猫と紫陽花と秋葉と



 どうも兄さんはおかしい――秋葉がそう思うようになったのは、そろそろ春も終わり、じめじめした雨の日々が始まった頃の話でした。
 どこがどうと指摘できるわけではありません。朝から晩まで、いつもの志貴です。朝は秋葉が待ちくたびれる寸前に起き出して来て、お茶に付き合ってくれる。昼は庭で一緒にランチを楽しみながら、夏には旅行に行こうねなどと話してくれる。そして夜には琥珀と翡翠も交えて雑談しながら、三方向からの攻めに優しい苦笑いで応えてくれる。そんないつもの志貴でした。
 だけど、なにか隠し事をしているように思えるのです。いや、志貴だって年頃なのだし、いかに秋葉に対してとはいえ、秘密の一つや二つはあるでしょう。秋葉は、志貴が夜中に家を抜け出して、有彦とラーメンを食べ歩いていることを知っていました。その資金を稼ぐつもりなのでしょう、ちょっとしたアルバイトをやっていることも。でも、秋葉の大好きな兄さんの新しい隠し事は、それらとは違っているように思えたのです。
 ある曇りの日、秋葉は廊下で志貴を見かけました。一階の廊下を何食わぬ顔で歩いて行きます。でも、秋葉にはピンと来ました。あの顔は、なにか隠し事をしている顔だと。なにせ、志貴と秋葉は一つの命を共有しているのですから、どんな思惑があろうとも筒抜けです。秋葉は、足音を忍ばせて、志貴の後を着け始めました。
 志貴は中庭に出ました。出たところで前後左右をうかがうところなど、既に犯罪者すれすれです。秋葉の中で、志貴の有罪は確定しました。問題は、どんな罪を犯しているかです。
 志貴は、裏庭へと進みました。秋葉も中庭に出て、その後を追います。隠れて追ううちに、志貴は裏庭の池のほとりに足を止めました。この春、『どうせ水が溜まりやすいんだし』と、志貴のいい加減な提案で作られた池です。きちんと手の入った周囲には、園芸業者が手入れしている潅木が養生されています。池に放たれた小魚が、ぽちゃんと跳ね上がりました。
 志貴は潅木の側で腰を屈めると、なにかに手を差し伸べながら、チッチッと舌を鳴らします。その怪しさ大爆発な行動を何度か繰り返したときでした。潅木の下生えががさりと鳴ると、小さな姿が現れたのです。
「まあ……」
 思わず小さな声を出してしまいました。それは掌に乗りそうなくらいの、小さな斑の仔猫だったのです。
「おいで」
 志貴は秋葉に気づいた様子も無く、仔猫を招き寄せました。志貴の意思を理解したのかどうか、仔猫はにーにー鳴きながら歩み寄ります。志貴はポケットからなにかのかけらを取り出すと、猫に与えています。たぶん、ドライタイプのキャットフードなのでしょう。コリコリと、仔猫が齧る音が続きます。
 志貴は、餌を無心に齧る仔猫を、目を細めて見ています。指でそっと背中を撫でてやります。その愛しげな様子に、秋葉の胸がちくりと痛みました。
 どういう経緯で志貴が匿ってやっているのでしょう。優しい志貴のことです。きっと、なにかの理由で親と離れ、とても独りでは生きてゆけそうに無い仔猫を見つけてしまい、どうにも放っておけなかったというところなのでしょう。まったく、兄さんらしい、と、秋葉は勝手に想像して、勝手に納得してしまいました。
「ごめんな、家に入れてやれなくてさ」
 指先で仔猫の頭を撫でてやりながら、志貴は独り言のようにつぶやきました。
「うちのお嬢様が猫嫌いでさ、お前を見つけたら、つまみ出されてしまいそうなんだ」
 秋葉はちょっとカチンと来ました。確かに秋葉は小さな生き物を屋敷に入れません。いつだったか、夕刻のお茶会で、猫でも飼ったらという話になったことがありましたが、無碍に断ってしまいました。でもこんな小さな、独りでは生きていけないような仔猫を追い出すほどには、冷酷では無いつもりです。その代わり、志貴のことを責めるのでしょうが……。
「それと、琥珀さんに小さな生き物を見せると危ないから……。どんな薬を飲まされるか分かったもんじゃない」
 それには思わず同意してしまう秋葉です。琥珀は妙な薬を作っては、こっそりと志貴たちに飲ませたりする悪癖の持ち主です。ほとんどは結局無害なものなのですが、たまに困った作用をすることがあって、秋葉も困り果てている次第です。
 でも、秋葉が猫を飼いたくないのには、琥珀に小動物を見せたくないのには、別の理由があります。過去、秋葉の父親が犯した所業が、彼女をして猫を遠ざけせしめるのです。
「……お前は気づいてるかもしれないけど、昔この屋敷では、お前の仲間たちがたくさん殺されたんだ」
 志貴の思考も同じ方向に進んだようです。ちょっとつらそうに口にします。志貴は、去年の事件の後、度々父の残した手記を読み返し、その事を知ったようでした。
「それを琥珀さんは、毎日のように見せつけられてきたそうだ。目の前で、お前みたいに小さくて可愛いのが殺されてゆく。なのにどうにも出来ないなんて、いったいどんなにつらいことだったろう。俺は、琥珀さんにも、秋葉にも、翡翠にも、そんな嫌なことを思い出させたくはない。笑って暮らせる今を大切にしたいんだ。暗い過去なんて、二度と思い出させたくはない。みんなの今を守ってやりたいんだ。だから、ごめんな、お前を屋敷に入れるわけにはいかないんだよ」
 志貴は、仔猫を抱き上げると、しばらく膝の上であやしていました。最後に抱き上げて、頬擦りしてやると、足元にそっと放します。
「じゃあな。雨が降りそうだけど、濡れないように気をつけるんだよ」
 仔猫に優しく語り掛けると、志貴は立ち上がりました。秋葉は素早く、木立の影に隠れました。志貴は気づいた風も無く、屋敷へと小走りに去って行きました。
 木陰から身を現すと、秋葉は池の方に足を踏み出します。仔猫はまだ、芝の上に寝そべっています。が、秋葉の方をじっと窺っています。
 秋葉は仔猫に近づくと、腰を屈めて見下ろします。仔猫は耳をピンと立てて、警戒しています。その仔猫を抱き上げて可愛がっていた、志貴のことを思い出しました。我知らず、眉が吊り上がってしまいます。仔猫は怯え、しかし恐怖のあまりに逃げることも出来ず、耳を伏せてしまいました。
「――って、馬鹿みたい」
 急に馬鹿らしくなって、秋葉は肩を落としました。いくらなんでも、猫に嫉妬してしまうなんて。自分の大人気なさ、志貴が絡んだときの余裕の無さが、嫌になってしまう秋葉でした。
「ほら、いらっしゃい」
 表情を和らげると、仔猫に手を差し伸べます、志貴がそうしたように。秋葉だって年頃の女の子なのですから、可愛いものには目がありません。仔猫はまだ人を恐れないようです。警戒しながらも、秋葉の方に近づいてきました。その背を、そっと撫でてやります。たおやかな少女の手は、やはり気持ちいいのでしょうか。仔猫は、にー、と鳴きました。
「あなたはいいわね、兄さんに甘えたいだけ甘えられて」
 さっき、自分の大人気なさを恥じたばかりなのに、猫に愚痴るという、およそ大人気ない行動に走る秋葉です。
「私なんて、兄さんからすれば五月蝿いだけの妹なんでしょうね。なにかといえば家長風を吹かせて、兄さんの生活をがんじがらめにして……。私もあなたみたいに、兄さんに甘えたいだけ甘えることが出来ればいいのに。兄さんだって、その方が気楽なはずなのに」
 同じがんじがらめなら、家長として縛るより、恋人として縛る方が志貴には嬉しいはずです。その事は秋葉にも分かっていました。でも、それが素直に出来ないのが、秋葉という女の子なのです。もっとも、夜には互いに忍びあい、ベッドの上で甘えに甘えているのですが。
「ふふふ、馬鹿ね。あなたに愚痴っても仕方ないのに」
 秋葉は自嘲気味にいいます。仔猫の鼻をそっと撫ぜると、仔猫は不思議そうに秋葉を見上げます。
 ふと顔を上げました。池に小さな波紋が広がり始めています。手を空に差し伸べて確かめると、やはり雨が降り始めていました。意外に雨粒は大きいようです。立ち上がって池に目をやっていると、徐々に雨脚は強まり始めました。
「大変、濡れちゃうわ」
 秋葉は踵を返し、屋敷へと戻ろうとしました。が、ふと気にかかって振り返ると、仔猫は潅木の近くをうろつきながら、秋葉の方を見ています。
「あなたも早くお帰りなさい。それとも、ついて来たいの?」
 仔猫は、にー、と鳴きました。別に秋葉の言葉に同意したわけでは無いでしょう。でもこの雨では、潅木の茂みに入っても濡れてしまうはず。仔猫の身でそれはつらいでしょう。
「もう、兄さんも。飼うなら飼うで、ちゃんと濡れないようにしてあげればいいのに」
 そう考えると、居たたまれない気持ちになります。とうとう秋葉は、仔猫に手を差し伸べ、抱き上げました。仔猫は大人しくしています。その小さくて、脆そうな身。力を入れると壊れてしまいそうです。それが、自分の父親の所業を思い出させて、思わず身が竦みました。が、気を取り直すと、秋葉は仔猫を抱いたまま、屋敷の方に戻り始めました。
 池のほとりには東屋があります。ちゃんと屋根がついたここなら、雨を凌げそうです。秋葉は東屋のベンチに腰掛けると、テーブルにそっと仔猫を放しました。
「ここなら大丈夫でしょう。ちゃんとした屋根付きのお家よ」
 仔猫に顔を近づけて、ちょっと悪戯っぽくいいます。仔猫は秋葉に顔を近づけて、なにか探るような顔をしていましたが、やがて、にー、と鳴くと、秋葉の膝にぽんと飛び移ります。そういえば、猫は一年で三日しか暑いと感じないといいます。この気温は、秋葉には程よいものですが、仔猫には寒いのかもしれません。秋葉は、ポケットからハンカチを出して、仔猫の身体を丁寧に拭ってやります。そして膝の上に丸まってしまった仔猫の背を、そっと慈しむように撫でます。仔猫は気持ち良さそうに、目を閉じています。
 東屋には壁がありません。風が強ければ、雨が降り込むこともあります。でも今日の風は穏やかです。その心配はありません。テーブルもベンチも手入れが行き届いています。普段は目にしないところでも手を抜かない、翡翠のプロフェッショナリズムには脱帽です。
 目を屋敷の方にやると、わざわざ視界を遮るように、紫陽花が植えられています。ちょうど花の時期で、青紫の鮮やかな花弁が、この雨に濡れています。すぐ側には、まだ咲き始めの白い花弁も散見されます。風に乗って、花の匂いが漂ってきます。
 静かです。秋葉は雨音だけの世界で、仔猫の背をそっと撫でていました。
「あなたを屋敷に連れて行ってあげたいんだけど、琥珀の反応が心配なのよ」
 秋葉は、膝の上の仔猫に語りかけます。
「ずっと昔、お父様が存命でいらした頃、あなたみたいな仔猫を買ってきては、とても口に出来ないような惨たらしい方法で、殺してしまっていたことがあったの。琥珀は毎日、それを目の前で見せられてきて……。もしもあなたを見かけたら、その時の嫌な記憶が蘇ってしまうでしょう」
 それは、琥珀にはつらいことに違いありません。琥珀は、みんなに薬を盛ったりします。でもそれは、過去の悲惨な記憶を笑いに転化することで逃れようという、琥珀なりの企みなのです。その事は、秋葉には分かっています。近所の野良猫に――まあマタタビの類なのでしょうが――なにやら飲ませ、酔っ払わせては笑っているのも、そういう琥珀なりの苦しみの表われなのです。猫には迷惑な話でしょう。でも琥珀はそうやって、自分の中の黒い衝動と戦っているのです。
 そこに、こんな小さな、脆い命を差し出したら……。琥珀は壊れてしまうかもしれない、と秋葉は恐れていました。壊れなくとも、昔の記憶を蘇らせておかしくなった琥珀を見るのは、秋葉にはつらいことでした。もちろん、志貴や翡翠にとっても。そして、この仔猫にとっても危険なことでしょう。
「どうすればいいのかしら、ねえ?」
 秋葉は、膝の上の仔猫に語りかけます。
「琥珀だって女の子なんだから、きっと、あなたのことを可愛がってあげたいって思うはず。でも、あなたを見て、昔の嫌な記憶が蘇るのも苦しいはずよ。琥珀は、あなたたちと上手く接することが出来ないみたい。あなたを見たら、心のバランスが崩れてしまうでしょうね」
 仔猫は、片耳だけをピンと立てましたが、すぐに伏せて、眠りこけてしまったようです。秋葉は、そんな仔猫の背中を何度も撫でてやりながら、しっとりと降り続く雨を、ぼーっと見ていました。
 雨は紫陽花の上にも降っています。紫陽花は、お日様の下で見るよりも、雨に打たれている時の方が綺麗だと、秋葉は思いました。紫陽花は花の色を変えます。土壌のPH値の変化に、比較的敏感に反応するのだと聞きました。雨の時期は土壌のPH値も変わりやすいので、紫陽花もその色を変えてゆくのです。
 そう、花でさえ、色を変えてゆくのです。
 秋葉は、急にその事に思い至りました。ここに動かず、じっとうずくまっているだけの紫陽花さえ、その花の色を変えてゆくのです。だからきっと、琥珀だって変わってゆけるはず。だって、琥珀には翡翠が、志貴が、そして秋葉がついているのだから。お日様のように暖かく、雨のように根気強く付き合ってゆけば、きっと琥珀を良い方向に導けるはずです。
 今まで、秋葉は、志貴は、そして翡翠さえも、琥珀には小さな生き物を近づけないように努めて来ました。琥珀が危害を加えないように、そして琥珀が壊れてしまわないように、と。確かに琥珀は、小さな生き物に薬の入った餌を与えたことがあります。でも、琥珀だって、本当はそんなことは嫌なはず。ただただ抱きしめて、可愛がりたいはずです。でも、過去の悲惨な記憶が、琥珀に歪んだ行動を取らせるのです。
 ならば、ちゃんとした生き物との付き合い方を、琥珀に教えてあげればいいのです。危害を加えないように側に着いて、過去の記憶に打ち克てるように励ましながら。琥珀の苦しみが失せて、やがてこの仔猫を抱きしめて、その温もりを感じ取れるようになるまで。秋葉も、志貴も、そして翡翠も、琥珀を傷つけないことばかり考えて、それを克服する道を見失っていたのです。仔猫との付き合いだけで、それが完全に克服されるとは思えません。でも、この小さな一歩から、きっと琥珀の大きな傷を癒す道へと繋がってゆくはずです。
 私たちは臆病だった、と秋葉は思い至りました。琥珀に必要だったのは、彼女を隔てる壁ではなくて、何度転んでも差し出される助けの手なのです。
「あなたを琥珀に抱かせていいかしら?」
 秋葉は、目を閉じている仔猫に、そう語り掛けました。
「私があなたを守ってあげる。だから、琥珀にあなたの温もりを感じさせてあげてほしいの」
 秋葉は、仔猫の背中を優しく撫でます。仔猫は、了解の意味ではないのでしょうが、可愛い尻尾をしゃなりと振って見せました。
 仔猫を膝に乗せたまま、秋葉は穏やかな笑みを浮かべ、背もたれに身を預けます。目を閉じ、雨の音に耳を傾けていると、心は穏やかになって、身体から力が抜けてゆきます。いつしか、秋葉の心は、雨の音に溶けてゆきました。

 降り続く雨の中、しゃらしゃらという草履の音が近づいてきました。古風な和傘を差し、雨の中を歩く着物姿の少女は、琥珀でした。
 琥珀は、東屋へと近づいてきます。目的は、もちろん秋葉でした。雨が降り始めたのに、秋葉の姿は屋敷には無い。やはり心配している志貴と手分けして、秋葉が居そうな場所を見て回っているのでした。もっとも、屋敷の中に居なくて、しかも外出した形跡が無いとすれば、居そうなのは二箇所。離れとこの東屋だけです。離れへは志貴が、東屋へは琥珀が調べに来たのでした。
 東屋の中を覗きこむと、案の定、彼女の主人が居ました。珍しく、穏やかな表情で、居眠りを決め込んでいます。
「おやおや」
 琥珀はくすくす笑いながら、傘を閉じて、東屋に足を踏み入れました。秋葉がこんな隙を見せるのは、たとえ琥珀に対してであっても珍しいことです。風邪を召さないようにタオルケットでも持ってきて差し上げようかしら、と考えていたら。
 ひょいと、秋葉の膝からなにかがテーブルに飛び乗りました。仔猫です。
「まあ、まあ」
 琥珀は目を丸くして、それから仔猫にそっと近づきます。仔猫は大した警戒心も無いようで、琥珀を無心に見上げています。そのあまりに無防備な様子に、琥珀は思わず、手を差し伸べていました。
 その手が、仔猫と一緒に、自分の視界に入りました。か弱い琥珀の繊手に較べても、まだ小さな仔猫の姿。手の中に包んでしまえば――簡単に捻り殺せそうです。
 琥珀の身体が微かに震えました。かつて、目の前で惨殺されていった仔猫たちの姿を、反射的に思い浮かべていました。そして、無表情に惨事を繰り返す、かつての主の姿をも。自分の中に、同じ黒い衝動が息づいているのが分かってしまい、琥珀は顔を歪ませました。笑っているとも、泣いているともつかない顔です。表情を抑えることが出来ず、手が震えます。もしもこの仔猫を抱いてしまったら、琥珀は我知らず壊してしまうのではないか。そう恐れました。その脆い身を、この手で壊してしまうのではないか、と。それくらい、あっさりと、簡単に殺されていった猫たちの姿が、琥珀の脳裏に焼きついています。いつものように、マタタビの類で酔わせてしまい、笑いの中に逃げ込むという手も使えません。それくらい、仔猫の瞳は無防備で、可憐だったのです。
 でも、琥珀の視界には、同じくらい無防備な主人の姿も入っていました。さっきまで仔猫を抱いていたからでしょうか。その顔はとても穏やかで、可憐なものです。そしてそれは、琥珀がこの先守ってゆくと、密かに心に決めたもの。秋葉が、琥珀の真意を知りながらも、ずっと側にいてくれたと知った時、琥珀は今後の人生を秋葉のために生きようと決めたのでした。その寝顔を見る内に、琥珀の心に、ようやく前に向かう勇気が湧いてきました。
 琥珀は、震える手を、仔猫に差し伸べました。秋葉を大事にするのと同じように、この仔猫だって守ってあげられるはず。そう、きっと大丈夫――
 仔猫は、なにかを窺うように、琥珀を見ていましたが、しかし琥珀の手が伸びてきても逃げません。琥珀は、その手にそっと、仔猫を包み込みました。その小ささ、脆さ。思わず手が震えます。琥珀の脳裏に、かつての主人の手で捻り殺されていった小さな命の姿が、またしても蘇ります。
 でも、その目を今の主人の寝顔に向ける時、琥珀の中に優しい気持ちが溢れてきます。翡翠を、志貴を、そして秋葉を大事に思うように、この小さな命だって大事に出来るはずです。琥珀は、その手の中の暖かさをかみ締めました。仔猫は微かに息をしながらも、大人しくしています。とうとう、琥珀は仔猫を抱き上げ、目の前に連れてきました。仔猫は琥珀を不思議そうに見ています。
「こんにちは、仔猫ちゃん」
 琥珀がそう呼びかけると、仔猫はなにを思ったのか、小さな舌で琥珀の鼻を舐めました。小さな命が、懸命に生きています。それを実感できて、壊す気持ちなどひとかけらも無く、ひたすらに守ってあげたくなって、琥珀は思わず涙ぐみました。仔猫にそっと頬を寄せます。
 仔猫をそっとテーブルに戻します。これ以上抱いていると、自分がおかしくなってしまいそうです。今日はここまでです。仔猫はテーブルの上に立つと、その可愛らしい目を琥珀に注いでいます。その無心な瞳。
「ありがとう、仔猫ちゃん」
 琥珀は、仔猫に顔を寄せて、礼をいいました。
「ちょっとだけど、あなたを抱いてあげることが出来ました。明日もちょっとだけ、抱いていいですね? 毎日、少しずつ、わたしに付き合ってくださいね?」
 仔猫は、にー、と鳴くと、そのままうずくまってしまいました。琥珀は、ふふっ、と笑いました。それから、転寝している主人の方を向きます。その横に腰掛けると、もっと楽に眠れるようにと、その身体をそっと抱き寄せます。自分の温もりを分けてあげようと、頭を自分の肩にそっと受け止めました。
 そのあどけない寝顔を見つめ、そして優しい雨音に耳を傾けているうちに、琥珀の意識も柔らかな眠りへと落ちていきました。それはきっと、心配の無い、穏やかな眠りでしょう。

「おーい、琥珀さん、秋葉――」
 秋葉を探しに行った琥珀まで戻ってこないので、心配した志貴も東屋へとやってきました。
「あれ?」
 傘を畳みながら、東屋を覗き込んだ志貴は、その光景に首を傾げました。なぜか秋葉と琥珀が、互いに寄り添うようにしてお昼寝を決め込んでいたからです。そして、その前のテーブルには、あの仔猫が。
 志貴は首を傾げながら、仔猫を抱き上げると、自分もまたベンチに腰掛けます。対面では、秋葉と琥珀が、平和そうに眠り込んでいます。二人を起こしてやろうかとも思った志貴ですが、そのあまりに穏やかな寝顔に、その気も失せてしまいました。苦笑めいたものを浮かべると、仔猫を膝に乗せます。
「どうもお前のことがバレちゃったみたいだな。まあ、大事にならないでよかったよ。どうせ後で責められるんだろうけどさ」
 仔猫は、興味無さそうにあくびを漏らすと、志貴の指を無心に舐めました。
 志貴は、フッと力を抜きながら、ベンチに身を預けました。そして、穏やかに寝息を立てている二人を見守りながら、しとしとと降り続く雨音に、やはり、じっと耳を傾けたのでした。

 その頃、台所では翡翠の野望が着々と進行していたのですが、それはまた別のお話。

<了>

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