志貴と秋葉の物語 〜時〜



「八年も待ったのに、今更もう少し待てないなんてこと、ないんですよ」



 一月も後半ともなると、もはや正月気分も抜けきっている。寒い日が続き、また雨の日も多いので、志貴と秋葉が部屋の中に閉じこもっている日も、増えていた。雨が雪に変わることが少ないのは助かるのだが。
 今日も寒い日だった。しかし、久しぶりに気持ちよく晴れたので、志貴は仕分け場に、秋葉は長谷川夫人の誘いで生け花の講習会に出かけていた。秋葉は生け花についてもほとんど免許皆伝級なのだから、ただの暇つぶしということなのだろう。
 志貴も、アルバイトが一番辛い時期に掛かってきた。水温が下がり、分厚いゴム手袋を通して、冷たさが染みてくる。とはいえ、直接の水仕事よりは力仕事が主体なので、仕分けのご婦人たちほどには響いてこないのだが。
 今日の仕事が終わり、志貴は一息入れるために、国道沿いのコンビニへと向かっていた。
――あれ以降も、遠野家と思しき不審者たちによる監視が続いている。非常に隠微な手段を使っていたため、二人以外に不審者に気づく者は皆無だ。コンビニの店長も、探偵を名乗る者が尋ねてきた一件以外には知らない。さすが遠野の者、なんて褒めるべきなんでしょうか――秋葉が苦笑混じりにいった言葉だ。
 秋葉は、どうやらなにかを諦めてしまったようだ。もはや不審者たちに注意を払うことも無く、日々を淡々と過ごしている。まるで、残され時間を惜しむかのように。やがて、遠野家の者が二人を連れ戻しに来て、それでおしまいということなのだろうか。そうして、遠野の血にからめ取られる生き方を、諦めて受け入れたとでもいうのだろうか。そんな秋葉の寂しげな笑みを見る度、志貴の心は痛んだ。
 この生活は、志貴が屋敷から逃げだそうと思ったところから始まったのだ。志貴は、周囲にいつの間にか集まってきた娘たちの思いの焦点に立ち、その思惑に踊らされ、疲れ切ってしまっていた。しかも、アルクェイドからは彼女を取るか、遠野に残るかという、重い選択まで迫られるようになってしまった。限界だった。ほんの一時、息抜きをするつもりだった。一人になりたかったのだ。
 それなのに、志貴は秋葉だけを連れてきてしまった。秋葉には、彼女も疲れているように見えたから、などと説明した。しかし、正直なところ、自分の心がよく分からなかった。まるで戯れのように秋葉を抱いて見せたり、飯事のように二人だけの生活を始めたり。
 しかし、今更のように、自分と秋葉の関係は特別なのだと思うようになっていた。八年前、秋葉は志貴の命を救うために、命の半分をくれた。それ以来、志貴の不調までをも引き受けながら、しかも志貴には打ち明けないで、ただただ支え続けてくれたのだ。志貴にとっての秋葉は、シエルとも、双子とも、アルクェイドとすらも違う。なんの見返りも求めず、じっと志貴の命を支え続けてくれた恩人だ。志貴にとって一番大切な少女だ。そして今や、その重みが、他の娘たちとは比較にならないほど大きくなってしまったのだ。
 とはいえ、三咲に帰り、アルクェイドに別れを切り出す気にもなれなかった。アルクェイドも重い運命を背負った女であり、志貴のために命を投げ出すようなことまでしてくれたのだ。それに、自分の心をのぞき込んでみたら、やはりあの脳天気な笑みが焼き付いているのが分かる。決して嫌いになったわけではない。ただ、自分では、アルクェイドを幸せにするという任が不可能だと分かっただけなのだ。だが、そのことを切り出して、納得してもらえるとも思えない。あれほどの力の持ち主だ、志貴相手にだけならばともかく、秋葉を含む遠野家に危害を加える気になったらと思うと、ぞっとする。なんとかおとなしく、納得してもらえる術はないものだろうか。
 コンビニに立ち寄り、自動扉を潜りつつ、レジにいた店長に挨拶した。すると、店長は手元の帳簿を放り出して、志貴に黙って目配せをした。ピンときた志貴は、一度店を出て、裏手の勝手口に回った。案の定、店長が招き入れてくれた。やや緊張気味に話してくれたところによれば、またしても志貴たちを尋ねてきた者があったというのだ。それも、たった今。
「どんな相手でした?」という志貴の問いに、店長は短く、若くて和服を着たきれいな娘さん、と答えた。それだけで、志貴には誰が来たのか分かってしまった。
 礼を言いつつ事務所を出た。さて、遠野家だけでなく、琥珀にまで嗅ぎ付けられたらしい。秋葉にも警告しておかないと――
 とりあえず、礼代わりにコンビニで買い物をして、家に戻ろうと、足早に駐車場を横切っていたところだった。突然、国道を走っていたタクシーが、駐車場に鼻先を突っ込んで急停車し、「お釣りいりません!」という聞き覚えのある声とともに、和服の娘が転がり出てきたのだ。琥珀だった。思わずコンビニの方に目をやると、店長が、あーっ、とばかりに、頭に手をやっているのが見えた。
「志貴さん、探したんですよ!」
 琥珀は、怒っているような、安堵しているような、複雑な表情でいった。常に真の感情を表さず、表情を作っている琥珀には珍しい。
「あー、まあ、そうだろうね」
 対する志貴の答えは、あまりに途方に暮れたためもあり、なんとも気の抜けたものだった。

 琥珀を連れて、国道の脇にある展望台に腰を落ち着けた。
「なるほどー、あのアパートが秋葉様と志貴さんの愛の巣なんですね」
 最初の衝撃からようやく立ち直ったのか、琥珀はいつものように軽口を叩いている。
「ん、秋葉が気に入っちゃってね」俺もだが、と思いつつ、志貴は答えた。
「そうですかー。でもカードは全部止めてしまったのに、良く暮らして行かれましたねえ」
「それは俺がバイトしているから。秋葉もあれこれ内助の功ってやつで助けてくれるし」
「ふふふ、仲のよろしいことで」
 それほどからかうでも無く、かといってやっかむでも無く、ごく普通の口調でそういう琥珀を見ると、やっぱり久しぶりに三咲に戻りたくなってきた志貴だった。
「でも、良く俺たちを見つけたね? 遠野家のルートから情報を? やっぱ、カードとか止めたのも琥珀さんなの?」
「いいえ、私は遠野家にとってはどうでもいい存在ですので、秋葉様の捜索には全く関わらせていただけませんでした。秋葉様のカードを止められたのは、後見人の斗波様と、名義上の親権者でいらっしゃる有間啓子様の合議の下です」
「やっぱり、あの二人なのか。ということは、俺たちを監視しているのは、やっぱり遠野の手の者なんだね」
「やはり、志貴さんはお気づきでしたね。いくらなんでも強引にお二人を連れ帰ってしまうと、遠野家の内部がギクシャクしてしまいますから、しばらく監視するという方針らしいです。ただ、お二人が出奔されて一月経ち、もう猶予ならないという意見も強くなってきてたんです。私も気が気じゃ無くって、久我峰様のお身内にうかがいを立てて、どうやらこの辺りにお二人がいらっしゃると分かったんで、とにかく探してみようとやってきたんです」
 琥珀は、改めて安堵したように、大きく息をついた。
「最初に聞いたのが、あのコンビニの店長さんだったのがラッキーでした。店長さんったら、とても分かりやすい反応をしてくださって。だから、あの店を張り込んでたんです」
 志貴は苦笑いした。あの店長に、そういう隠し事を出来るとも思えない。
「志貴さん、秋葉様のご様子はいかがですか? 気疲れも癒やされましたか」
「うん、屋敷にいた頃より、ずいぶん表情が柔らかくなったよ」
「そうですかー」
 琥珀は、志貴とともに、しばし海を見ていた。
「私は、使用人失格ですね」と、ポツリといった。
「ん、なんで?」
「秋葉様が疲れてらっしゃるのに気づいていたのに、それをお助けするどころか、足を引っ張るようなことばかりして。私も、志貴さんがいて、そして皆さんがいらっしゃる生活が楽しすぎて、なんだか浮かれていたみたいです。秋葉様が一番割を食ってらっしゃるのに、それを助けようともしないで――」
 本当に、ダメな使用人ですね――と、琥珀は寂しく笑った。
「まあ、俺もそうだよ。立場的に、秋葉が一番辛いってのは分かってたんだけど、毎日の騒動に追われて思うように助けてやれなくてさ。シエル先輩やアルクェイドは、はっきりいって放って置いてもいいくらいな連中なのに」
「あら、志貴さんは、アルクェイドさんのことを、恋人だと思ってらっしゃったんじゃないんですか」
「恋人、か」
 志貴は、湖のように穏やかな表情を見せる瀬戸内の海を、そこに答えがあるとでもいうように見つめた。
「確かにそう思っていたよ。でも、恋人という者が、その思い人を幸せにする存在なんだとしたら、俺は失格だよ。アルクェイドは、俺の手には余る奴さ」
「――」
 琥珀は黙って、志貴の言葉に耳を傾けている。
「アルクェイドにしても、シエル先輩にしても、その幸せは、あの人たち自身で見つけてもらわないと。俺にはどうにも出来ないくらい大きな相手さ。それなのに、恋人扱いされるなんて、いってしまえば、勘違いもいいところさ。その一方で、琥珀さんと翡翠には、お互いがいるだろう? 琥珀さんと翡翠は、お互いに相手が幸せであれば、自分も幸せでいられるんだろう?」
「そうですねー。私はやっぱり、まず翡翠ちゃんを幸せにしてあげないと、って思ってますね。その為に、翡翠ちゃんと志貴さんのラブラブ計画を練ってたんですけどねー。その様子じゃ、翡翠ちゃんも私も失恋決定ですね」
 琥珀は笑いながらいった。
「悪いと思うよ。みんな、俺のことを真剣に好きになってくれてると分かったからさ」
「あれあれ、天下無敵の朴念仁さんの称号は返上ですか?」
「こっちに来て良かったと思うのが、自分の身についてじっくり考える時間が出来たって事だよ」
 志貴は苦笑しながらいった。
「おかげで、自分の身にまつわる不可思議な現象についても、ようやく説明が付いたよ。なんでとびきりの美女五人が、こんなさえない奴の周りに集まるとかさ」
「ニブチンさんも、そこまで来ると犯罪ですねー」
 琥珀ははやし立てるようにいった。
「琥珀さん、アルクェイドはなにしてる?」
 やはりそこが気になって、志貴は聞いてみた。
「アルクェイドさんですか。実はお二人が失踪されたとき、一番お怒りだったのがアルクェイドさんでしたね。最初のうちは志貴さんを探して連れ戻してくるとか、秋葉様を殺してやるとか、それはもう凄い荒れようでした。シエルさんも、ずいぶんてこずってらっしゃいましたねー」
 先輩、すまない――志貴は、心の中で、シエルに手を合わせた。
「でもね、一週間経った頃から、志貴さんの部屋に来ては、じっと考え込んでらっしゃるようになって。なにか思い当たることがあったのでしょう、少し前から、姿を見せなくなられました」
 志貴は、えっ、という顔になった。最悪の事態――アルクェイドが彼らを探しに来る――を思い浮かべたのだ。
「さすがに、アルクェイドさんを志貴さんたちのところに行かせては大変なので、シエルさんに調べていただいたんです。そうしたら、どうも海外にいらっしゃるとかで」
「なんで海外に?」
「さあ、詳しいことは分からないのですが、アルクェイドさんはご自分と古馴染みの一族、例えば遠野家のような一族のところに滞留されて、交流なさっているご様子らしいですよ」
「――」
 胸を突かれる思いだった。自分はアルクェイドを幸せにするという任に耐えない――そんな志貴なりの考察を、彼女は彼女なりに共有してくれたように思えたからだ。
「そうなんだ。まあ、あいつが遠野家を消滅させないでくれてよかったよ。とはいえ、帰って顔を合わせれば、結局詰られるんだろうけどね」
「ふふふ、男の子は逆境に耐えなければならないんですよ」
 琥珀が冗談めかして口にした言葉が、志貴の胸に残った。
 それから日が暮れるまで、志貴たちが不在中の出来事をあれこれと話し合ったりした。さらには、学校のことをどうしようとか、遠野の分家筋にはどんな顔をすればよいのだろうとか、現実的なことも話し合った。結局のところ、その辺は学校側に働きかけたり、志貴が悪者になってやったりして、秋葉を守ってやらねばならないだろうという結論になった。志貴が秋葉に行き先も、期間も告げずに連れ出したのは、事実なのだから。
「琥珀さん、今日はどうするの? 泊まってゆく?」
 そう口にした瞬間には、その『泊まってゆく』場所が八畳一間しかないことなど、全く頭に無かった。流石に名うての朴念仁というべきか。
「いえいえ、お二人の愛の巣に、私が足を踏み入れるのは申し訳ないですからねー。私は広島で一泊して、ちょっと観光してから帰ります」
 琥珀は国道でタクシーを拾うと、「ではお先にー」と言い残して、帰っていった。
 琥珀を見送った後も、志貴は日の暮れ切った、寒い展望台から、宵闇の海を眺めていた。志貴の懐には、琥珀がくれた封筒に、十万円ばかり入っていた。これで帰りの旅券を、ということなのだろう。
 志貴は、改めて、過ぎ行く時を惜しむ思いで、眼下の小漁港を眺めた。こんなこぢんまりした世界に、秋葉と二人で一月あまりを過ごしたのだ。秋葉にとって、どんなに幸せな時間だったろう。改めて、秋葉には自分しか居なかったのだと思った。アルクェイドもシエルも、それぞれに充分強い。だから必要なのは一生涯付き添ってくれる存在ではなくて、要所要所で導いてくれる存在だ。アルクェイドにはゼルレッチという、まあ導師に近い存在が居るらしいし、シエルには埋葬機関が曲がりなりにも生きる導になっている。琥珀と翡翠は、この先どんな人々と遭遇するにせよ、結局はお互いが寄り添ってゆくべき相手となるだろう。しかし秋葉には――いないのだ。琥珀と翡翠が支え続けるには限界がある。いつかは、使用人二人は、自分たちの人生を始めなければならない。
 秋葉の自分への想いは、もう痛いほど分かっている。秋葉には、志貴しか居ないのだ。秋葉が、志貴のために命を分けてくれた瞬間から、秋葉には志貴しか居なくなってしまったのだ。そして多分、志貴にとっても。秋葉のために命を投げ出したとき、そしてそれに秋葉が精一杯応えてくれたとき、二人は死以外の何者にも分かつことが出来ない仲になったのだ。だから、志貴のまず成すべきことは、秋葉を幸せにしてやることだった。そして、アルクェイドやシエル、琥珀に翡翠、その他の仲間たちにも、命の続く限り手を差し伸べてゆくことなのだ。だが、このまま遠野家に戻り、以前と同じ日常を過ごすことが、果たして秋葉の幸せに繋がるだろうか――
 しばし物思いに耽り、ふと腕時計に目をやると、夜七時を指していた。志貴は大きく息をつくと、足元の埃を払いながら立ち上がった。早く帰らなければ。彼の可愛い妹が、おなかを空かせて待っているだろう。

 帰宅すると、果たして秋葉が夕食に箸も着けず、不機嫌そうに待っていた。腹具合が機嫌に直結している分かりやすい性格の妹を宥めつつ、志貴は秋葉と夕餉を囲んだ。
 夕食をとりつつ、秋葉に琥珀と会った一件を話した――そうか、こういう楽しみも、屋敷の戻ればなくなるんだ、と志貴は今更ながらに気づいた――
「そうですか。琥珀と翡翠にも心配を掛けてしまいましたね」
 志貴の分のお代わりを装いながら、秋葉は微妙に沈んだ口調でいった。
「もう、これ以上は我がままを続けられませんね。兄さんのためにも、もう三咲に戻らなければ。明日、旅券の手配に行きましょう。そして明後日帰りましょう――」
「帰りましょうって、お前、それでいいのか」
 まるで事務的にこの生活の終わりを持ち出した秋葉に、志貴は思わずそういわざるを得なかった。
「それで秋葉はいいのか。屋敷に戻って、前と同じ暮らしに戻って、それで幸せなのか」
「幸せもなにも、以前はそういう毎日を平気で送ってたんです。それに戻ることに、なんの、迷いが――」
 しかし、秋葉の言葉の端には、珍しく迷いが現れていた。まるで、自分を無理やりに納得させようとでも言うように。
「だから、なんで我慢するんだよ」
 秋葉の態度に潜むなにかが、志貴の心に火をつけた。
「なんで黙って耐えるんだよ、秋葉。なんでお前が犠牲にならなきゃならないんだよ。お前はもっと、自分の幸せを求めてもいいじゃないか」
「でもこれ以上、遠野の家政を滞らせるわけには行きません。私のために兄さんを独占して、みんなを心配させるわけにも行きません。今は帰るのが最善の道なんです」
「馬鹿――」
 志貴は、立ち上がると、秋葉を抱きしめた。
「兄さん――」
「なんで肝心のところで犠牲になろうとするんだ。後一歩手を伸ばしたら、お前は幸せになれるんじゃないか。なぜそうしない。秋葉、俺はお前のそういうところが嫌なんだ」
 志貴は、秋葉の唇を奪うと、胸に掻き抱いた。秋葉は、志貴の成すがままにされている。
「なあ、秋葉――」
 秋葉自慢の黒髪を撫でながら、志貴はささやきかけた。
「もっと、遠くに行かないか」
「――」
「もっと遠くにさ。二人で行かないか。沖縄はどうだ。琥珀さんから貰った金で行けるよ。そこでも、きっと住む場所は見つかる。二人が居れば、なんとかなるよ。いつまで逃げていられるかは分からない。でも、それまではずっと、二人きりで居られるよ」
 きっと、アルクェイドと一緒に居れば、そんな苦労なんてしなくて済んだろう。でも、その苦労が嬉しい。愛しい。
「兄さんは――」と、秋葉は志貴の腕の中でつぶやいた。
「兄さんは、今度も私を、檻の中から連れ出してくれたんですね。兄さんはいつだってそうしてくれた。私が遠野の家に絡め取られた、なにも分からない子供だった頃から、兄さんは私を何度でも連れ出してくれたんですね――」
 が、秋葉は、志貴の腕を逃れると、少し距離を置いて見詰め合った。
「でも、今はもうだめです。だめなんです」
「なぜだよ――」
「私は、琥珀たちやアルクェイドさんたちを、こんな形で出し抜くつもりはありません。まして、私に課せられた遠野家当主としての役割を放棄するつもりもありません。私はもう、自分のことさえ考えていればいい子供ではないんです。嫌も応も無く、この肩にたくさんの人の生活が掛かっている、遠野家の家長なんです。琥珀や翡翠の幸せだって考えなければならない。私が自分の生き方についてわがままを言える機会は、今回で最後だったんです。私だって、アルクェイドさんのように自由に、奔放に生きられたらいいと思う。でもあの人は、なんにも、本当になんにも背負ってないから、それができるんです。あの人は本当に、月の妖精だわ。それに引き換え、たくさんのしがらみの中で身動きの取れない私。それが遠野秋葉の生き方なんです。だからといって不幸だとは思わないわ。琥珀と翡翠がいてくれて、友達がいて、そして兄さんと、兄さんのお友達がいる世界は、決して不幸なんかじゃない。ねえ兄さん。誰だってそうなんですよ。兄さんのようになんにも執着しないで生きていけるわけじゃなし、アルクェイドさんのように何も背負わないで生きていけるわけでもない。誰もが、与えられた世界の真中で、必死にあがいているんです。それを否定して、その枠から一足飛びに抜け出したいと願うなんて、敗北主義です。それは、自分だけに特別な配慮が無ければ生きていけないと、神様みたいな誰かに願うようなものです。私はそんな負け犬みたいな生き方は嫌。たとえたくさんのしがらみに囚われたままでも、平気で生きて、そして平気で兄さんを私の方に振り向かせて見せます。だから私は帰るんです。遠野秋葉の日常に」
 志貴は、どんどん熱っぽくなる秋葉の口調に、なにか危ういものを感じつつ引き込まれていた。秋葉の言葉は、すべて志貴の胸に落ちていった。感動のようなものすらあった。発見の感動だった。そして馬鹿だなと思った。遠野志貴は馬鹿だ。こんな身近にしていた妹の真意さえも、かけらも気づいてなかったのだ。
「――わかった」
 ようやく応えた志貴の声は、まるで苦いものを飲み下すようだった。が、なにかを思い出したのか、「わかったよ」ともう一度応えた声は、いくぶん明るかった。
「わかったよ。秋葉の言うとおり、三咲に戻ろう」
 そして、俺もアルクェイドというしがらみに立ち向かおう――と思った。
「秋葉は強いな、本当に。俺ならもし、なんて考えて、とても冷静じゃいられないよ」
「兄さん、私はね、兄さんのことを、八年も待ってたんですよ」
 いくぶん涙ぐみながら、秋葉は答えた。
「八年も待ったのに、今更もう少し待てないなんてこと、ないんですよ」
「そうか――」
 志貴は、秋葉の体を抱きしめてやった。外では、放射冷却の結果か、珍しくまとまった雪が降り始めていた。今夜こそ、雪は降り積もるだろう。

 やがて――遠野家に、志貴と秋葉の姿が戻ってきた。どんなからくりなのか、志貴の欠席日数はそれほどでもなくて、外国に短期間の留学をしていたことになっていた。秋葉は、なにしろ半年先の予習まで済ませている性格だから、この程度のブランクなどなんでも無かったようだ。志貴の方は、勉学にしばし勤しむ必要があったが。
 日常が戻ってきた。今までと同じように、志貴がいて、秋葉がいて、使用人の双子がいて、そしてアルクェイドやシエル、そして二人を取り囲む人々がいる生活。かつてと同じ日常が。
 でも、やはり少しずつ違っているようだった。アルクェイドは、志貴のことを――反論を許さないまま――ひどく詰りはした。が、その後は今までと変わりなく志貴にまつわりついてくる。しかし、次第に三咲町にいる時間を減らし、海外のいくつかの親しい一族――アルクェイドいわく『私の子供たち』――との付き合いを深めているようだった。
 シエルは、前より遠慮深くなりはしたが、相変わらず志貴の周辺をうろついている。
 琥珀は、表面的には変わりなかったが、志貴に対しては、秋葉同様に主人として遇する傾向が強まったようだった。
 翡翠だけは頑ななまでに以前と同じスタンスを維持している。それが翡翠らしいと、遠野家の他三名は、密かに微笑ましく感じていた。
 そして志貴と秋葉は、前ほど口論をしなくなり、さりとて急に親密さを増したとも思えない、微妙な距離を取りつづけていた。ただ、二人が離れで夜を共にすることが増えていることを、使用人の双子は知っていた。
 志貴と秋葉には、ある共通の秘密があった。あの小さな集合住宅を退去する際に、長谷川夫妻と、自動で契約を更新する手続きを取ったのだ。あの部屋は、彼らは出ていたときのまま、いつでも戻ってゆけるように維持されているはずだった。今のところ、それは確認しようが無い。
 だが、二人が生きるのに倦んだら、またあのアパートに戻って頭を冷やそうと話し合っていた。そして二人はしばしば夜話に持ち出した。今は誰が、あの小さなアパートの窓から、瀬戸内の穏やかな水面を見ているのだろうね、と。

<了>

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