彼女のミステイク



 三十秒ほども凝視していただろうか。蒼香は顔を起こすと、角度を変えて眺めた。差し渡し数センチ、軽度の内出血が見せる影。間違いない、それはキスマークだ。
 でも、誰が――とは考えなかった。志貴にキスマークを付けるような、すなわち志貴と同衾するような人間は、この世に二人しかいないはずだ。そしてその一人、この月姫蒼香の身に覚えが無い以上、もう一人が犯人ということになる。だが、なぜ今になって――
 蒼香は、志貴の体にキスマークを見つけたことが無い。実は、志貴が極端に嫌がるのだ。志貴自身は、蒼香が『風呂で見つかるとやばいからやめろ』といっても、胸や内股に喜んで付けるのだが。おかげで、何度も羽居に濡れ衣を着せなければならなかった。しかし、蒼香自身は、志貴に付けたことは無いのだ。付けようとすると、敏感に察知されて、逃げられてしまう。そして、恐らくは、志貴のもう一人の恋人も、同じことだろう。
 蒼香は、そのキスマークをじっと見つめ、考え込んだ。不注意で付けたとは思えなかった。わざわざ、志貴の背中に付けるなんて。そう、志貴自身に、決して分からないように。
 ああ、そうか。一つ気づいた。これは、志貴自身は気づかないが、志貴と同衾する者には必ず目に入る位置なのだ。つまりこれは――
「メッセージ、か」
 蒼香は、我知らず呟いた。これは、志貴のもう一人の恋人から、自分へと宛てたメッセージなのだ。その意味するところは、いったい――
 じっと考え込んだ。その意味が、分かる気がする。今、とても危うい分岐点を歩いているのだとも。だが蒼香は、これに応えなければならないのだと確信した。緊張の余り、ごくりと喉を鳴らすと、蒼香は志貴の背中に唇を押し当てた――
「ん――?」
 ふと、志貴が気配を感じ、顔を起こしたとき、蒼香は既に志貴の背中から離れていた。
「どうした?」と、ちょっと疲れた様子で訊ねる志貴。
「ううん、なんでもないさ」
 蒼香はごまかした。既に、蒼香の作業は済んでいた。
「うーん――蒼香、もう満足したかい?」
 疲れているのだろうが、志貴はそう聞いてくれる。
「そうだな、後一度、抱いて欲しいな」
 その言葉に、志貴は優しく抱きしめてくれた。志貴の唇が、蒼香の首筋を這い回る。
 志貴に乳首を吸われながら、蒼香は志貴の背中に手を回した。汗ばんだ背中に、もうそろそろ二つ目のキスマークが現れているはずだった。

 悩みに悩んで、蒼香はインターン先として、遠野商会を選んだ。秋葉が用意してくれた実習先だ。蒼香が結論を告げると、秋葉の指示ですぐに学校側に通知されたようだ。タイミングを図って登録すると、即座に受理された。
「サンキュー、遠野。がっぽり稼がしてくれよな」
「お姉様方にいじめられて、泣きを見ないようにね」
 前言を翻し、いじめられるぞ、などと言い出した秋葉に、蒼香は笑ってしまった。
 蒼香は、秋葉との間で、なんとなく無言の会話が続いているように思えた。あれから数日、志貴の背中に付けたメッセージは、もう秋葉にも届いているはず。そのせいか、秋葉の表情にも、なにか含むような、躊躇うようなものがうかがえるようになった。
 やっぱり、おまえさんだったんだな――蒼香は、いろんな疑問が、胸に落ちるように感じた。きっと、秋葉が苦しみ続けただろうことも。だが、二人の間では、なにか具体的な言葉が上ることは無い。ただ羽居だけは、二人の間になにかを感じたようで、珍しくもまとわり着くのを控えるようになった。

 数日が経ったある夜、蒼香は寮の庭へと涼みに出た。涼みにとは言うけれど、もう風はずいぶん冷たい。上着が恋しくなる時期も、もうすぐだろう。
 思えば、暖かくなる春に、志貴と出会ったのだ。そして緑萌える季節に志貴との愛を燃え上がらせ、夏の日差しの中で愛し合った。そして今、秋が来た――
「――よっ」
 振り向いて声を掛けると、果たして秋葉が、蒼香の方に歩み寄ってくるところだった。
「お邪魔するわね」
「お構いなく」
 秋葉は、蒼香が掛けていたベンチに、並んで腰掛けた。蒼香はスウェットシャツ、秋葉は可愛らしく、女らしいパジャマ。
「そういえば、去年のこの時期にも、わたしとおまえさんで、ここに座って涼んでたな」と、ふと口にした。
「そうね。なんといっても、この時期には、羽居が内職で大忙しだから」
 ああ、と蒼香は笑った。運動会や学園祭を控えたこの時期、羽居は先輩やクラスメートからの頼まれごとで大忙しだ。おかげで、部屋の中は悲惨な状況になっている。
「今年は、羽居が余計なことを引き受け過ぎないように、目を光らせておかないとな」
「まったくね。あの子は時々、びっくりするくらい欲が無いから」
 秋葉も、クスクスと笑った。
 しばし、二人並んで、気の合った沈黙を続けていた。蒼香はふと、やはり志貴と秋葉は兄妹なんだなと思った。この居心地のいい沈黙は、時々は志貴もくれるものだった。志貴と秋葉は血のつながりは無いということらしいが、やはり多くの物を共有しているのだろう。
 しばらく、二人は夜空を眺めていた。蒼香は思った、この居心地のいい時間も、この学校を卒業するまでなんだなと。秋葉は大学に進むのだろう。さて、自分の学力で着いて行けるかな……。
 月が、いつの間にか気持ちいい位置にやってきていた。そういえば、仲秋の名月も近い。秋の虫が鳴き始めていた。
 少女たちは、お互いのことをなんと考えているのか、しばし月夜をぼんやりと眺めている風だった。
「遠野さあ――」
 なにかを思い出したように、蒼香が口を開いた。
「なに?」
 目を月に向けたまま、秋葉も答えた。
「おまえさん、<愛してるもの>と<大切なもの>、わたしはどっちを取るべきだと思う?」
 秋葉の手が、ぴくりと震えた。蒼香はそれに気づかない風で、空を見ていた。
「そう、ね――」
 秋葉は、わずかに目を落とす。
「私なら、躊躇無く<愛してるもの>を取るわ」
「――」
「他に、考えられない。女は、恋愛を取るべきだと、思う」
 努めて平静な口調でいったのだろうが、最後の方は痛みに掠れてしまった。
 それきり、二人の間に、また沈黙が落ちた。蒼香はものも言わないで、しばし月に目をやっていた。が――
 突然、蒼香が笑い出したのは、それからしばらくしてのことだった。秋葉は、ぎょっとした顔で、隣に座る蒼香に目をやった。
「あははは、遠野。おまえさんは、相変わらず嘘が下手だ」
「なっ、なにが嘘なものですか――」
「嘘だよ。実際おまえさんは、どちらも選べないで、ずっと迷ってたじゃないか」
「――蒼香」
「すぐばれるような嘘を吐くな、遠野。でも、おかげで、わたしはどうすればいいかわかったよ」
「ねえ、蒼香――」
「寝るよ。おやすみ――」
 さっさと背を向けて歩み去ってゆく蒼香を秋葉はなにか気遣わしげに見送った。

 次の逢瀬は、前回からきっちり一週間後だった。次第に日が短くなっている。夏の前にはまだ明るかったこの時間も、この頃は既に日が落ちようとしている。黄昏時だ。
「よっ」
 志貴は、公園の噴水の周りに腰掛けていた蒼香に声を掛けた。蒼香は、組んだ足に立てて顎を支えていた肘を引くと、志貴の方に振り向いた。
「おっ、また変えたね、髪型」
 志貴の言うとおり、蒼香は髪型を変えていた。蒼香が被っていた帽子を取ると、刈り上げたうなじが目に入った。髪は後ろでまとめている。
「変えたっていうか、戻したんだよ、志貴さん」
 志貴の目に、不審そうな色が宿った。が、何も言わずに蒼香の隣に腰掛けようとする。蒼香は、ポケットから財布を取り出して、志貴に渡しながら言った。
「ごめん、志貴さん。悪いんだけど、缶コーヒー買ってきてくれないかな」
「えっ、コーヒー?」
「ああ、志貴さんとわたしの分」
 志貴は、少し戸惑いつつ財布を受け取ると、少し離れた場所の自販機に歩いていった。
「ほら」
「ああ、ありがとう」
 蒼香は財布とコーヒー一つを受け取った。ちらりと財布を見ると、一円も減ってない。志貴らしいと蒼香は密かに思った。
 しばらく、蒼香はコーヒーをじっくりと味わった。志貴も、なにか落ち着かない様子で、缶を傾けている。
 日が落ちきり、辺りは薄暗くなってきた。街灯りが点り始める。蒼香は、空にした缶を無意識に弄びながら、志貴にいった。
「なあ、志貴さん。遠野とは、いつからああだったんだ」
 ぴくり、と志貴の動きが止まった。
「ああ――」
 志貴は缶を一気に呷ると、こつんと音を立てながら横に置いた。
「ずっと秘密にするつもりだったんだけど、気づいたんだね」
 志貴は、上着のポケットに手を突っ込むと、しばし街灯りに目を留めた。
「そうだな。秋葉のことを女として愛するようになったのは、去年の今時分のことだったかな。でも、あいつと、絶対に切れない絆で結ばれたのは、十年ほど前のある事件の時だった」
 志貴は、優しい目をしている。
「俺は、その時に、あいつに命を貰ったんだ」
 そう口にした志貴を、蒼香は思わずまじまじと見つめた。なにかの比喩表現とは思えなかった。
「詳しくはいえないけど、その時から、俺とあいつは、一つの命を分け合って生きるようになったんだ。その事を、去年にあった事件で俺は知ったから、もう二度とあいつを離さないで、絶対に幸せにしてやろうと思っている」
 志貴は蒼香に目を向けた。
「ごめん、蒼香ちゃん。俺は浮気者だ。秋葉が居るのに、君も愛してしまった。そのことを君に告げる勇気は、俺はもてなかったんだ。きっと、怒ってるんだろうけど――」
「勘違いするなよ」
 蒼香はぴしゃりといった。
「別に、わたし以外に恋人が居たからって、怒ったりはしない。あの時、初めて志貴さんに抱かれた時、抱いてくれと迫ったのはわたしの方だ。しかも、実家の事情まで持ち出してさ。だから、今ここで捨てられても、わたしは文句なんか言わない」
「でもさ、蒼香ちゃん――」
「だけど、そんなに愛している遠野を苦しめるような真似をしたのはなぜなんだ? なぜわたしとの関係を、すぐに切れなかったんだ」
 うっ、と志貴はうめいた。
「蒼香ちゃん、だって君、実家の方で無理やり縁談にって――」
「そうだけどさ、それは志貴さんに抱かれるようになって、音沙汰無くなってっていったろう? なんでその時点でわたしを捨てられなかったんだ」
「蒼香ちゃん、だってさ――」志貴は苦しげな顔になっている。
 蒼香は、とうとう笑い出した。
「あははははは、分かってるよ。志貴さんは誰にでも優しいからな。わたしが傷つくと思って、どうにもできなかったっていうんだろう」
「――」
「でもさ、それは男の身勝手だ。遠野から見れば、それでも浮気に他ならないだろう?」
 一番痛いところを突かれたのだろう。志貴はうーっ、と呻き、顔色が青くなった。
「――もしも遠野が知ったら、あいつが傷つくだろう? いや、実際、あいつはずっと傷ついてたんだ。それも、あんたと同じ勘違いをしながらね?」
「勘違い?」
「そうさ」
 蒼香は、すっと背を伸ばして、一番星を見上げた。
「この月姫蒼香にとっては、遠野志貴より、いや自分自身より、遠野秋葉の方が大切なんだ。どっちも選べないなんてことは無いよ」
「――――!」
「わたしは、遠野のためなら、躊躇無く身を引けるよ」
 そう、月姫蒼香にとっては、それが正しい選択なのだ、と蒼香は信じた。秋葉は『女は恋愛を取るべきだ』といったけれど、蒼香はそう思わない。今年出来た恋人より、何年も一緒に歩んできた親友の方が、ずっと大切だ。世間の女たちが躊躇なく逆の選択をするのなら、むしろそれに背を向けて生きたい。最愛の恋人を取られるかもしれないという恐怖に耐えてきた秋葉のためにも、そうしてやりたかった。
「わたしにとっては、恋人よりも、親友の方が大切なんだ。ましてや、その親友にも、恋人にも、お互いがいると分かるとね。だから――」
 蒼香は、一瞬だけ女の目に戻り、志貴を見た。
「全てを元に戻すときがきたんだよ。これでお別れだ、志貴さん」と、いった。
 志貴は、しばらく呆然としていた。
 やがて我に返ると、大きく息をついた。優しい目だった。
「そうなんだ。やっぱり、蒼香ちゃんは、秋葉の親友で居てくれるんだね。俺、すごく嬉しいよ」
 志貴は、ふっと笑った。
「それにしても蒼香ちゃん、君は戻すっていったけど、ちっとも戻っちゃいないよ。君は前よりずっといい女になった」
「口説いてるのか?」
「ああ、俺がフリーなら、ここで跪いて、縋り付いてでも、口説いてたろう。でも――」
 志貴はすっと立ち上がった。
「俺には秋葉が居る。君の言う通りさ」
 二人は、しばし見詰め合った。もうおなじみの、気の合った沈黙。でも、これが最後なんだなと、蒼香は実感した。
「さよならだな――遠野のお兄さん」
「ああ、さよなら――月姫さん」
 志貴は少し寂しげに笑むと、きっぱり背を向けて去っていった。
 蒼香は、膝を抱えて、いつの間にか現れていた星空を見上げた。
「恋愛より親友、か」
 蒼香は、わずかに目を落とす。
「そんな簡単に割り切れることでも、ないんだけど、な」
 目を空に高く投げた。そうしないと、涙が零れてしまうから。星空が、朧に霞んで見えた。

 蒼香の身辺が、少し静かになった。相変わらず週一でライブに出かける生活だが、朝帰りは無くなった。おかげで、木曜日の授業にも身が入って仕方ない。その上、羽居にまとわり着かれる時間が倍増した。
「まったく、遠野も親友なんだから、こういう時こそ手伝ってくれればいいのに」
 秋葉が屋敷に帰ったとある夜に、なぜか羽居の内職を手伝う羽目になりながら、蒼香はぼやいた。
「秋葉ちゃんはお兄さんと一緒に居られるのが嬉しいんだよ」
 内職――とはいえ、舞台で人間の通過をカウントしてスイッチを切り替える特殊な電子機器の製作なのだが――しながら、羽居は蒼香にいった。
「っつうか、実家の方が慌しいみたいだけどな」
 羽居の指示でエッチングした基盤を洗浄しながら、蒼香は秋葉のことを思い浮かべた。なんでも、一族の資産運用を改革しているのだという。父の時代に準備が進んでいたことを、秋葉はこの数年でやってしまうつもりだ。自分が大学を出たら、などとのんびりしていないのが、いかにも秋葉らしかった。志貴も、そんな秋葉を支えているのだろう。
「それにしてもお、蒼ちゃんのお相手って、どんな人だったのかな?」
 羽居が唐突に口にした疑問に、蒼香は思わずぎくりと固まった。
「――な、なんのことだよ」
「蒼ちゃん、いい人出来てたんでしょ? だって、蒼香ちゃん、ずっと女の子らしくて可愛くなったし、ずっと優しくなったし」
「やめろやめろ。おまえさんの脳内で、勝手にあたしの恋人を作るな」
 真実がばれそうに思えて、蒼香は慌てて打ち消した。
「第一ぃ、蒼香ちゃん、キスマーク一杯つけてたでしょ」
 うーっ、と蒼香はうめいた。風呂場で、志貴に付けられたキスマークを、クラスメートに見られたことがある。その時は、『羽居が寝ぼけやがって』などと、そこに居ない羽居に濡れ衣を着せて逃れたのだが。羽居には見られて無いと思っていたのだ。
「だって、蒼香ちゃん、背中にも一杯キスマークついてたよ。お着替えのときに丸見えだったじゃない」
「あんの野郎――」
 蒼香は頭を抱えた。蒼香の身体に、嬉しそうにキスマークを付けていた志貴の顔を思い出した。まさか、背中にまでとは――
「もしも再会したら、一発ぶん殴る」
 羽居に追求されながら、蒼香は心の底から決意していた。

 十月に入ってすぐ、運動会がある。それが終わると、いよいよ三年を控え、進路を最終的に決める時期になる。
「遠野は大学に進むんだな」
「ええ。別に行く必要は無いのだけど、見識を広めたくて」
 蒼香が秋葉とそんなことを話したのは、空にいわし雲が広がる十月の秋空の下、放課後に屋上で和んでいるときだった。二人の横では、羽居がどこからかせしめてきた多量のお菓子を、いかにも幸福そうに口にしていた。
「羽居は――って、おまえさん、ぶくぶくに太るぞ」
「うーん、そうなの。最近、ちょっと胸がきついの」
 いかにも困っていそうに答える羽居に、秋葉と蒼香はピシッと固まった。
「お気に入りのブラがどんどんきつくなるから、食べ過ぎないようにしてるんだけどお」
 羽居のあまりといえばあまりに天然な言葉に、二人は顔を引きつらせているしかない。
「やってらんねえよ」
 やがて、蒼香は苦笑いしながら、羽居のクッキーを一掴み奪うと、金網の方に歩いていった。
「あー、蒼ちゃん、ひどいんだー」
 全然ひどくなさそうにいう羽居に苦笑しながら、秋葉も蒼香の隣に歩いていった。ここに立つと、森の上に懸かる空の広さが良く分かる。
「で、蒼香はどうするの?」
「どうするかなあ」
 はあ、と困り顔でため息をついた。
「実家に戻るのはごめんだ。就職するにも今時分はきついし、進学するにせよ学資がなあ。同じく実家があれだし」
「あら、稼げばいいじゃないの」
「バイトでかよ。そんな実入りのいいバイトなんざ――」
 ふと思い至って、蒼香は秋葉の方に目をやった。秋葉は、意味ありげな視線を注いでいる。
「おまえさん、まさか――」
「別に、インターンが終わったら、止めなければならないということでも無いでしょう?」
「そりゃそうだけどさ――」
「その代わり、インターンみたいに月数回というわけには行かないわよ。週何回かと土日のどちらかに出てもらうから。それで学資と生活費は十分に支払えると思うわ」
「そこまでおまえさんにおんぶに抱っこじゃあなあ」
 秋葉は、ふふっと笑った。
「勘違いしないでね。私は、使えそうな人材をスカウトしているだけなんだから」
 しばし、秋葉と並んで雲を見ながら、それもいいかなと思った。どんな仕事かは分からないが、遠野家ほどの巨大グループの中枢だ、面白くないわけが無いだろう。それに、こうして同じ風景を見ていられるのも、悪くは無いかも――
「まあ、考えておいてね」
 例によって、秋葉は深追いせず、さらりと流した。さっさと前に目を戻した秋葉の横顔を、蒼香はちょっと嬉しくなりながら眺めた。
「そういえば、遠野」
 ふと思い出して、口に出してみる。
「わたしと、おまえさんのお兄さんの関係に気づいたのは、メイドに聞いたからなのか?」
「まさか。あなたと兄さんがホテルに泊まった、最初の日に気づいていたわ。まさかと疑い続けて、確信を持てたのはゴールデンウィークの時、私との旅行を兄さんがキャンセルしたときですけどね」
「なんで気づいた。電話は志貴さんが取ったし――」
「あなたは、ウロを来たした時の、兄さんの迂闊さを知らないのよ」
 秋葉は、思い切りため息をついた。
「その日だけ、兄さんはクレジットカードで支払ったのよ。たぶん、手持ちが無かったんでしょうね。だから、ホテルに泊まったのはすぐに分かったわ。しかも、宿泊名簿に偽名を使うどころか、あなたと二人の本名で――」
「――もう一発、ぶん殴る」
 蒼香は頭を抱えた。そして、志貴と二人、恋愛に浮かれていた人間というのは、これほど迂闊になれるのかと思った。
「恨みましたけどね。だって、兄さんったら、私を放っておいて、蒼香と二人でセ、セックス旅行に出かけてしまうんですもの――」
「セックス旅行か」
 あまりにいいえて妙だったので、蒼香は苦笑せざるをえなかった。
「そもそも、お家の方が――」
 秋葉は声を潜めた。
「なに、親父がなにか言ってきたのか」
 蒼香は、ハッと顔を上げた。その答えに、秋葉は財布を取り出した。紙でぐるぐる巻きに包んであったものを取り出すと、蒼香にそっと示した。紙を剥いだ蒼香は唸った。それは、父が盗み撮りさせた、ホテルで愛し合う志貴と蒼香の全裸写真だったからだ。
「あの、クソ親父――」
 怒りに目の前が真っ暗になりながら、蒼香はうめいた。
「頃合いを見ていたのかしらね。梅雨明け頃に、この写真を見せられて、娘をよろしくですって。結納の時期をお話ししておきたいって言われたわ」
「あほらしい」
「まったくね。追い返しておいたわ。すると娘を傷物にされたのだから、それなりに誠意を見せろと言われたわ」
 秋葉は、はぁ、とため息をついた。
「蒼香のご親族の悪口を言いたくないけれど、ああいう手合いを相手するのは、ひたすらに不愉快ね」
「殴り倒せばよかったのさ。あたしがその場にいたらやってたよ」
「さすがにね、音に聞こえし月姫家の当主を、よりによって遠野家の当主が殴り倒したりなんかしたら、それは大問題よ」
 むう、と蒼香は唸った。
「とはいえ、けじめはつけないと。近々、挨拶にうかがって、頭を下げてくるわ」
「やめとけよ。奴に頭なんか下げたりしたら、なんだかんだで金をむしられるぞ」
「そうもいかないのが世間様ってものなのよ」
 秋葉は、さらに深くため息をついてみせた。
「遠野志貴の妹とすれば、兄の恋愛の始末なんてどうでもいいんだけど、遠野家当主という立場からは、そうもゆかないのよ」
「そうか。おまえさんも、ほとほと苦労させられてるな」
 蒼香は一瞬、考え込んだ。
「そうだな、じゃあ今週末なんかどうだ。わたしの都合はいい」
「えっ、蒼香も来るの?」
「当たり前だろう」
 蒼香はニヤッと笑った。
「実家に三行半を叩きつけてくる。一度、親父の横っ面を張り飛ばしてやりたいと思ってたんだ」
「蒼香。いくらなんでも、そんなに簡単に縁を切っていいの?」
「親父がいる限り、あの家の敷居を踏みたくなんざねえよ」
「あーっ、これどうしたの? 蒼香ちゃん、なにしてるの?」
 いつの間にか、羽居が後ろに忍び寄って、蒼香が手にしていた写真をのぞき込んでいた。
「うわっ、ば、馬鹿っ! 見るんじゃねえよ!」
 慌てて写真を隠そうとする蒼香と、羽居のじゃれ合いを見ながら、秋葉は少し心配そうな顔をしていた。

 月姫家は長野の山奥にある。真言宗に名を連ねる大刹で、山門の遥か下からですら、谷をふさぐようにして建つ本堂が見えた。裏手まで道を通しているので、山門を登る必要は無い。
「久しぶりでしょ、帰るのは」
「今年の正月以来か」
 秋葉と共に、車中から寺を見ながら、蒼香は答えた。
「親父は、正月には檀家参りと称して、愛人宅を渡り歩くからな。気楽に帰れていいんだが――」
「ふうん。そんな家庭環境じゃ、ひねた娘にもなるわね」
「ほっとけよ」
 リムジンは、庫裏の玄関へと乗り付けた。庫裏とは言うが、構えは大きく、立派な邸宅だ。広く、重そうな瓦屋根に圧倒される。車を降りると、和服の女性が出迎えてくれた。
「ようこそお出でくださいました、遠野のお方。そして蒼香さん、お帰りなさい」
「お初にお目にかかります」
「ああ、ただいま」
 それぞれに答える。この女性は蒼香の母だった。蒼香は素っ気無く答えただけだ。
 こちらへ、と案内されて、庫裏の玄関から通された。
「ずいぶん大きなお家でいらっしゃるのですね」
 秋葉は、廊下を進む蒼香の母にいった。別にお世辞というわけではなく、単に感想を述べたものらしい。
「はい。使用人をたくさん使わなければやっていけませんで、手間が掛かるばかりですが」と、蒼香の母。
「親父は、いちおうは住持だが、実際には寺は寺で副住職が全部取り仕切って、任せきりさ。親父はこっちで、もっぱら利殖に励んでいる。生臭坊主も極まれりって奴さ」
 蒼香が嘲るように口にすると、蒼香の母はちらりと咎めるような目を向け、しかしなにも言わなかった。
 通されたのは、二十畳ほどの広間だった。床の間を左に見て、秋葉は蒼香の父と対面した。その父のやや上座、奥まったところにちんまりした老婆が座っている。老婆は蒼香の祖母だった。そして母は、父の下座に離れて座る。兄は見当たらない。呼ばれなかったのだろう。嫡男だというのに、兄はひどく軽んじられていた。
 蒼香は、一瞬だけ考えて、秋葉と同じ側に並んで座った。見るとは無しに祖母に目をやると、なぜかニヤリと笑い返された。が、祖母はそれ以上なにもせず、じっと黙っている。
「ようこそお出でくださいました。お会いするのは二度目、ですな」
 父は、二度目、を強調しながら、頭を下げた。
「遠野秋葉です」
 秋葉はその言葉をあえて無視したのか、名乗って頭を下げた。
 しばし、月姫家の由縁、寺領の大きさ、そして父の事業に関する退屈な問答が続いた。ひとしきり、あくびの出そうなやり取りが続いた。遠野も忍耐強いもんだ、と蒼香は密かに思った。
「――それにいたしましても」
 話が月姫家の家族構成に移ったところで、父はしみじみといった風にいった。
「我が娘は、ほとほと遠野様にご縁がある。御当主のご学友として親しんでいただいておるようで」
「私も、蒼香さんとは親しくして頂いて、大変光栄ですわ」
 さすがにさらりと流す。遠野家当主だけはあるな、と蒼香は思った。
「それと、兄君とも親しくして頂いておるようですな」と、わずかに身を乗り出しながらいった。
「その、それ、男女の仲という奴で」
 蒼香は、思わず秋葉の横顔に目をやった。おいでなすったな、と思った。
「都会ではそういうこともあるのですよ」
 秋葉は、なおもさらりと流す。
「そういうものですかな。世の中は乱れておるわ」
 父は大げさに嘆いてみせた。おまえの愛人を何とかしろ、と蒼香はむかむかしてきた。
「さりとて、蒼香はこの月姫家の大切な娘。ちと、その、軽く見られては困るのですがな」
 ぞわり、と、ねちっこくいう。
「時代が時代なら、男女の仲ともなれば即結納。婚儀ということにもなったでありましょう。この月姫家は古い家柄ゆえ、そのな、娘が傷物になったと分かれば、わしはともかくとして、親族が黙っておりませんでな」
「どういう意味でしょう」
 秋葉はイライラしてきたようだ。あるいは、そう振舞っているだけなのか。
「月姫は古い家。親族も多いのでしてな。その中には、遠野の名を快く思わぬ者も居る。その、歴史が歴史でございましてな」
「なるほど、大昔に、当家とそちらとの間で、なにかトラブルがあったと聞きます」
「そうじゃそうじゃ。それ故、このままお帰りいただくとなると、ちと困ったことになりそうでしてなあ」
 父は、ほとほと困っているという風に、つるりと顔を撫でた。
「そこはそれ、その、誠意というものを見せねば、親族の跳ねっ返りを抑えられませんでな。情けないことじゃが、これが我が家の現状でございましてな」
 秋葉も蒼香も唖然とした。これほど抜け抜けと恐喝を働くとは思わなかったのだ。
「いやいや、勘違いされては困る。形だけ、形だけでもよろしいのですぞ。まあその、とは申しても、大遠野との間ゆえ、これはちと、積んで頂かねばなりますまいがな」
 蒼香は、青い顔をして、秋葉の横顔を見た。まさか、いくら父が下衆な男でも、これほど単刀直入な恐喝を働くとは思わなかったのだ。さては、なにか事業で失敗したな、と思った。父は移り気で、才能があると思い込んでいるので、色んな事業に入れ込んでは失敗を繰り返している。
 祖母の方をうかがうと、この危機にもかかわらず、なにかうかがうような顔をしている。それでいいのか、お婆様――蒼香は、必死に目線で訴えているのだが、祖母は答えない。母の方には目を向けたくなかった。なにも出来ない、なにもやらない人だ。死んだような目をしているのだろう。
 秋葉は、なにか怒りを堪える風であった。
「積めといわれましても、そのような曖昧なお話では判断いたしかねます」
「いやいや、話は逆でな。なにせ愛娘の純潔を汚されたと外目には映っておるゆえに、そやつらに誠意を見せるには積んでいただくしかないと、こういうわけで。他に誠意を見せていただけるのなら、そのような生臭い話にはならんだろうと」
「――つまり、蒼香と兄さんの仲を認めろと?」
 秋葉が、不意に冷静になりながら、そういった。
「そうですな。別にそれでかまわぬのですが――」
 口ではそういいながら、舌打ちを漏らしそうな父の顔を見たとき、とうとう蒼香の中でなにかがふつりと切れた。
「なに吐かしていやがる、この下衆親父」
 父の前にいざリよって、胸倉を掴まんばかりの勢いでののしった。
「なにが大事な愛娘だ。人を金づるとしか見てねえくせに」
「おまえは黙っておれ」
 父は怒りを露にした。
「なにも分かっておらん子供のくせに。これは遠野家と当家の話だ」
「違うね。あんたは金の話しかしてねえよ」
「吐かせ」
 父は、モノとしか見てなかった娘にののしられ、頭に血が上ったのだろう。蒼香の胸倉に拳を突き出した。避けようとすれば避けられたのだが、後ろに秋葉が居ることを思い出した蒼香は、とっさに庇い、胸に受けた。
「蒼香!」
 倒れ掛かる蒼香を、秋葉が支えてくれた。
「この馬鹿親父が。さっきから口を開けば、ねちねちと金の話ばかりしやがって。月姫だとか遠野だとか関係ねえよ。これはあたしと志貴の問題だ。馬鹿親父にも古臭い寺にも関係ない。それにもう終わったことだ。あたしと志貴で、誰も傷つけたくないからって別れたんだよ。もう終わった話だ。いまさらあんたごときに口を挟まれるいわれはねえよ、この生臭が」
 秋葉に支えられたまま、蒼香はなおもののしった。
「この馬鹿娘」
 蒼香を見る父の目は、怒りに血走っていた。
「折檻してやる。誰ぞ出て来い。この馬鹿娘を連れてゆけ」
 広間は、もはや収拾がつかなくなっている。秋葉は、蒼香を連れて部屋を飛び出す算段をしているのだろう。後ろにじりじりと下がっている。祖母はというと、さすがに危機を感じたのか、なにか口を出そうと開きかけていた。その時だった。
「蒼香さん」
 その場で、一番口を出しそうに無かった人物が、口を開いたのは。
「母さん――」
 母は、父との間に割り込むように、身を乗り出していた。
「そう、そうなの。蒼香さんは殿方に抱かれたのね」
 そういう母の目は、今まで一度も見たことが無かった色を宿している。
「なんじゃおまえは。すっこんでおれ」
 父は当たり前のように怒鳴りつける。相手に命令することに慣れきった顔だ。が、
「蒼香さん、あなたはその人のこと、愛してたのね?」
 母は父を見事に無視して見せた。
「ああ、愛してた」
 蒼香は、尋常でない母の様子に、思わずうなずいていた。
「わたしは、志貴さんと愛し合えてよかったと思うよ。でも、傷つけたくない奴が居たからさ、別れたんだ――」
「そうなの。良かったわね。蒼香さんも、一人前の女になったのね」
 そういう母の口調は、いつに変わらず柔弱だ。違うのは、怒り狂う父をまったく無視している点だ。
「なにをわけのわからんことを話しておる。おまえはすっこんでおれと言っておるだろうが」
 父は激怒している。しかし、母は父をキッと見返した。
「わけの分からない事をおっしゃっているのはあなたです。愛娘が大切な経験を積んだというのに、あなたはやくたいもない金の話しか出来ないのですか。そんなつまらないことしかおっしゃられないあなたこそ、引っ込んでなさい」
「なんだと」
 父は驚きのあまり、目を瞠っている。蒼香も同じ気持ちだった。蒼香の記憶にある母は、物心ついた時から、父の不条理な命に淡々と従う、自分というものを持たない人だった。しかし今の母は、まるで別人だった。
「いいかげんにせんか、おまえ――」
 父は肩を怒らせながら、母を押しのけようとした。だが、母が睨みつけると、父は思わず顔を青くして、声を詰まらせた。母が父に向ける視線は、傍から見ている蒼香ですら震え上がるほど、冷たくて鋭いものだった。
「あなたのくだらないごたくはもうたくさん。せっかく娘を思いやってくださるお友達がいらしているのに、金を強請り取ることしか考えられないなんて。そんなつまらない男こそ隅で黙っていなさい」
 今まで聞いたことも無いような、烈しい母の口調だった。
「お、おまえ、どうしたんだ。なにを怒ってるんだ」
 父は、母のこの変貌を理解できず、青い顔をしている。父にしてみれば、母は自分の意志通りに動く人形のようなものだったのだろう。だが今、なにか超自然的な変化が起きていた。その変化についてゆけない父は、頭を抱え込むしかなかった。
「母さん」
「蒼香さん」
 母は、蒼香の手を取った。
「おぼえておきなさい。女も男も、恋をするごとに大人になるのよ。恋をしない女なんて、男なんて、子供のままよ。あなたの恋は終わったけれど、とても貴重な経験だったのよ。だから、ね。あなたは、もう自分の力で歩けるでしょう?」
 蒼香に向ける目は、あくまでも優しかった。
「ああ、そう思う。わたしは志貴との恋愛を後悔してない。愛したことも、終わらせたことも」
「そう。ならばもう、お母さんが言ってあげられることはありません。蒼香さんは、自分の好きな道を歩きなさい」
「おまえ、勝手に話を終わらせるな」
 またぞろ父が喚き出した。が、母が再び氷の視線を向けると、喉を締め上げられた鶏のように黙り込んだ。
 老婆の、しわがれた笑い声が響いた。
「勝負あったの」
 老婆は、笑いながら、秋葉の方に歩み寄ってきた。
「遠野の方、失礼をした。これ、金の話は終いじゃろうが。おまえは下がっておれ」
 父は、もう抵抗する気力も残ってないのだろう。祖母の命令に従って、ふらふらと部屋の隅に丸まってしまった。
「見苦しいところをお見せしたの。月姫も落ちぶれたものでな、馬鹿な当主が浪費するもんで、ちと金に困っておる。しかし蒼香とその兄は、まあ筋は悪くないゆえ、また持ち直すじゃろうて」
 老婆は、秋葉ににこりと笑いかけた。
「あの馬鹿者がおまえ様に蒼香を付けたのは、そもそも遠野に取り入るためと聞いた。が、青雲の絆は、大人の古びた思惑など越えてしまうものじゃの」
 老婆は歯の無い口を開けて笑った。
「そんなわけじゃ。当面、孫を頼み申す」
「はい、共に歩んでまいります」
 頭を下げ交わす祖母と秋葉に、蒼香は目を白黒させていた。

 母屋を出る頃には、辺りは真っ暗になっていた。秋葉と蒼香は、待たせてあった車に向かった。それを、母と兄が見送ってくれた。
「すまんな、僕が情けないから、蒼香に迷惑を掛ける」
 兄はそういった。
「いいよ、兄貴。兄貴のおかげで、わたしはこの益体も無い家を継がなくて済むんだ。それにわたしのことは気にするな。これからは、もう関係ない人間だ」
「そうか。そうだな」
 そう答える兄の口調は、やはり寂しそうだった。
「これで良かったのですか。あとで、その――」
 秋葉はというと、蒼香の母となにやら話し込んでいる。
「いつものことでございますから。わたしに何度か当り散らし、愛人相手に発散させて、お終いでしょう。まったく、つまらない男です」
 母は、なにかを諦めたような顔をしている。
「夫とは、恋も知らないまま、許婚として結婚させられたのでございます。それでも良い夫婦となるために心を合わせれば良かったのでございましょう。でも、あれでございますから」
 母は、淡い笑みを浮かべた。
「恋を知らず、その痛みも知らないまま、年だけを重ねてきたのでございます。その結果が、あれでございます。恋を知らない人間は、つまらない人間になりますから」
「母さんは、恋をしていたの?」と、蒼香が口を挟んだ。
「ええ、結婚させられる前に、懸想していた人がいました」
 母は、数歩歩み出て、遠くの稜線に目を向けた。
「その人と引き裂かれてから、母さんの時間は止まってしまったの。ひたすら一秒、一秒が過ぎて行くばかりだったわ。わたしの時間は、この家で費やしてしまったのね」
 母は、蒼香を振り向くと、艶のある瞳を向けた。
「だからね、蒼香さん。これからも、一杯人を愛して、一杯頼って、一杯助けて、そして共に歩んでゆきなさい。もう、この家のことはお忘れなさい」
 母は、秋葉に深々と頭を下げた。
「遠野の方、娘をよろしくお願いします。お友達として、支えてやってください」
「はい、必ず」
 秋葉も請け負った。
 車に乗り込む。窓を開けて、別れを告げると、車はすぐに道を下り始めた。
「母さん――」
 蒼香は後ろを振り向いている。母は、庫裏の明かりを背に、じっと車を見送っていた。蒼香の目が、涙にぼやけていった。母の人生は、きっとこの大きくて古い家の中で、費やされてしまったのだ。蒼香を、秋葉がぎゅっと抱きしめてくれた。その胸で、蒼香は声を殺して泣いたのだった。

 どうやら大学進学の学資は、実家から援助してもらえそうだった。祖母の一存で決まったらしい。だが、生活費も、遊ぶ金も、稼がなければならない。父が馬鹿な嫌がらせをしているつもりなのだろうなと、蒼香は思った。なにはともあれ、アルバイトに励まなければならないのは間違いない。
「まあ、バイトという言葉から想像していたものとは、ずいぶんかけ離れているけどな」
 蒼香がそんなことを呟いたのは、三咲の近隣市にある、遠野商会の本社でだった。本社とは言うが、意外に小さなビルで、社長室、秘書課と、会議室くらいしかない。本社機能の大半は、また別の場所にある高層ビルに集約されていた。
 パーティションで区切られたスペースの一つで、蒼香は仕事に取り組んでいた。上司の指示で、この秘書室が扱っている希少資源、すなわち社長である遠野秋葉のスケジュールを管理し、訪問先のアポイントを取ったり、面会を希望する外来者を振り分けたりするのだ。分刻みで埋まって行くスケジュール表を見ながら、蒼香は親友に同情していた。土日は基本的に、平日も昼の間はスケジュールを入れるなという話になっている。学生なのだから当然だが、それが秋葉の時間の希少性を、よけいに増しているように思えた。
 もう一つの業務が、重役のためのニュースのクリッピングだ。証券情報、遠野関係の企業情報、国際、国内情勢に関するニュースをウォッチして、これはと思われるものを抜き出すのだ。ほとんど自動化されているのだが、キーワード検索から漏れる重要な情報もあり、また社長の処理能力を見極める必要もあり、専用の社員を置いた重要な仕事だった。こちらに関しては、蒼香は見習というか、見習い補佐というか、そんな感じだ。見習主任をやっているのは――
「あーっ、またわかんない表現がっ!」
 その見習主任は、さっきからパソコンの画面と多数の辞書を見比べて、懊悩している。
「四条、うるさい」蒼香はやや、げんなりしながらたしなめた。
 そう、蒼香と共に“実習”している、浅上女学院のもう一人の生徒は、四条つかさだった。なんでも、本来の実習先が急な事業転換で受け入れ不可能となり、急遽遠野商会でもう一人受け入れることになったらしい。
「おまえさん、わかんないならわかんないなりに、飛ばして翻訳してみろよ。なにか分かるかも知れんし、ただの慣用句や駄洒落かも知れんぞ」
「そ、そうね。とりあえず訳して、もう一回頭から訳し通せば――」
 蒼香の叱咤激励に、多少落ち着きを取り戻したつかさは、また画面とにらめっこし始めた。まあつかさの場合、基本的な英文読解力はあるのだし、作文能力もそれなりにあるのだから、問題は生きた英文に触れることだ。そういう意味で、英文誌主体のクリッピングは、彼女の語学力を飛躍的に高めることだろう――この試練に耐えられたら。
――結局、蒼香はインターンとして月数回勤務する他に、毎週末をアルバイトに充てることにした。浅上在校中は生活が保証されるものの、大学に進めば自力で生活費を稼がなければならない。なら、早いうちに貯蓄しておこうというわけだ。そしてアルバイトとして選んだのは、結局のところ遠野商会だった。秋葉が手を回して、週末もインターンという前代未聞の理由で外出許可を取ってくれたのだった。ところが、これに巻き込まれたのがつかさだった。同じインターンなのに、つかさだけ勤務させないというのは怪しまれる。おかげで、つかさもインターンとしては前代未聞の、毎週末勤務に巻き込まれてしまっていた。
「おまえさんもつくづく不幸な奴だなあ」
「なによ、いきなり。まあわたしも、お小遣いを稼げるのは嬉しいけど」
 意外にしたたかな面も見せるつかさだった。
「はーいごめんね〜。蒼香ちゃん、ここにごめんなさいっていってくれる〜?」
 パーティションの扉を開いて、なにか歌うようにして現れたのは、二人の直属上司だった。容姿や体重の上限が、入学資格に含まれているという噂の浅上女学院出にしては、実に雄大な体躯の持ち主だった。その巨躯をエネルギッシュに振り回しながら、まるで歌うように仕事をこなして行く。
 その直属上司から渡されたメモには、十件ほどの連絡先が記されていた。しかも、国際電話の番号が並んでいる。
「社長がおうちの都合で急遽キャンセルしなきゃならなくなったの。お願いね〜」
 相変わらず歌うようにして、直属上司は出て行った。別の部下に指令を出しに言ったのだろう。
 蒼香がメモの連絡先を、サーバにある名簿と付き合わせると、半分くらいは海外、しかもヨーロッパにあることが分かった。英語圏ですらないかもしれない。
 まあ、なんとか、下手な英語で押し通せる度胸はついた。というか、他に術を知らない。どうせ蒼香に回されるような相手は、重要度から言えば最低レベルに違いない。まあそれでも、相手が日本語を解せないという点に変わりは無いが。
「遠野、あたしゃ、おまえさんを恨むよ……」
 ぼやきながら、蒼香はプッシュホンを引き寄せた。

「四条は、浅上を出たらどうするんだ?」
「お父さんは戻って来いっていうんだけど、それも窮屈だわ」
 なんとか業務をこなし、一息ついていた。休日だが、秘書の三分の一くらいは出社していた。明日月曜日の、秋葉のスケジュールを調整しなければならないのだ。希少な夕方から夜に掛けての時間に、面会を申し入れてきている取引先は、両手に余る。それを絞って、振り落とし、事前に資料を作らねばならないのだ。
「そういう月姫さんはどうなの?」
「わたし? 大学に進んで、その間もこの会社で働いて生活費を稼ぐ。卒業後は、どうするかな」
 蒼香は、お茶をすすっているつかさを眺めている。なんだかんだいいながら、蒼香はつかさのことを気に入り始めている。プレッシャーに弱いのに回復力があるという、矛盾した性格が面白かった。
「なら、わたしもそうしようかな」
 つかさが何気なく言った言葉に、蒼香は驚いた。
「四条ん家は裕福なんだから、働く必要は無いだろう?」
「だって遊び呆けてちゃつまらないじゃない。適度に働いて、適度に遊ぶお金があるのがいいのよ。それに、ここに居たら月姫さんと会えるしね」
 邪気の無い笑みを浮かべている。
 参ったな――と蒼香は内心苦笑している。どうも、つかさともいい仲になれそうな気がするのだ。以前の自分なら、擦り寄ってこられるだけで敬遠していたろう。ま、それは、わたしの見識が狭かったってことだな――蒼香はそう考え始めている。
「でも、遠野も来るんだぞ」
 蒼香がまぜっかえすと、つかさはうっと青ざめた。が、すぐに気を取り直す。
「そ、そうだけど、いつまでも逃げてちゃ駄目! いつまでたっても遠野さんを克服できないわ。目指せ、打倒――」
「おほん、誰を打倒するですって」
 ひゃ、とつかさは悲鳴を上げた。蒼香が振り向くと、いつの間にかパーティションの扉が開いて、秋葉が顔を出していた。
「ああぅぅ、ち、違うの。そういう意味じゃなくって――」
 つかさはしどろもどろに弁解をはじめた。
 秋葉は、むー、と睨んでいたが、やがて、はっ、と力を抜いた。
「まあいいわ。でも、いくら休日出勤だからといっても、社長室にまで聞こえるくらい騒がないでね」
「――ごめんなさい」
「すまん、遠野」
 二人は、しょぼんと頭を下げた。

 会社は年俸制で、決まった勤務時間は無い。休日ともなるとさらに適当で、夕方までには相当数が帰ってしまう。今日は秋葉が来週の打ち合わせのために顔を出したので、秘書課長と担当秘書とで別室にこもっていたが、それが終わると主だった社員は帰宅してしまった。
「月姫さんはどうするの?」
 十一月の日暮れ時は寒さを感じる。浅上の制服の上にカーディガンを羽織り、帰りの身支度をしながら、つかさは蒼香に聞いた。建前としては授業の一環なので、当然制服着用なのだ。
「遠野はこのまま浅上に戻るつもりみたいなんで、あいつを待ってから一緒に帰るよ」
「えっ、遠野さんも。じゃ、じゃあ、わたしは先に帰るわね」
「ああ、またな、つかさ」
 慌てて出てゆく背中を名前で呼んでやると、はっとした顔で振り向き、それから心底嬉しそうに笑った。
「うん、じゃあね、蒼香。また明日」
 つかさが帰ってゆくと、蒼香はなにか苦笑いを浮かべている。
「そんなこっちゃ、遠野は克服できんぞ、つかさ」
 それから、ふと思った。
「別に遠野のことを名前で呼んでも構わないんだな。うん、そうするか――」
 その思い付きが嬉しくて、蒼香はニヤニヤと笑っている。秋葉は驚くだろう。きっと、その瞬間だけ。
「さて、コーヒーでも飲みながら待つかい」
 秋葉はどれくらい遅くなるのだろうと思いつつ、蒼香はパーティションを出た。
「あっ」
「えっ」
 パーティションを出た通路で、蒼香はなにやら荷物を抱えた男と鉢合わせした。遠野志貴だった。二カ月ぶりの再会だった。
「――」
 二人はじっと見詰め合った。蒼香の胸に去来したのは、そういえば一発殴ってやると二回考えたんだな、ということだった。しばし、無言の時が流れる。
 先に我に返ったのは志貴の方だった。
「久しぶりだね」と、いった。
「ああ、二月ぶりだよな」
 蒼香が答えると、志貴はふっと笑みを浮かべた。
「そうか。まだそれくらいなのか。でも蒼香ちゃん、君はまた、一段と綺麗になったね」
「――っ!」
 まったく、この卑怯者が――蒼香は頭がくらくらするのを感じた。なんでそんなことを抜け抜けと口に出来るんだ、と。ある意味、羽居以上の天然だと思った。
 うーっ、と、やや涙目になりながら、蒼香は志貴を睨みつけた。せっかく身を引いたつもりだったのに。せっかく終わらせたつもりだったのに。出会ったときのように、蒼香の胸はまたざわめき始めている。
「――この、卑怯者の超天然の女ったらしめ」
「えっ、えっ?」
 そんな蒼香を、志貴はきょとんと眺めている。
「――あら、兄さん。そんなところで私のクラスメートを口説くなんて、いいご身分ですわね」
 うわっ、と二人は飛び上がりそうになった。いつの間にか、秋葉が背後に忍び寄っていた。
「まったく、荷物を持ってきてくださるというから待っていたのに、こんなところで道草を食っているなんて。蒼香も実習中の身分を弁えているのかしら」
「ち、違うんだ。久しぶりの再会だったから、つい立ち話を――」
「そ、そうだよ。ここでばったり出くわしちまったから、つい――」
 秋葉の笑い声が、二人それぞれの言い訳を打ち切った。
「まあ、いいわ。過去いろいろあったし、積もる話もあるでしょう」
 秋葉は、志貴と蒼香に、意味ありげな目をやった。
「蒼香、どうかしら、今日は浅上に戻るのは止めて、屋敷に泊まらない? いろいろ、お話したいし」
「いいのか、秋葉?」
 志貴は戸惑っている。
「私は構いませんよ」
 そこに裏の意味があるのかどうか、秋葉はしゃなりと答えて見せた。
 蒼香は、志貴と思わず顔を合わせた。秋葉に、重大な選択を迫られているような気分だった。目を合わすと、志貴がニッと笑ってくれた。久しぶりに目にする志貴の笑顔に、蒼香はふっと心が軽くなるのを感じた。
「そうか、そうだな――」
 蒼香はうなずいた。
「なら、今晩は世話になるよ、秋葉。お互いに志貴の秘密を暴露しあおうじゃないか」
 秋葉は、おや、と驚きを表わしたが、すぐに嬉しそうに笑っていった。
「そう、じゃ、いらっしゃい、蒼香」
 秋葉は会社の出口へと、さっさと歩き出した。車を待たせているのだろう。
 その背中に着いていこうとした蒼香の肩に、志貴の手が回された。蒼香はふふっと笑うと、志貴にこういった。
「なあ志貴。二発分、貸しにしといてやるよ」
「えっ?」
 思わず足を止めた志貴からするりと逃れると、蒼香は笑いながら秋葉の背中を追いかけていった。そんな少女たちの後姿を思わず見送ると、志貴はやれやれと首を振りながら、ゆっくりと後を追い始めたのだった。

<了>

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