彼女のミステイク



 月姫蒼香は髪を下ろすようになった。
 以前も、校内にいる時ばかりはそうしていた。だが一歩学校から出ると、刈り上げたうなじがわざと見えるように、頭の後ろで結ってしまっていたのだった。蒼香自身に言わせれば、『学校じゃ教師たちが女の子らしくないなどとうざいし、かといってそのままじゃ耳にかかってうざい』から、そうしていたのだという。
 だが今は、普段寮にいるときでも、髪を下ろすようになったのだ。その事を周囲の友人たちはとやかくいう。しかし寮で同室の三沢羽居は、『こっちの方が可愛いよ』と、いかにも彼女らしい理由で賛同した。それに対して、蒼香は曖昧に受け流しただけだったのだが。
 むろん、周囲では本当の理由に関して、様々な憶測が流れていた。いわく、蒼香の好きなバンドのメンバーを真似ている。いわく、髪を結わえていると抜け毛が増えるから。いわく、やっぱり男でしょ。などなど。
 蒼香は、周囲の噂話から超然としている事には慣れている。だが今度の騒ぎは、ちょっと堪えた。彼女自身、本当の理由を伏せておきたかったからだ。
 幸い、大親友の遠野秋葉が「いいかげん、ほっときなさいよ」と騒ぎ立てている連中を一喝してくれて、それで少なくとも表立っていわれることは無くなった。
「サンキュー、遠野。助かったよ」
 その時ばかりは、さすがの蒼香も、いつになく参った表情で、秋葉に礼を言った。秋葉がさりげなく助け船を出してくれたことは、蒼香には分かっていた。
「こっちが教科書を開いているっていうのに、喧しくて頭に入らないから叱っただけ。礼には及ばないわよ」と、秋葉はいつもの調子で答えてくれた。
「まあ、蒼香もいつに無く浮かれているじゃない? ちょっと困らされた方が薬になると思ったのも事実ですけどね」
「相変わらずきついな、遠野は」
  秋葉は軽く笑い声を上げると、また机に向き直った。別に次の授業の予習をしているわけではない。予習は予習だが、手にしているのは三年の教科書だ。今は二年の一学期だから、ずいぶん気の早い予習だった。恐らくは、この一学期中の予習など、去年のまだ暑いうちに済ませていたに違いない。
 多少なりとも秋葉の学力を羨みながら、蒼香は背を向けて教室を出て行こうとした。そしてふと真顔になると、呟いた。
「そんなに浮かれてるかな、わたしは」
 そして、浮かれている理由に、秋葉も多少なりとも関係していると知れば、なんていうのだろうと思った。

 そもそも、自分の出自を誰かにしゃべったことなんて無い。きっと実家の両親、親族に抱き続けている反感の産物なのだろう。呆れるほど古典的な亭主関白で、愚かで下品なくせに家庭に暴君として君臨する父親。そんな父親に対し、聡明なくせに運命を従容として受け入れる態度を変えない母親。そして山林王である父親に媚びへつらい、施しを受ける乞食のように資産のお裾分けを狙う親族。頭痛を催すほど典型的な俗物どもが繰り広げる三文芝居に、蒼香は吐き気さえおぼえていた。唯一の理解者であり、父親が頭の上がらない唯一の人物でもある祖母が、蒼香は自分の好きな道を行けばいい――といってくれてはいる。だがその祖母も、いつまで健康でいてくれるか分かったものではない。せめて自分が成人するまでは健勝でいて欲しいのだが――
 その時、そんなことを語ったのは、三咲の駅近くにあるコーヒーショップでだった。相手は遠野志貴。秋葉の兄だった。ちょうどこの近所のライブハウスに出かけ、早めに寮に戻ろうかと思いつつ歩いていたら、ばったり出くわしたのだ。前に一度顔を合わせたことがあり、憶えていてくれたらしい。
「ふうん、月姫さんも大変なんだね」と、妙に淡々と返された。なまじ同情たっぷりに擦り寄ってこられるより、よほど好感を持てたが――
「まあ、ね。金ばっかりある家に生まれると、ろくな目に会わないってことさ」と、蒼香もまた、いつものドライな態度を取り戻そうとしながら、そう答えた。そうやって自分自身にさえも、突き放した運命的な態度を強いるのが、自分らしさだと思っていた。
 なら、なんでこんなことを話しちまったんだろう――蒼香は、自分の行動に奇妙な齟齬を覚えていた。自分の出自の話など、赤の他人である遠野志貴には、なおのことどうでもいいことではないか。
「でもまあ、月姫さんにもお兄さんがいるんだろう? 別に家を継ぐわけでもないんだし、家に居るのが嫌なら外に出ればいいじゃないか」
「その兄貴がねえ、気が弱くて――親父のいいなりなんだ。男なんだから、もちっとガンって我を通せばいいのにさ」
「まあ心配だろうけどさ。お兄さんはお兄さんだろう。心配してもどうしようもないさ」
「あー、そういう意味じゃないんだ。兄貴がそういう人間なんでね、親父が行く末を心配してて……。それで、いろいろ政略を巡らしそうなんだ」
「頼もしいお父さんじゃないか」と、志貴は笑った。
「頼もしいものか。そりゃ自分で勝手にやってる分にはいいんだけど、こっちが巻き込まれそうだ。政略結婚とか――」
 最後の一言は、思わず呟いたものだった。志貴は、あっという顔になり、それから済まなそうな顔になった。
「ああ、そういうことなんだ。ごめんね、そんなことまでしゃべらせちゃって」
「いいよ。しゃべったのはわたしの責任だ」
 蒼香は、ふっと志貴の顔を見て、苦笑した。
「いいな、遠野は。こんな頼もしそうなお兄さんがいてさ。あいつ、わたしと違って自分自身が家長だから、政略結婚なんて事、考えずに済むんだろうな」
「頼もしくなんて無いよ。なにせ、身体が弱くて、家長の座を妹に取られたくらいでさ」
 多少の諧謔味を込めて答える志貴の様子から、とても身体が弱いなどとは思えなかった。が、秋葉が言葉の端々に見せる兄への労りから、嘘ではないようにも思えた。まあ、なにか複雑な事情があるのだろう。それはさすがに、自分が立ち入っていい領分ではないと思えた。
 どちらともなく時計を見て、じゃあそろそろ、ということになった。
「こんなに引き止めてごめんね、月姫さん」
「いいよ、別に。いつもはもっと遅いんだから」
 ああ、それと、と蒼香は志貴を引き止めた。
「月姫さんってのは止めてくれ。クラスメートにも個人的な友人にも蒼香って呼ばれてるんだ。遠野の兄さんもそう呼んでほしいな」
「えっ、いいのかな、俺なんかが」
「いいよ。っていうか、そうしてもらわないと、なんだか調子狂うし」
 ははっ、と志貴は軽く笑った。
「分かったよ。じゃあ、その代わりに俺のことは志貴と呼んでくれよ。それでおあいこにしよう、蒼香ちゃん」
 志貴は軽く手を振ると、さっさと歩き去っていった。
「蒼香ちゃん、か。それはそれで、気持ち悪いけどね」
 蒼香は笑いながら志貴の事を見送ると、ふと真顔に戻って、考え込んだ顔になった。なんだって、クラスメートの家族というだけの相手に、こんな込み入った話までしてしまったのだろう、と。

「あれ、蒼香ちゃんじゃないか」
 そう声を掛けられたのは、その夜から十日ほど経った夕暮れ時のことだった。
「あ――志貴さん」
 公園のベンチに腰掛けて、なにか考え込んでいる風だった蒼香は、ハッと顔を上げた。学生鞄を提げた志貴が、すぐ目の前に立っていた。
「あ、じゃないよ。どうしたんだい?」
 苦笑しつつ、志貴も蒼香の隣に腰掛けた。さも当たり前のことのように。
「なんで志貴さんがここに?」
「なんでって、この先の坂道を登ったら、すぐ家だよ?」
「あっ」
 そんなところにいたのか、と蒼香は驚いた。気が鬱々としていたので、気晴らしにライブでも見ようと、午後の授業が終わってすぐ、抜け出したのは憶えていた。が、まさか三咲に来ていようとは。
「別にライブを見に来たわけじゃないんだね」
 志貴にそう指摘されて、蒼香は自分が制服のままなのに、やっと気づいた。自分では気づかなかったが、よほど我を失っていたらしい。そういえば、朝から羽居と秋葉が、やけに心配そうな顔だった。
 そんな蒼香の様子を見て、志貴はふっと柔らかい笑みを浮かべた。
「この公園に居るとは思わなかったから、最初は誰なんだろうと思ったよ。浅上の生徒が、わざわざこんなところに来るなんて、って。それに蒼香ちゃん、髪を下ろしてるだろう? なんか女の子らしすぎて、最初は見分けつかなかったんだ」
 明け透けな口調でそう語られると、蒼香は思わず赤面してしまった。
「う、うるさい。わたしだって考え事くらいする時はある」
「ああ、ごめんごめん」と、志貴は軽く笑いながら受け流してしまった。蒼香は、朝から、いや昨晩から続いてきた苛立ちが、ぷつんと途切れるのを感じた。
「まったく、もう。あんたと話してると、なんだか気が抜ける」やれやれと首を振りながら、蒼香はこたえた。いくぶん、自分を取り戻しながら。
「そうそう、それでいい。そっちの方が蒼香ちゃんらしいよ」
 志貴が、まるで追い討ちを掛けるようにいった。はあ、と蒼香はため息をついた。なんというか、秋葉があれほど文句たらたらなのに、なぜか志貴に執心してならない気持ちが、よく分かるように思えた。
「まあ、こんなところで話もなんだし、かといって喫茶店に誘うのは、その、俺の財布が許さないので。どうだい、屋敷に来ない?」
「えっ、いいの?」もう秋葉は帰っているかなと思いつつ、蒼香はその気になっていた。
「そりゃそうさ。秋葉だって喜ぶよ。友達が家に来るのは当たり前のことだろう?」
 志貴が立ち上がったので、蒼香もそれに着いて歩き出した。

「でかいな」
 坂を登りきって、正門越しに屋敷を眺めて最初の一言が、それだった。なんとなくイメージしてはいたが、それよりなおも大きな屋敷の構えに、蒼香は圧倒されそうだった。
「いかにも遠野が鎮座していそうな屋敷だ」
「ははは、秋葉はあんまり好きじゃないみたいだけどね」
 正門を潜ると、屋敷の玄関にいつの間にかメイド服の女性が立っていて、志貴たちを迎えてくれた。家族同然の使用人だという。
「おかえりなさいませ、志貴様」
 その女性は、二人に向かって深々と頭を下げた。
「ただいま、翡翠。こちらは秋葉のクラスメートの、月姫蒼香さん」
「お邪魔します」
「そうですか……。ようこそいらっしゃいました、月姫様。残念ながら、秋葉様は習い事があるので、今日の帰宅は遅くになられるのですが」
「あっ、しまった。そうだったよ」と、志貴は額をポンと叩いた。
「い、いや、別にいいですよ。いつでも学校で会えるんだし」それに、やはり今日は顔を合わせたくないし、と蒼香は心の中で付け加えた。
「まあともあれ、お茶でも一緒に」
 志貴に連れられて、居間へと迎え入れられた。
「へえ、秋葉様のご学友でいらっしゃるんですねー」
 お茶を持ってきてくれたのは、割烹着を着て、やけに親しげに話す、さっきのメイドと瓜二つの女性だった。こっちは琥珀という名で、さっきの翡翠とは双子だという。
「でも図ったようにご同伴で帰宅なんて怪しいですねー。志貴さん、本当はどういうご関係なんですか?」
「い、いや怪しいだなんて。本当に偶然出くわしたんだ。前から顔見知りだったから、じゃあ一緒に屋敷でお茶でもどうだいって――」
「ははあ。わたしが理解するに、ようするに月姫さんは志貴さんの彼女さんなんですね」
 これには志貴だけでなく、蒼香もむせた。
「い、いやそうじゃなくて――」志貴は、微妙に顔を赤くしながら、琥珀に反論しようとした。
「でもー、前からのお知り合いで、公園で落ち合ってご一緒に帰宅なされるような仲なんでしょう? そういうのは、世間一般では彼女さんっていうんですよー、志貴さん」
 志貴は、「いやー、だから違うって」などと弱々しい反論を試みている。
「もしそうなら、遠野はわたしにも志貴さんにも、ただじゃ置かないだろうね」
 志貴の慌てぶりに、かえって蒼香は落ち着きを取り戻した。実際、この場に秋葉が居たら、さぞかし見ものだろうと思えた。

 琥珀が退出すると、居間に二人きりになった。
「いや、来るべきものが来てしまってね」
 なんであんなに元気が無かったのか――そう訊かれて、蒼香は自然にそのことを話す羽目になってしまっていた。
「来るべきものって?」
「ああ、この間話しただろう。政略結婚のこと」
 志貴は、えっという顔になった。
「来ちまったんだ、本当に――」
 蒼香は訥々と話した。
――昨日の夜、父親から唐突に電話が来た。何事かと思って出てみると、春休みに見合いするから必ず帰ってこい、と言われたのだ。馬鹿馬鹿しい――と取り合わずに切ろうとすると、迎えをやるとまで言われた。そこで初めて気がついたのだが――
「要するに、もう決まりって事なんだ」
 カップに注がれた紅茶の、透き通った液体に目を注ぎながら、蒼香はいった。
「親父と、見合いの相手の家との間では、わたしを嫁にやるんだか婿を取るんだかってことで話が決まってるんだ。それで親父はくだらない利権だの縁故だのを得るって事さ」
「蒼香ちゃんがその場で断ればいいだろう? あるいは、晶ちゃんみたいに逃げておくとか」
「だめだよ。親父は迎えをやるとまでいってるんだ。無理やりにでもわたしを連れ戻すつもりに違いない」
 顔を上げて、志貴を強い目で睨みながら、蒼香はいった。
「これは、わたしがあのくそったれな家に生まれた時から、決まってたようなものなんだ。親父にとって、わたしは都合のいい縁故を作る道具ってわけさ。まったく、しょうもない――」
 つかの間、沈黙が落ちた。もう冷め切っている紅茶を飲み干すと、なにかやりきれなさを感じながら、蒼香は立ち上がった。
「ありがとう。話を聞いてくれて気が楽になった。でもこれはわたしの問題だ。あんたにも遠野にも関係が無い。わたし自身でなんとかしなくちゃいけないんだ」そういい残して、屋敷を出て行こうとした。
「蒼香ちゃん――」
 扉を出て行こうとした蒼香は、志貴に呼び止められた。が、
「ごめん。今日はもう帰りたい。遠野にも顔を合わせたくないしね。ごめん、志貴さん」
 蒼香は屋敷を飛び出した。

「それは迷惑な話ね。なんとか逃げられないの?」
 事情をなんとなく秋葉に話したのは、それから数日が経ってのことだった。その間、鬱々と過ごしていた蒼香に、秋葉も羽居も気を揉んでいたようだ。が、その日の夕食後、ベッドに座り込んでボーっとしていた蒼香は、やはり戻ってきた秋葉の顔を見た途端、ぽつりと政略結婚の件を漏らしたのだ。秋葉は、明日に屋敷に戻るつもりで、荷物をまとめているところだった。秋葉は、寮を生活の拠点にしながらも数日置きに屋敷に戻る、不定期な生活を続けている。良く身体がもつなと感心していた。よほど屋敷に戻るのが嬉しいのだろう。
「どうかな……。なんとなく、こればかりは逃げられない気がする。親父がここまで強硬に迫ってきたのは初めてだ」
 いつに無く弱気な蒼香に、秋葉はちょっと困ったような顔をしている。
「蒼香、私も出来ることなら助けてあげたいけど、こればかりは――」
「あー、わかってるよ。お前さんにとっては他の家の中の出来事だからな。そもそも、遠野みたいな大物が乗り出してきてしまったら、話がよけいにややこしくなる」
 蒼香は、そこまでいうと、やっと笑顔を浮かべた。
「なんだ、お前さん、それほど冷たい奴じゃなかったんだな。いつもの遠野なら、『そんなの蒼香の事情でしょう』なんて、突き放してくるのに」
「お黙りなさい。蒼香が憂鬱そうな顔をしてるから、羽居が心配して、あれこれ気を揉んでるのよ。あの子が暴走する前に、あなたがなんとかなさい」
「へいへい」
 秋葉が怒った顔をして見せたことを察した蒼香は、せいぜい肩を竦めて見せた。背を向けて、机に向かう秋葉の背中を、蒼香は少しだけ救われた気分で見送った。なんだかんだいいながら、秋葉は一番信頼できる親友だった。蒼香は、秋葉が本当に困っていることがあったら、絶対力になってやろうと思っていた。そして秋葉も、蒼香が本当に困った顔をしていたら、いつだって手を差し伸べてくれる。女同士なのに、その関係はさらりとしたものだ。得難い親友だと思う。
 だが実際のところ、秋葉が心配しようが、羽居が気を揉もうが、この問題に立ち向かえるのは蒼香自身だ。が、父の暴君振りをよく知っている蒼香には、既に避けがたい運命であるように思えてならなかった。たとえ今回は逃げられても、いつかは父の手駒として使われてしまう。母や兄には頼れない。唯一の頼りである祖母も、いつまで元気で居てくれるかわからない。今度の件も、祖母に相談していいものかどうか。
 結局は自分が強くあらねばならないというのはわかる。だが、未成年者である蒼香が、保護者である父の工作に対抗するのには限界がある。
「やはり、いっそのこと、遠野の手を借りちまうかな」
 ぽつりとつぶやいてみる。
「そうそう、秋葉ちゃんなら、きっとなんとかしてくれるよー」
 ふっと我に返ると、羽居が蒼香のベッドに座り込んでいる。ほとんど意識もしないまま、自室に戻っていたようだ。
「なんだ、羽居か。遠野はどうした?」
「生徒会だよ」
 ああ、と蒼香は思い出した。秋葉は生徒会副会長だ。それも、会長を半ば押しのける形で実権を握り、自分が生徒会長となるであろう来年度に向け、様々な根回しを行っている。こんな遅くまで、寮の有力者に面会に出かけているのだ。
「いいな、遠野は。思うままに生きられて」
 そして、あんなお兄さんがいて、と心の中だけでつぶやく。
「ねえ、蒼香ちゃん」
 ん、と目を向けると、いつになく真剣な表情の羽居がいた。
「蒼香ちゃん、なにか困ってるの?」
「――」
 即答することが出来ず、蒼香は目線を外した。が、すぐにあることを思い出し、笑い出した。
「そうか。もう遠野にはしゃべってるんだしな。羽居にしゃべらないわけにはいかんよな」
「話したくなかったら話さなくていいよ」
 羽居は、急に蒼香を抱きしめた。
「話さなくったって、慰めてあげるから」
「ば、馬鹿、抱きつくんじゃない」
 蒼香は羽居を押しのけようとした。しかし、蒼香より身体の大きい羽居に、こんなに抱きつかれてからでは、もはやどうしようもない。なにより、抱きしめられた胸の柔らかさが、抵抗する気力を奪う。
「――はあ……」
 抵抗を諦めて、蒼香は羽居の抱擁に身を任せた。微笑しながら、羽居の手が、蒼香の髪を撫でている。羽居は、蒼香の髪がどんなに綺麗なのか、どんなにかけがえの無いものなのか、熱心に説いてくれる。風呂場でも、蒼香自身が洗うより、羽居が洗ってくれることの方が多い。こんなに短いのだから、もっと苦労しそうな秋葉の手伝いでもすればいいのに。だが羽居は『お姉さんにまかせなさーい』と笑って、取り合わない。
「お家の人は相談に乗ってくれないの?」
 羽居は、まるで本当に蒼香の姉であるかのように、優しく聞いてくれる。
「うん、その『家の人』の問題だからさ」
「そっか。蒼香ちゃん、お家の人とうまく行ってないもんね」
 実家の事情を羽居に打ち明けたことは無い。だが、羽居には筒抜けだったようだ。思えば、これほど熱心に自分のことを思ってくれる相手など、今まで出合ったことが無かった。秋葉の無償の信頼、羽居の無償の愛情。どれも、本当なら家庭で得られたもののはず。だが、蒼香は、そんな暖かいものを、この浅上の檻に閉じ込められるまで、ろくに得ることが出来なかった。蒼香に目をかけてくれた祖母の存在だけが支えだった。だが、その祖母も、いつかは――
「――蒼香ちゃん、泣いてるの?」
 きっと、胸を濡らすものに気づいたのだろう。羽居の声は優しかった。
「泣いていいんだよ、思い切り。蒼香ちゃん、たまには思い切り泣かないとね」
 気がつくと、蒼香は羽居の胸に顔を埋めて、嗚咽を漏らしていた。最初は一滴の涙だったのに、それはやがて溢れるものに変わった。堰を切ったようにこみ上げてくる感情をどうにも出来ない蒼香を、羽居は無限の愛情で、優しく包み込んでくれる。
 帰りたくない――蒼香は心底そう思った。あんな家なんかに帰りたくない。まして、秋葉とも羽居とも別れたくは無かった。

 嫌なことが差し迫っている時、時はなぜ、これほど早く流れて行くのだろう。気がつくと、春休みは目前だった。春ともなると人の気も浮き立つのだろうか。この小さなライブハウスでも、派手な乱闘騒ぎがあったようだ。
 狭いハウスのドアが開くと、いつもより高揚した面持ちの客たちがドッと押し出されてきた。それに紛れるようにして、顔中に青痣を付けた二、三人の男たちが、仲間たちに引きずられるようにして出てきた。どうも乱闘騒ぎに参加した連中のようだ。その連中を仲間たちは、頭でも冷やせというのか、外気にさらされる外へと引きずり出していった。
 少し遅れて出てきたのは――
「ったく、あんの馬鹿野郎どもめ」
 こちらも少し口元を切った蒼香だった。志貴に引きずられるようにして階段を登る。その間、志貴は一言も口を利かない。
 蒼香が引っ張ってこられたのは、近くの公園だった。春とはいえ、まだ肌寒い時期だ。夜は冷える。白い息を吐きながら、志貴は蒼香をベンチに座らせた。
「なんで止めたんだよ」
 引っ張られている間中、不機嫌そうな顔をしていた蒼香は、自分を見下ろす志貴に、挑発的に言った。
「あんな奴ら、全部まとめてブッ倒してやったのに」
「強がるのは止めとけよ」
 こんなときなのに、志貴は苦笑すら浮かべている。
「周りをガタイのいい男たちに囲まれてたんだ。蒼香ちゃんだってタダじゃすまない。あっちの仲間連中が止めてくれたから良かったけどね」
「うるさい」
 蒼香はそっぽを向いた。痛いところを突かれたからでもあった。
 しばし、無言の時が流れた。
 蒼香の中には、まだ怒りがふつふつとたぎっていた。だがそれは、さっきの乱闘のせいではない。そもそも、この怒りは、蒼香が実家の事情に向けるべきものだったのだ。それがたまたま、今夜この時に暴発したに過ぎない。
 居心地の悪い時間が流れる。志貴はどんな顔で自分を見ているのだろうか。とうとう軽蔑されたのだろうか。出来の悪い妹でも見るような気分なのだろうか。
 つと、志貴は離れた場所にある水飲み場に歩み寄ると、しばし水音をさせていた。振り返り、蒼香の隣に座る。優しい目をしている。少なくとも軽蔑されたわけではないようだ。やっぱり、出来の悪い妹を思いやる気持ちなのかもしれない。実際の妹が、あの完璧な遠野秋葉では、そりゃ出来が悪くも見えるだろうなあ、などと思った。
「ほら、こっち向いて」
 志貴にそういわれ、顔を上げる。その時になって、志貴が持っているハンカチと、蒼香の口元の傷とが結びついた。
「ばっ――馬鹿、いいよ、もう。わたしが自分で――」
「いいから、黙ってお澄まししてなよ」
 志貴の口調は変わらない。蒼香に有無を言わせず、蒼香の傷にハンカチを当てて、丹念に冷やし始めた。きっと無意識のうちなのだろう。もう一方の手は、蒼香のうなじの辺りを支えている。
「――」
 蒼香は黙って、志貴のやることに付き合った。水に濡れたハンカチの冷たさと、うなじに回された手のぬくもりが、心に染みてゆく。自分が赤くなっているにが分かった。
「ほら、いいぞ」
 志貴は少し離れると、自分の作業の出来栄えを見るかのように、蒼香の顔を見つめた。
「うん、もう目立たないよ」
 志貴はそういいつつ、ハンカチをしまった。
 しばし、無言の時が流れる。蒼香はそっぽを向いていた。志貴とまともに顔を合わせられなかった。
「あのさ――」
 しばらくして、志貴がようやく口を開いた。
「今日はまた、派手に暴れたね。どうしてなんだ?」
「だってさ、あいつらステージのまん前で、後ろ向いて馬鹿騒ぎなんかしやがるから――」
 蒼香の言葉は、徐々に立ち消えていった。志貴の真剣な目が、蒼香の嘘を封じてしまったのだ。
「蒼香ちゃん――」
「分かってるよ――」
 蒼香は、ぎりっと奥歯をかみ締めて、うつむいてしまった。
 本当は、蒼香のむしゃくしゃした気分が、たまたま格好の標的を見つけて、噴出しただけなのだ。原因は、今夜のライブにすらない。遥か離れた、蒼香の実家にあるのだ。だというのに、ただ暴れることで発散させようとするなんて、子供もいいところだ。
 と、志貴が、くすりと笑いをもらした。
「――なんだよ」
 目を上げて、じろっと睨みつけると、そんな自分を面白がっているらしい、志貴の悪戯っぽい目と合った。
「いやね、蒼香ちゃん、いつもクールで大人っぽく見えるだろう。なのに、こんな子供っぽいところがあるんだなあって」
「悪かったな」
 蒼香は、またそっぽを向いてしまった。どうにも気恥ずかしい。
「ああ、悪い悪い。でもさ、秋葉にだって、子供っぽいところはあるんだから。いや、あいつこそ子供かな」
 いや、秋葉より、羽居より、ずっと子供なのは自分だ――蒼香は、そう痛感していた。羽居のように誰をも愛せる慈愛も、秋葉のように誰にでも平等に接することが出来る理性も持っていない。自分は子供なのだ。だが、子供は自分を大人っぽく見せたくて、必死なのだ。
「でもさ、蒼香ちゃんは、もっと自分を大切にするべきだぜ。羽目を外すにしてもさ、もっと穏当なやり方があるじゃないか。せっかくそんなに綺麗な顔なのに、怪我までしちゃ大変だ」
「えっ」
 蒼香はびくりと反応した。自分でも思わないくらいに。
「青痣なんかつけちゃ、可愛い顔が台無しだろう? 秋葉だって、羽居ちゃんだって悲しむよ」
「……ほっとけよ」
 そっぽを向いて、そう吐き捨てる声には、もう力が無かった。

 案の定、口元の傷は、秋葉と羽居にとがめられた。
「蒼香。気持ちは分かるんだけど、暴力沙汰になれば、誰も得にはならないのよ」
「そうだよー。蒼香ちゃん、女の子なんだから、もっとお淑やかにしないとだめだよー」と、それぞれにたしなめてくるのだ。
「ああ、もう、悪かった。悪かったよ」
 結局、傷が消え去るまでの数日間、顔を会わせる度にたしなめられた。論理的に攻めてくる秋葉と、母親のように心配して気を揉んでいるらしい羽居と、別方面からの攻めが続いたため、さすがの蒼香もすっかり懲りてしまった。
「その様子だと、いよいよ切羽詰っているようね」
 ある日、寮でさりげなく聞いてきた秋葉に、蒼香は大きくため息をつきながら、肩を落とした。
「ま、その通り。お察しくださいってことだよ」
「そうなの――」
 秋葉も声を落とす。
「あのね、蒼香。本当に私で力になれるものなら、なんでもいいなさい。もう、四の五の言ってるときじゃないんでしょう」
「ああ、ありがとう。でもさ、これは遠野に協力してもらってどうにかなるという問題じゃないんだ」
 ここ数週間、時に狂おしく、時に内省的に考え続けたことを、蒼香は反芻しながらいった。
「これは、結局のところ、わたしが親父に一人の人間として認められてないからこその問題なんだ。だから親父は、わたしを気楽に政略の道具として使えるんだ。わたしが歴とした一人の女で、親父の思い通りになんかならないと分からせない限り、こんなお見合い話はいくら蹴っても続くのさ」
 蒼香は、ふうと息をつきながら、窓の外に目をやった。だんだん春めいてきた森に、透明な星空が懸かっている。もしかして、こんな風に秋葉と二人で話している時間も、あまり残されてないのかもしれない。そう思った。

「――でも、蒼香ちゃん、まだ高校一年じゃないか。そんな、結婚なんて早いだろう」
 翌日の夜、また志貴に付き合ってもらったライブの帰り、公園のベンチでそんなことをいわれた。
「法律上、両親の同意があれば問題が無いそうだ。それで、両親があれだから――」
 ああ、と志貴は頭を手でポンと叩いた。
「あくまでも拒否、というわけには行かないんだね?」
「出来るだけ頑張ってみるさ。でもさ、もう限界が見えてる」
「俺で力になれるなら、なんでもいってくれよ」
 蒼香は、思わず志貴の顔をまじまじと見た。心底、善意からの申し出のようだ。蒼香の心の中心で、がっしりと動かなかったもの。それがぐらぐらと揺るがされ始めているのが分かった。志貴と出会ってから、それはずっと揺すぶられ続けている。
「べ、別に遠野のお兄さんにやってもらいたいことなんて無いさ」
 ついつい、強い口調でいってしまう。
「ああ、そうか、ごめん」
 志貴は気にした風もなく、なにか考え込んでしまったようだ。きっと、蒼香のためになることを、真剣に考えてくれているのだろう。そんな志貴の横顔を見ていると、蒼香の胸の中に、どうにも出来ない小さな嵐が巻き起こり、次第に大きくなってゆくのが分かった。

 その日、蒼香は朝から憂鬱そうな顔だった。今日から春休みに入り、気の早い生徒は、そそくさと朝の内に帰省してしまっていた。
「今日、おうちからお迎えが来るの?」
 心配そうな顔の羽居に聞かれたのが、昼食時のことだった。平常なら学校の食堂で昼食をとるのだが、休日は三食が寮の食堂で出される。三食とも、寮という言葉からは想像もつかないくらい、手の込んだものだ。それを蒼香は、まるでドックフードかなにかのように、もそもそと口にする。
「ああ、夕方に。んで、明日お見合いだって」
 まるで他人事のように言ってみせた。そうすれば、蒼香らしくドライな態度を取り戻せるとでも言うように。だが、それは見事な失敗だった。月姫蒼香は、この問題に関して、とても冷静な態度は取っていられない。
「それで多分、休み明けには結納。夏までには結婚させられて、婿養子が我が家に増える、ってことなんだろうな」
 話すうちに怒りがこみ上げてくる。なぜ、そんな馬鹿みたいな事態が進行してしまうのか。自分の意思なんか、まるで関わってないじゃないか。
「私の家に避難する?」
 黙っていた秋葉が、横から口を挟んだ。
「だめだってば。遠野みたいな大物に出てこられたら、よけいに話がややこしくなる」
「そう。でも、三時までは居るから、それまでに気が変わったらいってね」
 いつに無い気遣いを見せて、秋葉はいってくれた。秋葉が時折見せてくれる特別な気遣いは、蒼香には心底嬉しいものだった。もそもそと、残りの食事を片付けながら、やはりそれしかないかもと思い始めていた。遠野家の力が及んでいると知れば、父はうかつには手を出さないだろう。元々、強きに屈する男だ。だが、こんなことに親友を巻き込むのは――
 忸怩たる思いを抱えたまま、自室のベッドに座り込んでいると、管理人が呼びに来た。実家から電話だという。来たな――蒼香はため息をつくと、寮の一階にある電話室に向かった。ここは最低限のプライバシーが守れるよう、二台の電話機が、それぞれパーティションに置かれている。通話ランプが点滅している一台を取ると、やはり実家の母からのものだった。蒼香さん、あなたも月姫の娘なのだから――と母は切り出した。覚悟をしなさいということらしい。懇々と、諭すように繰り返す。頭にカッと血が上った。いまさら、そんなことをいいに来たのか、と。もしかしたら、母なりの気遣いかもしれないといったことは、まるで頭に上らなかった。父の操り人形のくせに、言いなりのくせに、いまさらわたしの気持ちが分かるものか。そんな怒りが蒼香を支配した。
「ダメだよ。断るつもりだ」
 不思議なくらい平静な声で、蒼香は言い返していた。
 だから――と、母は月姫の血のことを蒼香に思い出させようとした。そんなことは百も承知だった。だが、そんな血筋に囚われるような生き方は、蒼香には我慢できないのだ。母のように全てを諦める生き方なんて、蒼香には耐えられないのだ。
「だって、わたし、決まった人がいるんだから」
 誰? 母が慌てた様子で聞き返した。
「遠野志貴さん。あの遠野家の長男だよ。もう、男女の関係になっている」
 電話に、そう言い返していた。
 電話の向こうが慌しくなった。わしに寄越せ、と父の声が聞こえた途端、蒼香は電話を叩き切っていた。電話室を飛び出す時、背後で電話がまた鳴り出していたが、蒼香はそれを無視した。玄関でスニーカーを引っ掛けると、後も見ないで寮を飛び出したのだった。

 夕暮れ時を、三咲の公園で迎えた。当ても無く夕暮れ時の街を歩き回り、ふと思い立ってやってきたのだ。やはり、秋葉の厚意にすがるしかない――そう思ったのだ。
 急いで飛び出したこともあって、手持ちの金はわずかだ。心細い思いをしながら、蒼香は公衆電話から、遠野家へと電話を入れた。
『はい?』
 出てきたのは、男の声だった。遠野家には、男は一人しかいない。
「志貴さん?」
『ああ、蒼香ちゃんか。どうしたの。なんだか、秋葉が凄く心配してたんだけど』
 そういえば、と思い出した。秋葉が三時まで待ってくれるといっていたことを。
「あ、あのさ、わたし、寮を飛び出しちゃって――」
 いつになく、しどろもどろに答える蒼香に、志貴は何かを察したようだ。
『どこにいる? 迎えに行ってあげるよ』
 蒼香は公園の名前を出すと、ベンチで待っていると告げた。
 電話を切り、ベンチに座り込んで待っている時、ふと、あの時の言葉を思い出した。『遠野志貴さん。あの遠野家の長男だよ。もう、男女の関係になっている』。
「なんであんなことをいっちゃったんだろう」
 蒼香は、次第に暗くなってゆく公園のベンチで、その事ばかりをボーっと考えている。ああ、そうだ。もう分かっている。月姫蒼香は、遠野志貴に惚れてしまったのだ。もう、どうにもならないくらい。実家の事情をネタに、志貴に頻繁に会えるのが嬉しかった。志貴だったら、蒼香の苦境をなんとかしてくれる。そんな信頼を抱ける異性は、蒼香には志貴しか思い浮かばない。口にした言葉は、蒼香の願望に他ならない。志貴に女として見られたいのだ。
「蒼香ちゃん」
 待ち人来る。蒼香が顔を上げると、まだ肌寒い季節なのに、大粒の汗をかいた志貴がいた。ここまで走ってきてくれたらしい。
 立ち上がって、志貴の顔を見ていると、蒼香の視界がじわっと歪んできた。あれ、っと思っていると、いつの間にか頬を熱いものが滴っているのが分かった。
「蒼香ちゃん、泣いてるんだね」
 志貴は蒼香に歩み寄ってくると、なんのためらいもなく抱きしめてくれた。その温かな腕の中で、蒼香は堰を切ったように泣き出した。こんなに泣いたのは、久しぶりのことじゃないかと思うくらい。
「いやだ、帰りたくない――」
 しゃくりあげながら、蒼香は志貴の胸の中で思いのたけをぶちまけた。
「あんな家に帰って、母さんみたいになりたくない」
 志貴は、ただ黙って、蒼香が泣きじゃくるまま、抱きしめていてくれた。

 ようやく落ち着いて話せるようになると、蒼香はぽつり、ぽつりと今日の出来事、そして実家の事情を話し始めた。実家に関しては、志貴にも既にかなり話してある。だが、
「母さんに会うのが嫌なんだ」というのが、目新しい話だったか。
「どうして?」
「そりゃ親父は大嫌いだ。あんな下品で、愚かで、俗物な奴はいない。でもさ、奴は生きてるんだ。たとえ暴君ではあれ、自分の意思でやりたいことをやって生きている」
「でも、お母さんはちがうというのか」
「そうさ」
 蒼香は、まだ泣き腫らしている目を、公園の暗がりの方に投げた。
「母さんは聡明な人だ。上品で洗練されているし、高貴な人だと思う。でもさ、自分の意思で生きてないんだ。親父の言うがまま、どんな酷い命令でも絶対服従さ」
 蒼香は、暗闇にため息をついた。
「どうしてあんなになっちゃったんだろう。家は古い家だから、因習にがんじがらめに縛られているのかもしれない。でも、やりきれないよ。あんな聡明な人でさえ、あの家ではなにも出来なくなるなんて――」
 蒼香が再び志貴に向けた目には、混じり気無しの恐怖が込められていた。
「嫌だよ、母さんみたいになるなんて。あの家は大きな檻みたいなものなんだ。わたしは、あんなところに戻りたくない」
 蒼香は、志貴の胸に強くすがりついた。
「お願いだよ、志貴さん。わたしを、母さんに言った通りにしてよ」
 志貴は、えっという顔になった。
「わたしを、志貴さんの女にしてよ」
 蒼香は、志貴の胸に顔を埋め、追い詰められたように叫んだ。
「家に帰って、顔も知らない奴に女にされるくらいなら、大好きな志貴さんの方がいいんだよ!」
 叫んでしまって、ハッと我に返った。なんてことを言ってしまったのだろう。
 志貴に抱かれたまま、時間が過ぎてゆく。志貴の鼓動が、蒼香の耳に聴こえている。蒼香は、身動きすることすら忘れて、志貴に抱きしめられていた。
「――わかった」
 やがて、少しかすれた声で、志貴がいった。
「いいんだね、本当に、俺で?」
「――ああ、いいよ」
 蒼香も答えた。
「わたし、志貴さんのことが、好きだ。だから、抱いて欲しいよ」
 顔が赤らむのを感じながら、蒼香ははっきりといった。
「わかったよ。まかせてくれ」
 志貴は、蒼香の肩を抱くと、公園の外、ホテルがある方へと歩き出した。蒼香は、どこか夢を見ているような気分で、志貴についていった。


<続く>

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