全てが終わるとき/ポロロッカの砕ける川辺で/蝉の声を聴いた 1


 そうして――俺は眠り続ける。魂の奥底へと沈んでゆく。そこに待ち受けているものは、死。生が継続したものだというのなら、眠りは意識の断絶――すなわち死だ。その時、俺の意識は断たれ、再び目覚めるときまで<死んでいる>のだ。

 そうして――俺は目覚める。魂の奥底から浮かび上がってゆく。そこに待ち受けているものは、かりそめの<生>だった。そう、きっと俺にとっては、もはや意味を失った――

――――――<断絶>――――――

 シキサマ……シキサマ……。誰かが俺に呼びかけている。シキ――? ああ、そうか。そうして、俺は目覚めて行くんだ――

 白い天井に、陽光が踊っているのが見えた。薄目を開け、何度か深呼吸しながら、掛かりの悪いエンジンが、回転数を上げるのを待った。ポンコツな体のガラクタの脳に、酸素が行き渡ってゆく。
 それから、ようやく身を起こすと、ベッドの脇に辛抱強く立っている翡翠に顔を向けた。翡翠は、いつものように慇懃な物腰で、俺の注意が自分に向くのを待って、一礼をくれた。
「志貴様、おはようございます」
「ああ、おはよう」
 こんな寝ぼすけに辛抱強く付き合ってくれる翡翠には感謝だ。俺はベッドから抜け出した。
「着替えはいつものようにここに置いてございます。シャワーをお使いになられますか?」
「うーん、今朝はいいよ」
「では姉さんに朝食の準備をするように申し伝えておきますから、お早く食堂までおいでください」
「ああ、ありがとう、翡翠。それと――」
 あ――っと翡翠が反応するより早く、手を引いて抱き寄せた。そして軽く口付けを交わす。一時、翡翠のきれいな顔を見つめると、頬を染めて恥らった。うん、初々しくてヨイではないか。
 翡翠は、また慇懃に一礼すると、部屋から出ていった。カーテンを開けて、窓の外に目をやると、もう暑い夏の日差しが芝生を焼き始めている。今日も暑い日になりそうだ。

 食堂に入ると、琥珀さんが手際よく食器を並べているところだった。琥珀さんは俺に気づくと、花のような笑顔で迎えてくれた。
「志貴さん、おはようございます。今日もいっぱい食べてくださいねー」
「それなんだけど、今日はどうも食欲が……」と、俺は口にしかかった。すると琥珀さんは、
「ダメですよ、いっぱい食べなきゃ。志貴さんは体が弱いんだから、たっぷり栄養をつけなきゃダメです」と、『わたし怒ってます』ポーズで、俺を叱った。むう。こういう琥珀さんには逆らえない。
「分かったよ。出来るだけ食べるようにします」
「はい。そうしないと体がもちませんよー」
 琥珀さんは、俺にうんざりするほど山盛りの飯茶碗を差し出してきた。俺は密かに苦笑しながらそれを受け取った。なんていうか、まあ、いつものやりとりだ。琥珀さんは俺の体のことを気遣ってくれる。そして、いざ飯を口にすると、その絶妙な炊き加減に陶然として、結局全部平らげてしまうのも同じ事だった。

「行って来る」
「お気をつけて行ってらっしゃいませ」
 翡翠に見送られて門を出た。初夏の太陽は、既にじりじりと地面を焼き、俺に微妙な悪意をぶつけてくる。このポンコツな体には、この仕打ちは結構応える。琥珀さんが俺に飯を一杯食えと勧めるわけだ。
 正門を潜り、校舎に入ると、靴箱の側に意外な人物が待っていた。
「よお。最近は無遅刻無欠席か。感心だねえ」
 なにが嬉しいのか、オレンジ色の頭を傾げ、ニヤニヤ笑っているのは、有彦だった。
「――なんてこった。俺は神を呪うよ」
 俺はこめかみを押さえ、うめいて見せた。
「ん? なにを呪うって?」
「こんなくそ暑い朝に、こんな暑苦しい奴の顔を拝まなきゃならん運命をさ」
「えーっ、ひどいな遠野君。それじゃまるで、俺の顔が暑苦しいみたいじゃん」
「うむ、その理解は正確だ、乾君」
「ひでえな、遠野。お前を心配して待っててやったのに」
 有彦はそういって傷ついたような顔をする。もちろん、それを信じる俺ではない。
「ああ、俺は友にさえ裏切られる運命なのか……。そういうわけで、遠野の言葉に深く傷ついた俺は、今から誰もいない地で心の傷を癒やしてくるのだ」と、有彦は勝手なことを口走る。
「お前に親友呼ばわりされるのは心外だが、お前が学校をさぼることだけは理解した」
「うむ、その理解は正確だ、遠野君」
 そういうわけで、じゃっ、とばかりに俺に手を振ると、有彦は元気よく校舎から駆け出していった。まあ、おおかた一時限目が苦手な科目なのを思い出して、自主休講を決め込んだってとこだろう。

 昼の一時、茶室でシエル先輩と過ごすのが、いつもの習慣だった。
「ふーん、乾君はそれで見かけなかったのですか。あのさぼり癖にも困ったものですねえ」
 緑茶を啜りながら、シエル先輩は呆れたようにいった。
「まあ奴なりに出席日数だのテストの成績だのは見積もっているようだけど。それにしても危ない橋を渡ってるよな」
 俺はシエル先輩相手に、愚痴なのかなんなのか分からないものをこぼしながら、お茶請けの羊羹をくわえた。あんまり認めたくはないが、俺は俺なりに、有彦のことを心配しているのかも知れない。
 そんな俺を横目に眺めていたシエル先輩は、ふふふ、と含み笑いを漏らした。
「やっぱり、遠野君と乾君は親友同士なんですね。なんだかんだいいながら、お互いに気遣ってるんですから」
「やめてくれよ。単なる腐れ縁って奴だよ」
 俺は手をひらひら振りながら軽く答えた。それにしても、やっぱりシエル先輩は、しっかりと俺の内面を見抜いてるんだ。どうしたって敵わない気がする。
 ひとしきり、雑談しながら、昼の時間を過ごし、やがて予鈴が鳴った。
「はあ、楽しい時間はあっという間ですね。さて、午後の授業です」
 シエル先輩と手分けして、茶道具や弁当箱を片づけると、上履きに足を突っ込んで立ち上がった。すると、それを見ていたシエル先輩が、急に俺の肩に手を置き、振り向かせた。
「なに?」
「なにって、襟がゆがんでますよ。朝から誰も注意してくれなかったんですか」
 シエル先輩は俺のシャツの襟をちょいちょいと直し始めた。目の前にシエル先輩の頭があって、髪からいい匂いが漂ってくる。それは俺の、腰の辺りを刺激した。俺は本能の赴くまま、シエル先輩の背中に手を回し、抱きしめた。
「もう、いきなりなんですか」
 シエル先輩は平然としているが、かといって逃げようともしなかった。俺はシエル先輩の背中から、腰の方へと手を滑らせていった。柔らかい体の感触が、俺をゾクゾクさせる。その手がシエル先輩のヒップにかかろうとしたとき、シエル先輩は急に身を翻し、俺の手の中からスルリと抜け出した。
「はい、そこまでです」
「そんな、先輩――」
 俺が思わず不満そうにつぶやくと、シエル先輩はくすくす笑った。
「遠野君は、成績はともかく、出席日数はぎりぎりだったんでしょう? それなのに私とここで始めちゃったら、午後の授業をさぼっちゃうことになるじゃありませんか」
 そう説教するシエル先輩の目は、少し厳しくなっている。確かにそうだな。あれこれ色んな事件に巻き込まれて、俺の一学期は惨憺たる事になっていた。残念だけど、留年はさすがに嫌なので、今日は我慢しよう。でも、あのままシエル先輩のヒップに手がかかっていたら、俺もシエル先輩も、求め合うこと以外には出来なかったろう。
「分かったよ、先輩。ついムラムラきちゃって」
「ふふふ。最近の遠野君は皆勤賞ものですからね。ちょっと欲求不満になっているのは分かります。頑張って無事に進級できると分かったら、私とちょっと旅行に出かけませんか? 秋に、紅葉の綺麗な場所を歩きましょう」
 シエル先輩は、花のように微笑んでくれた。
「きっと、楽しいですよ。見知らぬ場所の綺麗なものを見て回って、夜は温泉にでもゆっくり浸かって、美味しいものを食べて」
 そして好きな人と共にいて――それは確かに、きっと楽しい時間になるだろう。
「うん、いいね。絶対、約束だよ」
「はい、約束です」
 シエル先輩は、また微笑んでくれた。
「その先にもたくさん旅して、たくさん楽しい思い出を作りましょう。冬になったらスキーに行って、春になったらお花見をして。遠野君といれば、私も楽しいことばかりですよ」
 そして俺も、シエル先輩といる時間は楽しい。いや、シエル先輩だけじゃない。琥珀さんに翡翠、有彦に一子さん、有間家の人たち、そんな俺を囲んでいる人たちといる時間は、なんて楽しいんだろう。俺は幸福だなと思う。
「遠野君、学校が終わったら、家に寄りませんか? 今夜は見回りがありませんから、ずっと部屋にいられます。一緒に食事しませんか?」
 そう誘いかけるとき、シエル先輩は、一人の女、シエルの顔になっている。
「うん、なら、放課後は正門で待っててくれよ。一緒に帰ろう」
「はい。了解です」
 シエル先輩は、花のように微笑んで、それから少し伸びして、俺の唇に、軽く口づけをくれた。
「ん――」
 それで済ませるつもりだったんだろうが、そうは問屋が卸さない。俺はシエル先輩を抱きしめると、深く深く、貪るように口づけをした。たっぷり、一分ほどもそうしていただろうか。
「もう、強引なんですね。遠野君は」
 俺から離れると、シエル先輩ははにかむような顔になって、そっと口元を拭った。
「今夜はこんなんじゃ済まさないよ」
 俺はもう一度シエル先輩を抱きしめると、連れだって部室を後にした。

 じゃあ、その晩、どうなったかというと……。
 校門で待ち合わせして、シエル先輩と手をつないで歩いていたら、横合いから「志貴!」と声を掛けられた。声の主は、曲がり角の向こうのガードレールに腰掛けていた、金髪美女。名前は、えーっと。あまりに不意打ちだからか出てこない。すると、シエル先輩は、俺とその女の間に割り込んで、その女を睨みつけた。
「アルクェイド、なんの用です? 遠野君は、わたしの部屋で、今から一緒に勉学に励むんです」
 あ、そうだ。アルクェイドだ。そのアルクェイドは、シエル先輩を一瞬睨み返すと、いきなり俺の腕を取った。
「ふーん。そのお勉強は、避妊具を大量消費するような類よね。志貴、それなら私としよっ。私ならそんなの着けなくていいから」と、まったく身も蓋もないようなことを口走りながら、俺の肩に抱きついて、ぎゅうぎゅう胸を押しつけてくる。その柔らかさに、俺は思わず陶然となりかかった。ああ、アルクェイドの部屋で一晩ってのも、実に魅力的だな。
 しかし、シエル先輩は俺を引っこ抜くようにして引き寄せると、「ダメです。遠野君は私の恋人なんですから。それに今晩は既に約束しているんです」
「なによ。勝手に決めないでよ、デカ尻エル。志貴とあなたが釣り合うわけ無いじゃないの。志貴の恋人は私なの。あんたはスパイス臭いインド人とでもくっつてなさい」
「黙りなさい、人外。あなたは釣り合いもなにも、人ではないんですから、遠野君があなたに気を許すわけがありません。そんなこと、神が許しても、この私が許しません!」
「志貴が愛しているのは私よ。そんなの、他の誰から見ても明らかでしょ。負け犬はとっととインドに帰りなさい」
 俺は、まるでムンクの『叫び』のような顔をして、ただただ、この痴話喧嘩を呆れて眺めていることしか出来なかった。時折飛び火し、時折激烈な罵倒合戦となるこの馬鹿な喧嘩は、日がとっぷり暮れるまで決して終わることはなかった。

 帰宅は夜の七時を過ぎた頃になった。本当ならシエル先輩の部屋で過ごして、真夜中、あるいは朝帰りになる予定だった。が、当のシエル先輩が『疲れました……』と、本当に心底疲れ切った様子だったので、今日はお暇することにしたわけだ。ではアルクェイドはというと、こちらも滅多に見せないくらい疲れ切った様子で、『今日は気分が乗らないから』と、さっさと退散していった。今夜はシエル先輩とあんなことやこんなことを、などと目論んでいた俺は、見事肩すかしを食らった格好になったわけだ。煮え切らない気分で屋敷に戻った。
「志貴さん、食事はどうされますか?」と、居間で迎えてくれた琥珀さんが尋ねてきた。
「なにも食べてないんだ。悪いけど、それなりのものを作ってくれないかな」
「そうですか。おやすいご用ですよー。それにしても、シエルさんと、なにかあったんですかねー。破局ですか? チャンスですよー、翡翠ちゃん」
 いつも一言、いや二言三言多い琥珀さんは、俺の心臓の止まりそうな事をいう。
「い、いや、別にそういうわけじゃ――」
「ね、姉さん。そういう勘ぐりは良くないわよ」
 翡翠は赤くなりながら、琥珀さんをたしなめてくれた。――うむ、『翡翠ちゃんの表情研究家』である俺には、翡翠の内心の喜びを、メイドとしての節度が抑えてしまったのが分かるぞ。もう少し自由になってもいいと思うんだが、なかなか身に付いた躾を脱することができないのだろう。
「はいはい。では、ちゃちゃっとお夕食の準備をしますねー」
 琥珀さんは台所に去っていった。
 俺は、後ろに立つ翡翠に、くるりと振り返った。
「あの――なにか御用でしょうか」
 俺が悪戯っぽく見つめていたせいか、翡翠は羞恥に頬を染めて、なにか口ごもった。
「――後で俺の部屋に来てくれよ」
 そうささやくと、翡翠はそれで万事承知したのか、こくんと頷いた。さっきとは別の意味で頬を染めている。俺は、この後の時間への期待が、だいたい下腹部の辺りから、ざわざわとはい上がってくるのを感じた。

 夕食を取り、琥珀さんにお休みを告げ、部屋に戻った。程なく、翡翠が俺の部屋にやってきた。そして――
 翡翠が戻っていったのは真夜中。もう日付が変わった頃だった。翡翠はこれからシャワーでも浴びるのだろう。お互い、体液で大変な事になってしまったから。俺の方は、眠いので、明朝にシャワーを浴びることにした。まあ、翡翠が綺麗にしてくれたので、その必要も無いのだが。
 最後のご奉仕として、翡翠が替えてくれたシーツに横たわり、高ぶりの残り火が燃えている身が、冷えるのを待った。
――恵まれすぎているな。
 俺は、苦笑混じりに考えた。過去に色んな経緯はあった。しかし、今の俺は、この館の主人であり、一生涯生活費に困らなくていい身分だ。しかも、魅力的な娘たちに囲まれ、その好意の中心で暮らしている。しかもまあ、一生のうちで一番精力のある時期に、まさにふさわしい行為にも恵まれて――
 今の生活が壊れるのが怖いくらいだった。その代わり気苦労も多いし、俺の体はさほど長生きできるような代物でもない。でもまあ、その短い一生に、気苦労に見合っただけの楽しみが有ればいいじゃないか。それが幸せというものだろう。冷静になれば、つらいことだって思い当たるだろうさ。でも、それ以上に楽しいことが多いんだから、俺は幸せに決まっている。今の生活が壊れたって、きっと新しい楽しみが見つかるさ。
 俺は、なんとなく満ち足りた気分で、灯りを消し、毛布を被った。こんな気分で夜を迎えられる高校生というものは、きっとごく少数に違いない。生きているって楽しい。素直にそう思った。
 平凡な、しかし盛りだくさんな一日が終わり、俺の意識にシャッターが降りる瞬間がやってきた。細々とした記憶が解け合い、そこはかとない幸福感だけが残った。何度でもいう。俺は幸せな男だ。
――いや。
 そうして、幸福感に満ちたまま、俺の意識は閉じられる。しかしその寸前、俺の真ん中で、別の声が響いた。
――それでも、足りない。足りないものが……ある……。


TOP / Novels