志貴と秋葉の物語 〜風〜



「これだってアルバイトなんですよ」



 気怠い朝――
 志貴はぼんやりと、暗い天井を見上げた。備え付けの布団は十分に暖かい。それでも、冬の早朝の寒気は、布団に染み込んでくるようだ。ましてや、裸で寝ているともなると。
 志貴は自分の右隣に目をやった。秋葉は、志貴の胸にすがるようにして、静かに寝息を立てている。裸の肩が布団からはみ出しているのを見て、そっとかけ直してやった。いつもの不機嫌さがかけらもない秋葉の寝顔は、むしろ十六歳にしては幼く見える。秋葉の肩に回している右腕で、その髪を何度か撫でてやってから、腕を放そうと思った。すると、志貴が離れてしまうと本能的に感じたのだろう、秋葉は微かにいやいやをしながら志貴の胸により強くすがりついた。そんな秋葉が愛おしくて、志貴はまたその裸身を抱いてやった。
「寒くてやりきれないか?」
 そっとささやいた。
「二人でこうしていたら、暖かいよ」
 しばらく寝顔に見とれていたら、ん、と瞼が動いて、秋葉がゆっくり目を開けた。束の間、ボーっと兄の顔を見つめていた。寝ぼけているようだ。
「おはよう」
 志貴が優しく声をかけると、やっと我に返ったようだ。
「あっ、なっ、兄さん――」
 昨夜のことを思い出したのか、秋葉は真っ赤になった。少し伏し目がちに、「おはようございます」と消え入りそうな声でこたえた。
「痛くはないか?」
 ふと気にかかって、志貴は秋葉にそう尋ねた。
「あっ――いえ、それほどではありません」
 ますます顔を赤らめて、秋葉はやっとそう答えた。秋葉は昨夜が初めてだったのだ。意外に出血したので、志貴は少し慌ててしまったが、その後は大丈夫だったようだ。
「後で、なんか薬を買ってくるよ。今日はあまり動かない方がいいかもしれない」
「いえ、大丈夫です」
「無理するなよ」と、志貴は笑いながらいった。
「どうせ、しばらくはこっちでゆっくりするつもりだ。秋葉も、忙しい毎日のことを忘れて、ゆっくり骨休みしなよ」
「そうですね――」
 秋葉は、束の間考え込んだようだ。
「どうせ年越しですし、琥珀と翡翠に暇をやるつもりで、こちらで過ごすのも悪くないかもしれません」
「じゃ、決まり」
 志貴はくすくす笑った。
「たまには、琥珀さんたちをドキドキさせるのも悪くないよ。ここにいるのに飽きたら、しれっと帰ろう」
「いいですね」
 二人は顔を突き合わせて、しばらくくすくす笑いあった。それから、ふと真顔になると、互いに抱き寄せあって、唇を重ねた。そして、無言になる。

 その日、どうせこちらにいるのならと、志貴は家電品をいくつか買ってきた。電気ストーブと電気ポッド、それから食器類に幾ばくかの下着類、雑貨。秋葉の下着を買うときには、さすがに勇気が必要だった。
 離れた市街地まで買い物に出かけ、夕方に帰ってくると、なんと秋葉が料理をしている真っ最中だった。
「食材はどこで買ったの?」
 秋葉は鍋でなにかを煮ながら、小さなフライパンで卵焼きを作っているところだった。
「近くに昼だけ開いている雑貨屋があるんです。そこで買ってきました」
 この小さな港で食材や雑貨類を買える、唯一の店だという。
「それと、上の道路まで上がると、コンビニがあるんですけど」
「えっ、あったっけ」
「はい、長谷川のおばさまに教えていただきました」
 どうやら、いつの間にか仲良くなっているらしい。秋葉なりの社交術が役立っているのだろうか。もっとも、あの素朴で親切な長谷川夫妻には、そういった社交術は余計かもしれない。
 調味料も分けてもらったという。秋葉は手に入った食材で卵焼き、焼き鯖、味噌汁、ほうれん草のお浸しを作り、そしてご飯を炊いた。
「鍋でご飯が炊けるとはなあ」
 秋葉が煮ていたのは、実は米だった。鍋で飯を炊いていたのだ。まあ、考えてみれば、当たり前のことではあるが。意外に良く炊けて、少し柔らかすぎる気はしたが、臭みもなくておいしかった。卵焼きと焼き鯖はやや焼き過ぎだったが、実用に耐えるものだった。しかし、味噌汁は濃すぎる。出汁の加減が分からなかったという。
「焼きすぎたり濃すぎたり、慣れないことはするもんじゃありませんね。ごめんなさい、兄さん。お口汚しをお出ししてしまって」
「なにいってんだよ。俺はむしろ驚いたよ。秋葉にここまで料理できるとはな」
 本当に、深窓の令嬢である秋葉が、こんな家庭料理をこなせるとは思ってなかった志貴だった。
「浅上は良妻賢母養成学校ですから、調理実習は意外に多いんです。気晴らしにはいいので、私は結構好きです」
「そうか。もう少し精進したら、ものになるよ」
「はい、頑張ります」
 秋葉は嬉しそうだった。
 翌日は大晦日だった。秋葉と連れだって広島まで出かけた。年の瀬の商店街で小さな冷蔵庫を買い、アパートに届けてもらう手配をした。これで、生活必需品は一通り揃ったはずだ。
「まあ、そんなに長居する訳じゃないんでしょう?」
 帰り道、まだなにが要るか考え込んでいた志貴に、秋葉はそういった。
「それに八畳一間の部屋なんですよ。そんなにたくさんの物を置けるはずが無いじゃありませんか」
 それもそうだな、と志貴も思い直した。
「でも、洗濯機は欲しいだろう?」
「街まで出たらコインランドリーがありますよ。最悪、大きなたらいを買っておいたので、それで洗濯は出来ますよ」
 あまり無駄遣いはしませんよ、と秋葉はいった。志貴も、だいたい松の内が明けたら帰るくらいのつもりだったので、まあそれもそうだと思い直した。そう考えると、冷蔵庫もかなり無駄な買い物だ。
 いざという時には金で解決すればいいと思っていた。二人とも、許容限度は異なるものの、まずは倹約家といえる精神構造の持ち主だった。だが黙って家を離れ、ままごとのような二人きりの生活を始めたという高揚感が、なんとなく金銭的なリミッターを外してしまったような観があった。とはいえ、二人きりの生活。たかが知れているともいえた。
 帰宅して、晦そばを食べたら、もう年明け間近だった。テレビはないのだが、近所の寺で除夜の鐘を衝き始めたようだ。静かな夜の瀬戸内の海に、殷々とした鐘の音が染みてゆく。ほどなく、志貴の時計で年越しを確認した途端、遠くから汽笛が聞こえてきた。港に入っている艦船が、一斉に鳴らし始めたのだ。
「へえ、年が明けたとたんに汽笛を鳴らすんだ」
「おもしろい風習ですね。もしかしたら、全国津々浦々の港町でも、やはりこうしているのかも知れませんね」
 こんなこと、遠野の屋敷にいたら、一生分からなかったかも知れない。知ったからといってどうという事もない知識ではあったが、二人ともこれだけでもこの港に来た甲斐があったと思ったものだ。二人は、肩を寄せあって、窓の外から聞こえてくる汽笛に、耳を傾けた。

 翌、元日。二人は、どうせお参りするのならと、宮島は厳島神社へと赴いた。想像したほど殺人的な人出ではない。
「きっと、船でなければ来れないというインターフェースに問題があるのです」
「だからといって、これ以上増えるのもな」
 妙に冷静な秋葉の観察に、志貴は苦笑した。
 厳島神社での参拝を早々に済ませ、二人はアパートへの帰路に就いた。港を見下ろす国道まで戻ったとき、正装めいた着物姿の長谷川夫妻が、山の方にある細い石段に消えて行くのを目撃した。もしやと思って後を追うと、やはり、石段の上には小さな社が祀られていた。少し経って折り返して来た長谷川夫妻に尋ねると、やはりこの辺の氏神だという。ついでにお参りしときんさい、という長谷川夫人の薦めに従い、二人はこの社もお参りすることにした。人気が全くない、小さな社の前で手を合わせる。不思議なことに、厳島神社に参拝したときより、より初詣したという実感が強くなったのだ。
「これくらいのお社というのも、ちょうどいいものですね」
「ああ、神様も、これくらいの人数なら、願いを聞き届けてくれるよ」
「兄さんはなにをお願いしましたか?」
「そうだな――」
 志貴は、秋葉の顔を、悪戯っぽく見返した。
「とりあえず平穏無事にとお願いしたよ。特に妹の嫌みは控えめにお願いします、とね」
「ふふふ、欲がないんですね」
「そういう秋葉はどうなんだよ」
「私は、みんなが平穏無事で居られますようにとお願いしました。それと――」
 急に志貴を見つめていった。
「兄さんと、仲良くしていられますようにって」
「なら、もう叶ってるよ」
 リップサービスのつもりか、軽口を叩く志貴にしなだれかかりながら、秋葉はアパートに帰っていった。

 そう、金があるならば、いつまでもこんな生活が出来ると思っていた。いつまでもここにいたいと思っていたわけではない。二人には家族同然の使用人たちがいたし、こんな身勝手をいつまでも続けられるはずがないことも分かっていた。それでも、まあその気になればいつまでも、という気分は、精神の平安に大きな寄与をするものだった。
 二人が、いかに世間を知らないかという事を思い知るまで、そうはかからなかった。
 三が日が明けて四日、キャッシュカードで現金を引き下ろしに――足が着かないようにわざわざ広島まで出かけて――行って来た秋葉が、夕刻にやや悄然とした面もちで帰ってきた。
「ずいぶんかかったな?」
 昼前には帰るはずだったのに、夕方まで戻ってこなかった秋葉を心配して、志貴は何度も遠野の屋敷に連絡を取ろうかと思い悩んでいたのだ。
「それが――キャッシュカードが使えなくなったのです」
「えっ、どうして――」
「止められたんでしょうね」
「いったい誰が――」
「それは遠野一族の誰かでしょう。琥珀だけでは私の口座に触ることが出来ません。たぶん、斗波辺りに知らせて、止めさせたのでしょう。あるいは、私たちの名目上の親権者である、有間のおばさま辺りかも」
「兵糧攻めかよ――クレジットカードは?」
「同じ事でした」
 方々移動して、持っているカード全部で試してみたのだという。
「たぶん、穏便に済ませようという訳なんだろうが――気にくわないな」
「そうですね。やり方が陰湿です」
 一言も告げずに家を出て、携帯電話への着信にも答えないという勝手をやっているのは、彼らの方だったのだが。
「っていうかさ。なんだか俺たちが、遠野の家を離れて生きてはいけないだろうっていわれてる気がするんだ」
 確かに、それは面白くないだろう。秋葉の顔に、悪戯っぽい、少し不敵なものが浮かんだ。
「そうですね……。なら、できるだけ粘ってみせるのもいいかも知れません」
「うん、できるだけ、な」
 二人はそういいあって、先ほどの深刻そうな顔はどこにやら、顔を突き合わせてくすくす笑いあったのだ。

 翌日、志貴はどこかにふらりと出かけてしまい、秋葉だけが残された。まあ、志貴には元々放浪癖があるし、と、秋葉はあまり気にしなかったのだが。遠野の屋敷で、もしも志貴と二人きりになったらと想像していた時のようには、四六時中志貴に居て欲しいとは思わなかった。それは、必ず夜には戻ってくる、と分かっていたからだろうか。志貴が帰ってくるまでの間、秋葉は手持ちの現金を数えて、この先の事を考えた。カードで支払う習慣もあり、現金の持ち合わせは七万円弱と意外に少ない。これでも来月分の家賃と、今月一杯の光熱費、食費はなんとかなりそうだった。しかし、家計のことは琥珀に任せきりだったので、細々とした出費までは見積もれない。まあ、金が尽きたら、白旗を掲げて遠野に救援を請うだけだが、それは出来るだけ先延ばしにしたかった。
 志貴が帰ってきたのは、日も暮れきった夕方六時過ぎのことだった。
「おかえりなさい。今日はずいぶん遠出されたんですね」
 帰宅時間から見て、てっきりそうだと思いこんでいた。
「あー、いや、ずっとこの近くにいたよ」
「そうなんですか?」
 志貴の上着を受け取った秋葉は、ふと眉を寄せて、上着に顔を寄せた。
「なんだか、潮の匂いがしますね」
「あはは、秋葉はごまかせないか」
 志貴はそういいながら、持ち帰ってきた紙袋から、タッパーウェアを一つ取り出した。中には、小魚が十匹くらい入っている。
「これは?」
「バイト代」
「バイト? 兄さん、いったいどこで――」
「町営の水産物仕分け場さ」
 志貴は笑いながら答えた。
「長谷川のおばさんにアルバイトでもないかなあ、なんて聞いたら、そこを紹介してくれてね。若い奴は市街地で仕事を見つけてくるので、慢性的な人手不足らしい。俺みたいなのでも、すぐに雇ってくれたよ」
「それにしても、兄さん、自分を安売りし過ぎです」
 秋葉は、タッパーウェアの小魚を眺めながら、あきれたとも感心したともつかない口調でいった。
「あははは、ごめんごめん。それは市場に出せないくらいの小魚なんで、持ってけっていわれてもらったものなんだ。出汁にみりんに醤油で煮付けるとおいしいってさ。本当のバイト代は、これ」
と、秋葉に渡したのは、茶色の封筒。開けてみると、千円札が四枚に五百円玉一つと百円玉三つ。都合四千八百円が入っていた。
「時給千二百円。四時間働いたから、これだけだな。一日八時間は働けそうだけど、雨の日は漁師が海に出ないんで仕分け場もやってないことが多いそうだ」
「どんな仕事なんですか?」
「荷物運びさ。魚介類を入れた箱をトラックから降ろして、おばちゃんたちに配って回って、おばちゃんたちが仕分けたのを回収するのが仕事さ。この箱が結構重くてね。腕が疲れたよ。時給がいいから、その分きつい、汚い仕事さ」
 志貴は笑いながらいったが、さすがに疲れた顔を隠しきれなかった。
「それはそれは……。お兄様、肩などお揉みしましょうか?」
 秋葉は、にこにこしながら志貴の肩を揉み始めた。
「いいよ、疲れたっていっても、アルクェイドや先輩に引きずり回されることに較べれば……。秋葉は俺を迎えてくれればそれでいいんだよ。秋葉の顔を見たら、疲れなんて消えてなくなっちゃうんだからさ」
「うふふ、嬉しいことをおっしゃってくれますね」
「リップサービスって奴だよ」
 志貴がそう軽口を叩いても、いつもなら怒り出しそうな秋葉は、うふふ、と笑っている。本当に、遠野の屋敷での秋葉とは違って見えた。いつもの険がない。いや、これが本当の秋葉なんだ、そう志貴は気づいた。
「でも、私も家計を助けるために働かなければなりませんね。手持ちの現金では、この先苦しむのは目に見えてますから」
 ふと、眉根を寄せて、秋葉はぽつりといった。
「これじゃ足りないか? 毎月二十日くらい働いたら、十万は越えると思うけど」
「それではどこかに出かけることもできませんよ。もっと生活に余裕が欲しいでしょう?」
「俺は近所を散歩するだけでも充分楽しいけどなあ」
「兄さんは欲がありませんね」
 秋葉は仕方なく笑った。
「でもさあ、住むところがあって、着るものがあって、ちゃんとご飯を三度食べられて、おまけに愛する人が隣にいるんだから、もう不足するものなんて無いだろう?」
「そう、ですか……」
 秋葉が真っ赤になってうつむいたのは、もちろん後半のセンテンスに反応したからに他ならない。そんな秋葉を、志貴は不思議そうに見つめた。自分がなんの気なしに漏らした言葉の重大さに、毛ほども気づいてなかった。さすが、名うての朴念仁。
「と、ともあれ、この先なにが待っているか分からないんですから、現金の持ち合わせは多いに越したことはないでしょう? 私もなにかアルバイトをしますね」
「そりゃいいけど、まさか秋葉も仕分け場で? 魚臭い秋葉は勘弁してくれよ。秋葉には秋葉らしい生活があるだろう」
「じゃあ、コンビニで」
「それもいいけど、人に頭を下げる秋葉なんて、想像つかないぞ」
「兄さんは私のことをなんだと思ってらっしゃるんですかねえ」
 秋葉は、志貴の無茶とも言える感想に、図らずも笑いをもらした。
「まあ、なにか兄さんに気に入っていただける仕事を探してみます。お嬢様らしい仕事、無いかなあ」
「あはは、ごめん。別に秋葉が働くのが気に入らない訳じゃないんだよ」
 ふと、どこからか子供の嬌声のようなものが聞こえてきて、二人は同時に耳を澄ませた。
「――隣か」
「隣ですね」
 隣室の住人は、中国人の夫婦と、子供二人だった。四人とも日本語をあまり解さないようで、隣人との会話らしい会話もない。夫婦は正月中も朝早くから夜遅くまで働いていたようで、子供たちだけが近所で遊んでいるのを目撃している。長谷川夫妻も、なに考えているのか分からなくて、などと少々気味悪がっていた。
 やがて、叱りつけるような男女の声が聞こえ、再び静かになった。
「こんなに良く声が聞こえるとはね」
 薄い壁一枚隔てただけの部屋で、自分たちが真夜中に行っていた行為を思いだし、さすがの志貴も顔の赤らむ思いらしい。
「今夜は、出来るだけ部屋の反対側で寝ましょう」
 果たして効果が望めるのかどうか、秋葉はそんな提案をした。

 それからしばらく、志貴は仕分け場で働いて、夕刻帰るという生活を続けた。朝は早いが、終わるのはおやつの頃を過ぎてすぐだ。どういうわけか同僚のご婦人たちに気に入られた志貴は、昼食もご相伴に与ることが多い。秋葉の負担が減って良いことだと思った。食費も助かる。
 今のところ、家賃をのぞけば、食費が最大の出費になりそうだった。秋葉の不慣れもあり、また食器、調理器具を揃える必要もあり、意外なくらい金を費やしていた。秋葉は市街地のスーパーや百円ショップに寄っては、少しずつそれらを調達してきていた。遠野家のお嬢様が百円ショップのお世話になるなど、屋敷にいたときには想像すら出来ない事態だった。夕食の調理では失敗もあったが、意外に賢明なバリエーションを試みてもいた。案外に失敗しなかったのが、鍋による炊飯だった。一度コツさえつかめば、それほど難しくはないらしい。
 隣室の住民との接触は、志貴に限ってはほとんど無かった。一度、朝一番に出て行くとき、なぜか揃って戻ってきた夫婦と出くわした事があった。散歩だったのだろうか。夫の方は志貴にちらりと目をやって、後は無視してくれたが、夫人の方は黙礼をくれたので、志貴も意識せずに会釈を返した。それが唯一の接触で、生活時間帯のずれている隣人同士、ほとんど接触はない。
 帰宅しても、テレビもなにもないので、秋葉と話しているしかない。しかし、ぽつり、ぽつりとたわいない話をする時間が、二人には代え難いものになっていた。屋敷にいた頃だって、こんなにじっくり話し込むことは少なかった。おまけに、ここにはお邪魔虫もいない。二人は、失われた八年間の埋め合わせをするように、昔話や、身近な出来事を話し合った。
 明日は仕分け場が休みという日のことだった。この週の給料をまとめてもらった志貴は、懐が暖かかった。明日は秋葉と鉄道で遠出しようか、などと考えつつ、アパートの自室に入った。しかし、秋葉はいない。
「秋葉――」
 思わず呼びかけようとして、志貴はその無意味さに苦笑いした。ここは屋敷じゃないのだ。部屋は八畳一間しかない。
 どこに行ったのかな、と思いつつ、冷蔵庫からお茶を出して飲もうとしたとき、耳慣れた声が聞こえた気がした。耳を澄ますと、子供の声が聞こえ、それから秋葉の声が聞こえた気がした。
 部屋を出て、耳を側立てると、どうも隣室から聞こえているようだった。なぜに――不思議に思いつつ、志貴は勇気を出して、隣室のドアをノックした。
「はい――?」
 やはり、秋葉の声で返答があった。
「秋葉? いるのか?」
 ドア越しに呼びかけると、小走りの足音がして、ドアがサッと開いた。やはり秋葉だった。
「あ、兄さん、お帰りなさい」
 秋葉の肩越しに、隣室の子供たちが、こちらを微妙に警戒した目つきで見ているのが分かった。
「なにしてるんだ?」
「あはは、兄さん。これだってアルバイトなんですよ?」
 秋葉はそうはいうものの、部屋の中には子供向けの絵本や、落書き帳の類が転がっている。子供たちと遊んでいるとしか思えなかった。
「保母さんにでもなるのか?」
「それもいいかも知れませんね」
 秋葉はにこにこしながら答えると、志貴を座らせて、自分はまた『仕事』に戻った。子供たちに、ごめんね、と英語でいって、日本の昔話の類の絵本を、逐次翻訳しながら語って聞かせ始めた。どうも、子供たちも英語は解するようだ。もしかしたら中国系米国人なんだろうか、などと志貴は思った。
 秋葉は、いつの間にか子供たちの心をつかんだようで、子供たちが秋葉に向ける表情には屈託がない。上の、五歳くらいの女の子は、すぐに志貴の存在にも慣れ、自然な笑顔を向けてくれるようになった。一方、三つくらいの男の子の方は、どうも志貴の存在が気になるようで、ずっと姉の陰に隠れていた。二人とも英語をかなり、そして日本語をごく少し解するようだ。二人が秋葉になついているのは、ほとんどくっついたっきりなことからもうかがえた。まあ、こんな綺麗なお姉さんが出来たら、誰だってすぐになついてしまうだろうが。
 秋葉のアルバイトは、子供たちの母親が帰宅してきた夜七時まで続いた。母親は、満面に感謝の意を表して秋葉に礼を述べると、子供たちの相手を引き継いだ。この夫人が、他人と交流している様を見るのは、志貴には初めてのことだった。
「なるほどね。いいバイトを見つけたな」
 自室に戻りながら、志貴は秋葉にいった。
「あのご夫妻は、実は中国でもいい大学を出たエリートなんです。でも本当はアメリカに移住したかったのだけど、資金が足りなかったので、日本で出稼ぎされているそうです。夫婦揃って働いているので、残さざるを得ない子供たちのことをすごく気に掛けていらして。それで、なんとなく立ち話していたら、週に何度かでいいから、子供たちを世話して欲しいといわれたんです」
「そうか。意外に子煩悩なんだな。ほったらかしにして、冷たい親だと思っていたけど」
「やむを得ないんですよ。特に旦那さんは、お金のために粉骨砕身して働いてらっしゃるので」
 なるほどと思った。まあ報酬は無いのかも知れないが、秋葉が退屈しないで済みそうなので、志貴はホッとした。秋葉を一人残して働きに出るのは可哀想だが、お嬢様な秋葉を働かせるのは抵抗がある。こういう人助けなら、秋葉の退屈凌ぎにいいと思ったのだ。
 ほどなく、ドアがノックされて、隣室の夫人がひょいと顔をのぞかせた。気安げな様子で秋葉を手招きし、二言三言話す。と、秋葉はなぜか鍋皿を抱えて、夫人についていった。ほどなく戻ってきた秋葉が抱えてきたのは、湯気の立っている水餃子、豚肉とタケノコ、野菜類の炒め物など、中華料理の何品かだった。
「それは?」
「はい、お給料です」
 秋葉はすぐにご飯と汁物を炊きあげ、温めなおした『給料』を食卓に並べた。いつもよりずっと豪華な夕食になった。
「奥さんは中華料理店で働いていらして、いつも余った食材を持って帰ってらっしゃるんだそうです。これからは、毎日何品か差し入れしていただけるそうですよ」
 食費がかかると思っていただけに、これは意外に大きな助けになりそうだ。
「驚いたよ。こういう形のアルバイトとはね。意外に、秋葉も強かなんだな」
「強かなものですか。これだって助け合いの一種ですよ」
 二人で、ニラの効いた水餃子に舌鼓を打ちながらの、和やかな夕食となった。
 志貴と秋葉のアルバイト、周囲の人々との交流、そして意外な所に転がっている助け。二人には、なんとなくこの先も順調に進めてゆけそうに思えた。遠野から離れて、一月とはいわず、ずっと暮らしてゆけるかも知れないと思えるようになったのだ。しかも、自分たちの手で。
 風に阻まれて、しかし風に助けられて、二人の新しい生活は、いつの間にか転がり始めた。

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