東方月探譚 - 2



「静かだな」
「夜の学校になんて誰もいないわよ」
「その割に、ざわつく気配はある。不気味だぜ」


 羽居が森で拾ってきた女の子、魔理沙に手を貸すことになった浅上三人官女。今、夜の寄宿舎を抜け出し、学舎へと向かっていました。寄宿舎を抜けるのも難しい、管理厳重な浅上女学院ですが、脱走のエキスパートである蒼香が居るのですから万全です。少し待って、自治会による点呼が終わると、堂々と廊下を通って脱走します。蒼香曰く、点呼直後は自治会、管理人の引継ぎがあり、むしろ脱走の狙い目なのだとか。
 一階玄関では、まさに引継ぎの最中なので、二階の廊下中ほどの窓から、窓のすぐ外にある樹を伝って降りるのです。
「いつも二階の廊下から脱走してたのね。良く落ちて怪我しないことだわ」
 寄宿舎を離れ、学び舎との間にある森に入ったところで、ホッとしたのでしょう、秋葉が感心したとも呆れたともつかない言葉を漏らしました。
「しっ、声が高い。カメラだけじゃなくて、音響センサーも仕掛けられてるんだ」
 蒼香は秋葉を制すると、先頭に立って慎重に進んでいきます。さすがの秋葉も、気まずい表情で口を噤みました。それにしても、そんなものまで仕掛けているなんて、ほとんどパラノイアです。
 蒼香、羽居、魔理沙、最後に秋葉の順番で、森の中を慎重に抜けてゆきます。どこに目印があるわけでも無いのに、蒼香の足取りには迷いがありません。ここは腰をかがめて、ここは小走りに、と的確に指示を出します。
「なんかワクワクするな。同じ忍び込むにしても、腕ずくで行ける紅魔館とは、また違った面白さがあるんだぜ」
 魔理沙は気楽なもので、明らかにこの状況を楽しんでいます。
 カメラの迷路らしい普通の道を避け、藪を抜け木陰に隠れて走った終点は、校舎の一階にある厨房の裏手でした。
「わたしも校舎に忍び込んだことは無いけど、ここからなら大丈夫って話だ」
 この学校のそんな情報を持っているなんて、いったい何を企んでいる生徒たちなんでしょう。蒼香と同じ穴の狢というところでしょうか。あるいは、心行くまで夜の校舎での自習を楽しみたい生徒たちなのでしょうか。
 ともあれ、蒼香は羽居を踏み台をして厨房の窓によじ登ると、換気扇の横の窓を開きました。構造上、ここは施錠できないようです。それから、まず秋葉と魔理沙が入り、最後に一番重い羽居を引っ張り揚げました。唯一、胸の部分が引っかかってしまったのには、残り三人が三人とも殺意のようなものを共有したようですが。
「面白かったけど、こんなことなら私の魔法でみんなを飛ばせばよかったな」
 羽居を引っ張り揚げるという大仕事に疲れ果て、調理卓に座り込んだ秋葉と蒼香に、同じくへたり込んだ魔理沙が言いました。
「そういう大事なことは、早く言ってくれよ」
 ようやく息を整えつつ、蒼香は立ち上がりました。
「いやー、ついて来いって言われたからなんだぜ?」
 魔理沙は罪の無い笑顔です。内面的には、羽居といい勝負なのかもしれません。
 息を整えると、真夜中の校舎の中を歩き始めます。蒼香は、一番元気な羽居を先頭に立たせました。弾除けなのだそうです。
「カメラは大丈夫なの?」
 秋葉は、蒼香、魔理沙と肩を並べて歩きながら、そう聞きました。
「さすがに校舎の中には無いよ。寮の中にも無いだろう?」
 蒼香は、ちゃんと調べつくしているようです。迷い無く答えました。
「何度か夜警さんの巡回があるらしいけど、それはまだ先の時間。んで、魔理沙の方はどうなんだ」
「上だな」
 目を上下左右に走らせ、何かを探っている様子の魔理沙は、即答しました。
「この上の方から感じる。さっきまで小刻みに動いていたが、今は止まっている」
 秋葉と蒼香は顔を見合わせます。実を言えば、秋葉もなにか良からぬ気配を感じていたのです。なにか圧迫感のようなものです。どうやら、魔理沙の方が精度は高いようです。
「羽居、下がれ」
 羽居を下がらせ、蒼香が先頭に立ちます。蒼香は、どこからか小さな札のようなものを取り出し、指に挟みます。
「それは?」と、目敏く気づいた秋葉。
「撃符だ。攻撃用のお札だな」
「おー、外の世界にもスペルカードがあるとは知らなかったんだぜ」
 魔理沙が驚きを顔に出します。
「なんだよ、それ?」
 言われた蒼香は首を捻ります。
「超強力な妖怪妖神と、ひ弱な人間、妖精がひしめく幻想郷で、それぞれが全力で戦ったら大変なことになるだろう。だから、予めいくつか自前の技を書いたカードを用意しておいて、それに従って戦うんだ。そして攻撃が当たったら勝ちってね。すると妖怪も全力を出すわけには行かないし、人間も限られた技を受けるだけで済むから死なずに済む。ま、メンコで戦うみたいなもんなんだぜ」
「戦いを様式化して制限しようというわけね。まるでスポーツじゃない」と、秋葉。
「そういうこと。だから、幻想郷じゃしょっちゅう妖怪、人間の戦いがあるけど、死んだりすることは無いんだぜ」
それは確かに合理的なやり方に思えました。なるほど、暴力に慣れた者達の間では、一定の様式が発達するものです。やくざの世界などがそうですが。
「この札は、実際に悪霊の類を叩き潰すためのもんだけどな。メンコじゃないよ」
「そういえば、蒼香の立場ってなんなの?」
「実家が真言系だって知ってるな? これはその裏家業だよ」
 蒼香は、あまり語りたがらない様子です。どうも、その裏家業に複雑な感情を抱いているようです。
「ふうん、じゃあみんなが眠っている時に、裏でこっそり妖怪退治とかしてたのね」
「生憎な、そんな殊勝なもんじゃない。とりあえずの素養って奴を積んだだけだ。物の怪退治の経験が無いわけじゃないけどな」
「蒼香ちゃんは、学校に近づく悪い虫だけじゃなくて、物の怪まで退治してたんだねー」と、羽居。
 そういえば――と、秋葉はある事件を思い出しました。浅上の生徒を口説こうと、近隣の学校の不良生徒やチンピラたちが十人ほども、女学院の近くの森に出没するようになった事件がありました。秋葉たち生徒会で密かに討伐準備を進めていたのですが、それから程無いある夜に一人残らず姿を消してしまったのです。風の噂では、その全員がボロボロの状態で、遥か遠い海辺に捨てられていたのだとか。よほど恐ろしい目に遭ったのでしょう、二度と姿を現しませんでした。あれは腕に憶えのある生徒を招集していた寮長の環の仕業かと見ていたのですが、この分では蒼香が仕掛けた可能性もあるようです。閉鎖的な環境だからか、見た目と裏腹に血の気の多い生徒が多い、浅上ならではの事件でした。
「まあ、出来ることはやらんといかんからな。そういう羽居だって隠してたんだろう?」
「わたしは表稼業だよー。羽ピン魔法しょうか〜い」
「そりゃ初耳だな」
「いつも言ってたじゃん、羽ピンマジックだよ〜って」
「まさか本当だったなんて」
 確かに先輩たちからの『明日までに部室を改装しなきゃならないの。お願い羽ピン!』という無理なお願いに、『任せてね。羽ピンマジック〜』とばかりに本当にやってのけるのには、いつも不思議に思っていたのですが。まさか、このニブチンな羽居が、本当に魔法使いだなんて、神ならぬ身には知りようの無い事実でした。
 上階への階段に出ました。蒼香はお札を唇に当てて、なにか窺う様子です。羽居はほえー、とばかりに踊り場の方の闇を見上げています。魔理沙は表情を引き締めて、上の階を探っているようです。
「いるな」
「うん」
 蒼香のつぶやきに、羽居が即答します。二人とも、既に怪しい気配をまじまじと感じていたのです。一方、秋葉にも既に感じ取れていました。この頭上の方向から、言い知れぬ圧迫感を感じています。もっと精密に知りたい――そんな欲求が強まっています。秋葉にはその手段があります。”檻髪”という能力を使えば、この校舎の隅々までを自らの勢力下に置いてしまえます。そうなれば、そこになにが居ようと、なにがあろうとも、秋葉には手に取るように分かるのです。しかし、その異能を発揮すれば、他の三人に知られてしまいます。お寺の退魔士もどきだとか、魔法使いみたいなものだとか言っても、常人との違いは知識面に過ぎないわけです。しかし秋葉は違います。元々が人間という枠から逸脱した存在です。それを知った上で、蒼香も羽居も自分を受け入れてくれるでしょうか。秋葉には、それが不安でたまりません。だから、可能な限り隠すと決めていたのです。
 今は、素知らぬ振りをして、三人をそれとなくサポートしよう。それが最善だと、秋葉は考えています。
「んじゃ、行ってみようか」
 魔理沙は陽気です。が、上階に顔を向けたときには、今の今までの暢気な様子が嘘のように消え失せ、今まで見せたことのない真剣な顔になっていました。やはり、彼女も感じているのです。頭上の気配のただならぬことを。
 階段を静かに上ります。浅上の校舎は、やたら金のかかった大理石造りです。おかげで真冬は骨まで冷えそうだと、冷え性ぞろいの乙女たちには不評なのですが。
 その大理石の階段を、魔理沙と蒼香が肩を並べて上ります。蒼香はスニーカー、魔理沙は可愛らしいブーツです。蒼香はさすがに忍び足のスペシャリティ、コツリとも音を立てません。魔理沙も、裏に皮でも張っているのか、音がしません。RPGのシーフさながらの足裁きで、気取られることなく歩を進めます。
 二人が踊り場に到達するのを待って、羽居と秋葉が上り始めます。羽居はサンダル、秋葉はローパンプス。単にそれぞれの外出着に合わせただけなのですが、これが困りものです。羽居のサンダルはぺたぺた音を立てますし、秋葉のパンプスも大理石とは相性が悪く、足音を忍ばせているのにカツ、カツと音を立てます。羽居は最初から足音を忍ばせる気がないようですが。
 しかし、羽居たちが踊り場に着くより先に、魔理沙たちはさっさと上階の廊下を進み始めました。
「あーん、待ってよう」
 羽居が甘えた声をあげて、追いかけます。と、その足がぴたりと止まりました。
 殿を守る形の秋葉も、首を傾げて見せながら上ってきました。が、誰も振り向きません。それどころではなかったのです。秋葉にもすぐに気づきました。一番近い教室から聞こえる声に。
 三人はドアの近くに固まって、中を窺っていました。蒼香は羽居の口をふさいでいます。魔理沙がちらりと振り向いたのにうなずき返して見せると、秋葉も中からの声に耳を澄ませます。
「あなたが――あなたのせいで――」
 若い娘の声です。ひたすら、相手を詰っているようです。そしてもうひとつ、どこか嘲る様な男の声が聞こえています。低い笑い声が交差します。どうやら、興奮している若い娘を、男の方が嘲り、弄っているようです。まるで痴話喧嘩の現場に遭遇したようで、ややばつの悪い思いがしました。いや、濃密な魔物の気配さえなければですが――
「邪魔するぜ」
 どうしよう、と顔を見合わせる隙があればこそ、魔理沙はさっさと引き戸を開けていました。いやはや、思考より先に手が動くタイプのようですね。
 ドアの向こうに見えたのは、真っ暗な教室にたたずむ、さらに暗い二つの人影。人里離れた森の真っ只中に建つ浅上女学院は、街灯なんてものがありません。本当に真っ暗です。が、ムッとするような熱気と、激しい敵意は、その闇から染み出すようにして、四人にも伝わってきます。
「ほう――」
 男の声です。こちらを振り向きもせず、ただ意識だけをこちらに向けたようです。だというのに――
「うっ――」
 蒼香は、思わず顔を引きつらせます。その男から向けられたものは、ただ意識だけではありません。それとともに向けられたのは、圧倒的な悪意――そう、ただただ、高濃度の破壊欲を濃縮して抽出したかのような、強烈な悪意だったのです。
 魔理沙は眉を潜め、蒼香は強張り、羽居も不安そうな顔になります。が、あろうことか、一番敏感に反応したのは、もっとも強靭な精神の持ち主のはずの秋葉でした。秋葉は、その男に意識を向けられた途端、ビクンと、まさに跳ね上がらんばかりに硬直したのです。声をあげなかったのは、むしろ僥倖でした。
「なに、この嫌な感じ……」
 秋葉は、一瞬にして浮かんできた冷や汗を拭います。いや、ただの悪意ならば、秋葉は鼻で笑ってあしらえたでしょう。そういう相手にこそ強いのが、秋葉なのですから。秋葉が反応したのは、向けられた意識の中に潜む、どこか身に憶えのある部分なのでした。そう、なぜか他人とは思えないような。
「ほう、ほう」
男の声は、なぜか嬉しそうです。
「これはこれは――こんなに早く、私に追いつくとはな」
 どうやら、男の方はこちらに向き直ったようです。たった今まで激しく争っていたらしい、娘の方を放っておいて。
「驚いたよ。暢気者揃いの幻想郷にあって、君はなかなか敏感な危機意識の持ち主だねえ、白黒の魔法使い君」
 男はこちらに足を向けたようで、少しずつ声が大きくなってきます。
「ふん、お前、やはり幻想郷を出入りしてる奴なんだな」
 魔理沙は、男からの強烈なプレッシャーを跳ね返し、言い返します。それでも、その端正な片頬を、冷汗がツーっと伝ってゆきます。
「あそこは実に興味深い場所だからねえ……。私の求めるものも、あそこでならたやすく手に入りそうだ」
「なにを求めて幻想郷の境界を侵す!」と、魔理沙は問いただします。
 ハハハっ――とうとう薄明かりの中に姿を現した男、喉を震わせるようにして笑います。真っ黒な悪意に満ちた嘲笑です。
「それは言えんなあ。君たちには関係ないことだ。そうだろう、秋葉?」
「なっ――」
 秋葉は絶句します。薄明かりに浮かんだその姿――まるで売れないロック歌手のような長髪に胸の開いた革ジャンです――、そしてその名を呼ぶ声、歪んだ笑顔、見覚えある顔……。秋葉の実の兄、遠野四季に見えました。
「久しぶりだなあ、ちょっと遅めの父兄参観ってわけだ。こんなことに首を突っ込むなんて感心せんが、遠野の当主として精進しろよ」
 妙に優しげな猫なで声を出したかと思うと、表情を一変させます。
「そういうわけだ。他の邪魔者どもは、死ね――」
 秋葉の目の前、つまりは魔理沙、蒼香、羽居を、見えないなにかが取り囲みます。三人が驚きの顔になるよりも早く、それは弾ける様にして、膨大な力を――
「だめぇ、逃げて!」
 その時、不意に、忘れ去られていた第二の影が、男に背後から体当たりを食らわせます。それに気を取られたのか、三人を取り囲む力が揺らぎます。
「――っ!」
 一瞬のことでした。秋葉は反射的に意識を飛ばします。檻髪――秋葉の異能の中でも、もっとも使い勝手に優れたもの――を発動します。秋葉の意識の中で、自分の髪が突如として伸び、男と魔理沙たちとの間に割り込むイメージが湧き上がります。それは本当に咄嗟のことだったので、それは男の張った力場を僅かに妨害したに過ぎませんでした。でも、相次ぐ妨害は、圧倒的に見えたその力場を、大きく揺るがせました。そして、それだけでも十分だったのです、脅威に見舞われている三人には。
「撃符、金剛法力!」
 蒼香は真言の書かれた札を床に叩きつけます。どういう原理なのか、それは瞬時に光を放ちながら燃え尽きます。目に見えない何かが膨れ上がり、男の投げかけた力場を粉々に打ち砕きました。その間隙を突いて、蒼香と魔理沙は気の合ったところを見せ、一番鈍い羽居を抱えて飛び下がります。
「ははっ、蒼香、妙ちくりんな術を使うんだなっ」
 魔理沙は、どこからか取り出してきた、金属の鉢とも、剣山とも見える何かをかざします。そこからチラリ、チラリと炎の舌が覗きます。どうやら、尋常ではない火力を発揮しそうな雰囲気です。
 が、相手の男は、彼女たちを完全に無視します。男は、彼女たちに背を向けたまま、いつの間にか誰かをその手で締め上げています。片手で喉元を締め上げ、吊り上げられているのは、どうやら秋葉たちと同じくらいの年頃の女の子でした。どうやら、彼女が捨て身で、魔理沙たち三人を助けてくれたようです。それに対し、男が見せる片顔には、どす黒い怒りが浮かんでいます。
「まったく、お前は――子の癖に、親に逆らうのか。どれほど躾けないと分からんのか!」
 バシッ――肉を打つ音ともに、女の子は壁に叩きつけられました。きゃっ、と可愛らしい、そして悲痛な悲鳴をあげて、女の子はズルズルと床に俯せになります。
「お前は、俺の言うことだけ聞けばいいんだ。お前は俺の奴隷だ。お前に自由意志など要らん」
 男は、追い討ちを掛けるように、女の子の顔を無造作に蹴飛ばしました。女の子は、とうとう真っ赤な血を吐いて、動かなくなります。
「おまえ!」
 魔理沙の血相が変わります。秋葉たちも、男のあまりにも非道な仕打ちに、体中が沸騰するほどの怒りを覚えます。
「ちょ、ちょっと待って魔理沙ちゃん!」
 魔理沙が、例の謎の物体を構えるのを見て、さすがの羽居も青い顔になり、引き止めます。なにか、尋常ではない魔力が集中しているのに気づいたのです。
「ははっ、ここで、外で打つ気か。どうなるか分からんぞ。幻想郷の外で、その“魔法”が使えるのか?」
「使えるさ。あんたを粉微塵にしてやれるくらいにな」
 魔理沙の構える“炉”から、青白い炎が伸び始めました。それだけのことなのに、教室内は熱気に包まれます。これが放たれたら、いったいどうなることでしょう――
「や、やめろ!」
 ただならぬ状況に驚愕した蒼香が、思わず魔理沙を制します。魔理沙はムッと言う顔つきになります。はははっ、と、男の嘲笑が響きます。なおも嘲りながら、挑発しようというのでしょうか。と――
「この――」
 突然、秋葉が男に襲い掛かっていました。まず、素晴らしい回し蹴りが、男の後頭部に決まります。がぁっ、と呻いて、男は吹き飛びます。
「秋葉、コ、コラッ、もっとお淑やかに……」
 男の言葉が終わる前に、秋葉の膝蹴りが決まります。それも、顔面に、まともに。ぐぇぇっ、と悲鳴を上げながら、男はまた逆方向に吹き飛びます。
「敵わないな――そんなことじゃ嫁き遅れるぞ」
 男は閉口したような、意外に応えたような顔になると、さっと身を翻しました。秋葉は追おうと数歩踏み出しましたが、男は一瞬にして身を翻すと、廊下に飛び出します。魔理沙と蒼香が廊下まで追いましたが、既に影も形もありません。
「逃がしたか――」
 廊下を覗いていた魔理沙と蒼香が、落胆した顔で戻ってきます。が、黙って何かを考え込んでいる秋葉を見た時、二人はなぜか、ギョッと立ちすくんでしまいます。
「――?」
 秋葉は不審顔です。
「お前さん……」
「遠野、お前の髪って――」
 秋葉はぎくりと身を強張らせます。秋葉の美しい黒髪、いつもなら自然にその背を流れているはずです。それがまるで、燃える炎のように真っ赤に、秋葉の周囲を揺らめいています。
 秋葉は青ざめました。なぜならば、これこそが秋葉の異能の証であり、彼女が魔物である隠せぬ証拠だからです。見られた――秋葉の頭の中は真っ白でした。一番大切な友達たちに、自分が人でないことがばれてしまった、と。
「遠野――」
 蒼香が、なにか覚束ない足取りで、ふらふらと歩み寄ってきます。
「み、見ないで、来ないで!」
 主の意思と無関係にうごめき続ける髪を抱きしめるようにして、秋葉は蒼香から身を退けます。異能の血がこんなに滾っているのです。うっかり近づけてしまえば、自分が何をするか――自制しきる自信がありません。秋葉は、パニック寸前の頭の中で、このまま身を翻し、浅上から走り去ってしまおうとすら考えました。大切な友達に魔物の血を持つことがばれてしまったのです。蒼香と羽居、一番大切な友達に拒絶されるかもしれないという恐怖――それを味わうくらいなら、ここから逃げてしまおうとすら思っていたのです。そしてまた、一人きりの生き方を取った方がましだとさえ。
 その時です。
「秋葉ちゃん」
 羽居はなにかを決意したのか、断固たる様子で歩み寄ってきました。そして、蠢く秋葉の髪をも恐れることなく、秋葉を抱きしめたのでした。
<続く>

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