浅上探検隊

「な んだ、遠野は自転車乗れるんだ」
「ひょっとして馬鹿にされたのかしら?」



 ここ浅上女学院は、某県某町の外れ、奥まった山中にある。
 町から車道を登ること十数km、町外れから続くこんもりした黒い森にもいい加減見飽きてきた頃、やっと森の切れ目に散らばる校舎群に遭遇する。森に隠れ 潜むようなこの学び舎こそが、我らの浅上女学院だ。
 なんでこんなところに――なんて疑問、入学当日には消え去り、諦念を含んだ納得に変わること請け合いだ。なるほど、これほどの閉鎖環境、完全環境なん て、こんな山奥にしか作れないよな、と。もっとも、あたしのように要らない冒険心を溜め込んだ向きには、ちょっとだけ塀の高さが足りなかったけれど。
 昼休みのひととき、遠野、羽居、その他数名とおしゃべりしていた時、学校のさらに内陸にある池の話題になった。穴場的な場所で、森の中にひっそりある。
「春先に行くとさ、萌黄色の葉っぱが日光に透けてさ、それが鏡みたいな水面に映えてさ。それはそれはきれいなもんさ」と、あたしが話すと「じゃあどうやっ て行ったの?」と聞かれた。自転車だよと答えたことから、自転車の話になり、いかにもこの手の庶民的なものに縁薄そうな遠野に振られたのだ。そして最初の やり取り。
「馬鹿にしたわけじゃないけど、お嬢様な遠野が、下々の足なんぞに造詣おありとはねえ」
「やっぱり馬鹿にしてるわね」
 遠野はつんと顔を背けた。
「お生憎様。使用人が使っているのに見て、美容と健康にいいと思ったから、一台作らせたの。三咲の町内は隅々まで走り回ったわよ」
「ふうん、お嬢様な遠野がねえ。変わったもんだな。愛しのお兄様の霊験あらたかってとこかな」
「なっ――」
 案の定、遠野は絶句した。図星だったのか、単に理不尽なことを言われたからか分からないが。このお嬢様は、何事であれ正直に顔に出してくれるから、から かうのを止められないんだ。
「ふざけないで、今の会話のどこに兄さんの事が出てくるのよ。大体あなた、自分が規則違反を犯してるって言うのが分かってるの?」
「あ、ああ、分かった、分かったからさ。ごめんよ、悪かった」
 話があたしにとって痛い方向に進みそうだったので、慌てて宥めにかかった。このお嬢様は、下手に怒らせると、その何倍も報復してくるから始末に終えな い。
「へえ、遠野さんの場合は『自転車を作らせた』になるのね。スケールが違うなあ」
 寮長がすかさず連続攻撃を加える。どこからかせしめて来たらしいビスケットを、ポリポリかじっている。
「体に合ったものにしようとしたら、自分の体に合わせて作らせるしかないでしょう?」
「ほら、ふつうはそうは考えないの。ふつうは店のものを買って、せいぜい自分に合わせて改造するだけよ」
「同じようなことじゃないの」
 遠野は分かってないのか、不思議そうな顔だ。
「ぜんぜん違うわよ。普通の人は自分で改造するって思うわよ」
 寮長は、やれやれとばかりに肩をすくめて見せた。あたしにせよ寮長にせよ、世間一般の常識から言えば十二分にお嬢様の範疇の生き物で、そこらへんの似非 お嬢様とは格が違うと密かに思っているけれど、このお嬢様はまた桁外れにお嬢様だから困ったもんだ。
「ねえねえ蒼ちゃん、蒼香号はどこに隠してるの?」
 羽居がふわふわと口を出してくる。こいつのお花畑は年中無休だ。
「蒼香号? ああ、あたしの自転車かい。実は職員用駐輪場に置いてる」
 ええっ、と一様に驚いた顔になった。
「どうやって? まさか学校に許可を頂いたの?」と、寮長。
「いいや、まさか自転車隠し持ってますなんていえないだろ? 遠野じゃないんだしさ」
「いちいち私にあてつけなくていいの。自宅通学のことでしょう? 別に蒼香みたいに犯罪犯してるんじゃないんだから」
「犯罪か。まあ、規則破りには違いない」
 思わず、くっくっ、と笑ってしまった。遠野をからかうと必ず相手してくれるんで、楽しい。
「ということは、勝手に駐輪場に置いてるのね」
 寮長が話を引き戻す。
「まあな。そもそも、こんな場所に自転車で来る物好きなんているか? 体育の先生が本格的なので来る位だろう? だから、学校側は駐輪場のことなんざ気に もしてないんだ。年に二回の施設点検の時だけだから、その時には別の場所に隠しておくんだ。そして目をつけられないように、時々はあたしが駐輪場の掃除も やっている」
「呆れたわ。まめな犯罪者ね」
 遠野は手を広げると、ぷらぷらと振って見せた。
「規則に背くためには弛まぬ努力も必要なんだよ」
「そうなんだー。蒼香ちゃんは努力型の犯罪者さんなんだねー」
「なんか、嫌な響きだなー」
 羽居にかわいらしく言われると、なんだか逆に大層な犯罪者のように感じる。
「自転車なら、わたしも持ってるよー」
 羽居の唐突な発言に、周囲はエッという顔になった。あたしだって。
「羽居が? なんのためにだ?」
「拾ったのー。森の中に捨ててあったの。まだ乗れそうだったから、自分で手入れして乗れるようにしてあげたんだよ」
「羽居はどこに置いてるの?」と、遠野。
「森の中だよ。秘密の隠し場所に置いてあるの。たまに町まで乗っていくんだよ」
「町から戻ってくるのが大変だろう。ちょっとした坂道だぜ」
 町から浅上までは、ダラダラした上りが続く嫌な道だ。毎度毎度のヒルクライムの面倒さを思い返しながら、あたしは聞いてみた。
「町外れに居ると、たいていは浅上の方に行くトラックさんが居るから、お願いして乗せてもらうの」
 あー、と、あたしたちは納得やら驚きやらの混じった声を漏らしていた。見ず知らずの人間に自転車ごとヒッチハイクなんて、羽居じゃなければ出来ないこと だ。それがまかり通るってのも、それで危ない目に遭ってないってのも、いかにも羽居ならではのことだ。なんていうか、どんな下心見え見えの人間でも、いや そうだからこそ、羽居には毒気を抜かれてしまうんだろうな。
「ちなみに羽ピン号は三号まであるよー」
 これにも、周囲はええっ、と驚きの顔。でも、あたしはそんなに意外に思わなかった。
「まー、自転車捨ててく輩なんて何人も居るだろうし、羽居は拾ったもんを修理しちまうだろうしで、溜まっちまうわな」
「羽居の机の上を思えば、容易に想像できるわね」
 同室のあたしも遠野も、その点に驚きは無い。羽居は、同じことを延々と繰り返しても飽きない人間だ。。
「ねー、みんなで行こうよー。蒼ちゃん池にー」
 さっきから場を引っ掻き回し続けている羽居だが、とうとう超ド級のを放り込んできやがった。よりによって、あそこまでヒルクライムかい。町からここまで の坂とは格が違うぜ。でも、考えてみれば面白そうだ。そんな機会、滅多に無いだろう。
「まー、行けなくは無いけどさ。結構きついぜ、あそこまでは。お嬢様方には無理じゃないかなあ」
 あたしは、そういいながら、遠野の方に意味ありげな視線を向けた。案の定、遠野の目がぴくりと吊上がった。
「なにいってるのかしら? 少々の坂なら問題無しよ。誰かと違って余計な肉なんてつけてないんだから」
 それは自爆だろう、と突っ込みたい気持ちを抑えつつ、他の連中に目をやると、ふうん、などと考えているようだ。少なくとも、闇雲に拒絶される雰囲気じゃ あない。あたしとすれば、なんとなく楽しそうだからやってみたい。それで、反応のよさそうな遠野に釣り糸を垂れてみたわけだ。なんだか遠野も承知の上で食 いついてきたように見えるけど。なら、結局は遠野部屋の住人三人がかりの釣りか。
 その日は、なんとなく高揚した気分のまま、まずは希望者を募ろうとか、羽ピン号を拝みに行こうなどということを簡単に話しただけで終わった。時間切れ で、午後の授業に突入してしまったんだ。だから、なんとなく、このまま忘れられてしまうのかなと思っていたのだ。

 ところが、あたしは羽居を舐めていた。こいつ、見た目と裏腹に、恐ろしく執念深いのだ。
 裏で、顔見知りに声を掛けては、羽居の言う『蒼ちゃん池サイクリングツアー』への参加を呼びかけ、同時に羽ピン号の在庫を着々と増やしていたらしい。つ くづく、恐ろしい奴。
 一方で、パンピーな奴らをどうやって外出(=脱走)させるかという難題も、とんでもない方向から片が付いた。遠野が学校側と掛け合って、レクリエーショ ン行事として認めさせてしまったのだ。まあ、山までの往復は、体育会系クラブの定例行事として実施されるくらいなので、学校の方もそうは警戒しなかったの だろう。過去に事例があったようだし、町と違って危険物(=男)が群れているわけじゃないし。遠野が、なんといって認めさせたのか知りたい気もしたが、 『政治的理由で秘密よ』などとぬかすので、怖くて聞けなかった。
 そんなわけで、翌週末に、浅女始まって以来の大冒険が実行されることになったんだ。なんだか、あたしの方が乗せられたような雰囲気もあったけど。

 予め、羽居、遠野、寮長辺りとは打ち合わせをしておいた。生徒会は昼の間、自治会は夜の間、それぞれの生活を管理している。だから、遠野と寮長がいるの は心強い。どっちにも話が通りやすいんだ。しかし、そうやってオーソライズするということは、気侭に止めたり出来なくなるということだ。特に羽居があちこ ちに吹聴して回ったので、話は高等部の生徒に知れ渡っている。塀の外に出るのさえ許可が要る浅上で、生徒だけでピクニックに出かけるなんて、今までありえ なかったことだ。みんな、あたしたちに注目しているんだ。
 あたしは、冒険当日には、朝食後すぐに正門に集合するように決めた。行くだけならともかく、帰ることまで考えると、早く出発しないと。なにせ根っからの お嬢様集団だ、あの池までの登りをスイスイこなせるなんて考えられないからな。距離は往復で20kmちょっと。でも間に100m以上の山が待っている。こ こを押して行くとすると、まあ一日がかりになってしまうだろうな。なにせ、帰りも――
 あたしは、学校側の動きに注意を払いながら、細かいスケジュールを組んでおいた。まあ、いざ出発してしまえば、どこで諦めるか、最後まで行くか、その判 断の時機だけが問題なんだけどね。それでも、ほとんどが20kmも自力で往復なんて初めての奴ばかりだろうから、とにかく懸案をひねり出しては、それを潰 していったんだ。しかし、たかが山奥の池まで往復するのに、ここまで手間を掛けなきゃならないなんてね。あたし一人なら、本当に午後の暇つぶしくらいなん だけど。
 学校の方は、遠野が万全に対処してくれたようだ。先生方から漏れ聞こえてくるのは、まあ生徒の自主性を重んじる時代だから――なんてつぶやきだけだ。箱 入り娘量産工場の浅上で、自主性なんて言葉が聞かれるようになるとはね。遠野と寮長が地道に、強力に続けてきた学院の気風改善が、既に効果を現していると いうことだろうかね。
 羽居の方も気になっていたけど、こっちも遠野がそれとなく目を配ってくれているようだったので、それに甘えて任せきっていた。なにせ、道中の食事、水の 調達、学校側に提出する名簿に大まかなルート説明書の作成と、やらなきゃならないことが山積みだったんだ。
 それでも、一度も羽居の言う"羽ピン号"の現物をチェックしなかったのには、後で後悔することになったけれど。
 参加希望の生徒が固まったところで、あたしは決行日付と、当日のルートを参加者、学校の双方に説明して回った。あんな思い付きが、こんなしんどいことに なるなんてね。でも、おかげで凄く充実したものになりそうな気がしていた。
 決行は日曜日。土曜日も半日授業があるこの学校では、それ以外に候補は無い。

 その日、あたしは早めに起きて、トランクルームに置いた装備をチェックしに行った。装備といっても、自転車用のヘルメットに小さめのリュック、ペットボ トルに水、傷薬にお菓子くらい。後、朝食後に昼食のサンドイッチを、厨房で受け取れる手はずになっていた。生もの以外は知り合いのアウトドアショップの店 長が貸してくれた。アウトドアツアー用に準備してあるものなんだそうだ。きれいに洗って返せば問題ない。「つうか、女子高生の汗が染み付くなら大歓迎 だ!」といわれたが、とっさに踵落しを食らわせたい誘惑を振り払うのが大変だった。
 生ものは参加者から予め参加費を徴収して、それで買い集めた。昼食は、学校が認めたレクリエーションということで、ロハで提供されることになっている。 自転車は、羽居や自分の持ち物という点は隠して、やはりレンタル品ということにしておいた。
 当日、朝食後の裏門に集まったのは、遠野部屋の住民の他は、寮長となぜか四条、そして晶と同室の子、生徒会の縁か高雅瀬も参加している。他にもわたした ちのクラスメートが三人。結構な人数になったな。いつもはマシンガントークの高だが、緊張しているのか口数は少ない。四条は、羽居からなんて誘われたのか 知らないが「なんで遠野さんがいるの?」とパニック寸前だ。遠野はそれを生暖かい目で見ている。一番心配なのは晶と、同室の子か。中二の子には少しきつい 登りかもしれない。まあ、大丈夫。あたしだってそんな体力ないし、丸々押していくことになっても、スケジュールには織り込み済みだ。
 門の所で、レクリエーション指導の先生から細々した注意を受けたあと、いよいよ塀の外に出る。「捜索隊を出さないで済むといいわね」という激励の言葉が 身に染みた。後ろで見送りの生徒一同がバンザイなんて始めないかと警戒したんだが、生暖かい見送りを受けるだけで済んだ。それにしても、塀を越えるのなん てしょっちゅうやってるのに、正式に校外に出るのは稀なので、あたしらしくもなく緊張してしまった。全員、動きやすそうな私服に着替え、あたしが揃えた装 備を担いでいる。別に何か注意したわけでもないのに、全員が見事にパンツだった。羽居からして、膝丈のパンツだ。みんなちゃんと考えてるんだな、と感心し た。特に遠野のクロップドパンツ姿なんて、この先もお目にかかれそうに無いくらいのレアさだ。
 今、あたしたちが進んでいる道は、裏門から県道まで続く一車線の舗装路だった。アスファルトの路面の横は、いきなり森になっている。夜中にここを通ると 人魂に襲われる、ってのは学校側が流したデマだろうな。実際、あたしはそんなもの、見たことがない。この道を300mほど進むと、二車線の県道に出る。こ んな、熊くらいしか出そうに無い場所に、きれいに舗装された道が走っているのには、もちろん浅上のネームバリューも関係しているんだろう。また隣県への裏 道の一つになっているせいでもあるようだ。そしてこの道で北に低く見える山壁を越えてゆくと、目的地の池があるんだ。まあ、小さなカルデラの、さらに一 部ってことらしい。辺鄙すぎるところにあり、またあの辺までが浅上の管理地になっているとかで、ほとんど無名の場所だ。でも山壁の頂――カルデラの外輪 山ってことになるのか――から見下ろすと、かつての火口に広がる小さな森の緑がとてもきれいで、そして真ん中に小さく光る火口湖の佇まいも素晴らしいん だ。何度も来たけど、いつかはみんなと来たいなと思ってた。そして今日、その機会が思いがけずやってきた。
「遠野のは羽居の隠し場所に?」
 かたわらを、サンドイッチの小さなバスケットを下げて歩く遠野は、ヘルメットもリュックもない。ちゃんと自分用のを持ってきているという。そして、自転 車だって。
「ええ、昨日のうちに、使用人に持ってこさせて、羽居のと一緒に停めてあるわ」
 まあ、あんだけでっかい車で通ってるんだから、自転車を運ぶなんて簡単だろうな。
 学校の建物が完全に見えなくなった辺りで、あたしは道路脇の木にくくりつけてあった自転車を引っ張り出した。さすがに、今日は駐輪場に置いておくわけに は行かず、昨夜のうちに移動してあったものだ。
「あら、なんだか本格的じゃない」
 寮長が感心したように言う。あたしが乗っているのはアメリカのブランドで売っている超軽量マウンテンバイクだ。我ながら背が無くて体力もそれほどではな いあたしは、できるだけ軽いのを選ばざるを得なかった。幸い、実家からの小遣いは無尽蔵に近かったんで、思い切ってカーボン製フレームに軽いパーツを組み 合わせた成金仕様で仕立ててもらった。前輪にサスペンションがついているのに、これでも9kg台前半という軽さだ。
「チビなあたしには重いのは無理なんだ。でもまあ、今日はどんだけ重い自転車でも大丈夫だよ」
 羽ピン号のことをママチャリだと思い込んでいたあたしは、少し自慢げに言い放ってた。まあ、羽居を舐めてたってわけだが。
「こっちこっちー、こっちだよー」
 自転車を押して、何の気なしに進んでいたら、羽居が横道を示した。そうだ、羽居の自転車の置き場所、あたしはまだ見てなかったんだ。
 横道をほんの20m進むと、少し開けた草地があって、古い掘っ立て小屋が忽然と現れた。たぶん、山仕事のために建てて、そのまま朽ちつつあったんだろ う。だが誰かが一生懸命に修理して使えるようにした形跡がうかがえる。ぞんざいな癖に丁寧でもある仕事振りは、なんだか見覚えありだが。
「ここが羽ピンベース一号だよ」
 なんだそれ、という一斉の突っ込みを背に、羽居は木戸をえいっと開いた。多少強引に捻り開けるのがコツらしい。中は結構広くて、しかもちゃんと片付いて いる。そして、明らかに人数分以上の自転車がきっちり並んでいる。
「ちょ、これってさ――」
 あたしは、居並ぶ羽ピン号の姿に絶句した。だって、揃いも揃ってドロップハンドルばかりだぜ――
「県道沿いの空き地にたくさん捨ててあったの。できるだけたくさん拾ってあげて、乗れるようにしてあげたんだよ」
 羽居はえっへんと胸を張る。
「なんだって? たぶん盗品を捌けなくなって捨てたとかじゃないかなあ。これみんな、福沢さん二十名以上のコースだよ」
 ほとんどが国産、外国産を問わず、ちゃんとしたロードレースに出られるくらいのモデルばかりだ。でもサドルを換えるとかいったありがちな改造がまったく されてないから、店や倉庫から盗んで隠し場所に困って捨てたとかじゃないだろうか。
「うーん、じゃあ、どうするかは、使った後で、みんなで考えようね」
 羽居は大して悩むことも無く答えた。うーん、今さら自転車無しってのはありえないし、それが穏当な落しどころか。いやいや、問題はそこじゃなくて。
「おい羽居、これちゃんとフィッティングしたんだろうな?」
 ママチャリとスポーツサイクルの最大の違いは、ちゃんと体に合わせないと体を壊してしまうという点だ。なにせ、乗る者の体力を最大限に引き出すための物 なんだから。
「したよ。一人ずつ来てもらって、本で読んだ通りにやったんだよ」
 えっへんと胸を張り、羽居は自慢げに答える。まあこいつは、意外にそういう手順は遵守する奴だ。なんでも、転がっている自転車から小さめのを選んで拾っ てきたらしい。
「でもなあ、フィッティングをやったって、いきなりロードバイクはきついだろう? 腹筋背筋がついてないお嬢様方にはつらいよ」
 まあ、遠野や寮長は体力的に大丈夫だろう。この二人は体育でも好成績だ。だが羽居を初めとする普通の生徒は、本当に丁寧に箱入りにされているようなお嬢 様方ばかりだ。なるほど、いつも騒がしい高の顔色が冴えないのも当然だ。
「やだっ、こんな姿勢じゃ五分だってもたないわよ」
 自分に割り当てられた自転車にまたがって、高は叫んでいる。ロード用のブレーキレバーに手を届かせようとすると、まるで腕立て伏せするみたいな低い姿勢 になるしかない。いきなりこれは、きついだろうなと思った。足だって、つま先立ちがせいぜいだ。それくらい、サドルを高くしなきゃならないんだ。
「雅瀬ちゃん、大丈夫だよー、そういう姿勢の方が結局楽なんだって、本に書いてあったよ」
 羽居は自分の自転車を引き出しながら、のほほんと言った。そりゃあまあ、100kmとかならな。でもたかが20km先の山ん中に行くのに、これはない よ。
「まあ、坂道で力出せるのはこのポジションだし、押して行くにしても軽い方がいいだろう? 結局はそれが楽だよ」
 これ以上、自転車のことで悩まされたくなくて、あたしはそういってみんなを突き放した。今日の距離からすれば、ペダルを踏めば走り、ブレーキレバーを握 れば止まる、それ以上望む必要が無いからだ。整備の方は、さすがに羽居というところか、まず基本的な部分はできているように見えた。変速機とかの調整は無 理だったみたいだが。
「あれ、これって空気抜けてない?」
 寮長が、タイヤをつかんでみせた。確かにスカッと抜けている。
「あれえ、ちゃんと修理したんだけどお」
 羽居は、ほんの少し困った顔になったが、ほとんど悩むことも無く、代わりのチューブを持ってきて、うんしょうんしょと入れ替え始めた。スポーツ車はホ イールが簡単に外せるので、この点は楽だ。
「あっ、わたしのも抜けてるみたい」
 危なっかしくヘルメットを被った四条が、やはり恐々とタイヤを押して見せた。やはりスカッと抜けている。まあ、十台近くもあって、しかも元々捨てられて いたもんなんだから、こういうこともある。特にパンクの場合、小さな穴からゆっくり抜けてゆくスローパンクという奴もあって、意外に完璧な修理が難しいん だ。
「貸してごらんなさい」
 遠野がすかさず歩み寄って、パンクの状況を確かめた。
「ひっ、と、遠野さん」
 とたんに、四条は卒倒寸前になる。まさか、よりによって苦手中の苦手の遠野が反応するとは思わなかったんだろう。遠野は、はあ、と小さくため息をついた ようだ。遠野の方は別になんとも思っちゃ居ないんだろう。だが四条の反応がうざいというところか。まあ、どう考えても、遠野の自業自得だろうけどさ。
「これも同じだな。羽居、換えチューブは?」
 あたしもタイヤを押してパンクを確認すると、既にチューブを入れ換えてタイヤをはめ直している羽居に声を掛けた。
「わたしのリュックに入れてるよ」
 羽居のリュックを覗くと、まだ5本くらいチューブが入っていた。羽居が時々突拍子も無い部分で用意周到なのは助かる。さっそく遠野と協力して、チューブ 入れ替えを始めた。遠野もさすがにパンク修理はやったことなんて無いのだろう、あたしの手筈を感心するように見ている。
「あのー、三澤先輩、わたしの自転車、なんだかブレーキが利いてないみたいなんですけど」
 晶の同室の子が、困った顔でおずおずと声を上げた。
「あら、本当ね、ちっとも止まらないわ」
 羽居の修理待ちで手持ち無沙汰だった寮長が、自転車をテストする。ブレーキを掛けても、ずるずると自転車が進んでしまうんだ。ちょっと見、リムにシュー が乗ってないってわけでもなさそうだ。
「あら、ねえ、三澤さん。これ、車輪が油で汚れてるんじゃない?」
 寮長が、原因を目敏く見つけた。たしかに、リムに黒い油がこびりついている。これじゃ止まらないよな。
「ごめんねー、環ちゃん。そこに洗剤と雑巾があるから、きれいにしてあげてくれないかなあ?」
 寮長号のタイヤをはめ直そうと忙しそうにしている羽居が、作業机の上を指し示した。寮長と別のクラスメートとが、下級生の子の代わりにホイールをきれい にし始める。
 他にもサドルが硬すぎるので換えるだの、チェーンがギアに食い込んでしまっているだの、細かなトラブルが次々に発覚する。はあ、やっぱり予めチェックし ておくんだった。羽居は七十点取れても、それ以上の細かい部分でポカを連発するような奴だからだ。でも、なんだかみんなで助け合おうという雰囲気が生まれ てきて、特に下級生二人は助けなくちゃねという空気が感じられて、あたしはちょっと嬉しくなった。こうでなくちゃ、みんなで出かける意味は無いよな。

 かれこれ、細かなトラブルを片付けていたら、もう十時前だ。まだ走り出してもいないのに。まっ、こういうトラブルが走り出してから発覚しなくて良かった と思うことにしよう。
「これで万全ですよね」
「そうそう、自転車だってこんなに軽いんだし、もう怖いものなんてないよ」
 車道まで自転車を押し歩く間、そんな会話が後ろから聞こえてきた。みんな、少々のトラブルではめげないくらい意気軒昂なのは助かる。やる気なくてダラダ ラな奴らを引っ張ってゆくくらい、面倒なことは無いからな。
「それにしても、遠野のは、さすがにやりすぎ仕様だよな」
 あたしの隣を行く遠野の自転車を見て、少し揶揄するように言ってみた。
「そうかしら。これも軽くて、とても乗り心地いいのよ」
 遠野は悠然たるものだ。まあ遠野は、それがやり過ぎだっていわれても、ピンとこないんだろうが。
 見た目、ママチャリに見えなくは無い。でもそれは、ハンドルだけの話。フレームはチタンで、ホイールもハンドルもそうなんだろう。変速機やレバーは、名 前だけは知っていたイタリヤ製の最高級グレードのもんだ。ママチャリの皮を被ったロードというところ。ハンドルにしても、マスタシハンドルというのか、昔 流行ったらしい形式の、実際にはスポーツ向けのもの。こんなもの売ってるのみたことが無いので、たぶんどこかで作らせたんだろう。確かに、これは軽くて快 適だろう。
 遠野は、最初はヘルメットを頑として拒んだが、あたしが『学校が認めた行事なんだし、遠野がこけたらあたしの責任問題なんだぜ』というと、渋々という感 じで呑んでくれた。被ってゆくつもりだったらしい麦藁帽子は、首の後ろに揺れている。ヘルメット被って、麦藁帽子か。シュールだ。
 ほとんどがロードバイクという異様なピクニック集団になってしまったけど、これはこれで面白そうだとあたしは思った。ただし、下級生二人の自転車が問題 だ。サイズがどうしても合わなかったらしくて、これも羽居が秘蔵していた――いったい、どこに隠してたんだと考えるのは止めよう――ジュニア向けマウンテ ンバイクに乗っている。しかし、この手の自転車は、大人用高級車よりもずっと重いんだ。たった数年しか使われないわけで、安物ばかりだからな。恐らく、体 力的に言っても、この二人が最後尾になるだろう。あたしがアシストしてあげなきゃ。幸い、ルートは間違いようが無い一本道なので、この先の登坂は各々の ペースで登ってもらって、峠で集合ということにしよう。
 なんてことをつらつら考えているうちに、車道に到着した。右を見て、左を見て、車の居ないことを確認してから、あたしはサドルに尻を乗せた。
「よーし、出発!」
 溌剌として号令を掛けた途端。
「きゃ〜っ!」
 後ろの方から悲鳴が上がって、あたしはずっこけそうになった。声の主は、いつも落ち着いている寮長だ。
「どうしたどうした」
 あたしが慌てて自転車を放り出し、駆け寄ると、寮長は情けなさそうな顔で右足を示した。
「チェーンで裾が汚れちゃうのよ」
 あたしがずっこけるより先に、周囲から「いや〜っ!」「ほ、ほんとうだわ」なんて声が。あのなあ、今頃気づくなよ。
「スポーツ用の自転車はギアもチェーンもむき出しだから」
 遠野は平然としている。それも道理で、ロードレーサーっぽい自転車の癖に、ギアガードやらチェーンガードやらが着いているからだ。「淑女の自転車には当 然でしょ?」とか。さすがオーダーメイド。そんなものまでつけたなんて。
「裾はバンドで縛っておけよ。みんなのバッグに入れてあるだろ? それか、捲くっておくかだよ」
 話しておかなかったあたしも悪いけど、それくらい気がつかないかな。
 こうして、またしても足止めを食ってしまったあたしたちは、車道の脇の草地に自転車を引っ張りこみ、裾をバンドで縛ったり、髪をクリップで留めたりで、 慌てて身繕いしはじめた。自転車が片付いたら片付いたで、ようやく自分たちの身支度に気が回ったというところか。
 身支度は十分くらいで終わり、ようやく出発だ。続々と車道に漕ぎ出して、左端を一列で走り始めた。みんなハンドルの低さ、サドルの高さにびびりっぱなし だが、まあじきに慣れるだろう。
「ペダルはしっかり回せよ。ギアが重過ぎるから回せないんだよ。レバーを横に押して、そうそう、そうやって軽いギアにするんだよ」
 列の横を行き来しながら、しばらくは『変速の仕方』なんて低レベルな指導に明け暮れる。しかしまあ、日本屈指のお嬢様集団だから、出立までに時間が掛か るだろうと思ってはいた。でも、予想もつかない事態が続くもんだ。
 池に向かう道路に出るまでに、なんとかみんなを軽いギアに変えさせて、ブレーキの掛け方まで教えることができた。とりあえず、軽いギアでゆっくり進めば 疲れないし、坂だって大丈夫だ。時間は充分ある。今のところはだけど。
 それまでの一車線の道路から、二車線の道路に出るところで、全員を止めさせた。
「この先は車も結構通る道だから、気をつけてくれよ。交通量はたいしたことが無いから大丈夫だけど、ふらついて跳ねられたりしないようにな。縦一列で走れ よ」
 よし、行くぞ、と号令を掛けると、おーっ、と一斉に拳を突き上げて応えた。みんなテンション高いな。さっきまでびくびくしていた高も、四条も、今はニコ ニコだ。うんうん、こうでなくちゃね。
 あたしはペダルに足を掛けると、向こうの山まで、しばらくはまっすぐに続く道に進み始めた。後ろの連中も続く。誰かが機嫌良さそうに歌い始めて、それは いつしか合唱に変わっていった。あたしたちが走った分、森に歌が染みてゆく。

 そんな気持ち良い時間も、ほんの少しのことだった。5分も走った頃、あたしは変調を感じた。おかしい、こんなにスピードが出ないなんて。
 足を止めて、顔を上げた。風を感じる。向かい風だ。ああ、そういうことか。それでつらかったのか。
 振り向くと、案の定、後ろの列は大きくばらけていた。すぐ後ろには寮長が着いていたが、他の連中は大きく遅れている。概ね、体力順というところか。それ なのに遠野の姿が見えないのが気になる。下級生二人もだ。
「遠野さんは一番遅れてる晶ちゃんたちについてるわ」
 あたしの意を察して、寮長が教えてくれた。
「ねえ姫、もしかして、既に坂なんじゃない?」
 寮長も意外につらいと感じたのだろう、疑問を口にした。
「ああ、まっすぐな道なんで分かりにくいけど、もう登りだよ。100m毎に数m程度だけどね。でも、つらいのはそれだけじゃない。向かい風が吹いてるん だ」
 あたしは行く先に手を差し伸べた。指先に風を感じる。平地だと大したことが無い風だし、この坂だって普通なら気にもならない程度だ。でも、この二つが合 わさるとなると別なんだ。
「ちょっと蒼香、もう少しペースを落とせない?」
 やがて最後尾でやって来た遠野が、晶たち中二の二人を指して言った。二人とも、まだそんなに走ってないのに、かわいそうなくらい肩で息をしている。
「先輩、風がきつくて着いていけません」
 晶はハンドルにもたれ、もう汗を滝のように流している。中二組は二人ともだ。
「この風は予想外だな。この分では晶たちが真っ先に脱落しそうだし、みんなもばててしまう」
 あたしは素早く頭を巡らせた。これくらいの風、これくらいの坂なら、本当ならみんな問題なく走ってゆけるはずだ。あたし一人なら、本格的な登りに掛かる まで、たとえこれくらいの風があっても、時速20kmくらいは鼻歌交じりで出せる。でも、まだそれぞれの自転車に慣れてないみんなには無理だ。
「スピードを落としてゆっくり走っていこう。遠野、あたしの後ろに着いてくれないか。みんなも出来るだけ前の自転車にぴったりくっつくんだ。風除けがあれ ばずっと楽になる。それと寮長、晶たちの前に着いて、面倒見てやってくれないか?」
 寮長は、一瞬だけ不思議そうな顔になったが、すぐに合点が行ったようで、大きくうなずいた。遠野も不審そうだが、文句は言わない。
 順番から言いえば、遠野に晶たちの面倒を見させるのが順当だけど、遠野は他人にも自分にも厳しすぎる。晶たちは叱咤激励されすぎて、かえって疲れてしま うだろう。その点、人当たりの柔らかい寮長の方が、サポート役にはいいんだ。
「よし、本当にゆっくり行くから、みんながんばり過ぎないようにしてついてきてくれ」
 あたしは再発進させると、本当にゆっくりと、時速10kmくらいで走り出した。言った通り、遠野がぴったりと続く。その麦藁帽子を目印に、背後の連中が うまい具合に列を詰めて行った。
「本当、風除けがあると全然楽ね」
「急に止まらないでね、ぶつかっちゃうから」
 後ろの方でそんな声が聞こえる。向かい風だと士気が萎えちまうもんだが、後ろの連中は初めてだからか、まだまだ意気軒昂だ。ずっとその調子で居てくれ よ。せめて、本格的な登りに掛かるまでは。あたしたちは、そんな調子で、なんてことの無い坂を、でも風に逆らって助け合いながら走って行った。

 走り続けること三十分。あたしは自転車を止めた。けっこういい感じに列を作ってきた後続も、やはり次々に自転車を止めた。
 全員が、目の前の光景を黙って見詰める。道は、ここから急にうねりだして、九十九折れを作りながら山腹をよじ登っている。緑に覆われた山腹に、白いガー ドレールが頭上に、さらに頭上に見え隠れしている。
「これを登るのね」
 遠野が、やや途方に暮れたようにいった。後ろの方でため息やら嘆きの声やらがいくつも聞こえる。まあ、この登りを前にすれば、仕方ないか。
「坂はそんなに続かない。100m登るだけだから、2km弱くらいかな。見た目ほどきつくは無いよ」
 あたしは、全員を励ますように言った。実際、こういううねった道は、道の傾斜を緩やかにしようとして付けられているのだから、見た目ほどひどい登りでは 無いことが多いんだ。でも、今日初めてペダルを踏んだような連中に、いきなりこれはきついか。でも、ここであたしが怯む素振りを見せたら、みんな萎えてし まう。
「晶たちは大丈夫か」
 一番心配な中二ズに声を掛ける。
「はい、大丈夫です」
 晶たちは、結構汗を掻いてはいるものの、スピードを抑えて体力温存を図ったおかげか、全然元気そうだ。
「よし、みんな大丈夫だな。寮長、ここまでありがとう。後はわたしが晶たちの面倒を見るから。みんなは各自のペースで上って行ってくれ」
「ねえ蒼香、どこまで登ればいいの?」
 ペットボトルの水をわざわざグラスに移してチビチビ飲みながら――ラッパ飲みに抵抗があるらしい――遠野が聞いた。
「一番上だよ。登りきったら視界が開けるから、分かるはずだよ。そこで待っててくれ」
 遠野はうなずくと、坂の方に目をやってヨシ、と気合を入れ、それからゆっくりと登り始めた。寮長が、高が、四条が、羽居たちが続く。みな、やや重そうに ペダルを踏んでいるのが気になったが、まあ2kmなんてすぐだからと思い直した。
「じゃあゆっくり行くか。ギアは出来るだけ軽いのにしておけよ」
 あたしは晶たちを促すと、あたし自身もかなり軽いギアを使い、クランクをシャカシャカと回しながら、ゆっくり登り始めた。順当に行けば、あたしたちが最 後尾で登ることになるはずだ。あたし自身は、この坂は何度も越えたから、勝手が分かっている。こういう九十九折れの道は、一つ登る先に次の坂が待ち構えて いて、しかもすぐ横にさらに次の坂が聳えているから、物理的にきついというより、むしろ精神的に圧倒されてしまうんだ。だから、晶たちには「とにかくあた しについておいで」と言い置いて、一番楽なコースを取った。カーブで内側を走ると傾斜がきつくなるので、出来るだけ外側に誘導した。幸い、休日のこの時間 帯には、車がほとんど走ってない。たまに来た奴は少し路肩に寄れば、勝手に追い抜いてくれる。追い抜かれるとき、別の対向車がまったく無いので、追い抜く 車も気楽なんだろう。こうして楽なコース取りをしたおかげか、二つ目のカーブを登り切ったときには「思ったより楽ですねー」と、晶の声も明るかった。ま あ、この先も続くんだけどな。
 三つ目のカーブを回りきったとき、前方に早くも脱落気味の連中が現れた。羽居、高ら数名のクラスメートたちだ。
「蒼ちゃん、きついよお」
 羽居は涙目になっている。思わず駆け寄って背中を押してやりたくなったが、後輩を引いている今は無理だ。高たちも早々とばてている。
 もっと軽いギアに、と言おうとして、あたしはやっと気がついた。そうか、こいつらはロードバイクに乗ってるんだ。
「羽居、いいから降りて押しちゃえ。ロードだと軽いギアが無くてつらいんだろ。押してもそんな変わらんから」
 そう、ロードバイクはとにかくスピードを出すのが目的なので、軽いギアは切り捨ててるんだ。ロードバイクで山を登るのは、ヒルクライムといって別種の ジャンルになるくらいの、また別個のスキルが必要なんだ。まさに山用なので、どんな坂でも登れるくらい軽いギアがあるマウンテンバイクとはそこが違う。
「っつか、お前さんがその自転車配ったんだろ」
 そのことを思い出して、併走しながら突っ込んでしまう。
「坂なんて登ったこと無かったんだもん」
 自分のことなのに、羽居は口を尖らせてぷんぷんと怒ってみせた。羽居が怒るとかわいいな。涙目だし。まあ、いままで楽してきたから、こうなるんだ。結 局、羽居たちは次々に自転車を降りると、とうとう歩き始めた。
 羽居たちに合わせて少し落としていたペースを、さっきまでのものに戻す。目を上げると、いくつか上の道を、遠野、寮長らが登っているところだった。その 後、あたしたちとの間にも、何人かのクラスメートが挟まっている。概ね、体力順と言うところか。遠野の自称ママチャリは、さすがに軽いギアが用意してある ようだ。そんなつらそうな顔ではない。もっとも、遠野はこういう場合、ポーカーフェースで通すかもしれないけど。寮長も運動性能が高い。急坂なんてダンシ ング、平たく言えば立ち漕ぎのかっこいい版で越えている。さすがだな。ロードなんて初めてだったろうに、なんとなく様になってるのが凄い。そしてその直後 に、なんと四条が歯を食いしばって続いている。まあ奴も、遠野を除けばトップクラスの優等生なんだしな。遠野に対する意地もあるんだろう。
「ほら、あのちっこいのが浅上だ」
 あたしは、晶たちに来た方を示した。森の向こうへと道が続き、その向こうに浅上の学び舎の尖塔が見えている。
「あんな遠くに!」
 晶は素直に驚いている。自力ではここまで遠くに来たことが無かっただろうから、感激も一入だろうな。二人とも、まるで子犬のように楽しげに、そして必死 についてくる。
 ちょっと涼しいくらいの気温なのに、ずっと足を回し続けていると、段々と汗をかいてくる。そして過呼吸気味になるからだろうか、次第に頭の中も、いい感 じになってくるんだ。クライマーズハイって奴か。目を横にやると森、そして後ろには可愛い後輩たち。あたしはますます楽しくなって、ひたすらペダルを回し 続けた。

 あたしたちが頂上に着いたのは、小一時間も経った頃だった。さすがに自転車の重さが響いたようで、晶たちの声が段々聞こえなくなってきた。そこで適当に 小休止を挟みながら、ゆっくりと登ってきたんだ。結局は、ほとんど歩いてきた羽居たちと変わらないくらいの時間だった。
 頂上は、ちょっとした峠になっている。振り返ると浅上の森が、そして前方には、これから下ってゆく先のカルデラの森がうずくまっている。それを大きく見 渡してゆくと、その森は確かに円形で、山に囲まれている。結構開けたところにある峠なので、それだけ周囲の眺めがいいんだ。今日のピクニックの目玉の一つ だ。
「こんな風になってたのね」
 小さなハンドタオルで汗を丁寧に拭いながら、遠野は火口の方を見下ろしている。なんていうか、こうして開けたところに遠野が仁王立ちしてるってのは、妙 に似合ってて笑える。支配者の風格と言う奴か。
「なにかしら?」
 あたしの内心に目敏く気づいたのか、遠野は少し声を尖らせてきた。
「なんでもないさ」
 慌てて口元を拭うと、あたしも遠野と並んで風に当たっている振りをした。
「蒼ちゃん、起きらんないよー」
 羽居は草地にへたり込んでいる。遠野、寮長にくっついて行った四条ものびている。寮長は涼しい顔で、古風なフィルムカメラに周囲の風景を収めている。峠 を挟んだ草地には自転車が散乱して、その間にクラスメートたちが座り込んだり、汗を拭きながら水をがぶ飲みしたりしている。中には衣服がまくれるのもその ままに、四肢を投げ出してのびている奴もいる。誰かと言うと四条だが。なかなか凄い眺めだ。これをデジカメで盗撮して適当な所に投稿したら、世の男どもが さぞかし実用的な使い道を思いついてくれることだろう。
 全体的に、予想外に消耗している感じだ。やっぱ、いくら車重が軽いとはいえ、ギアが足りないロードバイクでの登坂はきつかったか。
 どうする、引き返すか、と聞こうとして、そういえばと時計に目をやった。もうじき十二時だ。まあ、飯を食ったら気も変わるかも知れない。
「ちょうどいいから、昼食にしよう。行くか戻るか、それから決めよう」
 あたしはみんなに声を掛けて回った。遠野や寮長は、なにをいまさらという顔になった。四条も意地でも前に進むつもりみたいだ。でも羽居、高を初めとする 予想外につらい思いをした連中は、どうしようかなと思案顔だ。
 それでも、遠野が自転車の前かご(さすがママチャリ)に入れてあった敷物を出して、バスケットからサンドイッチとお茶を並べ始めると、他の連中もそれに 倣って昼食の準備を始めた。あたしは晶たちと食べるつもりだった。が、晶はなにやら青い顔になって、同室の子に「遠野先輩と食べようよ」などと言い出して いる。ふと遠野の方に目をやると、五人位座れそうな敷物を拡げた上で、晶の方にコイコイと手招きしているところだった。ああ、こりゃあ、逆らえないよな。
 結局、あたしも遠野、晶たち、そして羽居に寮長と一緒にお昼を食べることにした。四条、高たちも近くにポツポツと固まっている。
「ずいぶん見晴らしがいいのね。こんなところがあるなんて知らなかったわ」
 サンドイッチを上品に口元に運びながら、遠野はつくづくといった顔で言った。
「あら、遠野さんは気づいてないの。ここ、生徒会室の窓から見えてる山のてっぺんよ?」
 寮長が横合いから突っ込みを入れると、遠野は、えっ、という顔になった。
「そうなの。でも、学校からはずいぶん低く見えていたけれど」
「そうだな。間に単調な森があって、その向こうにそんな高くない山があるわけで、遠近感がつかみにくいかもしれないな」
 答えてから、考えた。あたしだって、いざこっちに走ってみようと思うまで、山の高さなんて気にしなかったし、森がどれだけ続くかなんてのも考えたことが 無かった。いつものあたしたちが、いかに籠の中の鳥でいるかってことさ。たった10kmくらい走っただけで、世界の広さがほんの少しだけでも分かった。 やっぱり、遠野や寮長にがんばって貰って、どんどん風通し良くしてもらわないと。ううん、あたしだって頑張れるんだ。こうして今までに無いことを何度も やっていけば、もっと風通しがよくなってゆくはず。あたしたちの世代には間に合わないだろうけど、頑張れば晶たちの頃には雰囲気も変わっているだろう。晶 たちにとっては、こんなピクニックなんて当たり前になるかもしれない。なって欲しい。
 見晴らしのいい場所で、たかが軽食の癖にやたら手間のかかっているらしいサンドイッチを頬張りながら、たわいないおしゃべりに興ずる。場所が場所だけ に、学校近辺の地形のことや、道路を下った街の話が多かった。みんな、街のことをほとんど知らないのには驚いた。まあ、ほとんどの奴は、自宅に帰るにはタ クシーで駅まで出て、ってのが多いんだろうけど。それにしても、駅に出たら出たで、ちょっと探検しようって気にならないのかな。
「そうね。街なんていっても、家と学校の通過点に過ぎないと思ってたわ。そういう方向に考えが行かなかったわね」
 寮長がしみじみと言った。そうか、学校で暮らして、たまに家に戻って。そんな生活を機械みたいに続けていたら、ただ通り過ぎるだけの街のことなんて、気 にもならないのかもしれないな。
「そうねえ、わたしも自転車を手に入れて、姫みたいに探検しようかしら」
 羽ピン号は警察に引き取ってもらわなくちゃいけないから、と寮長が続けると、羽居は「そんな、殺生だよー」と驚いた。まあ、あたしもそれが筋だと思う。
「盗品かもしれないんだから、警察に届けるのは仕方ないわね。それに自分で買えば、自分の乗り方に合った自転車を選べるわよ」
 遠野は蚊帳の外なので、平然としたものだ。
「それはもっともだな。今日思ったけど、やっぱりふつうの女子高生にロードバイクはツライだろう?」と、あたし。
「じゃあ、どんな自転車があるのー?」と、羽居。
「ロードバイクはもういいよな。要するに体を苛めてスピードを出しましょと言うもんだ。マウンテンバイクは大体なんにでも使えるけど、スピードは控えめだ し、ロードほどには軽くない。お買い物ならママチャリがいいし、旅に出るならキャンピングだのランドナーだのがある。基本構造はそんな変わらないけど、ポ ジションや頑丈さ、パーツ、アクセサリで分かれるんだ。一番違うのはタイヤかな。ロードが一番細くて硬い。ママチャリはまあまあ太くて柔だ。マウンテンバ イクも街乗り用はママチャリとロードの中間くらいだけど、山用だとぶっとくてママチャリより柔にするんだ」
 この辺、あたしも自転車を買うにあたって研究したことだ。とはいえ、雑誌の受け売りだけど。
「自転車欲しいけど、置く所が無いわ。でも自転車欲しいー、欲しいー、欲しいー!」
 四条が足をばたばたさせている。相変わらず、思い込みの激しい奴だ。
「そういう場合には折り畳みという手もある。ロードっぽくて折り畳みとか、マウンテンバイクっぽくて折り畳みとか、そういうのもあるけど、概ねママチャリ くらいだな」
 そう、浅上に私物を持ち込むには、いろいろ手練手管が必要なんだ。特に自転車みたいな大物ともなれば。あたしも、駐輪場に止めておくという大胆な策をひ ねり出すまでは、折り畳みにしようかと思っていたもんだ。
「そうね。折り畳みにして、部屋に持ち込んじゃえば?」
「シスさんに見つかっちゃうよ」
「じゃあ、窓の外にぶら下げておこうよ」
「無理無理――」
 みんなその気になってきたのか、結構本気で議論している。まあ、結局は羽ピン小屋に置くのがいいと思うけどね。
「じゃあねー、わたしー、今度は折り畳み自転車を調達しておくねー」
 羽居が断言する。なんか、こいつが言うと、本当に十台くらい調達してしまいそうな気がしてならない。
「よし、そろそろ行くか?」
 頃合良しと見て、あたしはみんなに声を掛けた。
「おー、行こう!」
「いよいよ月姫さんの池だね!」
 さっきまでへたばっていたくせに、みんなノリがいいな。みんなして腹具合がご機嫌に直結ってわけか。もちろん、ぐずぐず言われるよりこっちの方がいい。 こう来なくちゃ。
「後は下るだけだ。行くぞ」
 あたしは、少し意気込んで走り出そうとしたが。
「ちょ、ちょっと待って。裾を縛りなおさないと」
「リボンを付け直したいんですけど」
 なんていう奴がゾロゾロ出てくるのでがっくり来る。まあ、浅上の乙女たち相手にすると、いつもこういう風に待たされることになるのさ。将来のダンナ候補 諸君もご注意を、ってなもんさ。

 またしても身支度やら、パンクこそ無かったもののブレーキの効きが悪いだの空気圧が足りないだのといったトラブルが発覚し、その始末に追われることにな る。はぁぁ、やってられないよ。幸い、出掛けのパンク騒ぎで空気を入れるやり方を憶えた寮長と四条とが手伝ってくれたので、ずいぶん手早く終わったけれ ど。
「この先はダウンヒルが続くので気をつけてな。直線も多いが嫌らしいヘアピンもあるんでコケるなよ」
「ねー蒼ちゃん、スピード出していい?」
 羽居がうずうずしながらいう。こいつ、意外にスピード狂なのかもしれん。
「出してもいいが、コーナーでは減速しろよ。コーナーに入ってから減速してもアウトに振られるだけだから、その前に減速しておけ」
「やったぁ、がんばるね」
 羽居は(いつものことだが)満面の笑みを浮かべていった。こいつ、なにか勘違いしてやがるな。まあトロい羽居が頑張っても、そんなスピードは出せないだ ろう。
「いいか、危ないんだから、下りで漕ごうなんて思うなよ。自然に下るままに任せても十分速いんだからな」
 あたしはみんなに釘を刺すと、自分の自転車にまたがり、やっとのことで走り出した。後ろにみんなも続く。あんなこといった手前もある。いつもなら思い切 り飛ばして下って行くんだけど、ペダルに足を掛けたまま自然に下るに任せてみた。こっちの坂は今までの上りほどの距離は無いけど、傾斜は同じくらいある し、外輪山を回りながら下ってゆくのでほとんど直線ばかりだ。でも数箇所のヘアピンが要注意で、実はあたしはそこでこけた事があるんだ。ヘルメットのおか げで怪我は無かったけど、お気に入りのジャケットを台無しにしてしまった。
 そんな回想に気を取られた隙に、横からサーッと抜いていった奴がいる。おいおい、羽居だぜ。
「蒼ちゃーん、気持ちいいよー!」
 羽居は漕いではいない。だけどあたしよりもずっと早く走って行く。なんでだ? あれか、ロード用のハブの方が効率いいのか。
 羽居だけじゃなくて、みんなもそれに続く。
「姫、これってずいぶんスピード出るのね」
 寮長もそういい様に、あたしをさっさと置いてゆく。四条や高なんかも、やや引きつった顔だが続いてゆく。これは姿勢の違いか。あたしは意識的に上体を立 てているけど、みんなはロードバイクなので上体をハンドルに被せている。下りでは空気抵抗の差は無視できないんだな。まったく、羽居や寮長なんて、胸の辺 りの空気抵抗はあたしよりあるだろうに。
 なんてことをしみじみと考えているうちに、ほぼ全員があたしを抜いて、視界の彼方に消えてゆく。これはまずい。
「蒼香、このままじゃ大量遭難よ。追いかけないと」
 ハンドルが違うので上体を立てている遠野は、あまりスピードが乗らなかったようだ。自転車が違う晶たちや、怖くてブレーキを引きっぱなしだった数人も後 ろだ。
「そうだな、この先はヘアピンがあるんだ。追いかけて止めるから、遠野はこのままのペースで下ってきてくれ」
 あたしは、そういい置くと、ペダルをグッと踏み込んだ。追いかけなきゃ。
 ロードバイクに対してマウンテンバイクはいろんな点で重い。トップギアも軽い。それとタイヤが太くて低圧なので、走りだって微妙に重いんだ。おかげで、 踏んでも踏んでもなかなか追いつけやしない。
「おーい、おまえら止まれ。そんなに飛ばすんじゃねー!」
 ようやく末尾にいた四条やクラスメート数人に追いつく。
「この先はブラインドでかつヘアピンって言う凶悪なカーブだ。さっさとスピード落とせ。こけるぞ」
 あたしが脅しを掛けると、やっと連中はブレーキを深く掛けて、スピードを大幅に落とす。だが、四条だけはぶっ飛んでゆく。
「四条、ブレーキ引けよ!」
 追いかけて、必死に横に並ぶ。ったく、あたしだってチビなんだし、そんなスピード出せるわけじゃないんだからさ。
 四条は前の方を向いて硬直している。両手をブレーキレバーに乗せたまま突っ張っているので、まるでマネキンだ。こいつ、調子に乗って飛ばしたはいいが、 スピードを出しすぎて怖くて硬直しちまったんだ。
「四条!」
 あたしが真横で怒鳴ると、四条はやっと、ギギッと音が出そうなぎこちなさでこっちを向いた。真っ青だ。
「四条、ブレーキ引け!」
 あたしはもう一度怒鳴った。
「は……い……」
 四条はようやく答えると、目をつぶってブレーキを一気に引いた。あーっと思うまもなく、四条は一気に減速し、そして最後にコテンと前転した。
「いったぁい」
 あたしが助けるまもなく、四条はすぐに起き上がった。十分減速した最後にこけたからだろう、別段怪我をした様子は無い。
「悪ぃ、後から来る遠野たちと一緒に、ゆっくり降りてきてくれ。あたしは羽居と寮長を追いかけるから」
 すぐに追いついて来た高やクラスメートたちに言い置いて、あたしは再びペダルを踏み込んだ。まったく、なんだってこんなに苦労するんだろうな。
 あたしが四条たちに追いついた時、残る羽居、寮長は姿が見えなかったから、ずっと先に行ってしまってるのは明らかだ。寮長はともかく、あのとろい羽居が というのが心配だった。あの馬鹿、四条みたく自爆しなけりゃいいけど。
 目の前に最初のヘアピンが迫る。カーブ手前が一時平坦で、そこからまた下りに入るといきなりヘアピンカーブが現れる極悪仕様だ。カーブミラーはあるけ ど、すっ飛ばしている時には見落としがちだ。その平坦部を越えてカーブを目にした時だった。すぐ下の方で「ひゃあ〜!」という悲鳴がしている。間違いなく 羽居だ。
「おーい、羽居!」
 あたしはカーブを一気に曲がる。目の前、次のカーブまでの直線を突っ走る姿が二つ。一人はでかい尻から間違いなく羽居。もう一人は寮長だ。羽居は脇目も 振らず突っ走っているようだ。そんな羽居と併走しながら、寮長は盛んに声を掛けている。羽居が凄いスピードで下っているので、寮長は適宜ブレーキを掛けな がら、すぐにダンシングで追いついている。凄いな、寮長の凄さを改めて知った。
「三澤さん、ブレーキ、ブレーキよ」
 寮長は必死に呼びかけているが、羽居は固まったままだ。
「えーん、怖いよー、怖いよーっ!」
 羽居はわんわん泣いている。もう前なんか見ちゃいない。これはやばい。四条はまだブレーキレバーを握っていたが、羽居はハンドルの上を持ったままなの で、持ち替えないとブレーキを掛けられない。そしてとても持ち替える余裕なんて無い。こんなんで良くカーブを曲がりきれたものだ。奇跡だぜ。
「おい、羽居、落ち着け。目ぇ開けて前を見るんだ」
 あたしは羽居の後ろにつけて、必死に声を掛けた。
「蒼ちゃーん、怖いよー、怖いよー!」
 羽居は泣き叫ぶばかりだ。もうこうなると、こいつはそこらのお子様以下の存在になる。
 もう余裕は無い。次のカーブだ。
「羽居、カーブだ!」
「三澤さん、目を開けて!」
 あたしと寮長が声を張り上げると、羽居は目を見開いて、急カーブと直面している自分を認識した。
「ひあ〜っ!」
 なんだか気の抜ける、だが必死な悲鳴を残し、羽居は遂にコーナーに突入した。
「あーっ……」
 あたしも寮長も、次の瞬間には見事転倒、最悪コースアウトして崖下へという展開を予想していた。ところがだ。
「うぁ〜んっ!」
 魂消るような叫びとともにコーナーに突入した羽居は、なんと奇跡のように曲がりきってしまったのだ。でかい尻が幸いして、理想的な後ろ荷重になったの か。
「羽居、ナイスだ!」
「三澤さん、次のカーブよ!」
 あたしと寮長が羽居を励ます。
「いや〜ん、もうダメぇ〜!」
 羽居は絶叫を残し、まるで隕石のように下り坂を落ちていった。

 結局、羽居は奇跡的に坂を下りきった。だが恐怖のあまりガチガチにこわばったこいつは、もうブレーキを引けない。幸い、長くて平坦な直線に入ったので、 あたしと寮長が左右から挟みこんで、寮長が羽居を支え、あたしが奴のブレーキを引くというアクロバットみたいな真似して止めた。時速50kmから羽居を止 めたとき、あたしは喉がカラカラに渇いて疲れ果てていた。ま、最後の最後に羽居がこけるオマケはあったけどな。
「三澤さん、大丈夫?」
 寮長が、こけた羽居を慌てて助け起こした。羽居は目を回している。
「羽居、しっかりしろ」
 あたしは羽居のほっぺを遠慮なくぺしぺし叩く。羽居は、うーん、と唸りながら、目を覚ました。
「羽居」
「蒼ちゃん――」
 羽居は涙の跡の残る顔をあたしに向けた。抱きついて泣き喚くかと思いきや。羽居は不意ににっこりと笑った。
「面白かったー、ジェットコースターみたいで」
 ポカリ。
「いったあぃ」
「この馬鹿、心配させやがって!」
 ぽかぽか遠慮なく小突いてやる。本当にこの馬鹿は、あたしに心配ばかりさせやがって。だってのに、なんでそんなに楽しそうに笑ってるんだよ。寮長も呆れ て見ている。あたしと羽居は、どうやってもあたしが損をする関係になってるようだ。はぁぁ、心配して損したよ。
「怪我は無いかしら?」
 あたしが羽居を小突き回しているうちに、いつの間にやら後続が追いついていた。呆れ顔の遠野に声を掛けられる。遠野はあたしの様子から、また羽居が馬鹿 をやらかしたと分かったんだろう。
「やっぱ自転車ってスピード出してなんぼのものだねー」
 羽居はまったく懲りた様子が無い。
「馬鹿もん。そんなたわごと、ちゃんとブレーキ引けてから言え」
「ブレーキ無くても曲がれたもん」
「あんなもん、まぐれだ!」
「ともあれ、みんな無事に坂を下りきったわね」
 あたしと羽居の口げんかに、遠野が絶妙のタイミングで割り込んでくる。
「見て見て、あそこが月姫さんの池でしょ?」
 高が、あたしたちの屯している道路の前方、森が微妙に切れて見える辺りを指差した。ああ、そうか。ここに来たんだ。
 坂を下りきると、池までずっとまっすぐな道が続いている。ここを走ってゆくと、段々と森が開け、池の全景が目に入ってくる。すると森の鮮やかな緑を映し た水面が静かに揺れて、あたしを待っているんだ。あたしはこの静かで、荘厳な光景を、みんな見せたかった。あの感動を分かち合いたかった。
「あそこが目的地だね。れっつごー!」
 だというのに、荘厳さや感動というものをぶち壊すのが得意な奴が、さっさと自転車にまたがって駆け出してしまう。羽居め、さっきまでわんわん泣いてたの は誰だよ。目的地まであと少しと分かったからだろう、みんなも我先に走り出してしまう。はぁぁ、まあ仕方ないさ。あたしも愛車にまたがると、一目散に走っ て行く連中を追い掛けて、走り出した。

 池のほとりでみんなに追いついた。寸前まで賑やかだった集団が、急に無口になって水面を眺めている。
 池は差し渡し100m程度のものだ。周囲の山が風を防ぐからだろう、水面は鏡のように静まっている。お日様は西の山の上から周りの森を照らし、その森が 池を緑に染め上げている。その中に見え隠れする、萌黄色の新緑が絶妙のアクセントだ。こうして、ここに立って眺めていると、時間を忘れてしまう。
「きれいね」
 遠野がやっと口を開いた。それ以上の賛辞なんて不要だとでもいうように。
「うん。ここにこんな綺麗な池があったんだー。蒼香ちゃん、ありがとー」
 遠野や羽居だけでなく、誰もが口々にあたしに礼を言う。礼を言われるなんて思っても無かった。ただただ、みんなとここに来たいと思っただけなんだ。どっ ちかというとあたしのわがままなのに、礼を言われるなんて。こっちがかえってこっぱずかしくなってしまう。
「やっぱりわたしも自転車欲しい。ここから少し走ると県境だよね。その先にもなにかあるんだよね」
 四条はすっかりはまってるようだ。いや、四条だけじゃない。みんなの顔に浮かんでいる楽しそうな色を見れば、みんながみんなはまってしまったってことは 明らかだ。はぁぁ、こりゃあさらなる冒険を企画しなきゃならないなあ。今度は学校を騙せるかどうかわかんないけど、遠野も寮長も羽居も居るんだから大丈 夫。なんとかなるさ。少々の苦労なんて、みんなでこうして素敵な場所に来る楽しさに比べたら、些細なもんだ。
 なんだ、結局のところ、一番はまってるのはあたしってことか。まったく、月姫蒼香ともあろうものが、このざまかよ。
「でもー」
 晶が、ふっと思い出したというように口を開いた。
「とりあえずは、また冒険しないと帰れないんですよね……」
 あたしたちは一斉に後ろを振り向いた。そうだ、ここは山を越えた低地。帰るには、また山を越えていかなきゃならない。上りで四条たちの泣き言に付き合 い、下りでは羽居の無茶に付き合い――はぁぁ、なんか頭痛がしてきた。
 一瞬、なんとも言いがたい沈黙が、みんなに落ちた。あたしの気分が伝播したのか。
 その瞬間、重い空気が流れたけど――次の瞬間――みんな一斉に笑い出した。やけっぱちなのか余裕なのか、みんな笑い出した。仕方ないなあ、って感じだ。 四条も羽居も遠野も、そしてあたしも、やけっぱちで笑っていた。坂の方を指差しながら、こりゃしょうがないな、って感じで。
 鏡のような水面に、あたしたちの笑い声がこだました。そして山の端にかかり始めたお日様に、森に。いつまでも、いつまでも――

<了>

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