世界の果てまでサイクリング

「あ あ、もう。まっすぐ走ってくださいな」
「仕方ないだろう、お前が重いんだから」



 ある夜のこと。
「ん、なに難しい顔してるんだ?」
 風呂上り、志貴はいつものように、居間でお茶にしようと顔を出した。すると、遠野家の女性三人が、なにやら難しい顔で話しこんでいる様に出くわした。ど うやら地図を取り囲んで、なにか検討している様子だ。
「別に、話としては難しいことじゃないんですけどねえ」
 真っ先に顔を上げた琥珀が、苦笑いしながら迎えてくれた。
「秋葉様は、きっちり決めすぎなんです」
「琥珀が大雑把過ぎるんじゃないの」
 顔も上げずに言い返すと、秋葉は再び作業に没頭した。とはいえ、志貴の目には、地図と睨めっこしているとしか映らないのだが。
「秋葉、何してるんだ?」
 さりげなく、妹の対面に腰を下ろしながら、志貴も地図に目をやった。どうやら、三咲周辺の詳細地図のようだ。
「ご覧の通り、地図を見て、経路を検討しているんです」
 地図から目を離さず、秋葉は簡潔に答えた。
「だからさ」と、志貴は苦笑した。答えになっているようで、肝心な情報が抜けている。やはり秋葉は猫科だなと思った。猫科の動物の、盲目の集中力という奴 だ。一つのことに打ち込む時、脇目も振らない。
「紅葉狩りの経路を検討しています」
 志貴の困惑を感じ取ったのだろう、翡翠が志貴にお茶を出しながら、フォローしてくれた。
「紅葉狩り? ああ、そうなんだ」
 ようやく合点がいった。遠野家は大きく古い一族ゆえ、年中行事に事欠かない。春の花見と対を成す、秋の紅葉狩りもその一つだ。親族一堂が集まり、紅葉舞 い散る中で、風流な宴を催すという。
「もう、そんな時期か。えっ、あれって確か、十一月も下旬だろう?」
 つまり、まだ二月も先の話だ。
「ええ、そうなんですけどー」
 琥珀が、また苦笑する。
「もう」
 手にした鉛筆をカランと投げ出して、秋葉はやっと顔を上げた。
「事前に道路の補修が必要かどうか見積もっておかないと、実施日に間に合わないじゃない。琥珀みたいに暢気に構えていたら、土壇場になって慌てる羽目にな るんだから」
「そんなこと、下々に任せればいいだろう、遠野家当主とすればさ」
 志貴が、苦笑交じりに取り成す。
「それが――」
 琥珀が困惑したような笑みを浮かべた。
「その下々が、今はわたしたち二人だけという状況ですので」
 姉の困惑を、翡翠が代弁した。
「姉さんにもわたしにも、この家をお守りするという役目があるものですから……。遠くまで出かけて、一日が かりで実地調査するのも困難です」
「うーん、確かにそうだよなあ」
 志貴はつんと怒り顔の秋葉、困ったような顔の琥珀、微妙に思案顔の翡翠を順に見た。
「要するに、秋葉が親族一同と使用人を追い出したから、人手が足りないって訳だろう? なら、俺が行くよ。秋葉は俺のために親族を追い出したって言うじゃ ないか。なら、俺がやるさ」
「そんな――兄さんは、宴の場所もご存じないでしょうに」
「んー、ならさ、一緒に行かないか、秋葉? それくらいの暇なら、作れるだろう?」
 絶句した秋葉の向こうで、琥珀がぐっと親指を立てて見せていた。志貴さんお見事、と言いたそうに。

 すったもんだの末に、やっと秋葉を説き伏せることが出来た。しかし、問題は残っている。現地まで、どうやって行くかだ。そこでようやく、志貴は宴の全貌 を知る必要に思い当たった。
「場所は三咲町を挟んだ反対側の山です。麓に寺と墓地がありますが、それより向こう、県境まではうちの所有物です」と、秋葉が説明してくれる。
「山、いくつ持ってるんだ?」
 いささか呆れながら、志貴は思わず問い返していた。
「さあ。結構離れた場所にもたくさんありますから。兄さん、今回はそこで無くて良かったですね」
 秋葉がフフッと笑って見せるので、志貴は仕方なく苦笑を浮かべた。
「全くだよ。そんな遠くまで出かけないで済むなんてね。遠野家御当主様に感謝だよ」
「まあ、遠ければ遠いで、諦めも付くんでしょうけどねー。今回は締まり屋の秋葉様の企画なもので、中途半端に近場でということになっちゃったんですよ」
「琥珀、中途半端ということは無いでしょう。駅を挟んだ反対側なんて、便利この上ないわ」
「そうか。みんな車で来るとは限らないか」
 遠野の一族としては、いささか庶民的といえる有間のことを思い出しながら、志貴はそういった。
「できるだけ車での送迎を考えてますし、駐車場も確保してますが、秋の山を徒歩で登りたいと思う者は多いものですから」と、秋葉。
 そういえば、志貴が有間に居た頃、『今日は親族の集まりで秋山に登ってきた』などと両親が語っていたのを思い出した。あれは秋の紅葉狩りのことだったの か、と初めて気がついたのだった。
「それで、問題は山の中の様子なのです」と、翡翠が話を戻す。
「そう。山の中は完全のうちの管理下にあるから、一般道みたいに自治体が管理しているわけではありません。必要な時に業者を入れて、舗装の維持などをさせ ているんです」
「山の上まで舗装路を通してるのかよ」
 志貴は、いささか呆れる思いだった。
「中腹の峠までですけどねー。ちゃんと二車線の車道が通ってるんですよー」
「お客様をお招きするのに、道で車もすれ違えないのでは失礼でしょう」
「それって、失礼に当たるのかな」
 もはや、自分の価値観とは離れすぎてて、なにが正しいのか見当もつかない志貴だった。
「そうか。それで、道路の状況を確認したい、と」
「そうです。今年は台風も多かったし、もしかしたら倒木もあるかもしれませんし」
 それは確かに難儀だな、と志貴も思った。レッカー車を出して移動して、さらに路面の補修までしていると、あっという間に紅葉の時期が過ぎてしまう。秋葉 が急いでいるのも、志貴には判る気がした。
「事情は分かったよ。場所は目と鼻の先だろう? なら善は急げだ。明日、偵察に行こうよ」
「歩いてですか」
 秋葉が、ちょっと不安げに言う。
「自転車でいいじゃないか」
「問題ないとは思いますが、私は乗れませんよ」
「いいよ。秋葉を荷台に載せて、俺が漕ぐから」
「私は荷物じゃありません! でも、そうですね、兄さんと二人乗りですか」
 明らかに惹かれた様子で、秋葉がつぶやいた。
「よし、決まり」
 志貴が、笑顔一杯で決め付けると、秋葉も苦笑しながら同意してくれた。
「でも、家に自転車ってあったっけ」と、今になって肝心なことを思い出す志貴。
「お父様がお使いだったものがありますけど」
「ああ。でも、あれはロードレーサーじゃないか。秋葉を載せられないよ」
「じゃあ、わたしたちが使っているお買い物自転車はいかがでしょうか? 丈夫な荷台もありますし、姉さんがしばしば大きな買い物をして持ち帰るくらいの能 力はあります」
「ひ、翡翠ちゃん、あれは本当にわたしたちの買い物用で――」と、なぜか慌てる琥珀。
「でも姉さん、あれだって遠野家の御用に供するために買ったものじゃない。秋葉様だって、志貴様だって、新しく買う無駄に較べれば、使用人用のものであれ 納得していただけるはずです」
 そういい切る翡翠。相変わらず生真面目だな、と志貴はちょっと見とれた。
「そうね。とりあえず明日使えればいいのだから、貸してもらえれば、それでいいわ」
 翡翠に先導されて、その自転車の元に案内されていった。その間、琥珀の不自然なまでの慌てぶりが、志貴にはちょっと気になった。
 実物を見て、納得した。
「なるほど――」
 志貴は、その『お買い物自転車』を前に、思わずうなづいた。志貴が意味ありげな視線を琥珀に向けると、琥珀はいたずらっ子のような顔になって、舌を出し た。
「これは凄いママチャリですね、琥珀さん」
「あはー」
「これ、フレームが全部チタンですよねえ。どこかのビルダーで作らせましたね?」
「あはー」
「荷台、いやホイールまでチタンですか。前のハブダイナモも、後ろの内装変速機も、ドイツ製のめちゃめちゃ高い奴ですよねえ。タイヤはイタリア製のハンド メイドじゃないですか?」
「あはー、あはー」
 琥珀は滝のような冷や汗を掻いている。これは、ハンドル回りこそファミリーサイクルに見せかけてはいるが、細部に至るまで高価なチタン中心に作られた、 オーダーメイドの自転車だ。ママチャリの皮を被ったロードレーサーともいえた。
「まあ、これくらい?」と、志貴は片手の指を全部立てて見せた。五万円ではない。文字通り、桁が違う。
「ええ、いいところですねー」
 すると琥珀は、一転していい笑顔を浮かべて見せた。
「琥珀さん」
 志貴は、琥珀に詰め寄った。
「そりゃあ、秋葉は下々の事情に疎いから騙しやすいんでしょうけど、これはあんまりだ。いくらなんでもママチャリに五十万はないでしょう」
「そ、そ、それは、つまり、非力なわたしと翡翠ちゃんが快適な労働ライフを過ごせますようにと……」
「まあ、うちは金余りも極まってる家ですからいいですけど」
 志貴は琥珀をジト目で睨んだ。
「それにしても、秋葉の世間知らずに付け込むような真似は止めてください。まあ遊びなんでしょうけど、これはあんまりだ」
「はい、すいませんでした」
 さすがの琥珀も、ぺこりと頭を下げて謝るばかりだ。
「へえ、これってとても軽いのね。琥珀、私も自転車の練習するから、これと同じものをもう一台調達しなさい」
 ためつすがめつ、自転車を眺めていた秋葉が、唐突にいった。琥珀は、ヒッと顔を引きつらせた。それはつまり、どう考えても、秋葉に値段がばれるというこ とだ。
「知りませんよ」
 志貴は、琥珀の肩をぽんと叩くと、秋葉の方に歩み去っていった。琥珀は、ああでもないこうでもないと、秋葉に対するママチャリ五十万円の言い訳を考えて いるようだ。そんな姉を、翡翠は微妙に可笑しげな視線で見守っている。

「じゃあ、行ってくる」
「はい、お気をつけて」
 翌朝、超々高級ママチャリを押して、遠野家の玄関を出た。背後では、使用人姉妹がにこやかに見送っている。
「ここは急な下りだから、まずは押して行こうな」
 経路的には、実はここが一番危ういと分かっていたので、志貴は素直に押して下って行った。その横を、秋葉は小さなバッグを抱えて歩いている。志貴は動き やすい格好をしていたが、秋葉は『どうせお荷物でしょうし』と、いつものお嬢様らしいロングのワンピースを着ていた。自転車の買い物籠には飲み物とお昼の お弁当、そしておやつ。結局のところ、口実こそ立派ではあったが、二人揃ってのピクニックとなってしまった。二人乗りでは警察に捕まるだろうという懸念も あったが、『ちゃんともみ消しますよー』と琥珀が笑顔一杯に断言するし、街中は押して通過すればいいと秋葉も言ったので、まあ大丈夫だろうということに なった。
「それにしても、九月も下旬だってのに、暑いな」
「陽射しもかなりありますね。秋の陽射しは、高度が低いところから差してくるので、馬鹿に出来ないのだそうですよ」
 そういう秋葉は、琥珀に手伝わせて日焼け止めを目一杯刷り込み、軽そうな麦藁帽子を被っていた。色白な秋葉に、日焼けは確かに深刻な問題だろう。
 二人が歩く道は、志貴の高校への通学路に重なっている。去年、一時期だけ、秋葉もここに転校していたことがあった。思えば、あれは志貴が、秋葉の真意に 触れる切欠になったのだった。
「この道、ちょっと懐かしいですね。あの時のクラスメートは、乾先輩はお元気かしら」
 秋葉の思考も同じ方向に進んだようだ。志貴の隣で、そんな言葉を漏らした。
「みんな相変わらずだよ。有彦も大学入試に向けて、いきなり気合を入れ始めたし」
「えっ、乾先輩がですか。意外ですね。あの方、むしろさっさと社会に飛び出して行かれるものと思ってました」
「俺もそう思ってたよ。なんでも、やりたいことがあるんだってさ」
 志貴は苦笑した。
「いいな、あいつは。俺にはそんな目標なんて無いもの」
「――」
 その何気ない口調に、なにか不吉なものを感じて、秋葉は志貴の横顔をまじまじと眺めた。
「そういえば、シエル先輩にも、あれから会って無いなあ」
 秋葉の気持ちを知ってか知らずか、志貴はふと思い返したようだ。
「そうですね。正直なところ、あの人は嫌いですから、会えなくても構いません。でも、一度だけお会いしたい気持ちもあります」
「なんで秋葉は先輩を嫌うかな。でも一度だけ会いたいなんて、矛盾してるじゃないか」
「あんな、人に暗示を与えて、思い通りに動かそうとするような人、好きになれるわけがありません。でも、兄さんを助けてくださったのは事実ですから、礼儀 としてはお会いして礼を申し上げておかないと」
 志貴には、実際にはそれだけの理由では無いように思えたが、とりあえず口を噤んでおいた。

 もういいだろう、と秋葉を誘ったのは、繁華街を過ぎた辺りだった。この先、住宅街が続き、ずっと向こうの山へと続いている。一番距離がある辺りだ。
「それでは、よろしくお願いいたします」
 秋葉は頭を下げると、荷台にちょこんと腰を掛けた。お嬢様らしく横座りになって、志貴の身体に手を回している。兄に対してといえど変わりない丁寧な物腰 に、志貴は秋葉らしいと苦笑した。
「さ、しっかり捕まってなよ」
 志貴は、ペダルに体重を載せた。超高級パーツの塊は、やはり市販のファミリーサイクルとは違う。滑るようなスムーズさで進み出した。
「凄いな、これ。内装ギアなのに十四段もある」
 これだけギアがあれば、どんな坂でも余裕だろう。車体もファミリーサイクルとは異次元の軽快さと、安定性を見せている。志貴は、秋葉を振り落とさないよ うに、そっとクランクを回し続けた。
 住宅街を突っ切る車道は、緩やかに登りながら、ずっと向こうの山の麓に続いている。立派な歩道があるのだが、段差を嫌ったのと、車がほとんど通らなかっ たのとで、専ら車道を走った。ほとんど平坦ということもあり、順調に距離を稼いでいる。
「風が気持ちいいですね」
 志貴の肩越しに前を眺めながら、秋葉はそういった。本当に気持ち良さそうだ。
「サイクリングも、いいものだろう。秋葉も、たまには自転車で通学すればどうだ?」
「距離が遠すぎます。それに、自転車など淑女の乗り物ではないって、学校では禁止なんです」
「それはまた、大時代な」
 沿道の風景は、時に同じような家並みが続き、時に豪壮な邸宅があり、時に思いがけない店舗ありで、意外にも見飽きさせないものだった。
「あら、こんなところにお菓子屋さんが」
 秋葉は、そうした興味を惹くものを目ざとく見つけては、心の中でメモをつけているようだった。
「帰りに寄ろうよ」
「いいですね」
 肩越しに、秋葉の笑顔が窺える。
 進むうちに、次第に緑が増えてゆく。まだ分譲が始まった辺りらしい。公園や緑地がとても多い。あるいは、ここに緑地を残す計画なのか。
 ふと、後ろから鼻歌が聞こえてきた。なんと、秋葉が鼻歌なんて。レアな状況に、思わずビデオカメラを回したくなる志貴だった。
「この辺りは遠野の資本で開発されたんです」と、相変わらず、どこか楽しげな秋葉。
「へえ、ずいぶん儲かったんだろうな」
「それはもう。でも、本当はこの上の緑を残したいので、先手を打って都市計画を進めたというところなんですよ」
 秋葉が口にしたように、道は次第に傾斜を増し、"上"には緑に包まれた山が見えていた。
「よし、本番だな」
 志貴は、軽いギアに入れると、住宅街の最後の区画を駆け登って行った。
 やがて、道は蛇行し始める。傾斜がいっそう厳しくなる。志貴は更に軽いギアに入れると、ゆっくりと登っていった。スーパーママチャリのご利益で、まださ ほどのつらさは感じない。
「地図で説明されたときは、それほど傾斜して無いって聞いたぞ」
 さすがに頭上に続く道への傾斜にうんざりして、志貴は思わず愚痴った。
「いつもは車で来るんで、それほど大したものじゃないと思ってたんです」
 秋葉も、ちょっと言い訳がましい。
 ほどなく、道は大きな鉄門で途切れていた。『遠野家管理地』という看板が、威圧するように掲げられている。
「どうすればいいんだ?」
「ちょっと待ってくださいね」
 秋葉は荷台から降りると、バッグから取り出した鍵で、門の鍵を開けた。門を重そうに引いて開き始めたので、志貴も自転車を置いて、手伝ってやる。と、志 貴はすぐに押し留めた。
「なんですか? まだ開ききってませんよ」
「自転車だけ入れたらいいだろう?」
「あっ――」
 さすがに世慣れてないな、と苦笑しつつ、志貴は自転車を通した。
 その先は、ヘアピンカーブが続く。その割りに傾斜は緩やかだ。
「麓から徒歩で上れるように、わざと緩やかな道を敷いたのだそうです」
「歩きなら、もっときつくても、短い道の方が、良くないか?」
「兄さんは風流心が無いんだから。こんな眺めのいい道を、ゆっくりそぞろ歩きするのも、いいものなんですよ。秋には紅葉が見事で、日頃の疲れなんて吹き飛 んでしまいます」
「そうか。秋葉は、紅葉狩りは愉しみなんだな」
「宴は嫌いです。みんなお追従ばかり言って」
 秋葉の声が少し沈んだ。
「でも、宴の行き帰りの道、車から眺める山の風景は、大好きです。本当に、宴会なんて無くてもいいと思うくらい」
「なら、さ」
 志貴は苦笑混じりにいった。
「秋には、内輪だけでここに来ないか。琥珀さんに翡翠、秋葉のお友達や有彦辺りを誘ってさ」
「に、兄さんがどうしてもと仰るのなら、考えなくはありません」
 急に遠野家当主としての矜持を思い出したのか、秋葉は少し澄まして答えた。だが、その向こうに、少女らしい期待が透けて見えて、志貴は嬉しくなってし まった。
「よし、決まり。秋にはみんなで紅葉狩りだ」
「ちょ、ちょっと兄さん」
 志貴が急に増速したので、秋葉は慌ててしがみついた。
「掴まってろよ」
 志貴は力を込めてペダリングし始めると、ヘアピンカーブの連続を、どんどん上って行った。と、不意に停止する。
 志貴の肩越しに、前を見やった秋葉も、思わず唸った。前方に、何本もの倒木と、土砂崩れの跡が現れたのだ。
「これはひどい」
 自転車を降りて、思わず立ち尽くした。夏の台風と大雨で、地盤が緩み、崩壊したのだろう。
「やはり、早く来て良かったです。道の補修には、時間が掛かりそうですから」
 秋葉はバッグからカメラを取り出すと、現場を写真に収めておいた。
「でも、これ以上先には行けないですね」
 ふと、眉根を寄せて、秋葉はつぶやいた。倒木が数本、道路を完全に横断している。これを越えるのは難儀だな、と志貴は思った。
 横目に秋葉を見ると、倒木の数を数えながら、なにか考え込んでいる。決して道路修繕の手筈では無いだろうと思った。それなら、土建業者を入れることで決 まりだ。
「どうしよう? いちおう、用事は済んだけど」
「そうですね」
 そう答える秋葉の横顔には、無念の色が隠しようが無い。素直じゃないんだな、と、志貴は少し可笑しくなってきた。
「まっ、仕事は済んだんだし、後はお楽しみと行こうよ」
 志貴は自転車を肩で担ぎ上げた。
「えっ、越えちゃうんですか?」
「ああ、せっかくの軽い自転車だ。歩いて越えればいいよ」
 志貴は、倒木をさっさと越えると、あっけに取られている様子の秋葉に振り向いた。
「さっ、おいで」
 志貴が手を差し出すと、秋葉は恥じらいながら、その手を取った。
 難なく倒木を越えると、さらに上って行く。秋葉を荷台に載せて、一番軽いギアを回す。斜度が一番きつい辺りなのか、膝にストレスを感じる。それでも構わ ず、志貴はしゃにむにクランクを回し続けた。時にハンドルがふらつく。いくら秋葉が軽い女の子とはいえ、人一人乗せているのだ。思わず蛇行することもあ る。
「ああ、もう。まっすぐ走ってくださいな」
「仕方ないだろう、お前が重いんだから」
 志貴は妙に爽快な気分で答えると、とうとう立ち漕ぎを始めた。一漕ぎ一漕ぎ、坂を登ってゆく。
「兄さん、大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。秋葉の役に立てるんだから、平気だよ」
 志貴は目を上げて、いま少し続きそうな山道を、目で推し測った。自分で巻き起こす風と、山肌から吹き降ろしてくる風とが入り混じる。爽やかな涼しさに、 兄妹は、恋人たちは、思わず笑顔になる。濃い緑の匂いに包まれて、二人は山道を登っていった。どこからか、鳥の歌声が聞こえてきた。

「大丈夫ですか、兄さん」
 秋葉は、志貴を心配している。兄の頭を膝に抱えて、ハンカチで汗を丁寧に拭っている。
「ああ、もう大丈夫」
 志貴は起き上がろうとするが、秋葉が押しとどめた。
「もう大丈夫じゃないでしょう? 貧血で倒れるまで頑張るなんて、調子に乗りすぎです」
 志貴の身体がよほど心配なのだろう、秋葉はお冠だ。
 志貴は、山の中腹にある宴の会場まで、秋葉を乗せたままひた走ってきた。志貴の息が上がっているのに気づいた秋葉は、『兄さん、もっとゆっくり』と、減 速を促したのだが、志貴は構わず走ってきてしまった。結果、到着した途端、息が切れて失神してしまったのだった。
「兄さんは身体が弱いのだから、もっとご自分を労わっていただかなければ困ります」
「身体が弱いんだから、ふつうに生きてても、こうなることもあるんだよ」
「兄さん」
 秋葉は、志貴を睨んでいる。
「どうしてこんな事を?」
「――」
 問われて、初めてまじめな顔になると、志貴はしばし、己の心の内を覗き込んでいる風だった。
「他にやりたいことが見つからなかったから、なんて仰いませんよね」
 秋葉にずばりといわれ、志貴は少し顔をしかめた。やはり、秋葉は鋭い。
「はっきりいうね。でもなあ、その通りなんだよな」
 身を起こすと、なにか悲しげな顔で見ている秋葉に、ちょっと情けなさそうな笑みを向けた。
「ないんだよなあ。この先、俺がやりたいことなんて。有彦のようにやりたいことを見つけたり作ったりするなんて、俺には出来ないんだ。自分の先行きに期待 が持てないってのもあるけどさ」
「――」
 秋葉は、少し悲しげな顔になった。志貴の余命が短いだろうとは、彼女も考えないでも無かった。ある程度の覚悟も出来ている。でも、こんなにはっきりいわ れると、やはり悲しくなってしまう。
「いやさ、別にさっさと死にたいと思ってるわけじゃないよ。みんなのために、出来るだけ長生きしたいと思ってる。でも、それだけってのが、少し悲しいんだ よね。だからせめてさ、秋葉の役に立つことくらい、一生懸命にやってやりたいと思ってね」
 それだけいうと、志貴は意外に機嫌よさそうに立ち上がった。
「ほら、おなか空いたろう。お昼にしよう」
 秋葉は少し困惑しながらも、兄の手を取って、立ち上がった。
 ここは宴が開かれる場所。道路寄りは綺麗に整地されて、車が何十台も停められそうな広場になっている。その向こうには舗装された広場と、いくつかの東屋 が置かれていた。雨への配慮らしい。東屋は崖の突端に散らばっていたが、崖下にちらりと見える金網やコンクリート打ちの跡からすると、さりげなく崖の補強 が行われているようだ。梅雨明けに清掃業者を入れたとかで、意外にこざっぱりと片付いている。ここは清掃業者に委託するだけでいいだろう。
 二人は、東屋の一つに腰を落ち着けた。
「いい眺めだなあ」
 目の前に広がる風景に、志貴は思わず歓声を上げた。眼下には、今上ってきた山肌が拡がり、緑の中をうねる車道が見え隠れしている。その向こうには三咲の 全容が広がっている。なだらかな傾斜に張り付くようにして住宅街が広がり、その向こうには市街地が。市街地は鉄道の黒い線ではっきり分けられていて、視界 の端には新街区の超高層ビルが見えていた。
 ずっと向こうに、遠野家の屋敷が見えないかと目を凝らしていた志貴に、秋葉は「兄さん、どうぞ」とカップを差し出した。こんな場所でも陶器のカップに紅 茶とは。遠野家のお嬢様のこだわりは違う。
「ああ、ありがとう」
 琥珀が作ってくれたサンドイッチを食べると、ポットのお茶が尽きるまで、たわいの無い雑談に耽った。目の前には気持ちのいい景色、そして傍らには愛する 人。のんびりした、気持ちのいい時間が過ぎてゆく。
「そういえば、この向こうの山まで、ずっと遠野の所有なんだな」と、後ろを振り向き、連なる山並みを見返しながら、志貴は言った。いくら名も無い山とはい え、こんなに広い土地を所有するなんて。志貴は、とんでもない一族だと思った。
「はい。税金もたっぷり払ってますし、ご覧のように道路まで引いて維持してますから。ずいぶん無駄なことをしてますね」と、秋葉はクスリと笑った。
「でもね、こうしてこの山を所有しているのには、理由があるんです」
 秋葉は立ち上がると、背後の山の方へと歩いていった。志貴が付いてゆくと、秋葉は広場の端へと導いていった。ちょうどこの山の峠を越した辺りで、すぐ横 を車道が走り、下ってゆくのが見えた。前方には、この山と、背後の山とに挟まれた盆地が見えている。そこに、ポツンと建物が立っているのが望見できた。大 きな日本建築のようだ。この辺りが遠野家の所有物ということは、この眺めは一般の者には目にすることが出来ないということだ。あの建物も、遠野家の物なの だろう。
「昔、遠野はこの盆地に居を構えていたといいます。まだ江戸に幕府が成立する以前の事だったそうです。実際、大昔の屋敷の跡や、田圃の痕跡が残っているそ うです」
 秋葉は、少し悲しげに志貴の方を振り返った。
「そしてここが隔離されているのは、ここが遠野の者の終焉の地とされているからです」
「――!」
 衝撃に、志貴は我知らず足を踏み出していた。眼下には、平和な盆地の風景が広がっている。だというのに、ここが不吉な"終焉の地"などとは。
「遠野の者は、誰もが反転してしまう危険性を孕んでいます。遠野の血を引く限り、誰もがこの運命を免れ得ません。そして血が濃いほど、反転の確率は高まり ます。恐らく、私も、最終的には――」
 少しくぐもった声でつぶやくと、ふと我に返ったように顔を上げ、続けた。
「兄さん。あなたは自分の未来に期待できないと仰いましたが、私だってそうです。一度目覚めた遠野の血は、再び目覚める日を待ちわびてざわめいています。 いつかはまた、自分というものを失ってしまうでしょう。その時、私はこの地に封じられるのです。あの建物は、血に目覚めた遠野の者を隔離し、かつ保護する ためのものなのです。今は誰もいませんが、次に主となる可能性が高いのは、私です」
 二人は、憂鬱そうな視線を通わせた。
「この地は、古い遠野の記憶を宿しているからでしょうか、反転したものを封じる魔力を持っているそうです。代々の遠野家当主は、出来る限り穏やかに終わり たいと念じながら、この地に自らを封じてきたといいます。お父様だって、私が独り立ち出来たら、ここに居を移すおつもりだったでしょう。ここに逼塞して、 穏やかに終わってゆくことが、遠野家当主に残された最後の希望なのです」
「――」
 志貴は絶句した。こうして淡々と語り続ける秋葉に、秋葉らしい強さを感じた。でも、なんて悲しい強さなんだろうと思った。秋葉は日常を演じながらも、や がて確実にやってくる終わりを見つめ、せめて穏やかに終われるようにと願っていたのだ。まだ少女の秋葉が。胸が潰れる思いだった。
「だからね。私たちは似た者同士なんですよ。私にだって、将来本当にやりたいことがあるわけじゃありません。そんなに長く生きられるとも思えません。兄さ ん、私だって、やがて終わってゆくんです。終わりを見つめながら生きてゆくのは、切ないですけど――」
「馬鹿――」
 不意に、志貴は歩み寄ると、秋葉を抱きしめた。
「馬鹿、秋葉にはそんなこと言わせないぞ」
「でも兄さん。これは運命なんです」
「いいや、そんなこと言わせない」
 志貴ははっきり断言すると、秋葉の顔を覗きこんだ。
「お前には俺がいる。俺が、そんな生き方を許さない。お前は俺と一緒に幸せに生きるんだ。幸せな人生を過ごすんだよ」
「兄さん、でも、運命は変えられないわ――」
「なにが運命なものか。たとえそうであっても、俺が必ず救い出してやる」
 不意に何かを決意したのか、志貴は笑った。
「決めた! 俺がやりたいことは、お前と長生きすることだ。子供もたくさん作るぞ。絶対、お前を反転させてなんかやるものか。毎日が楽しくて、反転する暇 なんて無いようにしてやるんだからな」
「そ、そんなの――」
「無理? いいや、きっとその道はあるさ。俺はお前を一度は助けることが出来ただろう? ならもう一度だって出来るさ。何度だってやってやる。もういい よって時まで、お前を何度でも助けてやるんだから」
 志貴は、絶句している秋葉の顔を、悪戯っぽい目で見つめた。
「信じられないか? 秋葉は自分の兄貴を、いや恋人を信じられないのか? あーあ、俺はお前のことをこんなに愛しているのに、秋葉は薄情なんだな」
 志貴は大げさな身振りで、そういって見せた。秋葉はようやくクスリと笑った。
「もう――兄さんの馬鹿。こんな時だけお調子者なのね。私だって信じちゃいますよ? 頭の悪い兄さんが、私の未来を創る手段を見つけてくれるなんて」
「俺の頭が悪くても、琥珀さんも翡翠も、秋葉のお友達だって居るだろう? 秋葉は独りで抱え込みすぎてるんだよ」
 志貴は、秋葉の手を取った。
「ああ、ごめんよ。俺だってそうかもな。寿命がどうのなんていっても、未来のことは本当には分かんないんだ。それに、俺にだって秋葉が居る」
「そうですよ、兄さん。だいたい、私が生きている限り、兄さんの寿命が来るなんてありえません。私たちは、一つの命を分け合ってるんですから」
 志貴の手の中には、秋葉の華奢な手がある。この手の中の暖かさを守るためなら、どんなものにだって立ち向かって行けると思った。絶対、幸せにするんだか らな、と、志貴はもう一度、心の中で決意した。
「さあ、せっかくだから、あの別荘も見ておこうか。封じるなんていわないでさ、気持ちのいい保養地として使おうよ」
「兄さんは、本当に気楽なものですね。なにが寿命を悟ってらっしゃるものですか」
 二人は軽口を交わすと、自転車の方に戻っていった。志貴は、自転車に跨ると、荷台に乗った秋葉を振り向き、ニッと翳りの無い笑みを交わした。そして二人 は坂を下り始めると、誰もいない盆地の探検に向かったのだった。
 空のお日様は、まだ高い。今日も過ごしやすい日になるだろう。

<了>

TOP / Novels