだ。反面、女にだらしがない奴と思われているかも知れない。確かにそうかもな。一度つきあい始めると、もう相手の好意を無下に出来なくなるのが、俺の弱点かも知れない。また『だから兄さんはだらしがないんです』って、あいつに言われ――

 その瞬間――世界が凍りついた。
 時が止まる。そして巻き戻されてゆく。
 駄目だ、持って行くな。それを、<それ>を奪わないでくれ――
 俺は叫んだ。
 <それ>は俺の大切なものだ。一番大切なものなんだ。俺から奪わないでくれ――――
 俺は声の限りに絶叫した――――

…………。
――――?
 ふと、気が遠くなって、俺は立ち止まった。ええっと、今なにかを考えていた気がする――――――いや、思い出せない。
 まあいいや。俺はそのことを放り出した。だって、思い出せない程度のことなんだろう? 別に重要な事でも無いに決まっている。そんなことに頭を使うよりも、この後のお楽しみの事に頭を使おうじゃないか。

「志貴さん、お休みなさい。いい夢見てくださいね」
 裸にガウンを羽織っただけの格好で、琥珀さんがドアを閉じて出て行く。俺は枕元の電灯を消した。俺にお休みをいうのは翡翠の特権だが、琥珀さんと一緒に風呂に入ったときは違う。そのまま俺の部屋で琥珀さんとベッドインするから、翡翠が遠慮するのだ。まあ、昨日は翡翠と楽しい時間を過ごしたんだから、今夜は仕方ないよな。
 俺は急激に眠りに落ちて行く。意識が奈落に落ちて行く――いや、逆に暗い淵から浮き上がって行くようにも感じる。おかしな事だ。
 思考の澱の奥底で、俺は自問自答した。
――おかしいな。俺は琥珀さんと、いつからこんな関係になったのだろう。それはきっと大切なことのはず。なのに、そのことをちっとも思い出せない。琥珀さんといつ、どうして、ベッドを共にする関係になったのだろうか。それをいうなら、翡翠との、そしてシエル先輩との関係も、いつから始まったのだろう。まるで思い出せない。それ以前に、俺は先週の俺を、先月の俺を、思い出せない。俺はなにをしていたんだろう。なぜ俺は遠野家にいるんだろう。なぜ俺は、これほどまでに安穏と暮らしているのだろう。
――なんとなく分かってきたろう? 俺には過去が無いんだ。俺には楽しい毎日が、楽しい<今>が待っている。でも過去は無い。そうなっているんだ。楽しいことの連続で、振り返っている時間など無い。なにかが、誰かがそう仕組んでいるんだ。でも誰が、なんのために――
 たとえ、それが夢であっても――いや、きっとそうなんだろうが、俺は気にしない。夢なら、いつかは覚めるだろう。それまでは、この夢を夢なりに楽しむだけじゃないか。
 いやいや、その考え自体、どこかの誰かから与えられた物じゃないと言い切れまい。俺の意思はどこに行ってしまったのだろう――
 そんなことより、気になるのだ。こんな嬉しい体験の連続なのに、俺の心は本当の幸せをちっとも感じて無いじゃないか。幸福だと思うことはある。でもそれは、それこそ傍らのプロンプターから『俺は幸福だ』と囁かれて、その通り口にしているだけに過ぎないように感じるのだ。心の奥底では、表面上の幸せに同調していない――否、本当の幸福に飢えてさえいる。そう、なにか物足りないのだ。物足りないというレベルですらない。俺にとって大切な物が欠けているんだ。しかし、それがなんであるかはもとより、どんな物であるかすら思い出せない。なぜだろう。<それ>はきっと、意識することすらなく、いつだって俺の心にあるはずのものなのに――
 俺の意識は、さらなる深淵へと沈んでいった。この頃、どうも疲れやすいようだ。長い間考え続けていられない――

 ふと目覚めると、真っ暗な天井が目に入った。のろのろと首を傾けると、ここが俺の寝室で、ストーブの傍らに翡翠が座っているのが分かった。翡翠がなぜ――ストーブ?
 翡翠は椅子に腰掛けたまま、こくりこくりと眠り込んでいるようだ。思わず手を伸ばして、翡翠を揺り起こしそうになった。なにかを思い出しかけて、翡翠に聞いてみたくなったからだ。しかしその手が翡翠に届くより前に、俺は突然の睡魔に負けて、ぱたりと手を落としてしまった。
 俺が最後に見たのは、テーブルの上に座り込んで、俺の方をじっと見ている。小さな黒猫の赤い目だった――

TOP / Novels