志貴と秋葉の物語 〜雨〜



「こんな静かな時間なんて、生まれて初めてですよ」



 さーっ――と雨が降り続いている。冷たい冬の雨だった。
「今日はお休みなんですね、兄さん」
「うん、昨日も漁師が海に出なかったから、仕分けるものが少ないんだってさ」
 志貴と秋葉、二人で肩を並べ、窓から海を見ていた。鉛色の海に、鉛色の空から雨が降り注いでいる。いつも、お日様の下で微睡んでいるような小さな港は、今日は完全に眠り込んでしまったかのようだ。静かで、人通りも途絶えている。風もなく、ただ雨音と、こればかりは絶えることのない潮騒だけが、二人の世界を包み込んでいる。
――二人がこの港に住み着いて、そろそろ三週間が経とうとしている。初めは、行き当たりばったりにたどり着き、数日をのんきに過ごすだけのはずだった。ところが、連絡無く家を出たためか、カード類の使用を差し止められてしまっていた。家長である秋葉のカードを差し止めるなど、琥珀がなにか立ち回ったか、久我峰の耳に入ったか、どちらかなのだろう。そうすれば、二人は連絡を入れて、迎えを要請するしかない。そう考えたのだろう。しかし、それは二人の反抗心に火を点けてしまった。いや、反抗心などというレベルではない。むしろ悪戯心というべきだろうか。二人の力だけでどこまで生きていけるのか、そして兵糧攻めにもめげずに連絡を寄越さねば、遠野一族はどう動くのか、反応を見たい気持ちがあったのだ。
 志貴も秋葉も、意外な生活力を見せていた。志貴はアルバイトで収入を得、秋葉も隣室の一家や家主とコネを作り、金にならない形の便宜を手に入れていた。今のところ、予想外の出費に備えての積み立てを含んでも、十分に賄ってゆける見込みが立っていた。これならば、いつまでもここで暮らしてゆける。そんな自信さえ芽生えていた。
 そんな風に、新しい生活にがむしゃらに立ち向かいながら、忙しい日々を送ってきた。前に向かうことが楽しくて、後ろを振り返る気持ちにもなれなかった。しかし、この雨は、そんな二人に、立ち止まって考える時間を与えたのだった。
 まるでエアポケットに落ち込んだようだ。異質な時間にスッポリはまりこんでしまっている。いや、それをいうのなら、遠野の屋敷に較べ、時間の流れの異なるここでの生活は、これ自身がエアポケットそのものともいえた。
 志貴は、ふと笑いを漏らした。秋葉は、そんな兄を、不思議そうに見た。
「いや、ね。これって、残してきた連中から見れば、駆け落ちなのかなと思って」
「駆け落ち、ですか」
 秋葉は、なんだかドキッとしたようだ。
「ん、こんな情けない兄貴とじゃ嫌か?」
「いいえ、そういうわけではありません」
 秋葉は、面映ゆげに答えた。
「ただ、本当にそう取られているのなら、分家の者たちが黙ってないだろうな、って」
「うーむ、なるほど。斗波さん辺りに積極的に動かれるとまずそうな気がするな」
 一転して、志貴の顔は真剣なものになる。異形の血を引く遠野の一族が動けば、追及の手は容赦ないものになるだろう。
「まあ、たとえ斗波が動いたとしても、なんの手がかりもなく探すのには時間がかかるはずです。まして、ここは遠野の屋敷から遠く離れた土地です。最低でも一月はかかるでしょう。それに、来たら来たときではありませんか」
 秋葉は、志貴が考え込むほどには、深刻そうな口調ではなかった。むしろ、楽天的とさえいえた。
「それに、今最大の問題は、お昼ご飯をどうするかです。遠野のことは、それからでもいいじゃありませんか」
「そうかもな」
 志貴は笑い出した。まったく、自分が心配性に思えてくる。
「お腹の虫が鳴き出す前に――」
 志貴は、秋葉の体に手を回すと、布団の上にそっと押し倒した。
「兄さん、するの?」
「うん、あんまり静かだから、また秋葉が欲しくなったのさ」
 志貴の唇が秋葉のそれと重ねられても、秋葉は拒まなかった。

 雨は降り続いている。今日も一日中雨だろうか。内陸にある三咲と異なり、ここは海に面している上、暖かい。雪はほとんど降り積もることはない。それでも、冬の雨は冷たく、全てを冷え冷えとさせる。
 狭い部屋の中では、熱を帯びた体と体が重ねられている。志貴の浅黒い体と、秋葉の真っ白な裸身。
「あきは――俺の、あきは――」
「にいさん――あ、ん、にいさん――」
 狭く、冷たい部屋の中には、汗ばんだ体と体が醸し出す、微かな匂いが漂っていた。

 一緒に昼食を取り、またしばらくの間、海を眺めていた二人は、ちょっと出かけたい気分になってきた。いかに窓からの風景が三咲では手には入らないものであるにしても、半日眺めていたのでは飽きてしまう。レインコートを羽織り、傘を差して、外に出た。
 小さな港は、降り続く雨に打たれ、眠っているようだ。霧雨というほど細かくはないが、大きな雨粒でもない。傘をしとしとと優しく打つ、驕らない雨だ。
 志貴が羽織っているのは、百円ショップで買ったレインコート。秋葉の方は、さすがに百円ショップのものを使わせるには忍びないので、五千円くらいで安売りしていたものを買ってきて、着せていた。傘はスーパーで買った、千円の大きめのもの。二人で入っても濡れないほどだ。
 外気は冷たいが、三咲で感じる体の芯から熱を奪って行くような冷たさではない。いかに冷たくても、海はまだ熱を隠し持っていた。暖かな海流が瀬戸内に入り込み、北からの寒気で冷えた大気を、少しずつ温めようとしている。
 漁港の通りの突き当たりには、灯台を模した街灯が立っている。その周囲は手すりに囲まれた小さな展望台になっており、目を上げると橋の全景が入ってくる仕掛けだ。そこに置かれたベンチに、二人は並んで腰掛けた。レインコートのおかげで水は通らないが、ベンチの冷たさは染み通ってくる。
 少しでも暖かくいられるようにと、志貴は秋葉の体を抱き寄せた。秋葉は素直に従う。二人は、そのまま夜の濡れ場を思い出させるような密着ぶりではあったが、コートの上にレインコートを重ね着した状況では、肌のぬくもりなど伝わるはずもなかった。
 傘を深く傾けると、それだけで背後の家並みから断ち切られ、たった二人きりで海に向かっているような気分になれる。
「――こんなに静かな時間なんて、生まれて初めてですよ」
 ふと、しみじみした口調で、秋葉がつぶやいた。
「そうか? 屋敷だって静かなもんじゃないか」
「でも、琥珀と翡翠がいるだけでずいぶん印象が違うし、アルクェイドさんやシエル先輩もやってきますね。乾先輩も気軽にやってくるし、私のクラスメートだって。こうして二人きりでいられる時間なんて、あったためしが無いではありませんか」
 秋葉と二人きりの時間、なかなか作ってやれなかった――と、志貴は秋葉を連れ出すときにいった。本当に、そんな時間は、全くといっていいくらい与えてやれなかったのだ。
「そうだな。考えてみると、あんな屋敷にぽつんと暮らしているつもりなのに、実際にはたくさんの人が出入りしてるんだな」
「登場人物が多すぎますよ」
 秋葉は、クスリと笑った。
「まあ、その原因の多くは、兄さんにあるんですけど。人がよすぎますよ、兄さんは」
「そういうなよ」
 志貴は苦笑した。
「なんていうかさ、壊したくないのさ、あの暮らしを」
「そうですね。あれはあれで楽しいものです」
「いや、違う」
 志貴がきっぱりした口調で否定したので、秋葉はやや不思議そうに彼を見た。
「それもあるけれど――なんていうか、ああいう暮らしって、みんなを支えてるんだと思う」
「暮らしが、支える?」
「みんな、それぞれに、つらい過去があったろう? だけど、今はあんなに平穏じゃないか。そんな今の暮らしがあるから、つらい過去だって耐えて行けるんじゃないか」
 秋葉は、なにか胸を突かれたような顔になると、目を海に向けた。波は、秋葉の心など知らぬとでもいうように、変わらず、穏やかに寄せてくる。
「じゃあ、私は、罪深いことをしていますね」と、ポツリといった。ここにいて、志貴との時間を独占しているという意味だろう。
「馬鹿。ここにいるのは、俺の身勝手だよ」
 志貴は苦笑しながら、秋葉の肩を、もう一度抱き寄せた。秋葉は、そんな兄の横顔を、その腕の中からじっと見上げている。二人は、長い間言葉もなく、雨の中に身を置いていた。ようやく、お互いのほのかな温もりが伝わりあった頃、
「あのさ――」
 長い沈黙の後、ようやく口を開いたのは、志貴だった。
「俺、アルクェイドに、一緒に行こうって誘われたんだ」
「――」
 秋葉はなにもいわず、黙って志貴を見つめている。
「あいつ、今のまま、人間の世界で暮らすのは負担が大きすぎるから、自分の城に帰らなけりゃならないっていうんだ。そうしないと、危ない状態になるらしい」
「――」
「ある程度、シエル先輩から事情を聞いてたから、覚悟はしてた。あいつは永遠に生きる奴だから、もしも一緒にいてやろうとするのなら、あいつに血を吸われて、あいつの下僕にならなければならない。俺はそれでもいいと思っていた」
「――」
 どこまで話を理解しているのだろうか、秋葉はただ黙って、志貴を見つめている。しかし、その横顔には、内心の不安が見え隠れしていた。
「奴の下僕になって、永遠に共に生きる。それは凄く魅力的に思えたんだ。あいつと永遠の愛を生きる。あいつを変えてしまった責任を取るためには、それしかない。いや、むしろ俺は、その為にこの世に生を受けたんだとすら感じた。あいつと愛し合うために生まれてきたんだって」
「――」
 秋葉の不安は、もう隠しようもない。小さくて華奢な拳が、痛ましいほどに強く握りしめられている。それでも、秋葉は口を挟まず、兄の言葉を待っている。
「クリスマスの日、俺はあいつから誘われた。みんなに別れを告げて、俺と、あいつの世界に旅立とうって。覚悟していたことだから、俺はただ頷けばいいと思った。だけど、だけど――」
「――」
「だけど、出来なかった。あいつの言葉をどうしても受け入れられなかった。それは――」
 志貴は、急に秋葉に目を向けると、その肩を強く、強く抱きしめた。
「お前がいたから。お前と、翡翠と、琥珀さんと、シエル先輩、有彦に啓子さん、文臣さん、都古ちゃん――俺を気に掛けて、俺を大事にしてくれた人たちの顔が、どうしても目の前にちらついたんだ。どうしても捨てられなかった。アルクのためならなにもかも捨てて、それで後悔なんてしないと思っていた。でもダメだった。いざ、その時になって、俺は、本当は、誰も捨てられないのに気づいたんだ。なかんずく、秋葉、お前をさ」
「兄さん――」
 秋葉は、兄の顔にそっと触れた。志貴は、秋葉と、そっと頬を寄せあった。
「八年間、待っていてくれたお前に、俺はまだなんのお返しもしてない。いや、そもそも、お前がしてきてくれたことは、一生かかったってお返しできないことだよ。八年間、お前は俺の命を黙って支えてくれた。そんなこと、他の誰がやってくれた?」
「兄さん――」
 秋葉は顔を上げて叫んだ。悲鳴のようだった。まさか、兄がそのことを知っているなんて。
「他ならぬアルクェイドが教えてくれたんだ。あいつは、お前のことを、一目で見抜いていたよ。それから、琥珀さんや先輩に聞いて回って、やっと八年前になにが起きたのか、俺は知ることが出来た」
「琥珀が――余計なことを」
 秋葉は、唇を噛み締めた。
「知ってよかったよ。知らなかったら、たとえ後ろ髪を引かれる思いをしたとしても、あいつと一緒に去っていっただろうから。でも、知ってしまったからには、もうお前を置いてはいけない」
 志貴は、やっと体の力を抜いた。
「ホッとしたよ……。やっと、肝心要のことを、お前に告白できたからな」
 秋葉は、内心の激しい動揺と、複雑な感情と戦っていたが、やがてまた口を開けた。
「それで、兄さんは逃げてきたんですね」
「ああ」
 志貴は、なにか放心したような笑みを浮かべた。
「アルクに年明けまで返事を待ってくれっていって、それから逃げ出してきたんだ」
「そうだったのですか――」
「それから、帰るにも帰れない気持ちで一杯でね。帰れば、あいつに返事しなければならない。あいつと一緒に行くわけには行かない。でもそれは、永遠に生きるあいつと、ふつうの人間として生きる俺との、事実上の別離宣言なんだ。それを告げる勇気もない」
 放心したように海を見つめる志貴。秋葉は視線を落とし、なにか考えていたが、やがてまた顔を上げていった。
「それで兄さん、アルクェイドさんのことは、まだ愛してらっしゃるんですか?」
「愛してる」
 志貴はきっぱりと告げた。
「あいつが喜ぶ顔を見るのは嬉しいし、悲しむ顔を見るのは嫌だ。あいつの無邪気なところは捨てがたいし、完璧な容姿は惚れ惚れするばかりだ。できれば、ずっと一緒にいたい。でもな、秋葉。それは、お前に対しても同じことさ」
 志貴は、秋葉の手を取った。
「俺は、やっぱりお前のことも愛してるんだ。お前のひたむきさが好きだし、楽しそうにしているお前は大好きだ。お前が嫌がる事なんてしたくないし、抱けば折れてしまいそうな体も愛おしい。お前とだって、ずっと一緒にいたい」
「二股を掛けようというのですか」
 秋葉の目つきがきつくなった。
「愛してしまったものはどうしようもない。でもな――」
 志貴は、ゆっくり立ち上がって、橋の方に目を向けた。秋葉も続く。鉄橋は、見上げている二人のことなど知らぬげに、降り続く雨の中、茫洋と浮かんでいた。
「でも、この遠野志貴の長くない一生を費やして、なんとか一緒にいてやれそうなのはお前の方さ。アルクとは、とても添い遂げられない。まるで、富士山を愛するようなものだ」
「富士山、ですか」
 秋葉は、不思議そうな顔になった。。
「だってそうだろう? アルクと俺とでは、生き物としてのレベルが違いすぎる。どんなに足掻いても、これから長い長い時間を生きて行くあいつに与えてやれる時間なんて、あいつにとっては一瞬に過ぎない。あいつの下僕になるってのも、こっちに来てからしばらく考えたけれど、願い下げだ。俺は富士山なんかになりたくはない。俺の出来ることはするけれど、それでも、これからの長い時間は、あいつ自身でなんとかするしかないのさ」
 志貴は、秋葉を悪戯っぽい目で見た。
「あいつは、この遠野志貴の手には、どうしたって余る相手なのさ。俺になんとか出来そうなのは、怒りっぽくて、焼き餅焼きの、可愛い妹の方なんだ」
「ふふふ、なんだか殿方に口説かれているような気分ですね」
「その通り。俺はこっちで、遠野秋葉という手強い女の子を、時間を掛けて口説いてるのさ。でも――」
 再び、志貴は視線を橋に向けた。
「あっちに戻ったら、富士山になんていえばいいんだろうな――」
 秋葉は、志貴に寄り添うと、やはり橋を見上げて、じっと黙っていた。

 闇が降り、家々に明かりが灯る時刻になっても、まだ雨は降り続いていた。この分では、もしかしたら、明日も雨なのかも知れない。するとバイトは休みだな――志貴は雨に煙る港を見ながら、ぼんやり考えた。
「明日は図書館に行きましょう」
 そんな志貴の気持ちを見透かしたのか、さっきから食器を並べていた秋葉が、唐突にいった。
「図書館?」
 志貴は一瞬首をひねり、すぐにいい考えかも知れないと思ったようだ。
「うん、いいね。暇つぶしになるし、雨に濡れなくて済むし」
「ただで時間を過ごせます。図書館の食堂は、意外においしいのだと長谷川のおじさまからうかがいました」
「そうしよう。バイトはどう考えても休みだし」
 志貴は立ち上がると、秋葉が作ったスープを椀に取り、二人分をテーブルに運んだ。耳を澄ますと、薄っぺらい屋根を打つ雨音が、染み込むようにして聞こえてくる。
「なあ、秋葉」
 箸を並べながら、志貴はふと秋葉に声を掛けた。
「はい、なんですか?」
「こうして立ち止まるのも、たまには必要なんだな」
「――?」
 兄の意図を計りかねて、秋葉はきょとんを見つめ返してきた。
「いや、ね。毎日毎日、生活に追われていることを口実に、お前に大切なことを告げるのを先送りにしてきた気がしてね。今日の雨が、それを可能にしてくれたのかなと思って」
「その分では、明日にはどんな爆弾発言が飛び出すのでしょうね」
 皮肉っぽく言い返す秋葉に、志貴は軽く笑うと、夕食に取りかかったのだった。二人は、明日も雨に閉じこめられたような一日を過ごすのだろうか。雨に閉じこめられて、やっと真意が通いあった、そんな一日だった。

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