La Campanella 〜鐘〜

5.終末と解放と

 遠野の家は大きくなってゆく。
 十年ちょっと前には、お父様が亡くなり、お兄様も消え、私一人きりになった。私で最後、私でお終いなのかなと思っていた。特に、兄さんが翡翠を選んでしまった後では。誰か他の殿方を愛する事など、私にはできそうに無かった。私は一人で生き、そして死んでゆくのだと信じていた。
 ところが、今はどうだろう。私は一族の手綱をしっかり握り、事業を着実に拡大している。かつては密かに危ぶんでいたらしい斗波も、今では私の右腕として喜んで動いている。私は一族の者それぞれに課題を与え、モチベーションを維持できるように気を配っていた。もう、魔の血を引いた者だからと、世間と没交渉を続けていい時代ではない。慎重に、常人の世に浸透してゆかなければならない。孤立を続ければ、いつかは誰にも手を差し伸べられることもなく、消えるだけだ。そう、あの七夜や巫浄といった退魔の一族のように。
 家族も増えている。幹也さんと私との間には、既に三人の子供が出来ていた。長男の春樹は元気な盛りで、もうじき小学生だ。元気な男の子が一人居るだけで、家の雰囲気がこうも変わるものかと驚いている。まるで牢獄のようだった屋敷は、子供たちの遊び場と化している。そう、かつて兄さんとお兄様、翡翠に私が遊びまわっていた頃のように。
 長女の夏美はおっとりした女の子で、いつも陽だまりで機嫌よさそうに遊んでいる。春樹は夏美を構うのが好きみたい。なにか夏美が困っているなと思ったら、いつの間にか春樹が現れて、夏美を助けてあげていたりする。
 使用人たちは、みんな若い娘たちだからかしら、子供たちと遊ぶのが大好きだ。かつて、私とお兄様に傅いていた使用人たちと違い、小さな子供たちに愛情を持って接してくれる使用人たちを、私はとても大切に思っている。なかんずく、自分の子供のように愛してくれる、翡翠のことを。
 こんな光に溢れた家庭に、この春、また一人家族が加わった。次女の冬乃だ。まだ幼い彼女は、子供部屋のゆりかごの中で、すやすやと眠っていることだろう。子供たちの名前は、これで私を含めて、季節を一巡した事になる。次は季節にちなんだ鳥や花の名前にしよう、などと幹也さんと話していた。
 休日は大変だ。私と幹也さんの友人、家族が遊びに押し寄せてくるからだ。義妹となった鮮花、そして相変わらず伽藍の洞で雑事を引き受けている藤乃は、やはり子供たちと遊ぶのが大好きだ。特に春樹は、きれいなお姉さんたちになついている。もっとも、一度春樹が鮮花のことを『魔法を使える面白いおばちゃん』などと呼んでしまったときには、大変な剣幕で怒られたそうだけど。
 蒼香と羽居も、子供たち目当てで足を運んでくる。この二人、いまだにマンションに同居しているんだけど、一生結婚しないつもりかしら。
 そうそう、一度、幹也さんが口をあんぐり開けるほど驚いた事件があった。それは、両儀式が、子供を連れて遊びに来たこと。事前のアポイントも無しの奇襲だったので、これにはすっかりやられてしまった。両儀さんは、自分の子も含めて仲良く遊んでいる子供たちを、目を細めて見ていたものだ。そんな両儀さんを、幹也さんはなにか納得しかねるような顔で見ていた。私はこういったものだ。『ねえ、幹也さん。両儀さんだって生きてるんだから、星座が動いてゆくように、いつかは変わってゆくものなんですよ』と。
 太陽の下で遊ぶ子供たち、そして私たち大人たちだって変わってゆく。全ての変化が善きものではないにしても、方向に間違いはないだろう。私たちは、望ましい方向に進んでいるのだ。
 だからこそ、余計に悲しい。この世界から、私の一番大切な人が、静かに去ってゆこうとしていることが。

 窓から、秋色の森を眺めていた。日に日に昼は短くなり、夕暮れ時の訪れも早まってゆく。足早に冬が近づいていた。
 私は、執務机の上に書類を投げ出した。大きく息を吐きながら、レザーシートに背を預ける。会社から持ち帰った書類に、目を通すくらいはしようと思っていたのだけど、まるで身が入らない。
 しばらく、天井を眺めながら、心に凝り固まっているものを意識した。それは恐怖、焦燥、そして諦念だ。この一年の間、いよいよ衰えて行く兄さんを見守りながら、私がどうにも出来ないで溜め込んできたものたちだった。兄さんは遂に死に至ろうとしている。そのことが、私には分かりすぎるほどに分かった。
 冬乃を生むまでの間、私たちは打てるだけの手を打っておいた。翡翠を家事雑事から外し、完全に兄さんの看病に専任させた。さらに七夜にも応援を頼んだ。二人は姉妹だけに、二人で居ればその力がより強まるらしい。七夜にも家庭があるのだけれど、他ならぬ兄さんのためなのだからと、毎日遠くから通ってくれた。また時南先生にもサポートを依頼し、万全の態勢で臨んだのだった。
 冬乃の臨月が近づくに連れ、兄さんへの影響は顕著になっていった。ベッドから離れるどころか、意識が混濁する日が増え、遂には昏睡状態にすら陥ったのだ。この身と我が子を守るため、私の身体が兄さんへの命の流れを絞ったのだ。しかし、私自身も兄さんへの配分を優先しようとしたのだろう、兄さんの危機を意識し始めた頃から徐々に体力を落とし、体調を崩していった。このままでは、お腹の子供にも差しさわりがあるのではというくらいに。私たちは、危うく共倒れになるところだったのだ。
 でも、幹也さんの献身、そして枕元で励まし続けてくれた子供たち、使用人たち、そして友人たちの声が、私を救った。無事に冬乃を出産し、私は危地を脱したのだ。
 兄さんも、冬乃の出産を機に、辛うじて回復へと向かっていった。でもそれも束の間のことだった。なんとか意識は取り戻したものの、もはやベッドから起き上がる力はなく、夏が深まるに連れて、また体力を落としていった。この秋まではなんとかもってくれた。でも、今や昏睡している時間の方が長いくらいだ。兄さんの命は、もうじき尽きるのだろう。そのことが、私には悲しいくらい分かってしまうのだ。
 目元の涙を拭った。兄さんのことを思って、こうして涙に暮れる日が続いている。兄さんに出会ってから、もう二十年が経っている。兄さんを呼び戻してからも、十数年が過ぎようとしている。
 兄さんは幸せだったのかしら。そう考え込んでしまう。兄さんが遠野の一族に加えられなければ、そして私が呼び戻さなければ、平凡な人生が待っていたはず。穏やかに生きるのを望んでいた兄さんには、そっちの方が良かったかもしれないのだ。なのに、私は。
「秋葉」
 不意に呼びかけられて、私は慌てて涙を拭いながら、顔を上げた。いつの間に幹也さんがやってきていた。きっと、何度もノックして、声を掛けて、それでも私が出ないから、というところなのだろう。それくらい、私は我を失っていたようだ。
「み、幹也さん、なにか御用?」
 私が取り繕おうとするのを見て、幹也さんは優しい笑みを浮かべた。
「僕に涙を隠す必要なんかないよ」と、幹也さんは歩み寄って、私を抱いてくれた。その胸の温かさに、また涙が滲んでくる。
「わかってるさ、秋葉がどんな気持ちかなんて。志貴君は、秋葉の唯一の肉親なんだものな」
 幹也さんは、兄さんが七夜という別の血族の人間であることも知っている。それにもかかわらず、兄さんが私の“肉親”である理由も知っている。
 その胸で、私は澱を流すように、涙に暮れた。兄さんの終わりを、ひしひしと感じながら。

「奥様、お客様がお見えです」
 使用人の娘に声を掛けられたのは、夕暮れ時のことだった。さっき、時南先生は検診を終え、『恐らく、今夜がヤマだろう』と告げて帰っていった。今、兄さんを看ているのは、翡翠、七夜と朱鷺絵さんだった。時南先生も、すぐに取って返してくるという。ヤマとはいうけれど、越えることは出来ないだろう。そんな考えがありありと窺える、時南先生の老いた顔だった。
 兄さんが逝ってしまう。それがどうしようもなく理解できて、同時に胸に湧き上がった、とある危険な考えに悩まされてもいた。そんなところに来客だ。追い返せと告げようとした。しかし、可愛らしい三つ編みの使用人は、申し訳無さそうにこう続けた。
「お客様は、シエル様とおっしゃる外国の方のようなのですが」
 シエル。その名が久しぶりに脳裏に蘇った。兄さんを危険な目に遭わせ、しかし結局は手助けしてくれた人。なにか謎めいた組織が背後にいることを察した私は、一族の者に調査を命じたことがある。浮かび上がったのは、埋葬機関という、ローマンカソリックの狂信者たちが設立した退魔組織だった。シエルとの接触は、琥珀が七夜になったあの事件を機に絶えた。だから、私もそれ以上は追及せず、捨て置いたのだけれど。
「分かりました。私の部屋にお通しして」
 居間には、兄さんの最期を看取るために、友人知人が集まり始めている。初対面だが、私室に招かざるを得ない。
 自分の部屋に戻り、彼女の目的に推測を廻らせていると、控えめなノックがあった。どうぞ、と使用人が通したのは、確かに白人らしき外国人の女性だった。その女性は、待ち構える私の前に立つと、ぺこりとお辞儀をくれた。
「シエルです。秋葉さんとは初対面でしたね」
「そうですね。兄が御世話になったそうで」
 シエルに椅子を勧めると、つつましく腰を下ろした。私たちは、互いの出方を窺うように、じっと見詰め合った。その時になって気づいたのが、シエルの異様な若さだった。この容貌は二十代、三十代のそれではない。明らかに十代の娘のそれだ。まるで時の流れに取り残されたような人物だった。
 シエルは、ふっと微笑んだ。
「なるほど。遠野くんが散々自慢するのも分かりますね。秋葉さんは、とても優雅で高貴な方なんですね」
「ありがとうございます。ところで当家はただいま少々取り込んでおりまして、あまり時間を取れそうにありません。ご用件は?」
 そんなお世辞に付き合うつもりはないし、退魔機関の者が人並み外れていたからとてどうでもいいことだ。少し突き放すように言ってみる。
「そうでしたね。では用件に入りましょう。単刀直入にいって、遠野くんを助けたいとは思いませんか?」
 きっと兄さんに関する用件だろうとは睨んでいたのだけれど、この直截な物言いが心に突き刺さった。
「兄さんを、助けたいかですって?」と、声に怒気がこもってしまう。
「失礼。助けたいに決まってますね。秋葉さんにとっては、遠野くんはかけがえのない人なのですから」
 シエルは、まるで私の心を見透かすように続ける。足元を見られていると分かっているのに、私はシエルの言葉に耳を傾けてしまった。長い歴史を持つ埋葬機関には、なにか想像を絶する秘儀が伝わっているのかもしれない。
「もしも遠野くんがその気になってくれるのなら、今の危機を乗り越える手助けが出来ると思います。秋葉さん、私を遠野くんの部屋に通してください」
 シエルの目が、私をじっと見つめている。まるで懇願するように、いかにも誠実そうに。だけど。
 だけど、信用できない。
 埋葬機関は、死徒と呼ばれる危険な吸血鬼を排撃するためには、手段を選ばない連中だという。時として、有能な一般人を餌に使うことすらも。ならば、兄さんがそうならないとは限らない。兄さんをそんなものに巻き込むわけには行かない。断るべきだった。
 でも、兄さんには時間がない。手を拱いていれば、兄さんは明日の朝を迎えることが出来ないだろう。その事は、もう覚悟しているはずだった。だというのに、この期に及んで最後の可能性が提示されたのだ。
「どんな手助けが出来るというのですか」と、私はシエルの誘いに乗ってみた。
「それは言えません。ただ、遠野くんに死を迎える以外の道があることを教えてあげたいのです。その為に、遠野くんは沢山のものを捨てなければなりません。でもその選択を、遠野くんに委ねたいのです」
 私はシエルに背を向けると、窓から見える裏庭の光景にじっと目を注いだ。私たちの家族で一緒にランチを楽しんだテーブル。綺麗に磨き上げられた白いそれが、夕陽を受けて赤く燃えている。このテーブルを、兄さんと共に囲む日は、二度と来ないのだ。このままならば。
「わかりました」
 熟慮の末、しかし何一つ考えがまとまらなかった私は、半ば衝動的に答えていた。
「兄さんの部屋にお通しします」
「ありがとうございます」
 私は、とんでもない決断をしてしまったのではないかと、密かに後悔していた。

 翡翠と朱鷺恵さんを説得して、兄さんとの面会のためにシエルを通し、二人きりにした。十分だけ、という約束だった。幸い、兄さんは目を覚ましていた。
「久しぶりだね、先輩」
 ベッドの中から、兄さんは懐かしそうに、シエルに声を掛けた。
「ええ、遠野くんは、ちょっとスリムになりすぎましたね」
 そこに、久しぶりの、そして最後になるかもしれない邂逅のニュアンスを見た私は、黙って部屋を出た。
「秋葉様、あの方は」
 翡翠は戸惑っていた。最愛の人が最期を迎えようというときに、いきなり見知らぬ第三者が割り込んできたのだ。戸惑いもするだろう。
「あの人は、昔の騒動で、兄さんをなにかと助けてくれた人です。そうね、魔術師とか心霊術師とかいった類の人といえばいいかしら。兄さんを助ける最後のチャンスを持ってきてくれたというの」
「そんなこと、信じていいの、秋葉ちゃん?」
 傍に立っている朱鷺恵さんは、いかにも胡散臭げだったけど、翡翠は違った。兄さんを助けることが出来るのなら、どんなか細い藁にでもすがりたい。そんな思い詰めた顔だった。
「わかりません。でも、あの人がそのような術を使えるということ自体は事実らしいです。古くから西洋には吸血鬼を退治する機関があって、その構成員は超常的な秘術を身に着けているみたい。その中には、死に瀕した者を回復させたり、さらには不死にしたりするものもあると聞きました」
「それらしい話はお父さんから聞いたわ。私がいいたいのはそうじゃないの。あの人を信用できるかどうかなのよ」
 私はぐっと詰まった。それは確かに即答できない問題だ。私はシエルという人を良くは知らない。ただその出自がどうで、なにをしているか、そんな概略程度しか知らないのだ。
「私には判断できません。でもあのシエルという人を、兄さんはとても信用していたわ。昔、兄さんが危険な目にあった時、何度も手助けしてくれた人らしいです。兄さんが信用しているのなら、私も信用するだけです」
 結局、そう逃げざるを得なかった。案の定、朱鷺恵さんは納得しがたい顔になった。
「秋葉様、朱鷺恵様。わたしはシエル様を信じようと思います」
 珍しくも、翡翠が話に割り込んできた。
「シエル様のことは、志貴様から何度か昔話として窺いました。志貴様の口ぶりからは、シエル様への感謝と信頼が窺えました。志貴様がそうなのだから、わたしも信用するだけです。それに」
 翡翠は、どこかに目を投げ上げた。
「それに、このままでは志貴様には明日がありません。きっと、明日の夜明けを迎えることも出来ないでしょう。わたしは、志貴様が生きていてくださるのなら、たとえどのような姿になっても、この世のどこにいらしても――」
 そこで翡翠は、声を詰まらせ、俯いた。朱鷺恵さんがその細かく震える肩を抱いて、励ます。
 私は、兄さんの部屋のドアを、黙って見つめた。その中でどんな会話が交わされているのだろう。この日にシエルがやってきたという符合ぶりに、私は胸騒ぎを抑え切れなかった。
 もしかしたら、シエルは兄さんをどこかに連れてゆくつもりなのかもしれない。そうでなくても、兄さんが兄さんでなくなるようなことをするのかもしれない。埋葬機関という組織には、それくらい酷薄な評判が付きまとっている。
 それでも、と思う。翡翠の思いは、私の思いでもある。兄さんが生きていてくれるのなら、たとえここで生き別れになってもいい。どこかで兄さんが生きていてくれるのなら、私はそれだけで嬉しい。
 だけど、それでも湧き上がる危険な思い。それは、兄さんは私のモノだ、誰の物でもないのだ、という思いだった。心の中に激しい波が渦巻いている。

 煮え切らない思いを抱えたまま、私室で待っていた。ノックがあり、応え、顔を上げると、疲れた顔のシエルと目が合った。
「兄さんとのお話は終わりましたか?」
 用心深く、シエルの出方を窺う。
「はい。わたしの言いたいことは伝え、遠野くんからはっきりとした答えももらいました」
 私は、シエルをソファーへと導いた。紅茶を勧めると、シエルは一口、口をつけた。ほっと息を吐いた。
「美味しいですね。わたしの日常では、こんなにゆったりとお茶を味わうことなんて、滅多にないですから」
 シエルはティーカップをソーサーの上にそっと置くと、その目を私の背後へと向けた。そこからは、窓を通し、赤く色づいた裏庭が見えていることだろう。
「秋葉さんはご存知でしょうが、わたしは埋葬機関という組織に身を置いています。わたしたちが死徒と呼んでいる危険な吸血鬼を狩り出し、抹殺するのが役目です。ま、3Kも極まった職場ですね」
 シエルは、私に目を戻し、少し疲れた笑みを浮かべた。
「そんな組織なんですが、長い歴史があり、また魔術と心霊に関する知識が蓄積されています。その中には、人の寿命を延すものも。また方法は特殊ですが、人間を不死とする能力を持つ存在も知っています。今日、遠野くんと面会したのは、遠野くんにそのいくつかの秘法を受け入れる取引を持ちかけるためでした」
 そこまでは予想がついた。問題はその先だ。
「取引とおっしゃいましたね。では兄さんに、なにを求めたのですか」
「はい。二つの道を示しました。一つはわたしたちの一員となること。その代わりに、延命の秘術をいくつか施す許可を得られます。正直、秋葉さんたちとの縁は薄くなりますが、この先十年ほどは延命できるでしょう」
 十年の代わりに、わたしたちと縁が薄くなる。その意味は、なんとなく分かる気がする。十年の年月の代わりに、埋葬機関の道具として使い潰されてしまうのだろう。きっと、私たちのことなど、省みる余裕は無くなるに違いない。それでも、兄さんがどこかで生きていてくれるというのなら、悪くはないと考えてしまう。
「もう一つは、とある不死の存在の僕となることです。僕となる運命を受け入れることで、遠野くんもまた、事実上不死の存在となります。そいつは、この世に敵などない最強の存在ですが、それでもその責務を果たすために、遠野くんの能力に興味を持っています。またいつか、自分の中に潜む邪悪な衝動に耐え切れなくなる日を予期し、恐れてもいます。その時、その衝動を凌ぐため、また凌げないときには自分を終わらせるため、自分を終わらせることが出来る僕を求めているのです」
 なにか、夢物語のような話だ。そこに兄さんがはめ込まれるなど、想像もつかない。
「実は、後者に関しては、わたしの上司が乗り気なのです。誰かが猫の首に鈴をつけなければならない、と。ただし、もしも遠野くんが僕となれば、過去の事は全て、秋葉さんの事すらも忘れてしまうでしょう」
 シエルは陰のある、それでも安堵したような笑みを、私に向けた。
「もうお分かりでしょうが、遠野くんはどちらの道も拒否しました。遠野志貴は、ここで終わるのが正しいのだと」
「どうして?」
 答えは分かりきっているはずなのに、思わずそう問い返してしまう。
「『もしも秋葉や翡翠のことを忘れてしまうのなら、それは遠野志貴じゃない。そんな遠野志貴に生き永らえる意味はない。ここでみんなの前で終わるのが正解なんだ』と」
「――」
 咄嗟に俯いて、こらえようとしたけれど、駄目だった。目頭が熱くなってゆく。頬を涙が伝うのを感じた。
 馬鹿な兄さん。たとえ私たちのことを忘れてしまったのだとしても、私は兄さんが生きていてくれるのなら嬉しい。でも兄さんの方は、私たちを忘れてしまった自分などに意味はないというのだ。兄さんらしかった。兄さんは、最後の最後まで兄さんなのだ。奇跡のような目を持ち、古い暗殺者の血を引いていて、世界を動かす力の側に居ても、遠野志貴は遠野秋葉の兄であり、翡翠の恋人であり、そしてみんなが知っている遠野志貴なのだ。
「うらやましいですね、ここまで大切に思い、思われるなんて」
 どこかに目をやりながらつぶやくシエルの言葉には、諦念と自嘲、そしてわずかな皮肉があった。
「たとえ神聖な力で守られ、最強の存在に等しくなれる道があるのだとしても、遠野くんはみんなの隣にいる道を選んだのですね。わたしや奴には、そんな道などありませんでした。ひたすら、羨ましいですね」
 涙を堪え、肩を震わせる私の膝に、シエルの手がただ一度、ぽんと置かれた。

 日が暮れる頃、兄さんの友人知人が続々と詰め掛けてきた。居間だけでは足りず、隣接している客間も開放する。使用人たちが忙しく立ち回っている。しかし兄さんは、シエルとの面会後、ふたたび深い眠りに就いていた。時南先生が診ている。
 兄さんの部屋の前でやきもきしながら待っていると、いつの間にか使用人たちがやってきていた。私の顔を覗き込みながら、カップを捧げ持ってる。
「なに?」
「お飲みください。奥様は、お昼からお茶しか口にされていません」
 こんな時に、とばかりにムッときた。でも、その強い口調に私への篤い気遣いが感じられて、素直に受け取った。横で、翡翠もまたカップを押し付けられていた。中は乳のように滑らかなコーンスープだった。さっくり軽いクルトンが、また食欲をそそる。美味しかったので、立ったまま啜るという無作法をやってしまった。
「もう一杯、いただける?」
 思わず所望すると、ハイ、と笑みを浮かべて、ポットからスープを注いでくれた。それもゆっくり飲み干すと、今まで感じられなかった空腹と、同時にそれが癒されてゆくのも感じた。
「ありがとう」
 礼を言いながらカップを返す。
「奥様、志貴様は大丈夫ですよね?」
 私が落ち着くと、今度は使用人たちが落ち着かない様子になった。一瞬、なんと答えようかと思ったけれど、取繕うのはもう無理だと思った。第一、こんなに親身になってくれる使用人たちに対し、それは不誠実な態度に思えた。
「残念だけど、九分九厘、兄さんは明日の夜明けを迎えられないでしょう」
 そう答えると、使用人たちの顔に悲しみの色が広がった。
「仕方ないのです。打てる手は全て打ちました。これが兄さんの寿命なのです。後は、奇跡を待つしかありません」
 奇跡などありえないと知っている。ありえないからこその奇跡なのだ。それでも、私はそう口にせざるを得なかった。それ以外にすがりつくものなど無かったから。でも、使用人たちの拠り所となるのは私しかない。私は、強いて心を抑え付けると、使用人たち、なかんずく翡翠にいった。
「兄さんの安らかな最期を願ってあげてください。今まで兄さんのことを慕ってくれてありがとう。でもとうとう幕引きの時が来たのです。せめて、あの人が安心して逝けるよう、祈ってあげてください」
 はい、とそれぞれに小さな声で答えがあり、やがて静かな啜り泣き声がそこここから上がり始めた。翡翠も、目に涙を一杯に溜めて、しかしぐっとこらえている。
 私は、きっと最後になるだろう診察が行われている、兄さんのドアの向こうに思いを廻らせた。兄さんは、このまま目覚めずに逝くのだろうか。せめて、せめてもう一度、言葉を交わしたい。兄さんと出会ってからの日々、私がどんなに幸せだったか、どんなに毎日が充実していたか、教えてあげたかった。私を女として見てくれなかったにせよ、私は遠野志貴の妹として、この上なく愛されてきた。その感謝を伝えたかった。
「志貴様」
 ドアを見つめながら、翡翠が小さくつぶやいた。そこに込められているのは、主への想いというより、恋人への情愛。
 翡翠を横目で眺めながら、私の心の中には新しくて古い情念が、大波となってうねっていた。もう克服し、乗り越えたはずの嫉妬が。そして私は、それを決心する自分を、どこか遠くに見ていた。

 やがて、時南先生に、部屋へと招き入れられた。兄さんは、見たところ変わりはない。相も変わらず、死んだように安らかな眠り。このまま涅槃へと旅立ってゆきそうに思えて。
「先生、兄さんは」
 翡翠を横に、時南先生に問いかける。
 時南先生は、なんというべきか迷ったのだろう、一時口を噤んだ。が、やがて思い直したように口を開いた。
「もしもまだ呼んでおらぬ友人、知人がおるのなら、今のうちに知らせるがいい。小僧は、確実に夜明けを迎えられまい。もう、鼓動が止まりかけておる」
 横で、翡翠が息を呑んだのがわかった。でも私は、もう落ち着いていた。
「そうですか。既に兄さんのご友人にはあらかたお知らせしてあります。お気遣い、ありがとうございます」
「そうか。最期はせめて、皆で見送ってやるがいい」
 時南先生は、兄さんの寝顔をじっと見つめていたが、やがて肩を落とし、病室から出て行った。老いの影がはっきりと分かる、その痩せた肩だった。
「さようなら、志貴くん」
 最後に、というのだろうか、朱鷺恵さんは兄さんの髪を丁寧に整えると、私たちに一礼して出て行った。臨終の瞬間まで、居間で控えていてくれるのだという。
 部屋に、私と翡翠、そして兄さんだけが残されている。
 私は、兄さんの寝顔をじっと見つめた。
「志貴様、せめて、せめて最後にもう一言だけでも」
 目に一杯の涙を浮かべて、翡翠が悲痛な声でつぶやいた。このままならば、それさえも叶わないのは明らかだ。兄さんは、このまま眠りの中で死を迎えるだろう。このままならば。
「翡翠」
 私は、翡翠に背を向けたまま呼びかけた。
「はい」
 少し怪訝そうに、翡翠は応えた。きっと、なぜ兄さんのご友人や親族を、この部屋へと通さないのかと思っているのだろう。みんなの中で死を迎える方が、兄さんらしいはずなのだから。
 私は、さっきあることを決意していた。いいえ、ずっと前、兄さんに死の影を見つけた時、漠然と考えてきて、そして次第に固まってきた決意だ。でも、それを口にするのにはためらいがあった。だって、それは翡翠にとって、あまりにひどい仕打ちなのだから。
「秋葉様」
 なにかを促すような翡翠の声が、私の最後のためらいを突き崩した。
「翡翠」
 私の声は、とても固かったろう。
「翡翠、部屋から出てゆきなさい。兄さんの最期は、私一人で看取ります」
 翡翠が、はっと息を呑んだのがわかった。きっと私を詰るに違いない。そう覚悟していた。
 しかし。
「はい。では、失礼いたします」
 やがて、翡翠は低い声で答えると、重い足取りでドアへと向かった。従順な態度。でもその寡黙さが、私の罪の意識を揺さぶった。
「怒らないの?」
 翡翠に背を向けたままそう口にしていた。それはきっと、私の弱さ。
 ノブに手を掛けたままなのだろう。翡翠は一時、なにか考え事をしている風だった。微かな衣擦れの音。こちらを振り向いたのだろう。
「秋葉様、私は志貴様に愛していただけました。志貴様が女として愛してくださったのは、私だけです」
 翡翠は、静かに語り続ける。頑なな私の背中に。
「でもそれは、志貴様が生きていらしたからこそ。志貴様の命を支えてこられたのは、秋葉様です。志貴様に仮初の生を与えてくださったのは、秋葉様です。わたしは幸せでした。志貴様に女として十二分に愛されてきたと思います。でもそれは、秋葉様が志貴様に時を与えてくださったおかげなのです。たとえ女として志貴様の想いを背負ったのが私だとしても、志貴様という人間を支えてきたのは秋葉様。そして志貴様を人としてもっとも必要とし、またされてきたのも秋葉様です。志貴様の最期を看取るのは、秋葉様以外にございません。志貴様という人の存在を担うのも、また秋葉様において他にありえません。どうか、志貴様の安らかな最期を見守って差し上げてください」
 背後で翡翠が一礼し、そしてドアが開かれ、また閉じられた。ドアの向こうから、かすかな嗚咽が聞こえた気がした。
 私はドアを振り向くと、しばし、まじまじと眺めた。それから我に返ると、ドアの向こうの翡翠に深々と一礼した。
 翡翠は立派だった。翡翠は、私がなにをしたいのか、きっと悟っていたに違いない。恋人の最期を、たとえ主人であり、思い人の妹であるにせよ、他人に独占されるというのは、きっと耐えられないことに違いない。それでも、翡翠は耐えてくれた。それはきっと、私があれほど思いながら、兄さんの思いを得ることが出来ず、自分が独占してしまったという罪の意識があったからなのだろう。私たちの翡翠お姉ちゃんは、最後にちゃんとバランスを取ってくれたのだ。
 椅子に腰掛けると、兄さんの顔を見守った。兄さんの冷たい手を取る。両の手で暖めるつもりで、そっと私の想いを吹き込んでゆく。ずっと忘れていた。ずっと前、私はこんな風にして、兄さんに命を分け与えたのだということを。ほのかに身体に温かみが戻り、兄さんが僅かに持ち直したのが分かった。代わりに私の身体が辛くなってきたけれど、兄さんのためなら構わない。それに、じきに私に戻ってくるのだから。
 もうじき、兄さんは目を覚ますだろう。二度と目覚めぬ眠りに続く、最後の目覚めを。

 兄さんの目覚めを待ちながら、楽しかった日々の事を思い返した。今も楽しいし、ちょっと前も楽しかったけれど、やはり子供の頃の思い出に勝るものはない。兄さんがお兄様に襲われる以前、幼い子犬たちのようにじゃれあっていた頃の思い出。それは今も、珠玉の輝きを見せている。
 一番小さかった私は、兄さんたち、そして翡翠の足に、取り残されることが多かった。翡翠もお兄様も助けてくれたけど、翡翠は少しお姉さんだったので興味の対象が私たちと異なっていたし、お兄様は移り気なので私のことを忘れがちだった。兄さんだけが、いつだって、どこだって、私を気遣って、手を差し伸べてくれた。
 裏庭の森には、子供たちだけの秘密がたくさんあった。雨の日にも、雨に当たらないで済む場所があるということを、子供たちだけが知っていた。そうした場所の一つで、春の通り雨を凌ぎながら、兄さんと見詰め合っていたことを思い出す。兄さんの優しい目の奥に、なにか不可思議な光が揺らめいているのが不思議で、私は無心に見つめていたものだ。その深遠を覗き込むような感覚。
 瞼が震え、死者のそれだった兄さんの顔に、わずかな動きが現れた。私がじっと見守る中、兄さんは眠たげに目を開けた。しばし、天井を眺めている。
 その目が、ようやく私に向けられた。
「お目覚めですか、兄さん」
 万感の思いを込めて、優しく問いかける。
「うん。ずいぶん眠ったようだね」
 私たちは、しばし見詰め合った。兄さんの、なにもかも悟っているかのような目が、私を優しく見つめてくれる。死を目前にしても、兄さんは変わることがない。ずっと前に、兄さんはいろんなことを悟ってしまっていた。だから、今さら変わりようがない。遠野秋葉への愛情も、信頼も、その死まで揺らぐことなどないのだ。
 そうだったんだ。
 兄さんは私を裏切らない。遠野志貴は、遠野秋葉を絶対に裏切らないのだ。だって、兄さんは、今この瞬間にも私を愛してくれていて、それは死を前にしても変わることがないのだから。だから兄さんは、ずっと私の側にいてくれたのだ。この絶対的な信頼、そして愛情の前に、男女の関係などどれほどの意味を持つのだろう。
 私は、たったこれだけのことが知りたくて、思い悩み、嫉妬し、画策し、自分と兄さんを傷つけてきたのだ。思い悩む必要なんて無かった。兄さんは、兄さんだけは、死ぬまで変わりない。その事を、そのまま受け入れれば良かっただけなのだ。だというのに、私はなんて遠い回り道をしてきたことかしら。
 思わず笑みを浮かべていたのだろう。兄さんも、優しい笑みを浮かべてくれた。兄が妹に見せる、優しい微笑。
「秋葉」
 兄さんは、かすれた声でいった。
「どうした。俺を終わらせるつもりだろう? さあ、やってごらん。今なら、秋葉を見ながら、逝ってやれるんだから」
 やはり、兄さんは分かっていた。私が兄さんに、自らの手で最期を与えるつもりであることを。
「おまえにはずいぶん長い間、この命を借りてきた。おかげで翡翠のことを愛してやれたし、みんなと楽しい時間を過ごすことも出来た。その代わり、おまえをずいぶん困らせてきたし、おまえの体にも負担を与えてきた。もうそろそろ、おまえに返す時なんだよな」
 兄さんが、自由が利かない手を、必死に差し伸べてきたので、私はそれを支えた。
「さあ、秋葉に帰る時が来たんだ。ありがとう、楽しい夢を見せてもらったよ」
 私は、兄さんの冷たい手を、両手で包んだ。そして兄さんと、じっと見詰め合った。兄さんの、全てを赦す目が、私を温かく見ている。どうすればいいのか、やり方はさっき思い出していた。この手に、兄さんの温もりを吸い込めばいい。それで、それだけで、遠野志貴は終わる。そして私の手で終わらせることで、遠野志貴という存在は、永遠に私のものになるのだ。そう思っていた。
 でも、もう分かっていた。そんな必要はないのだと。
「兄さん」
 しばし見詰め合った後、私は口を開いた。
「私はね、輪廻というものはあると分かったんです」
「うん」兄さんは、優しく耳を傾けてくれる。
「輪廻というものはね、兄さん。例えば兄さんが未来のいつかに蘇るということじゃないんですよ」
「うん、そうなんだね」
「輪廻というものは、不滅のものは滅びないという、当たり前のことなんですよ」
 私は微笑んでいたのだろう。兄さんの手を、そっと胸に抱いた。
「私はね、輪廻を信じます。それは兄さんが死なないとか、いつか蘇るだとかいった、益体もないことじゃないんです。兄さんはたくさんの不滅のもので出来ていて、それらの不滅のものは滅びないんだから、兄さんが死んでも、兄さんだったものたちは残るんですよ」
「うん」疲れたのだろう、兄さんは目を閉じて、聞いてくれている。
「そしてこの先だって、きっと兄さんだったものにめぐり合えるはず。だから、兄さんを私のものにする必要なんてないんです。だって、それらのものが不滅だということは、結局は兄さんだって不滅なんですから」
 きっと私は、兄さんが死んだ後も、兄さんと出会うことが出来るだろう。翡翠や幹也さん、子供たちの笑顔に、そして友人たちの言葉の端々に。それが、今は楽しみだ。
「だから、私は兄さんを無理やり取り戻すのは止めました。兄さんは自然に戻ってきてくれるんだから」
 私は、兄さんの手をその胸に戻した。兄さんは目を開け、じっと見つめている。
「そうか。秋葉、さよならだな」
「いいえ兄さん、またね、です」
 私たちは微笑を交わした。そして、ふと思いつくと、私は兄さんに顔を寄せて、その唇にそっと唇を重ねた。生涯一度きり、兄さんと交わした口付け。これでいい。もう、思い残すことなんてない。後は、兄さんの顔を忘れてしまうだけだった。
「みんなを呼んできます」
 私はドアに向かった。
「兄さん、おやすみなさい」
 ああ、と兄さんは答えてくれた。私は、ドアを開けると、みんなを呼びに居間へと降りていった。

 いつの間にか、夜が明けようとしていた。
 長い夜は、徐々に後退し始めている。東の空に薄明かりが差して、それは次第に勢力を強めてゆく。明かりは、やがて赤みを帯び始め、荘厳な朝焼けが広がり始めた。
 裏庭の芝生に立っていた。晩秋の朝露が冷たい。
 振り向くと、屋敷の兄さんの部屋に明かりが点り、たくさんの人影が見えていた。兄さんは、たくさんの友人知人、家族、使用人、そして翡翠が見守る中、間も無く最期を迎えるのだ。
 私は立ち会わなかった。だって、兄さんがいつ死ぬかなんて、誰よりも分かっているのだから。
 私の心臓の隣に、もう一つの心臓があるかのような感覚がある。それは私の身体から力を奪い続け、常に倦怠感をもたらしてきた。でもそれは、兄さんが生きている証。だから、この身の重さは、私にはむしろ嬉しかったのだ。
 その感覚が、急激に消えてゆく。胸にあるもう一つの心臓が、今にも止まりかけている。次第次第に細ってゆくその感覚が、私には悲しかった。なにかを悟った気で居ても、やはり兄さんが逝ってしまうのは悲しい。
 自分の身体を抱きしめた。その腕の中で、兄さんの終わりが感じられる。
 3、2、1、そして0。
 鼓動が止まる。兄さんが終わった。私の身体から、それが当たり前だった倦怠感が消え、そして胸の中のもう一つの心臓も、ふっと消えうせた。入れ替わりに、なにかが私の中に帰ってきた。まるで羽が生えたような軽さだ。でも、その大きな落差が、兄さんの死をこの上なく知らせてくれる。背後、遠くの屋敷から、誰かの泣き声が聞こえてきた。遠野志貴は、今この瞬間、終わった。
 じっと、この身を抱きしめたまま、耐えていた。ずっと覚悟してきたことだから。それでも、私の頬を、冷たい涙が伝うのが分かった。この二十年の楽しい夢が、たった今終わった。
「そっかぁ」
 背後で、誰かがつぶやいた。若い女性の声だった。
「志貴、とうとう死んじゃったんだ」
 ハッと顔を上げた。漠然と、その正体がわかった。
「遅かったのですね」
 涙を拭い、取繕いながら、声に出した。泣き顔を見せたくないから、振り向きたくは無かった。
「うん。あの子との別れは、ずっと前に済ましちゃったからね。ただ、あの子が気にしてたものが、わたしも気になっただけ」
 ふふっ、と魔法使いは笑ったようだ。
「でも、大丈夫だったね。君はあの子の心をちゃんと受け止めてくれた。志貴が大切にしたかったものを理解してくれたんだ。だから、もうわたしが心配することもないんだね」
 私は、黙って目を上げた。森の上に、静かな朝焼けが広がってゆく。どこからか、遠い寺の鐘の音が聞こえてきた。それが、兄さんの居ない一日の、いいえ、残りの人生の始まりを告げていた。
「ねえ、君」
 魔法使いの声は、静かだった。
「一つの命が生きてゆくために、一つの命が消えてゆく。それはこの世界を動かす、もっとも簡単な道理なんだよ」
 それでも、それはとても悲しいことだね、と魔法使いは小さな声で続けた。
 涙をそっと拭うと、初めて魔法使いを振り向いた。魔法使いは、若々しい顔を、昇り始めた朝日に向けている。
 彼女は、見事なロングヘアを振って、私に目を向けると、初めて微笑んだ。
「お茶をご馳走してくれないかな。志貴の話をしたいんだ。君の見た志貴を知りたい」
「取り込んでおりますので、時間は取れませんが、少しならご一緒しましょう」
 私は魔法使いを先導して、屋敷へと戻り始めた。兄さんの亡骸を囲んで、みんな泣いているだろう。まずは使用人たちを落ち着かせて、それから兄さんの葬儀の手配をしよう。その間、この魔法使いと、新しい親交を暖めるのも悪くはない。私は魔法使いという稀有な人種を、自分の住処へと導いて歩き出した。
 つと、足を止め、振り返る。明るく照らす朝日に目をやった。それはとても美しいのに、物悲しくて、胸が詰まる光景だった。魔法使いは足を止め、私をじっと見守っている。
 さて、兄さん。私はここから新しい人生を始めることにします。遠野志貴の居ない人生を。まずは翡翠を助けなければなりませんね。でもあの子はきっと大丈夫。翡翠は私たちのお姉ちゃんだったのだから。あの子にも、きっと兄さんの居ない人生を、始めさせてみせますよ。本当に、兄さんは死んでまでも私を困らせるのですね。
「――」
 どんなに振り払っても、この胸の悲しみは消えないだろう。新しい涙が、頬を伝い始めるのを感じた。朝日に頬を暖められながら、私は遠い鐘の音を聞く。それは兄さんの居た過去への弔鐘。
 ちゃんと歩いてゆくんだよ。そんな兄さんの声を、聞いた気がした。
<了>

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