志貴と秋葉の物語 〜雲〜



「私たちも、もうここに留まっている訳には行きませんね」



 一月も半ばともなると、冬の冷え込みは一段と厳しくなってくる。厳冬期の始まりだ。三咲では、いよいよ雪の時期となる。とはいえ、温暖な瀬戸内では、厳しいとはいえ高が知れていた。事実、今に至るも、降雪を見たことがなかった。わずかに、寒さの厳しい日に、霙の後で雪が舞うのを見た程度だ。
 志貴と秋葉にとっても、この暖かさはありがたいものだった。光熱費が浮くし、暖房器具もそこそこのものでよい。だから、志貴がそれを提案したのは、実用という面もあったが、郷愁という面がより強かった。
「いいだろう? 足を突っ込んで団欒して、それからそのまま眠れるんだぞ?」
「ダメですよ。こんな狭い部屋に置いたら、お布団を敷けなくなってしまいます。それに、その分電気代も必要なんですよ?」
「布団なんか敷かなくてもいいさ。電気代なんて、電気ストーブの代わりだと思えば、別にいいだろう?」
「ダメです。無駄遣いはしません」
 こっちに来て以来、仲の良かった二人の抗争の種になっているのは、電気こたつだった。こたつを買おうと、志貴が提案したのだった。
「こたつはいいもんだぞ。向かい合って無駄話をしながら、蜜柑を剥いたりしてさ。飽きたら、そのままごろんと横になれるんだ」
「そんな堕落した生活は嫌です。私は買いませんよ」
「んー、もう、ケチ」
「ケチで結構です。堕落したお大尽よりは、ケチな貧乏人の方がましです」
 屋敷の生活からは考えられないようなことを口にする秋葉に、志貴は思わず吹き出した。憎まれ口を叩いているつもりなのだろうが、どうしても可愛らしいのである。
「分かった分かった。秋葉がそこまでいうのなら諦めるよ」
 志貴は笑いながら降参したが、秋葉はまだむーっ、とむくれている。
「そんな、怒るなよ」
 我ながらずるいと思いつつ、志貴は秋葉の肩を抱いてやった。これで、大抵のもめ事は片が付く。果たして、秋葉は顔を赤らめつつ、しかし幸せそうに、志貴に体を預けてきた。そんな妹の体を、志貴はより強く抱きしめてやった。
「私だって兄さんの望みはなんでも叶えて差し上げたいです。でも、この先の生活のことを考えると、無駄遣いは慎まなければ――」
「分かってるさ」
 志貴は、秋葉のおでこに、チュッとキスしてやった。
「秋葉が俺のことを考えてくれているのは分かっているよ。俺が悪かった。さあ、寝よう」
 志貴は秋葉を優しく布団に横たえると、手をつないでやった。秋葉はしばらく、兄と他愛のない会話をしていたが、やがて健康的な生活からもたらされる眠気に負けて、すーっと寝息を立て始めた。志貴は、その寝顔に、しばらく見とれていた。
「もしも俺が守らなければならないものがあるなら、さ」
 志貴は秋葉の頭を、そっと抱き寄せた。
「それはお前の、そんな寝顔なんだろうな」
 しばし、秋葉の頭を撫でてやってから、志貴は秋葉からそっと離れた。そしてカーテンを薄く開け、外をうかがう。漁船の浮かぶ、なんということのない夜の海。窓の向こうの通りには人っ子一人居ない。今やおなじみのものになった、この小漁港の夜だった。
――なのに、この不安はなんだ?
 志貴は自問した。なぜか、そこはかとなく感じる不安感。それはどこから来るのだろう。カーテンを開けて、外をうかがうという行為は、その漠然とした不安の発露だった。誰かに見られているとも、誰かが志貴たちの噂話をしているとも思えた。こういう得体の知れない不安感を『誰かが自分の墓の上を歩いた』というのだ、と秋葉から聞いた。
 もしかしたら、秋葉もまた、こんな不安を抱いているのかも知れない。今日の口論(というにはあまりに可愛らしいものだったが)にしても、秋葉が頑なに抱いている、将来への不安感が背景にあると、志貴は気づいていた。
 なんとなく馬鹿馬鹿しくなって、志貴は布団に潜り込んだ。確かに困難は予想される。だが深刻な事態にはならない。大丈夫、志貴が居て、秋葉が居るのなら、少々の問題は越えて行ける。
 ようやく自分を納得させると、志貴は眠りの中に落ちていった。

 仕分け場の仕事は相変わらずだった。秋葉のアルバイトも相変わらずだ。しかしある日、それも間もなく終わりそうだと、秋葉から告げられた。
「あのご夫婦は、もうじき中国に戻られるのだそうです。お子さんたちも連れて」
「ずいぶん急だな」
「はい。お子さんたちを学校に入れないまま、かれこれ一年も経っています。もうこれ以上、学校に入れないわけには行かないということで、故郷に連れて戻られるのだそうです」
「日本の学校に入れればいいんじゃないか?」
「実は、あのご夫婦は、就労ビザ無しで入国して居るんです。身分的には学生なんです。子供たちを学校に入れるためには、様々な手続きが必要なんですけど、その過程でビザ無し就労が発覚する可能性が高いそうで。あまりお金も貯まってないけれど、帰国して子供たちを学校に入れ、お二人だけでまた出稼ぎに出るそうです」
「大変だよなあ」
 志貴からすれば間違いなく他人事ではあった。しかし、あれほど働きづめで、しかしあまり報われたようには思われない一家の顔を思い出し、少し胸が痛んだ。
「大変ですよ、子育てというのは」
 秋葉も、なにを考えてるのか、ため息をついた。
「それはそうと、夕食の差し入れが充てに出来なくなりますから、やっぱり私も働かなければ」
「ん、別にいいだろう? 今の稼ぎで充分だろうが」
「でも、蓄えがなければ、この先の生活が不安です」
「この先もずっとこの生活を続けるつもりか? 続けられなくなったなら、そこで手を挙げて降参すればいいじゃないか。こんな飯事、ずっとは続けられ無いぞ」
「そんなことおっしゃっても、降参したらしたで分家の者に示しがつかないじゃありませんか」と、秋葉はまたもむくれた。
「こんな飯事を始めた時点で、分家の者もなにもあったもんじゃなくなったろう?」
 志貴は笑いながら背を向けると、カーテンを開けて夜景を眺めた。いつもながら、穏やかな海の眺めだ。
「飯事、なんておっしゃいますけど。私にとっては兄さんとの大切な時間なんです」
 その背中に、半ば独白するような秋葉の言葉が投げかけられてくる。
「たとえ飯事でも、この生活を精一杯守りたいんです。兄さんには分かっていただけないんでしょうか――」
 背中越しに、秋葉が涙ぐんでいるのが分かる。分かっているさ――志貴は秋葉にそういってやりたかった。今の暮らしが、この飯事のような生活が、志貴にとってもどれほど大切なものか。しかし、秋葉には決められた未来がある。遠野家を率いる者としての生活がある。それを捨てさせてまで、自分との暮らしを強制したくはなかった。たとえ三咲に戻っても、この時間はずっと胸の中に残って行くのだ。それでいいではないか。
「――兄さん?」
 兄が長らく答えないのに気づき、秋葉は改めて声を掛けた。
「どうかしましたか?」
 志貴は不意にカーテンを閉じると、「なんでもない」と答えた。
「そうですか。あまりくどくどといいたくはないですが、夜にカーテンを開けて外を見るのは危険です。どこに分家の手の者が居るとも限りませんから」
「ああ、分かってる」と、志貴は答えた。
 答えたが――もう遅かったかも知れないな、とも思った。彼は気づいてしまったのだ。毎夜、この時刻になると、港の外に小さな漁船が浮かんでいるのに。この時期には夜の漁はない、と仕分け場で聞いていた。すると、あれはこの港の船ではなく、ましてや魚を捕るために海に出ているのでもないのだろう。考えられる可能性は一つ。この場所が、遠野の分家筋の者に発覚したのだ。

 数日後の夕方、仕分け場を退けた後、国道沿いのコンビニに立ち寄った。このコンビニの店長というのが、若いのだが無類に人のいい男で、志貴が雑誌を立ち読みして立ち去ろうとすると、これ持っていきんさいや、などと期限切れの弁当をくれたりする。どうやら、志貴たちのことを、長谷川夫人から聞き込んでいるようだ。志貴と秋葉のことをなんだと思っているかは知らないが、ともあれなにかと物をくれたり、別のスーパーのお買い得情報なんかも教えてくれる。志貴も、もしも仕分け場が閑散期に入ったら、ここでバイトさせてもらおうかと思っていた。
 その店長が、志貴の顔を見るなり、彼らのことを捜している者が居た、と教えてくれた。なんでも一昨日、探偵を名乗る二人組が、志貴と秋葉の顔写真を示し、所在を尋ねたのだという。うさんくさいけん、しゃべらんかったわ――と店長はいった。駆け落ちするにはええ土地やったけど、手が回っちゃいかんなあ――とも付け加えた。やはり駆け落ちだと思ってたんだな、と志貴は密かに苦笑した。まあ、あんな綺麗で世間知らずの女の子と、こんな男の二人連れでは、駆け落ちだと思われても仕方ないが。
 まあ、気ぃつけんさいや――という店長の声を背に、家路を急いだ。
 国道から小漁港へと降りながら、志貴はなんとも腑に落ちない思いを抱いていた。店長が志貴たちのことを聞かれたのは、一昨日のことだ。しかし例の漁船は、志貴が思い出せる限り、軽く一週間は前から、あの位置に浮かんでいた。すると、あの漁船が志貴たちを監視しているというのは間違いで、単なる志貴の思いこみなのだろうか。そんなはずはない。昨夜、志貴は長谷川夫妻に双眼鏡を借りて、夜中に密かに例の漁船を観察してみた。すると、やはりこちらに双眼鏡を向けている人物がはっきりと見えたのだ。一瞬の観察だったが、それで充分だった。もはや、志貴たちの監視以外に、あの漁船の目的はあり得なかった。志貴たちの居場所は、遠野一族に発覚してるのだ。なのに、なぜコンビニで彼らの消息を尋ねたのか。
 それぞれ別の勢力が、二人の行方を追っているという可能性はあった。しかし遠野の他に志貴たちを探すような勢力は、すぐには思いつかなかった。遠野家は他の魔の一族はもとより、退魔の一族とも良好な関係を築いていた。退魔の勢力に追われる理由はない。ならば教会だろうか。それならば、シエルが直接飛んでくるだろう。アルクェイドならば、なおさらだ。すると――
 志貴は、不意にくるりと振り返ると、橋の下に突きだした、国道のカーブへと目をやった。一瞬、ほんの一瞬だったが、そこから身を乗り出すようにして、志貴の方になにか――たぶんカメラ――を向けていた人物が、さっと身を退くのが見えたのだ。
 それだけ見て、志貴は再び背を向けると、秋葉の待つアパートへと歩き出した。今の人物は、志貴が振り返る瞬間に、完全に隠れてしまえる時間があったはずだ。遠野家の手の者は、そんな間抜けであるなど考えられない。あれはわざとだ。わざと、志貴の目に身をさらし、志貴たちに、誰かに監視されているという現実を報せたのだ。コンビニ店長の件も同じだ。遠野家は、まだ事を穏便に済ませようと考えているのだろう。たぶん、斗波の意図なのだろう。だが、遠野家全体に知れ渡り、大きな問題となったとき、まだこんな生温い手を使ってくれるだろうか――

 帰宅した。が、秋葉は居なかった。
「秋葉――」
 無意味だと重々承知しているのに、志貴は声に出して呼びかけていた。答えはない。ふと思い出して隣家のドアをノックしてみた。反応はない。押してみると、案に相違して抵抗無く開いた。室内には誰もいなかった。
 いったい、どこに――志貴の胸に、初めて恐怖のようなものが湧き上がってきた。この時刻に秋葉が居ないなんて、考えられないことだ。すると、まさか――遠野の手の者に。しかし、さすがに当主を連行してしまうような強硬手段は考えられなかった。少なくとも、その前に斗波辺りが来て説得するだろう。連行してしまうにしても、そのステップを踏んでからのはずだ。なら、遠野家以外の勢力か。どこの誰が秋葉を――
 居ても立っても居られない気分だった。監視されているという認識はあったのだから、秋葉に警告しておくべきだった。それが出来なかったのは、秋葉に余計な心配をさせたくないと思っていたからだ。この平穏な生活を守りたかった。私にとっては兄さんとの大切な時間なんです――秋葉の言葉は、志貴の思いでもあった。やっと秋葉に与えてやれた、自分との平穏な時間。それは、たとえ苦難が見えていたとしても、力の限り守ってやりたかった。八年間、志貴の命を支え続けてくれた秋葉に、せめてもの恩返しをしたかった。
「くそっ」
 部屋に戻るなり、志貴は苛立ち、膝に拳を打ち付けた。秋葉を守ってやると誓ったのに――十年前、本当のお兄ちゃんになってやるっていったのに、秋葉を守ってやれてない。それどころか、余計な負担ばかり掛け続けてきた、自分が憎らしかった。
「なにが殺した責任取ってやるだよ――」
 アルクェイドの事、シエルのこと、そして秋葉を心配させたあらゆることを思い出しながら、志貴は苦々しげに膝を打ち続けた。
「俺を助けてくれたあいつも助けてやれないで、なにが殺した責任だよ。俺は――正真正銘の馬鹿野郎だ」
 その時、扉の方で足音がした。自分でも思っていなかったくらい素早く跳ね起き、ドアを開いていた。果たして、ドアの向こうでは、秋葉が驚いた様子で立ちすくんでいた。
「えっ、兄さん、どうしたん――」
「馬鹿野郎!」
 皆までいわせず、志貴は秋葉を抱きしめた。秋葉はよほど驚いたのか、ただ目を丸くして、志貴に抱きしめられていた。
「馬鹿――心配させるなよ」
 力いっぱい抱きしめながら、しかし声だけはなんとか抑えることが出来た。少し気が抜けたような志貴の声を耳にして、秋葉はなにかを感じたのか、抗うことをやめた。そして逆に、志貴の背中に手を回し、やはり抱きしめたのだった。
 無言の抱擁はどれほど続いただろう。ふと我に返ったように、志貴はそっと腕を解き、それから秋葉に顔を寄せた。
「どこに行ってたんだ?」
「どこって、お隣さんのお見送りに決まっているじゃないですか」
 そんなことも憶えてないの? と、秋葉は目で志貴を責めた。
「あ――そうか、今日、帰っちゃったんだっけ」
 あっけなく理由が分かって、志貴は思わず笑い出した。
「はい。駅まで見送ってきました。勤め先の同僚の方々や、同郷の方々もご一緒で――」
 二人が隣室の前に立つと、暗い、がらんとした部屋が見えた。さっきまで家族四人が暮らしていたとは思えないほど、生活臭の無い部屋だ。これはもう使わないから――と、ここ数日、家財道具を気前良くくれたのを思い出した。
「私たちも、もうここに留まっている訳には行きませんね」
 秋葉が、自分に言い聞かせるようにいった。
 志貴は内心驚きながらも、それを即座に否定してやれる気分でもなかった。秋葉が何故そんなことを口にしたのか、不意に思い当たったのだ。
「秋葉も気づいていたんだな」
 秋葉は、志貴の方に振り返ると、いっとき志貴の顔を見返して、それからこくんとうなずいた。
「はい。気づかないわけがありません。いくら隠しても同じ一族同士。近くまで来ればなんとなく分かるものです」
「あれは、やっぱり遠野の?」
 秋葉いわく、昼の間にこの部屋を近くの道路から監視したり、秋葉が出歩いていると遠くの車の中からカメラで撮られたりしていたそうだ。
「兄さんの話と合わせると、ずいぶん厳重に見張られているようですね。まあ、私の身になにかがあったりしたら責任問題でしょうから、久我峰も慎重なのでしょう」
 そう口にする秋葉の顔は、こちらに来て以来の朗らかな少女らしさが失われ、遠野の屋敷で見せていた、冷淡な態度に戻っていた。志貴の胸が痛んだ。
「ここに居てはいけないって? そんなわけない。お前が望むのなら、いつまでだって居てもいいはずだろう。親類の連中がなんと言おうと、秋葉が秋葉の幸せを望むのは当然じゃないか」
 そして俺も――と、志貴は心の中で続けた。俺も、お前が幸せになるのを望んでいるんだ、と。
 志貴は秋葉の背中を抱いてやった。抱きしめた秋葉の体は、冷たかった。外では、夜の風が鳴き始めていた。
 どこまで走っても自分たちのものの海に、二人で乗り出したはずだった。午前の風は味方だったのに、水平線の上には、既に暗い雲が広がり始めていたのだった。

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