志貴と秋葉の物語 〜海〜



「ここにしましょう」



 ちょっと、遠出しないか――
 志貴が秋葉にそう切り出したのは、年の瀬も近い、ある日のことだった。クリスマスも過ぎ、二人とものんびりと屋敷で骨休みしていた。
「遠出ですか」
 秋葉は、案の定、うれしさ半分、戸惑い半分の顔になった。そして、「どちらへ?」と、当然の疑問を口にした。
「そうだな――」
 志貴は考える口振りだったが、ついに目的地は明かさなかった。
 翌朝、二人は琥珀たちに、「遅くなるから」とだけ告げて、家を出た。志貴の方はリュックサックを背負っていたが、秋葉は小さなハンドバッグ一つ。冬のこと故、身支度は固かったが、とても遠出するような格好には見えない。だから、琥珀もつい騙されたのだろう、「お気をつけて、行ってらっしゃいませ」と、二人を素直に送り出してしまった。
 家を出て、三咲町の駅まで歩き、そこからは鉄道を乗り継いでいったのだった。
「こうして、兄さんだけとお出かけするのは、久しぶりですね」
 新幹線に乗り換えて、西に向かいながら、秋葉は少しはしゃいでいた。実際、アルクェイドにもシエルにも、琥珀にも翡翠にもその他のお邪魔虫にも邪魔されないでの外出は、本当に久しぶりのことだった。
「そうだな。ごめんな、秋葉と二人きりの時間、なかなか作ってやれなかった」
 志貴はそういって、頭を下げた。秋葉は、「いいんですよ」と微笑んでいる。かなり機嫌は良さそうだった。志貴が遠野家に戻ってきて以来見たことがないくらい、秋葉の表情は和らいでいる。が、志貴はこの時点でも目的地を明かさなかった。
 名古屋で新幹線を乗り継ぎ、さらに西に向かう。この時点で、日帰りの旅にならないことは明らかだったが、その支度のないはずの秋葉はなにもいわない。ただ、窓の外を流れて行く風景を、どこか楽しげに見ていた。
 広島でローカル線に乗り換え、海沿いに移動する。単線で、すれ違う便も少ない。窓の外には、瀬戸内の穏やかな海が、傾き始めた冬の陽に輝いている。大きな湖のような風景だった。島影が、遙か彼方まで、霞んで、重なって、連なっている。
「ねえ兄さん、今日はどちらまで行かれるのですか?」と、秋葉が改めて尋ねてきた。
「そうだな。考えてないんだが」と、志貴は、その時初めて、なんの考えもなく、ただ西へとやってきたことを打ち明けた。しかし秋葉は、怒り出す風もなく、 「ふうん、そうですか……」と、黙って海を見ていた。
 列車は地方都市の中心部に滑り込んだ。なんとなく、ここで降りようかと、志貴が荷物に手を伸ばすと、「もう少し、先まで行ってみませんか?」と、秋葉がいった。
「秋葉は、どんなところに行きたい?」と、志貴。
「そうですね……」
 見え始めたホームを眺めながら、秋葉は少し思案顔になった。
「橋が見えるところに行きたいです」
「橋、か」
 漠然と乗り過ごし、いくつかの駅を過ぎたところで、秋葉は兄の手を引いた。
「兄さん、ほら」
 秋葉が指さす先、小さな岬の突端から、大きな橋が島へと延びているのが見えた。次の駅で折り返し、橋が見えた手前の駅で降りた。
 海の方へ、二人で並んで、とぼとぼと歩く。なんとなく、無口になって、でも手はしっかりつないで。
 最近整備されたらしい立派な道を進んで行くと、先ほどの橋が見えた。下から見たい、という秋葉の要望に応えようと、二人は海岸へと降りていった。
 海岸まで降りると、そこは箱庭のような光景。小さな入り江には、漁船が艫を並べており、海岸には細い道を挟んだ家並みが、あっけらかんと続いている。家並み、とはいうものの、ものの五十メートルも歩けばとぎれてしまう。どの家も、冬の陽に微睡むようにして、こぢんまりとうずくまっている。細い通りに、家並みが、居心地良さそうな影を提供していた。
 二人は、その鄙びた風景の中、小さな通りの突端へと歩いた。するとその向こうに、さっきの橋が、高々と架かっているのが見えた。橋は、足許の小漁港の事など知らぬ風に、本土から島へと、すっくと渡されている。
「―――」
 なんとなく並んで、防波堤に立っていた。こっちにおいで、と志貴が誘ったのは、防波堤の先端の、テトラポッドの陰。堤防の縁に腰掛けて、テトラポッドで風を凌ぎながら、橋と、海とを見ていた。
 波が寄せて、寄せてくる。帰って行くようには見えない。沖から打ち寄せる波は、志貴たちの足許を少しずつでも突き崩そうというのか、根気強く、根気強く打ち寄せてくる。
 志貴は急に、ひょいと立ち上がると、少し離れた自販機でコーヒーを買ってきた。もちろん、秋葉の分も。
「ありがとうございます」
 礼儀正しく受け取ってはくれたものの、秋葉は缶をじーっと眺めているだけだ。不思議そうな顔だった。それが、缶の開け方を知らないからだと了解した志貴は、苦笑しながら開けてやった。
「人が開けているのは何度か目にしましたけど、こうやって金属が手だけで切れてしまうのは、不思議ですね」
「きっと、それが売りなんだよ」
 二人は、肩を並べて、コーヒー缶を傾けた。見るとはなしに、目の前の海と、橋とを眺めていた。
「ねえ兄さん」と、しばらくして秋葉がいった。
「ん?」
「どうして、私を誘ってくれたんですか?」
 志貴は、コーヒーを飲みながら、しばらく考える風だった。
「そうだな……。なんだか、秋葉が疲れているように見えたから」
「私が?」
「うん……」
 志貴は、沖合の小さな島影を、じっと見ていた。
「お前、クリスマスの夜、わんわん泣いたろう」
「あ、あれは……」
 秋葉は真っ赤になった。
「その、つい気が高ぶって……。ごめんなさい、兄さんに迷惑をかけるつもりじゃなかったんです」なにか、こらえるように、顔を俯ける。
「それがダメなんだよ」
 志貴は、秋葉を急に抱き寄せた。すぐ横に兄の体があって、頬を寄せあっている。そんな状態に急になってしまい、秋葉は喜びと困惑の入り交じった顔になった。
「ダメだよ、そんなにつまらないことを我慢しちゃ。アルクェイドのやったことに腹を立てたんだろう。なら怒れよ。俺に八つ当たりしたっていいんだから」
「でも、アルクェイドさんは誕生日だったんだし……。仕方ないことだったんです――」
「だから、それがダメなんだ」
 志貴は秋葉の顔を自分に向けさせると、言い聞かせるように続けた。
「ため込んじゃダメだ。秋葉は一番損な立場にあるんだからさ。もっと素直になってくれよ。お前が泣くところなんか……見たくない」
「兄さん――」
「お前はアルクェイドみたいに、腕力で全ての片が付くなんて考えるような、おめでたい奴じゃない。先輩みたいに年上の余裕があるわけでもない。琥珀さんみたいに自由な立場にないし、翡翠みたいにおおっぴらに俺にくっついているわけには行かないんだろう? 誰が俺にちょっかいをかけても、お前が一番割りを食うんだろう?」
 秋葉は、息をのんで、兄の顔を見つめ返した。普段、そんな事に気づいている素振りもなかったのに、と。
「だいたい、納得してるんなら、なんで泣いたりしたんだよ。本当は悔しかったんだろ?」
「今日は、なんだか鋭いですね」
 秋葉は、ふっと目を逸らした。
「ああ、もう見過ごせないと思った。クリスマスは、本当ならみんなと一緒に家にいてさ、夜までのんびり過ごしたかったんだ。夜になったらアルクェイドやシエル先輩を呼んでね。そしたら、朝一でアルクエィドの奴にかっさらわれてさ――そのまま夜まで引きずり回されて。まあ、俺もまんざらじゃなかったから、ついつい付き合ってしまったけど……。帰ってきて、お前にアルクェイドが言った言葉を聞いて、許せなくなったんだ」
 秋葉は、再び真っ赤になってうつむいた。志貴を誘拐同然にさらっていって、夜、パーティーも開けずに待っていた秋葉たちの元に戻ってきたアルクェイドは、こう言い放ったのだ。『だって、志貴は私の恋人だし、今日は私の誕生日なんだから、当然じゃないの』と。
「びっくりしたよ。お前、てっきり食ってかかるのかと思ったら、急に下を向いて、泣き出したんだから。俺もだけど、アルクェイドもびっくりしてたよ。そのまま、すごく気まずそうに、帰ってしまったくらいだ」
「に、兄さん、その話はやめましょう。アルクェイドさんに悪気があったわけじゃないんだし」
「例えそうであっても、あいつは他人の気持ちを理解できないんだから、ちゃんといってやらなきゃダメなんだ」
 ふと、志貴は苦笑した。
「なんか、いつもと逆だな。俺がアルクェイドを責めて、お前が弁護してる」
「う、その、行きがかり上です」
 秋葉は、ツンと顔を逸らした。その怒り顔が可愛らしくて、志貴は思わず笑った。
「ここだけの話、ワンワン泣いてたお前はかわいかったよ。昔のお前みたいでさ」
「だから、その話はやめましょう。アルクェイドさんは、兄さんの恋人なんでしょう。悪くいうなんて……」
「恋人? そうかな」
 何気ない口調で答えた志貴を、秋葉は心底驚いたように、まじまじと見つめた。

 黄昏時。冬至を過ぎたばかりのこの時期には、日が落ちるのが早い。まだ五時前なのに、既に街灯が灯り始めている。間もなく、辺りを闇が包むだろう。
「今日の宿を探さないと」
 橋を飽きるまで見た後、志貴はそういって内陸へと歩き出した。街の方に行けば、きっとホテルでも見つかるだろう。
 タクシーかバスを拾うつもりで、港の上を走る道路へと向かっていった。ふと、秋葉が着いてきてないことに気づいて振り向くと、彼女は一軒の古ぼけた集合住宅の前に立って、なにかを見つめていた。アパートメント、なんて呼べば、英語圏の人間を笑死させられそうな代物だ。
「兄さん――」
「ん?」
 秋葉の側に寄ると、秋葉はその集合住宅の壁に張り出された紙切れを見ていたのだった。
「ここにしましょう」
 秋葉はその紙切れを指しながら、微笑んだ。
 志貴もその紙に目を通した。曰く、『短期滞在者用アパート。空き室有り。布団、冷暖房器具完備。月三万円から。応相談』。
「ふーむ」
 志貴は、その集合住宅を見上げた。一階と二階の一部屋ずつに明かりが灯っている。住民はいるようだ。一階は半分がガレージになっているので、実質一部屋。二階は三部屋あるようだ。
「ねえ、兄さん」秋葉がねだるようにいう。
「うーん」
 志貴は、承諾したとも、迷っているとも取れる顔で、“アパート”を眺めていた。
――結局、部屋を借りることにした。秋葉が一階に住む家主と交渉すると、家主はすぐに二階の鍵を開けてくれた。長谷川という老夫婦が家主だった。長谷川夫人は二人を部屋に通すと、あれが布団、あれがストーブ、流しはここ、と教えてくれた。親切なことに、ストーブの灯油は分けてくれた。トイレは共同、風呂は少し離れた隣の港に銭湯があるという事だったが、遠いからウチのを使いんさい、といってくれた。後で使わせてもらうことにする。
 長谷川夫人が自室に戻り、二人きりになると、なんとなくゴロゴロし始めた。部屋は壁が多少傷んでいるものの、畳もきれいで、全体的にこざっぱりした印象を持った。しかし、彼らが起居していた遠野の屋敷に較べれば、当然天と地ほどの差がある。だいたい、ここは八畳一間しかないのだ。
 一つ、志貴が早速気に入ったことがある。部屋は海に面していて、カーテンを開けると、夜の海が道路越しに見えるのだ。沖を、警告灯を灯した大きな船が通過して行くのを、志貴は飽きもせず眺めていた。遠野でも、有間でも、こんな風景は得られなかったのだから。
「ふふふ」
 志貴と並んで海を見ていた秋葉は、急に意味ありげな含み笑いを漏らした。
「ん、どうした?」
「兄さん、さっきは私のことを疲れてるだろうっておっしゃってましたけど、本当は兄さんの方がよほど疲れていらしたんじゃなありませんか?」
 志貴は秋葉の方に一時顔を向けると、そのまま、また海に向き直った。そして肩越しに、どこか茫洋とした声で答えた。
「そうか――そうだな。確かに疲れてたんだと思うよ」
「私より、兄さんの方がよほど疲れる立場でいらっしゃるんですもの」
「そうか――」
 志貴は窓にもたれて、ぼんやりと思い返しているようだった。
「アルクェイドのわがままに振り回されて、先輩に意地悪されて、秋葉に小言をいわれて、琥珀さんに悪戯されて、翡翠に頑なにされて――本当に、心の休まる時間なんて無かったよ。みんな俺の気持ちを分かってくれないし……」
 志貴は秋葉の方に向き直った。
「秋葉、俺はな、みんなとの時間を大切にしたいと思ってたんだ。みんなのことを一番大切に思っているからな。本当に、本当に頑張ってたんだ。一生懸命に、身を削って。でも、それももう限界だ。これ以上、周りに振り回されていたら、俺の神経がどうにかなってしまうよ」
「そうですね――」
 秋葉は、畳に視線を落とした。
「兄さんが、みんなをとても大事にしてくれるのは分かるし、いつも気を遣って大変なのも分かります。兄さんは、本当に頑張ってくれました」
「ああ、我ながらそう思うよ――でも、そろそろ骨休みが必要だ。みんなと離れる時間が必要だと思った。誰にだって一人になる時間が必要なんだ。俺にも」
 秋葉は黙って海を見ていたが、急に志貴に向き直って、こう聞いた。
「でも――なぜなのですか?」
「なにがだい?」
「なら、なぜ私だけを連れ出してくれたんですか?」
「それはね――」
 不意に、志貴は秋葉の腕をつかむと、秋葉があっと声を上げる間もなく、畳に押し倒してしまった。
「秋葉と、こうなりたいと思ってたからさ」
「えっ、あっ、にいさ――」
 志貴が秋葉に覆い被さり、唇と唇が重ねられた。秋葉の手は、一時だけ拒むように、志貴の肩を押し返そうとしたが、すぐにふっと力を失い、畳の上にぱたりと投げ出された。
 そして、秋葉は、兄の全てを受け入れたのだった。
 時折、風が窓を叩き、波の音を運んでくる夜だった。二人は、夜の海へと漕ぎ出して行く――


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