La Campanella 〜鐘〜

3.略奪と結果と

 大学を出れば、少しは余裕が生まれると思っていた。
 学生時代にも、私はかなりの時間を会社に拘束されてきた。父が亡くなってこの方、私は遠野家が所有する持ち株会社の社長に納まってきた。高校時代には、まだ見習い相当という感じで、斗波を始めとする一族の後見を受けてきた。正直、なにがなんだか分からない内に、高校時代は終わってしまった。
 大学に入ると、カリキュラムを柔軟に組めることもあり、以前よりずっと深く会社に関与できるようになった。週に三日は会社のデスクに座った。お蔭で、土日のどちらかも潰れてばかりだった。でも、その努力の甲斐はあった。成人を迎える頃には、私はなんとか会社を動かせるようになっていた。より正確には、会社を動かす首脳陣を把握したと言うべきだろう。彼らの忠誠心の度合い、隠れた関係を把握し、ビリヤードのボールのように動かすルールを把握したのだ。もっとも、思い通りに動かすには、未だに能力の一杯を使いきらなければならなかったが。ともあれ、背伸びしながらであれ、私は一端の企業人へと脱皮したつもりだったのだ。
 大学卒業を控えた頃、私は卒業後の人生設計を思い描くようになった。少なくとも、学生生活に費やしていただけの時間、自由になるはずだ。会社経営に時間を割いても、従来よりは自由な時間が増えるはず。そう思っていた。
 そんな思い違いに気づくのに、ものの三日もかからなかった。大学を卒業し、いよいよフルタイムで会社勤めという段になった途端、私の下に押し寄せたのは、想像を絶するほどの仕事の山だった。毎日働きづめで、朝は早くから夜は日付が変わる頃まで、ひたすら書類の山と戦い続けた。その上に、ひっきりなしに会議と現場視察が入ってくる。これは、経験値が絶対的に足りない私に対する、重役たちのスパルタ教育なのだと、すぐに気づいた。が、気づいたところで、この嵐はどうしようもなかった。
 なんとか凌げるようになるまで半年かかった。
「最近、やっと早く帰れるようになったじゃないか」
 そんなことを夫に言われたのは、大学を出て最初の冬、フルタイムでの会社勤めの最初の年越しを迎えようという頃だった。夜のお茶会は、私の帰宅時刻に合わせ、以前なら考えられないくらい遅くに開かれるようになっていた。
「そうですね。なんとか、これは人任せでいい仕事なんだとか、見極められるようになりましたよ」
 ちらりと時計を見ると、まだ夜の十時過ぎ。今までの私からすれば、いよいよ仕事も佳境という所だ。
「それが会社でご飯を食って行く秘訣だよ」
 そういって夫――幹也さんは笑った。幹也さんは私よりも社会人生活が長いわけで、なにかと先輩気分なのだろう。
「そうそう。特に秋葉は、人を使うのが仕事だからな。俺達みたいな下っ端とは訳が違う」
 尻馬に乗って、兄さんも口を出した。そうはおっしゃりますけど、兄さんに就いていただいたポストは、決して下っ端の軽いものではないのですけどね。
「あら幹也さん。所長さんにいいようにこき使われていらっしゃるのは、どこのどなたなのかしら」
 私がせいぜい嫌みたらしく言ってみせると、幹也さんは苦笑した。
「まあそうだけどさ。魔術師って人種は常人とは訳が違うんだよ」
「話に聞く幹也さんの上司の人、なんだか凄まじい人みたいだね」と、兄さん。
「凄まじいというかなんと言うか。確かにこれは魔術師みたいに浮き世離れした職にしか就けないとわかるね」
 そういって、幹也さんはまた笑った。
 私と幹也さんが結婚して、かれこれ二年が経っていた。見合いという形ではあったけれど、気がついてみれば熱烈恋愛といっていいくらいの勢いで互いを求め合い、出会って半年でゴールへと駆け込んでしまったのだ。これには周囲の人々はもちろん、当の私たち自身ですら驚いていた。私たちには、それぞれに意中の人がいた。私には兄さんが、幹也さんには両儀式という女性が。でも、兄さんには翡翠がいた。幹也さんは当の両儀さんに、他の女性と結婚することを勧められてしまった。それぞれに、一番欲しかったものを手に入れられなかった反動か、一度惹かれ始めるとゴールインまでが早かったというわけだ。
 私の方は、私自身が一族の最高権力者だという事もあり、結婚への障害は少なかった。が、幹也さんが問題だった。まずご実家のご両親から勘当同然という境遇にあったこと、鮮花という妹さんが幹也さんを男性として意識していること、そして恋人であった両儀式の本意が問題になった。
 ご両親へは、私が挨拶に出向くことで話がついた。なにしろ、少し経済界に明るければ、必ず名前を知っている遠野の当主がやってきたのだ。ご両親はずいぶん驚かれたようだった。だが――こんな馬鹿な息子で良ければ――と、幹也さんを遠野家に婿入りさせることに、同意してくださった。
 鮮花の同意も、意外なくらいあっさりと取り付けることが出来た。ありていに言って、私と鮮花は意気投合してしまったのだ。「幹也を式に取られるくらいなら、秋葉にあげる」とまで言われた。同じように兄に懸想しながら、しかし女として見られることが叶わなかった身だ。どこか通じ合うものがあった。
 問題は、その両儀式の本意だった。本当に幹也さんが他の女と結婚することを望んでいるのか。未練はないのか。あったとして結婚を邪魔するほどなのか。幹也さんは、私を選ぶことに迷いはないと言ってくれた。けれど、本当は幹也さんにもわずかな迷いがあるように見えた。だが結局、両儀式の本意を確認できないまま、私たちはゴールへと突っ走ってしまったのだ。
 七夜に付き合わせて遅い夕食を取り、居間に戻ると、幹也さんと兄さんが、テーブルに並べたカタログを眺めているところだった。カタログをのぞき込んでは、なにやら談笑している。二人は、まるで本当の兄弟のように仲がいい。お互い、気質に似た点があるからだろうか。それだけではなくて、幹也さんの包容力が、兄さんをして子犬のように慕わせる結果になったのだろう。それは、私の妻としてのひいき目だけではないはず。
「自動車ですか」
 二人が見ていたのは、車のカタログだった。幹也さんはもともと免許を持っていた。それに引かれたのか、兄さんも大学時代に取得していた。そして私も、兄さんたちの後を追うように、免許を取っていた。単なる身分証明書代わりのつもりだったのだけれど、実際に一番よく乗っているのは、私だったろうか。なんとなく形が気に入って、英国のロータスというメーカーの車を買ったのだ。値段は気にしなかったけれど、あまり安いものではないようだ。ともあれ、それで海や山に出かけては、気晴らしに散策することが多かった。幹也さんや兄さん、さらに七夜たちにまで付き合わせたことがあったけど。
 兄さんたちが見ていたのは、どうやら日本のメーカーのものらしい。
「どうせなら外国製の、もっと高級なものを買われてはいかがですか?」
 私が思わず口を出すと、兄さんはニヤリと笑った。
「いや、コストパフォーマンスからいえば、国産が一番さ。軽かリッターカーが欲しいんだ」
 その手にしているカタログを見ると、確かに小さな、可愛らしい車ばかりだった。
「もっと大きな車を買われては? 兄さんだって遠野家の長男なのだし、相応しい車があるでしょう」
「そんなでっかい車なんか要らないよ。秋葉のみたいに小回りが利くのが欲しいんだ」
「なら、私とお揃いのロータスはいかがですか?」
「だからさ、あんな高いのは俺には似合わないよ。秋葉だから平然と乗れるんだ」
 兄さんは苦笑している。そんな高い車でもないと思うのだけど。会社への送迎に使っているロールスロイスなどは、確か一億を越えるくらいだったのだから。
「僕も、どうせ買うのなら、小さいのを何台か揃えてみたいんだ。でかいのは、秋葉が運転手付きで使ってるロールスで十分だろう」
 そういう幹也さんが見ているのは、フランスやドイツのファミリーカークラスのものだった。これなら、まあ許容できるかしら。
「まあ、ご自由にと言いたいですけど。兄さん、あまり小さくて安い車は、どうしても安全性を犠牲にしているものです。ご自分の安全を考えても、もう少し上のクラスにされるべきです。せめて、幹也さんと同じくらいのものを」
「うーん、そんなに激しくは乗らないだろうし、金かけるのももったいないしなあ」
 兄さんは、相変わらず長閑に答える。私は、そんな兄さんを見ると、なにかやきもきしてしまう。
「ま、別に志貴くんが自分用に買わなくても、秋葉のや僕のを使えばいいだけじゃないか」と、幹也さんが口を挟んだ。
「あ、そうですね。別に俺専用なんて買う必要ないんだ」
「で、でも、翡翠をドライブに連れて行ったりしたくは無いですか?」
「翡翠が外に出るのを嫌がるからなあ」
 相も変わらず、淡白に笑う。その背後に立っていた翡翠は、申し訳無さそうに目を伏せた。
「そこで兄さんが引くからいけないんですよ。兄さんだって男なんでしょう。翡翠を強引に連れ出すくらいしないと」
「ごめんな。俺も翡翠が嫌がることはしたくないんだ」
 兄さんが歯がゆくなって、ついつい声が高くなってしまうけれど、兄さんは困ったように笑うだけ。翡翠も申し訳無さそうに目を伏せるだけ。本当に、ある意味でお似合いの二人だと思う。

 朝は運転手付きの車が迎えにやってくる。いつも私の秘書が同乗してくる。会社までの時間、秘書と今日のスケジュールを打ち合わせるのだ。秘書は日によって違うが、今日は私の古馴染みな顔だった。
「おはよう、ボス」
 玄関で、嫌味なくらい恭しく頭を垂れる秘書を、私はじろっと睨んだ。
「あらおはよう、蒼香。少しは社会人らしくなってきたわね。でも、ボスというのは止めていただけないかしら」
「ああ、おかげさまでな。遠野はどうしてもボスって感じだから、ついつい口にしちまうんだけどな」
 顔を上げて、秘書――月姫蒼香はにやっと笑った。
 蒼香を私の秘書に引っ張ってきたのは、大学卒業と同時のことだ。在学中はのんべんだらりと過ごしていたようだけど、今は別人のようにビジネススーツをピシッと着こなしている。元々細身な蒼香の事、確かに似合いそうではあったのだけれど。
 車中、今日のスケジュールについて簡潔に打ち合わせ、さらに今週のスケジュールに関しても打ち合わせた。蒼香は、秘書としてこの上なく有能だった。秘書というのは、仕えるべき上司の意を汲んで動くだけでなく、上司を資源とみなして、適切に配分してゆくことさえも要求される。早々と私の能力を見極めた蒼香は、先輩秘書や秘書室長から仕事を学びながら、めきめきと力をつけてきた。そもそも、学生時代からの縁で、一番ざっくばらんに話せる相手でもあった。
「それでね、来週金曜日の夜は空けて欲しいの。幹也さんの事務所の人と、会食する予定だから」
「来週か。面会の申し入れと会議があるが、面会の方は別の日に回せるだろう。会議なんざ出なくてもいいさ。大丈夫だよ、変更しておく」と、蒼香は手元のシステム手帳を見ながらいった。
「頼むわね」
「旦那さんの事務所の人って言うと、鮮花とか?」
 鮮花は屋敷によく遊びに来る。だから、同じく屋敷によく招く蒼香とも顔馴染みだ。
「そうね。今回は鮮花だけじゃなくて、事務所の方々みんなを招くことにしたの」
「ほう。すると、旦那さんの前カノもいらっしゃるってわけか」
 誰が教えたのか、幹也さんと両儀式の関係を、蒼香はなぜか知っていた。
「そう。ぜひとも会わなければと思っていたから」
「会ってどうする。嫌味になるだけだぞ?」
「でもね。幹也さんにお見合いを勧めたのは両儀さんだということなのよ。一度はお会いして、真意を質さなければと思っていたの」
 そう、そのことが、ずっと私の胸にわだかまっていた。なぜ両儀式は、最愛の男性であったはずの幹也さんに、他の女との見合いを勧めたのだろう。私には考えられないことだ。
「まあ、止めないが。痴話喧嘩だけはするなよ」
 そんなことを言う蒼香を睨みつけると、おかしそうに笑いながら、システム手帳に手早く記入していた。相も変わらず、怒る気が失せる子だ。
 でも、蒼香の懸念も分からないでもない。幹也さんを挟んでそうなったら、という懸念は、私にも無くは無いのだ。それでも、一度は顔を会わせ、話してみなければ。なんだか、幹也さんが本当に私のものになってないようで、気持ち悪いのだ。

 その日、会社を早めに出ると、車でとあるビルへと向かった。上層にあるレストランで、幹也さんの事務所の人々と、会食することになっていた。車の窓から歩道の方を眺めていると、ふと見知った顔が目に入ってきた。
「兄さん、幹也さん」
 窓を開けて声を掛けると、談笑しながら歩いていた二人が、おやっとばかりに振り向いた。
「まだ時間があるから、歩いていこうかってことになったんだ」
 後ろに着いていた翡翠と七夜が、私にお辞儀をくれた。翡翠が私服で外出するというレアな光景に、私は思わず笑みを浮かべた。私が命じ、兄さんが掻き口説いた結果、翡翠は久しぶりの外出に同意したのだった。
「そういうことでしたら、私もそうします」
 車を降りて、私も降りることにした。幹也さんが肩に手を回してくれる。
「こうして秋葉と歩くのは、久しぶりだね」
「そうですね。最近は、本当に余裕が無かったから。でも、これからは、だんだん余裕も出てくると思います。そうしたら、また一緒に美術館を回ったりしたいですね」
 恋人の頃、新婚の頃を思い出しながら、私はいった。同意の意を込めてか、幹也さんは肩をギュッと抱いてくれた。そんな私たちを、兄さんたちはニコニコと見ているようだ。うれしはずかしというところだけれど、後ろで見ている兄さんと翡翠も同様にしているのだろうと思うと、未だに複雑な私だった。

 レストランに着くと、私たちは別室に案内された。席は既にしつらえてあった。長いテーブルに、双方五人ずつが向かい合って座ることになる。
「上座には幹也さんが着くべきです」
 私の夫なのだから、それが当然だと思って促すと。
「いや、僕は婿だよ。家長なんだから秋葉が上座に着くべきだし、男性上位というなら長男である志貴くんが着くべきじゃないか」
「そんな、幹也さんの上座に座れるわけ無いよ」
 結局、私が上座に座る破目になる。隣は幹也さん、次に兄さん、七夜、翡翠の順番だ。せっかくなのだから、翡翠も兄さんの隣に座ればと言ったのだけど、この子はどうしても遠慮してしまう。「姉さんの上座に座るわけには行きません」と言い張ったのだ。いい加減、翡翠の頑固さには慣れている私たちは、早々に説得を諦めた。いっそのこと、兄さんを一番下座にとすら思ったけど、それはどう考えても不自然だ。本来なら一番上座にあるべき長男が、使用人より下座に着くなんて。
 席を決めてしまうと、一度ロビーに出て、幹也さんの同僚の皆さんを待った。
「幹也さん、“伽藍の洞”ってどういう意味なの?」
 見るとも無く夜景を眺めながら、兄さんが幹也さんに問うた。それは、私も少し不思議に思っていたところ。表向きは設計事務所なのに、なぜそんな奇妙な名前をつけたのだろう。
「魔術師的には意味があるらしいけどね。所長自身の性格とか、所長が箱物を扱うのが好きだからとか、いろんな理由があるらしいよ」
「魔術師、か」
 この世に、そんな人種が実在するというのが、未だに信じられない。でも、蒼崎橙子は、紛れも無く当代一流の魔術師だった。彼女とは、幹也さんとの恋愛時代、間接的に接触して以来、常にチャンネルを維持している。向こうからすればこちらは金づるで、しかもいざという時は大遠野の庇護を望めるわけだ。こちらからすれば、魔術師という異能の力を借りられることに意味がある。一度、遠野家が所有するある別館の修理を依頼したことがある。そこは、“反転”しかかった者を保護し、同時に封じ込める魔術装置が施された館だった。遠い昔、一族に伝わる土着魔術、いわゆる呪術を用いて構成されたものだったが、経年劣化が進んでいた。私は、建物自体の改装とは別に、この魔術装置の更新をも依頼したのだ。単純な改装とは桁が違う額が提示されたが、出来上がりは素晴らしかった。この魔術強度なら、反転寸前で古き遠野の血が滾っている者でさえ、確実に封じ込め、また保護できるだろう。将来的に、そこに封じられる可能性の高い私にすれば、その出来上がりは感動に値した。遠野の呪術を動員しても、これほどのものは作れないだろう。
 ふと、ざわめきと足音が近づいてきた。振り向くと、女性四人、男性一人の、妙に歪な組み合わせの一団が近づいてくるところだった。前を並んで歩いてくるのが、鮮花と藤乃。その後ろを談笑しながらやってくるのは初見の眼鏡の女性と秋巳さんだった。女性が蒼崎橙子なのだろう。そして最後に遅れてやってきたのが、これも初見の、しかし写真で散々に眺めてきた両儀式――
 ちょっと驚いたのが、両儀さんが女性らしいドレスを身に着けていることだった。幹也さんの話では、両儀さんは常に和服を身に着けていて、それ以外の服には興味を示さないということだった。しかし今の両儀さんは、ほっそりした肩の線が艶かしい、洋風のドレスを着ている。髪を肩のところで切りそろえた彼女は、中性的な、硬質な美しさをたたえていた。思わず見とれてしまい、ふと幹也さんに目をやると、目を丸くして驚いているようだった。目が合うと、意外だよ、という風だった。
「こんばんは、秋葉。今日は招いていただいてありがとう」
 名前の通り、花のように鮮やかな赤いドレスを着た鮮花が、真っ先に話しかけてきた。隣で、これは白系統のスーツを着た藤乃が微笑んでいる。藤乃も鮮花ともどもに屋敷に遊びに来ることが多く、親しい友人だ。藤乃は、鮮花と同じ大学を出てから、鮮花ともども伽藍の洞に勤めるようになったらしい。鮮花にいわせると、「手弁当の押しかけ事務員」とか。
「良く来てくれたわね、鮮花、藤乃」
「お招きに与り恐縮至極です」
 藤乃もぺこりと頭を下げた。私のように深窓のお嬢様育ちなのだが、動作にいちいち愛嬌がある。身にまとう雰囲気がとても柔らかく、側にいるだけで心が和らぐようだ。藤乃にも、辛くて暗い過去があったという。こうして微笑んでいる彼女を見る限り、とても信じられないことだが。
「遠野さん」
 その後ろの、眼鏡の女性がにこやかに話しかけてきた。この人が伽藍の洞のオーナー、蒼崎橙子。
「今日は楽しそうなお食事会に呼んでいただいてありがとう。とても素敵なレストランですね」
 まさに愛嬌を振りまくという体だった。とても魔術師には見えない。幹也さんによれば、蒼崎さんは眼鏡を掛けるかどうかで、人格を自由にスイッチできるらしい。魔術師という人種は、なんだかとても器用なものらしい。
 その横の秋巳さんは、私の顔を見るなり、なんだか物凄く緊張してしまったようだ。緊張でガチガチになりながら、ぎくしゃくとお辞儀をくれた。なぜかしら、私は殿方を緊張させる物質でも分泌しているのかしら。
「ほ、本日はこのように立派なお食事会にお招きいただきまして、大変恐縮至極に御座候……いけねっ」
 思わず訳の分からない言い回しになってしまい、その途端に周囲ともども、緊張が一気に解けた。私も秋巳さんも、思わず笑い出す。
「いやあ、すいません。泥臭い刑事なんてやってるから、こういう洒落た場所に慣れてなくて」と、秋巳さんは照れ笑いを浮かべている。
「緊張することはありませんよ。他に人目が無いように会員制レストランを選んだんですから。今日はどうか、寛いでらしてくださいね」
 二つの集団が入り混じって、再会を喜んだり、雑談を始めたりしている。私は、今日の肝要、すなわち両儀式へと目を向けた。しかし両儀さんは、私の方にちらりと頭を下げたきりで、ぽつんと離れたままに、窓から夜景を眺めているだけだった。

 食事の素晴らしさに関しては、改めて述べることは無い。まさに贅を尽くしたという観だった。限られた客にだけ注がれるシェフの技巧は、フレンチの概念を覆し、かつ創作料理に有り勝ちな独善のかけらもない、豊穣の極みを見せてくれた。その評価は、今日の面々の顔に浮かんだ驚嘆、満足の表情を見るだけで十分だった。
「驚いたわね。会員制にするだけの事はあるわ。お値段からして、私たち庶民とはかけ離れた世界だもの」
 グルメ初心者を自称する鮮花は、最初から最後まで唸りっぱなしだった。
「本当ですね。昔、お父様に本場のフレンチ食べ歩きに連れて行っていただいたけれど、本場の三ツ星レストランでさえここまでは――」
 果たして味覚が理解できたのか、それとも食事の内容を思い出しているのか、藤乃はどこかほやっとした笑みを浮かべている。私自身、ここに来る度に、えもいえぬ至福を味わっているのだ。あまり縁の無さそうな彼女たちが驚いたのも無理ないし、また喜ばしいことだった。
「わたしもフレンチに挑戦中なんですけど、いくら頑張っても手が届かない世界があるんですねー。家庭料理とは隔絶しています」
 七夜は、むしろ嬉しそうだった。挑戦しがいのある分野だと悟ったのだろう。
 私たちは、レストランと併設されたバーで飲んでいた。客は私たちしかいない。広い窓からは三咲の夜景が良く見える。時々、幹也さんと連れ立っては、ここから街を眺めているのが好きだった。
 活発に雑談を交わしているのは、私と藤乃、鮮花、翡翠、そして兄さんと幹也さんだった。鮮花も藤乃も、屋敷に良く遊びに来るから、みんな親しい友人同士になっていた。なんのことは無い、休日のお茶会が、そのままここに再現されたようなものだ。
 鮮花は、幹也さんにべったりくっついている。幹也さんと肩を並べ、幹也さんの話に茶々を入れたり、まぜっかえしたり、急に話を振ったり、やりたい放題だ。私と兄さんも、傍から見るとああいう感じなのかしら。
 楽しい時間はあっという間に過ぎてゆく。私は、いつの間にか空になったグラスを持って、バーテンダーにお代わりをお願いした。つと見ると、カウンターを曲がった向こうで、七夜と秋巳さんが話し込んでいる。いや、話し込んでいるというのか。どちらも、カウンターに座って、なぜか前をまっすぐ見たまま会話しているのだ。だというのに、肩は触れ合わんばかりだ。初々しさに、思わず笑みがこぼれる。心の中で、二人にエールを送った。
 秋巳さんが七夜を見初めたのは、私と幹也さんのお見合いの時だったらしい。それから半年も過ぎた頃、突然に鮮花が屋敷を訪れて、七夜に何事かを頼み込んできたのだ。七夜が、珍しくもうろたえていたのを思い出す。どうやら、秋巳さんは鮮花を介し、七夜にデートの誘いを申し入れたようだった。鮮花によれば、『大輔兄さん、決死の覚悟よ』という風だったらしい。私が翡翠を介し、間接的に促すと、七夜は次の日曜日に、珍しく私服のワンピースに着替え、出かけていった。
 それから、とんと音沙汰が無いので、それっきりだったのかと思った。ところが、幹也さんの情報では、一月に何度か、律儀にデートを重ねていたらしい。朝帰りするわけでも、遠出するわけでもなく、ひたすら映画を見て、食事して、遊園地に行って、といった感じだったらしい。そんな風に、進展しているのかしてないのかさっぱり分からない仲を、もう三年近くも続けてきたのだ。でも、つい最近、七夜は一度だけ朝帰りをしていた。七夜は恐縮していたけれど、私はもしかしたら、と内心喜んでいた。七夜が、あの琥珀だった七夜が、たとえ平凡であれ幸せを掴んでくれるのなら、私は援助を惜しむつもりなんてない。七夜に余暇を与えるために、新しい料理人を雇い入れようと画策しているくらいだった。
 バーテンダーからカクテルをせしめると、私はバーをぐるりと見回した。遠野家周辺の固まり、燠のように密やかに燃えている二人、この二つの集団から漏れている二人を探したのだ。
 一人はすぐに見つかった。カウンターの端で、いつの間にか取り出した羊皮紙に、ペンでなにかを書き付けている。
「なにを書かれているのですか?」
 隣に座りながら訊ねてみた。
「ルーン文字、魔法の文字だよ。あなたと黒桐にプレゼントしようと思って」
 いつの間にか眼鏡を外していた蒼崎さんは、口調も雰囲気も一変していた。親しみやすさは失せ、近寄りがたい、余人と容易に打ち解けがたい雰囲気を発している。なるほど、人格を自由に切り替えられるというのは、こういうことなのか。
 羊皮紙を覗き込むと、奇妙に装飾的な文字が、なぜか輪を描くようにして書き付けられている。
「これはあなたに差し上げよう。今夜の素晴らしい夜会のお礼だ」
 そういって、蒼崎さんは、その羊皮紙を差し出した。受け取って、改めて覗き込む。これは、私室のドアに貼って、やってきた客を驚かせるのにいいかもしれない。
「なんという意味なのですか。どんな魔術を?」
 羊皮紙からは魔力のようなものが感じられたので、私はそう聞いてみた。なにか、魔術が掛けられているのだと思ったのだ。だが、蒼崎さんは軽く笑って答えた。
「意味は、益体も無いものだよ。『幸運と繁栄を』というところだ。特に魔術は掛けてないよ。こういうものに、いちいち魔術が掛けられていたら、貰った方が困ってしまうのじゃないかね」
 それもそうだと思った。まあ見ているだけで不思議な感じがするし、これはいい贈り物だと考えよう。
「ありがとうございます。友人をまごつかせるのに最適ですね」
 蒼崎さんは、再び軽く笑うと、タバコに火を着けた。なにか、機嫌は良さそうだと思えた。
 ふと、この人の歳はいくつなんだろうと思った。実は、兄さんとこの人は、間接的に関係している。兄さんに、あの眼鏡をくれた、兄さんが“先生”と呼ぶ女性は、この蒼崎さんの妹さんだというのだ。そして眼鏡の本来の持ち主も、この人だった。兄さんが、ぽつりと話してくれた印象では、兄さんと出会った頃には、妹さんもとっくに成人していただろう。するとこの人は三十代か。まあ、女性の年齢を勘繰るなんて、礼に失することだけど。
 ともあれ、兄さんの眼鏡を介して、実はこの人と私たちはつながっていたのだ。眼鏡の扱いに曖昧な部分を見出した私は、きれいに片をつけるべく、代理人を立てて買取を申し入れた。蒼崎さんは、かなりの収入を得ているのに関わらず、ひどい浪費癖ゆえに常に困窮していた。いや、困窮していたのは、実は幹也さんだったのだけれど。ともあれ、かなり吹っ掛けられることを覚悟していた。しかし蒼崎さんは、なぜか苦笑いしながら、『くれてやったものだから気にするな』といったらしい。『面白いものを見せてもらっているんだから』とも。既に兄さんと私は、幹也さんと知り合っていたから、蒼崎さんは兄さんの目のことを知っていたのだろう。
「そういえば、秋巳さんとうまくいってるようだな」
 蒼崎さんは、たばこをくゆらせながら、カウンターの反対側に目をやった。その陰で、七夜と秋巳さんが愛を育んでいるはずだ。
「ええ。見てて焦れてくるくらいですけど、まるで氷河のようにじっくりと想いを通わせているようですわ」
「氷河のように、か」
 蒼崎さんは、本当におかしそうに笑った。私は、なぜかこの魔術師と通じ合うものを感じていた。蒼崎さんも、まんざらでも無さそうだ。
「まったく、秋巳さんも積極的に動けばいいんだが。私に対しても、妙に消極的だったなあ」
 ああ、と私は思い出した。七夜を見初めるまで、秋巳さんは蒼崎さんにご執心だったらしい。でも、蒼崎さんに対して消極的だったというのは、仕方ない気もする。
「こうして振り返ってみると、遠野家は、私の事務所のものを二人も行き遅れにしてしまったわけだ。これは罪深いぞ」と、からかうように言う。
 これにはなんと答えるべきか。困惑していると、蒼崎さんはまた笑って見せた。
「私のことは気にしないでいい。どの道、人道を行くことを断念した身だ。結婚など考えもつかないさ。だが、もう一人の方とは、一度話してみた方がよかろうな」
 私はうなずいた。それが、今日の夜会の目的なのだから。
 もう少し雑談を交わし、羊皮紙の礼を言って席を立った。すると、待っていたのだろう。兄さんが入れ違いに、蒼崎さんに歩み寄ってくる。私の肩をポンと叩くと、蒼崎さんの隣に座った。蒼崎さんの妹さん、兄さんにいわせれば“先生”のことを聞きたいのだろうと思った。話に耳を傾ける、蒼崎さんの厳しい表情が、印象に残った。
 さて、最後の一人はというと。探すまでも無かった。いつの間にか、幹也さん、鮮花たちの輪に加わっていた。両儀式は、ちょうど鮮花と幹也さんの間に身体をねじ込むようにして、話に加わっていたのだ。意外なくらい明るい顔をしている。口数は少ないが、ちゃんと場に合わせている様だ。翡翠の珍しい笑顔にも、屈託が無い。が、私は幹也さんの困惑を、敏感に感じ取っていた。幹也さんと両儀さんは、いつも仕事場で顔を合わせている。そんな幹也さんにとっても、今の両儀さんは異様に映るのだろう。
 つと、両儀さんが輪から離れた。さりげなく離れると、窓際に歩いてゆく。そのことに、誰も気づいていない。両儀さんは私にちらりとも目を向けなかったけれど、私を誘ったのはすぐに分かった。私は、わざわざ窓際まで歩き、それから両儀さんの方に歩み寄った。やっと、今夜の目的を果たせそうだ。
 両儀さんは、カクテルを片手に、じっと夜景に目を注いでいた。濃いブルーのドレスを着た彼女は、藤乃や鮮花のような若い娘らしい華やいだ色気とは違う、硬質な美しさをたたえていた。月の光が、ざっくりと切りそろえた髪に踊る。ボブというより、適当に切り揃えたという感じだ。
 私が隣に立つと、両儀さんは私の方にちらりと目をやり、グラスを差し上げた。
「勝者に乾杯」
「では、真の勝者にも、乾杯」
 私がとっさに言い返しながらグラスを合わせると、両儀さんは目をわずかに瞠り、笑い出した。
「はは、なるほど。幹也がぞっこんなのも無理は無い。オレより、よほど気が利いている」
 両儀さんは、グラスの縁の塩をぺろりと舐めた。
「ま、本当に勝者なんて居ない。負け犬と、負けたけど他で取り返した女がいるだけだ」
 両儀さんの真意を測りかねて、私はしばし沈黙した。
「幹也は、本当に幸せそうだな」
 私の反応に構わず、両儀さんは思い返すようにつぶやいた。
「よほどあなたとの生活が楽しいんだろうな。幹也の顔から、笑顔が絶えないよ。伽藍の洞で毎日顔を突き合わせていたって、あんな笑ってばかりの幹也なんて見たことが無い」
 すっ、と、まっすぐに私を見た。どこか挑戦的な微笑を浮かべる。
「あなたと幹也の間にわずかでも齟齬があるものなら、オレは容赦なく奪い返すつもりだった。が、そんな隙は無さそうだな」と、肩を竦めて見せた。
「幹也さんとの仲は良好ですし、あなたにお譲りするつもりもありません」
 一方的に話す両儀さんには困惑したが、ともあれ私は、そう宣言しておいた。そうするのが、今この場には相応しいように思えたから。
「そうだな、そうでなくては困る」
 両儀さんは、私の目をじっと見た。
「あいつを幸せにしてやってくれ。オレには出来ないことだから」
「そんなことはありません」
 反射的に否定してしまった。私の声は、きっとずいぶん硬かっただろう。
「愛し合って、恋人同士だったのに、幸せに出来ないなんて――」
 もしもそうなら、私は兄さんを幸せになんて出来ない。兄さんは私を、女として愛してくれさえしなかったのに。
「いや、さ」
 両儀さんは何かを思い返しているようだ。
「オレ、空っぽだったんだ」
 唐突な言葉に、思わず首を傾げていると、両儀さんは慌てて付け加えた。
「ああ、訳がわからないよな。つまりオレ、記憶喪失で幹也に会った頃までの記憶が無いんだ」
 そういえば、と思い出した。両儀さんに関して、そんな報告を読んだ記憶もある。
「そんなオレに、幹也は毎日会いに来てくれた。幹也のことなんて憶えてなかったから、コイツは何しに来てるんだろうと思ったよ。オレの中は空っぽで、コイツにあげられるものなんてないのに。でも、毎日毎日幹也が来てくれる内に、いつの間にかオレの中にモノが置かれるようになっていったんだ。それは幹也そのものさ。借り物さ。でも、たとえ借り物でも、心の中にモノがあれば、それと世界を見比べることが出来る。そうして、また外から借りることが出来るんだ」
 両儀さんは、グラスをくるりと回した。カラン、と氷が音を立てる。
「そんな風に幹也はオレを満たして行ってくれた。幸せだったよ。その時は良く分からなかったけど、オレは幸せだったんだ」
 こつんと音を立てて、グラスをテーブルに置いた。
「でも、それじゃダメなんだって気づいた。幹也を、オレに巻き込んじゃダメなんだ」
「それは、あなたと居ると危険だから? でも、私と幹也さんとの間でも」
「ま、それもある」
 両儀さんは、珍しくも苦笑のようなものを浮かべた。
「それでも、両儀式の恋人で居るより、遠野秋葉の夫で居る方が、よほど安全に決まってる。オレは厄介ごとを呼び寄せるばかりだ。いつかは幹也を巻き込んでしまう。いや過去何度も巻き込んできたんだ。あなたとは違う」
 そういえば、幹也さんの左目は義眼だという。お見合いの前に、蒼崎さんが作ってくれたのだという。見ただけではとても信じられないけれど、本人がそういうのだからそうなのだろう。もしかしたら、あれも両儀さん絡みの事件に巻き込まれた結果なのかもしれない。
「それにさ」
 ふう、息をついた。憂鬱そうだった。
「それに、オレは幹也にあげられるものが無い。オレの中にあるのは幹也からの借り物で、他は伽藍洞のままさ。あげられるものは、幹也から借りたものでしかない。幹也が見た、オレという存在だ。そんなのおかしいよ。幹也にとっても、オレにとってもよくないんだ。オレという女は、幹也にはなんの意味もない伽藍洞なんだ。そう思ったから――」
 両儀さんは言葉を途切れさせて、視線を落とした。後悔が、その顔にうかがえた。
 私はため息をついた。そんな理由で……。
「そんなつまらない理由で、幹也さんを手放してしまったのですか」
 私がずけりというと、両儀さんはムッとした顔になった。が、すぐに肩を落とす。
「その通りだ。つまらない理由だ。でも、オレは本当に恐かったんだ。結局、オレは幹也を幸せに出来る自信が無かった。あれば、手放したりしなかった」
 ふう、と私はため息をついた。なんでそんな理由で――という思いはある。でも、両儀さんの恐れたことも、私には良く分かる。確かに、他人から見れば、曖昧な理由かもしれない。でも、両儀さんにとって、幹也さんは誰にも代え難い、大切な存在だったはず。その幸せを願う気持ちは当然だろう。そして、詳しくは分からないにしても、幹也さんの左目を傷つけたような事件は、想像以上に多いのかもしれない。両儀さんが、幹也さんを自分の身近に縛り付けることに恐怖を感じたのも無理は無いと思った。
「でも」と、私は口に出していた。
「でも、両儀さんが幹也さんにあげられるものが無いなんて、間違いです」
 きっぱり言った私を、両儀さんは不思議そうに見た。
「両儀さんはちゃんと生きていらっしゃるではないですか。生きているなら、自分で勝ち得たものも、変わってゆくものもあったはずです。時間と共に増えていったはず。ちゃんと幹也さんにもあげられるくらいに。それを分け合えばよかったんです。それが共に生きるということではありませんか」
 両儀さんは、わずかな間、虚を突かれたような顔になった。
「そうか」
 物思いに沈み込みながら、彼女は苦い声でつぶやいた。
「そうなんだな。無けりゃ、作れば良かったんだ。その通りだ。でも、オレは気づかなかった。あなたと幹也が付き合っていた時、オレはそんな簡単なことにさえ気づかないで、悶々としていたんだ。早く気づいて居たらな――」
 そういって、両儀さんは自分の世界に沈んでいったようだった。私は、夜景にじっと目を注ぐ、彼女の白い顔を見つめた。こんなことは言うべきではなかったのかもしれない。今さら、過去の過ちを指摘したところで、幹也さんが両儀さんの下に戻るわけではない。第一、私が許さない。両儀さんと幹也さんは、もう男女として愛し合うことなどありえないのだ。なのに、その道もあったと指摘することは、あるいは両儀さんに苦しみを与えてしまうだけなのかもしれない。それでも、両儀さんには、この苦い結末を見つめ、受け入れて欲しいのだ。
「乗り越えて欲しいのです」
 私は、両儀さんの横顔に語りかけた。
「一つの可能性は潰えたけれど、両儀さんにはまだ生きてゆく時間が残されているではないですか。きっと、思わぬ出会いもあるはずです」
 そう、私が兄さんを失って、でも幹也さんと出会えたように。
「それに幹也さんは両儀さんを見限ったわけじゃないでしょう? ちゃんと友人として大事にしてくれているではないですか。たとえ女として愛されることは無くても、一人の人間として大切にしてくれていることは間違いないでしょう」
 ふと、自分の言葉に自信を無くした私は、まるで確かめるように、両儀さんにこう言った。
「それではダメですか? 女として愛されなくなったら、もう終わりなのですか?」
 それを両儀さんに肯定されてしまったら、私の兄さんへの思いは無意味になる。それはやりきれなかった。
「いや、あなたの言うとおりだ」
 両儀さんは頭を振った。
「その通りさ。女として愛してはくれなくなっても、幹也はオレを大切な友人として見てくれている。前と同じように、幹也はオレに色んなものを与えてくれる。それで十分だと思うべきなんだろう。でも」
 両儀さんは、ぽつりとこういった。
「でも、どうしても割り切れないよ。割り切るには、幹也はオレには大きすぎたんだよ」
 私たちは肩を並べ、夜景をぼうっと眺めていた。

 夜遅く、私たちはバーを後にした。来た時と同じように、人影もまばらな深夜の繁華街を歩いてゆく。蒼崎さんと秋巳さんは、それぞれの家へと向かい、残った者だけで、駅に向かってのんびり歩いてゆく。私と幹也さん、そして両儀さんは、他五人から少し遅れて歩いている。前方では兄さんが女性四人の格好の餌食にされているようで、時々華やいだ笑い声が聞こえてくる。
「あんたたちはお似合いだよな」
 幹也さんを真ん中にして歩きながら、両儀さんが唐突に口にした。
「遠野さんは気品があって可愛らしいし、幹也も俺の目にはそう映る。お互いに相応しい相手を見つけたって訳だ」
 なにがおかしいのか、兄さんたちの背中を見ながら、ふふっと笑った。
「そもそも、幹也がオレを好きになってくれたのが異常だったんだ。それが終わったところで、本来の姿に戻っただけなんだ」
「式……」
 幹也さんは、言葉を失ったようだ。否定しようにも、私が横にいる。確かに言葉に窮すべき場面だ。
 でも、私は両儀さんの言葉に、未練を見出していた。いくら終わったことだと思おうとしたところで、両儀さんにしてみれば、幹也さんは他に代え難い存在だったのだろう。両儀さんは、『異常だった』といった。そんなことはない。そもそも、私と幹也さんが出会ったこと自体が異常なのだ。ふつうならありえない出会いだった。両儀さんにほんの少しの我欲があれば、幹也さんにもうほんの少しの決意があれば、そもそも私と幹也さんの見合いなどありえないことだったのだ。この世界が百回繰り返されたところで、幹也さんの隣に居るのは両儀さんだったはずなのだ。だけど、この世界では、ありえないことが起こってしまったのだ。たとえ両儀さんが幹也さんを得られなかったところで、代わりに鮮花が、藤乃が、あるいは近しい誰かが幹也さんを射止めていただろうに。
 私は、幹也さんの向こうを、少しうつむいて歩いている、両儀さんの白い横顔を見つめた。たとえありえないことだったとしても、幹也さんが私を選んだのは現実だ。両儀さんには、いつまでもここに留まっていて欲しくなかった。
「両儀さん」
 呼びかけると、ちらりと目を向けた。
「私、幹也さんの子供を産みます」
 幹也さんが、えっという顔になった。別に子供を作ることではなくて、それをわざわざ両儀さんに告げたことに。
 案の定、両儀さんは立ち止まると、私を鋭い目で睨んだ。殺気すら感じられるほどの。幹也さんはうろたえている。でも、なにかをこらえるような顔で、口を噤んでいた。
 幹也さんを挟んで、私たちは視線を交えた。両儀さんの強い視線を、私は黙って受け止めた。憂鬱な時間が過ぎる。
 と、両儀さんの表情が、ふと和らいだ。何かを悟ったように。
「そうか、そうだな、結婚してるんだもの」
 自分に言い聞かせるようにつぶやくと、少し悲しげに笑った。
「幹也と遠野さんの子供なら、きっと凄く可愛いんだろうな。早く産んでくれ。早く見たいから」
 そう。その時こそ、両儀さんに対する幹也さんの呪縛も解けるはずなのだ。両儀さんは、やっと幹也さんの影を克服できるだろう。魂すら溶け合わせようとした恋愛を忘れるには、その終着を目に見える形で受け入れるしかないのだ。そう、私は兄さんと翡翠が見せる日々の触れ合いを見せつけられて、ようやく苦い結末を受け入れたように。私はそう思った。
 両儀さんは、幹也さんと私の顔を順に見て、淡い笑みを浮かべた。どこかに痛みを隠しながら。
「オレも、誰かを見つけるよ。そうしたら、おまえたちにもオレの子供を見せてやるからな」
 私たちは、なにかが終わったことを感じながら、明るくて寂しい、夜の繁華街に立ち止まっていた。そんな私たちの耳に、なにかを弔うような鐘の音が、遠く、低く聞こえてきたのだった。
<続く>

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