秋葉と桜と妹たちと



 春の気配が裏庭の森に降りてきた頃、遠野家に新しい顔が現れるようになりました。
 なんでも、新春のある日、琥珀が買い物から戻ってきたときのこと。正門の影に隠れながら、そのくせそわそわと落ち着き無く本館の方をうかがっている、可 愛らしい姿に気づいたのだとか。面識はありましたし、なにかピンと来るものがあったとかで、少々強引に屋敷に連れ込んだというのです。ちょうど居合わせ た、翡翠、秋葉共々、珍客を囲んでのお茶会になりました。その時、秋葉が気を利かせすぎて、兄を電話で呼び戻したことが、思わぬ事態を引き起こしたのです けれど。
 その時から、遠野家のお茶会に、その可愛らしい客人がしばしば混じるようになったのです。今までも、お茶会に客人が混ざることはありました。けれども、 それは志貴の友人の乾有彦であったり、秋葉の友人たちであったり、あるいは往診に来てくれた時南父娘であったりしたわけです。そこに、こんな可愛らしいお 仲間が現れたのですから、ちやほやとされようというもの。秋葉も、最初のうちこそは、家長の威厳を見せようと、わざとしかつめらしく振舞ったりしていまし た。でも、客人の可憐な姿、そして時折見せる子供らしい素直な笑顔に、何時しかほだされてしまったのでした。今では、使用人姉妹共々、客人を本当の妹のよ うに思っている次第です。
 今日も今日とて、秋葉が居間から外に目をやると、翡翠と寄り添っている小さな姿に気づきました。どうやら、裏庭の庭園の手入れをしているようです。秋葉は中庭に出ると、さらに裏庭へと歩み出ました。
 二人はまだ、裏庭のお花畑に立っていました。翡翠が養生してきた菜の花のお花畑。それはそれは、一面に咲き誇る、見事なものでした。あまりに素晴らしい ので、秋葉はそれを背景に、志貴、使用人姉妹と共に、記念の家族写真を撮ったほどでした。中庭、そして裏庭の大半は、翡翠のテリトリーでした。暇を見つけ ては、花たちをせっせと世話してきたのです。几帳面な翡翠でなければ、これほどの庭園を維持できなかったでしょう。ちなみに、裏庭の奥には、琥珀が勝手に 作った秘密の庭園があります。なにせ、如何わしい植物だけで構成されているような代物なので、秋葉はしばしば奇襲的に焼き討ちし、琥珀に悲鳴を上げさせて きました。しかし、いつの間にか復活してしまうしぶとさに、秋葉も少しげんなりし始めています。
 それはさておき、その菜の花の花壇を見下ろしながら、翡翠は客人に世話の仕方を説いているようでした。楚々とした翡翠に、あどけない客人は寄り添い、神 妙に聞き入っています。遠野家の住人の中でも、翡翠は特に仲が良くて、いつも手を引いて連れ添っている姿を見かけます。そんな時、翡翠は普段よりもずっと 柔らかそうで、しばしば笑顔すら浮かべているほどでした。
 秋葉は歩み寄ると、声をかけます。
「都古、翡翠」
 話に熱中していた二人は、あっという顔になります。翡翠は素早く振り向くと、少し恥らいながら、会釈をくれました。都古と呼ばれた女の子は、ちょっと驚いたような顔になりましたが、すぐにニッと笑みを浮かべてくれました。
 都古は、遠野の分家に当たる、有間家の一人娘です。まだ十歳の無口な、でも元気な女の子でした。なぜか中国服を着て、拳法の真似事をするのが好きな様子です。
「また翡翠にガーデニングの話を聞いていたのね、都古ちゃん?」
 気軽に頭を撫でてあげると、都古は少し恥らいながら、こくこくと頷いて見せました。
「都古様は、熱心に聴いてくださるものですから、つい熱中してしまいまして」
 翡翠は恥じ入るように言う。
「そうなの。でもね、都古ちゃん。翡翠くらいの達人になるには、ずいぶん精進しなければならないわよ」
「た、達人だなんて、とてもそんな――」
 持ち上げられて、反射的に謙遜してみせる翡翠と秋葉に、都古は『その通り、翡翠ちゃんは達人だよ』と言いたげに、二人に親指を立てて、笑顔を見せたのでした。

 三人で庭を仲良く散策した後は、居間に戻ってお茶の時間でした。琥珀が外出から戻っていたので、香り高い紅茶を淹れてもらいます。
「都古ちゃんも熱心ですねー。有間さん家にもお庭はあるのでしょうに」
 琥珀は、親しく、少しからかうような口ぶりです。ちょうど、翡翠に対するときのような。
「――――」
 都古は、主に翡翠に、そして少しばかり琥珀にも、訴えるようにして、なにかを話しています。なぜか、声が凄く小さくて、抑揚も目茶目茶なので、翡翠以外 にはなかなか聞き取れませんでした。別に何か障害があるわけではなくて、単に内気なだけなのだと、みんなが了解しています。今では秋葉にも、かなり聞き取 れるようになっています。『でも、こんな広いお庭は、お家には無いよ』と言っています。
「そうね。こんな無駄に広い土地を持っている家なんて、日本では少ないわね」
 その為に費やしている維持費を考えて、秋葉は密かにため息を吐きました。別に家計の負担になっているというほどではありませんが、基本的に締まり屋に出 来ている秋葉には、無駄なことに思えるのです。とはいえ、あの見事な庭園を思えば、些細な無駄だとも割り切れるのですが。
「どうでしょう。都古様も、有間家のお庭に花を植えられては。最初は小さな花壇を作り、次第に拡げてゆけば、無理なくお世話できる範囲が自ずと分かるものです」
 珍しくも、翡翠は積極的に、都古に薦めます。洋風の遠野家育ちの翡翠は、どこの家にも菜の花の花壇が似合うと思っているのでしょう。秋葉は、兄を呼び戻 して以来、何度か有間家に足を運んだことがあります。典雅な日本建築で、庭には夫妻が愛でているらしい木々と、先祖伝来の盆栽が並んでいました。そこに菜 の花の花壇を作るのは、さぞかし場違いなことでしょう。都古が花壇を作り、あまつさえ拡げようとするのには、さすがに抵抗が予想されます。都古と有間夫妻 の庭を巡っての勢力争いは、きっと微笑ましくも熾烈なものになるのでは。などと秋葉は考えて、勝手に可笑しく思っています。
「どうなさいました?」
 ふと気づくと、翡翠が怪訝そうな顔で覗き込んでいます。いつの間にやら、にやけてしまっていたようです。
「な、なんでもないわよ」
 秋葉は、慌てて口を拭いました。
 楽しいおしゃべりが続き、ポットのお茶が幾度もお代わりされた頃、「ただいまー」と長閑な声が。秋葉はハッと顔を上げました。最愛の人の帰宅です。少し 慌てて表情を作り、お澄ましして兄を迎えます。もっとも、志貴からすれば、自然に微笑んでいる秋葉こそが、一番可愛らしいというのですけれど。そんな秋葉 を、琥珀は密かに、可笑しそうに見守っています。翡翠は志貴の出迎えに行きました。そんなわけなので、今まで元気良くお茶菓子をパクついていた都古の変化 には、誰も気づきませんでした。
「ただいま、秋葉、琥珀さん」
 迎えに出た翡翠を連れて、志貴が居間にやってきました。
「お帰りなさい、兄さん」
「お帰りなさいませー」
 秋葉と琥珀は、ソファーから立ち上がり、志貴を出迎えます。
「おっと、都古ちゃんも来てるんだね。いらっしゃい、都古ちゃん」
 都古は同じように立ち上がり、しかしなぜか戸惑ったような顔になっています。別に、志貴の帰宅を予想できなかったわけでも無いでしょうに。
「また少し、背が伸びたかな?」
 万事鈍い志貴は、都古の様子にも気を留めることも無く、気軽に頭を撫でてやります。すると都古は顔を真っ赤にして、俯いてしまいました。
「啓子おばさんも、文臣さんも元気かい? そろそろ、恒例の春旅行の頃だね」
 有間家での生活を思い出しているのでしょう、志貴は懐かしそうに、都古に語りかけています。一方、都古は顔を真っ赤にして、むーっと唸っています。不機嫌そうにも見え、しかし自分の感情の処し方に困っているようでもあり。
「そうだ。秋葉、今年は有間のみんなと一緒に春山に行かないか? 去年は行けなかったってことだし、たくさんで行った方が楽しいよ」
「そうですけど、分家の者と行くのは考えものです」
 秋葉の渋い答えに、志貴はちょっとムッとしたようです。
「秋葉、いくらなんでも、そこまで本家だの分家だのに拘る必要は無いだろう。戸籍上のこととはいえ、有間は名義上の親でもあるんだろう」
「私は構わないのですが、むしろ有間に迷惑が掛かります。有間以外の分家が、私に近づきすぎるのを嫌って、有間に嫌がらせをするかもしれませんから」
「嫌がらせかよ。なんて安っぽい――」
 さすがの志貴も絶句です。
「そうか。金持ちには金持ちなりの気苦労があるんだな」
「そうですよ。極楽トンボの兄さんには想像もつかないでしょうけど」
 いつものように、秋葉に言葉の槍でつつかれて、志貴は苦笑を浮かべました。
「それで、一族揃っての紅葉狩りに花見というわけか。横並び意識の強さは、遠野の一族でも、一般人でも変わらないなあ」
 志貴は目を落とすと、すぐ目の前の都古の頭を撫でてあげました。
「でもさ、都古ちゃんだけなら大丈夫だろう。一緒に花見に行こうな?」
 志貴はニコニコしながら、都古の頭を撫でています。が、都古は俯いたままです。その肩が小刻みに震えています。
「都古ちゃん?」
 さすがの志貴も、ようやく異変に気づきました。が、遅すぎました。次の瞬間――
「たーっ!」
「☆#$&%*@!???」
 気合もろとも、都古が繰り出した頭突きが、志貴の脇腹に素晴らしい角度で決まります。
「兄さん!」
「志貴様、都古様!」
 秋葉たちは、薄々なにが起こるか予感はしていました。が、手を拱いているうちにその通りに事が運んでしまい、慌てます。一方の都古は、なぜか晴れ晴れした顔になると、笑いながら駆け去るという奇行に出ます。
「兄さん、大丈夫?」
「いててて、大丈夫、大丈夫だよ」
 心配そうな秋葉に、志貴は苦笑しながら答えます。
「どうも、今一馴染んでくれないっていうか、疎んじられてるようだな。まあ、俺が有間で他人行儀に過ぎたってのが悪かったんだろうけど」
 本当にそうなのかしらと、内心疑問を抱いている様子の秋葉です。一方の翡翠は、なにか言いたそうな顔をしていましたが、結局はなにもいいませんでした。

 暖かな春一番が吹き荒れて、気温が一気に上がりました。買い物に出かけた琥珀から、公園の桜が咲き始めたという報告が入りました。そろそろ、山の上でも桜が咲く頃です。お花見の機運が盛り上がります。
「じゃあ、この日曜日な」
 その週の初め、夜のお茶会で志貴が決め付けるようにいっても、反対する者はありません。秋葉も琥珀も、期待する顔になっています。
「はい、腕によりをかけて、ご馳走作っちゃいますよー」
 琥珀はいつもより高めのテンションです。
「じゃあ、場所はどうしましょう。秋の紅葉狩りの会場はいかがですか? あの辺りにも、桜はたくさんあるんですよ」
 秋葉は既に場所の算段に入っています。
「ここからじゃあ、遠くないか?」
「車で行くから平気です。たとえ歩いていっても、1時間半くらいの場所ですよ。それに、新緑の綺麗な山道を歩くのもいいものです」
「よし、じゃあ決まりだ」
 志貴が決めてしまっても、やはり誰も反対はしません。いや、ただ一人だけ――
「翡翠ちゃんは嫌なの?」
 妹の様子に気付いた琥珀が問いかけます。翡翠は、なぜか眉根に皺を寄せて、考え込んでいました。
「え、いいえ、いいお考えだと思います。桜が綺麗なのは、やはり山の上でしょうし。でも、わたしは外には――」
 翡翠の声が沈みます。ずっと屋敷の中で育ってきた翡翠には、外に出ることへの本能的な恐怖があるようです。
「翡翠ちゃん、行きましょうよ」
 琥珀が励ますようにいいますが、翡翠の顔は曇るばかり。志貴も秋葉も、翡翠の外出恐怖症は少しずつ克服してゆかなければと思っていました。が、その根深さには途方に暮れてしまいます。
「じゃあ、さ――」
 それくらいならと、志貴は廃案を提起しようかと口にしかかります。が、
「いえ、是非に行ってらしてください。山桜は季節物。今、行かなければなりませんから。わたしのせいで中止したりなさらないでください」と、翡翠は機先を制して言います。
 結局、翡翠の意を汲んで、家族での花見は決行されると決まったのですが、なんとなく釈然としないものが残ったのでした。

 当日。花見の場所までは、せっかく遠野家の金で車道を通しているのだからと、車で向かうことになりました。志貴と秋葉に琥珀が付き添い、腕によりをかけた料理を並べます。
 ここまで運んでくれた初老の運転手も、花見の途中まではご相伴に与っていました。が、琥珀が日本酒を並べ始めたところで、では後ほど、と辞していきまし た。さすがに、人の命を預かる運転手がアルコールを取るわけにも行かないし、かといってこのままでは目の毒というものでしょう。
 志貴と秋葉、そして琥珀は、見晴台を取り囲むようにして並ぶ桜の咲き揃う様を独占し、美味しい料理とお酒に舌鼓を打ちます。もっとも、アルコールを楽しんでいるのは、専ら秋葉と琥珀で、志貴はそれを引きつった笑顔で眺めていたのですが。
「翡翠ちゃん、一人で寂しく無いですかねえ」
 秋葉の酌をしながら、琥珀の心はここには無いようです。いつものように饒舌に場を盛り上げているつもりでも、どこかいつもの様な明るさはありません。
「だから、無理やりにでも連れて来ればよかったのに。ここには翡翠が嫌うような人込みなんてありえません」
「そうなんですけどねえ」
 クーラーボックスから取り出したばかりの大吟醸酒の小瓶を、ほんのり赤らんだ頬に当てて、琥珀はため息を吐きます。
「翡翠ちゃんの嫌がることなんて、やりたくはないんですよー」
「もう、琥珀は翡翠には、とことん甘いんだから」
「当然ですよー。翡翠ちゃんはわたしの妹なんですから」
「世の中には妹だからといっても甘えさせてくれない人もいるんですけどね、兄さん?」
「んー? なんのこと?」
 なんとなく不穏な情勢を察知した志貴は、ぎくりとしながら振り向きます。秋葉にアルコールを足して、日頃の不満を加えると、見事な絡み酒が出現します。今日も犠牲者になるのかと、内心慄きながら振り向いたのですが、秋葉は少し意地悪そうな笑みを浮かべているだけです。
「なんだよ。また絡まれるのかと思った」
「ふふふ。兄さんも少しは学習能力を発揮してくれることがあるのですね」
「うふふふ、秋葉様は案外に悪戯好きでいらっしゃいますからねー」
「底意地の悪い使用人と、肝心要のことで鈍い兄さんに囲まれているんです。悪戯のひとつもしたくなるというものです」
 ようやく、三人の間に笑いがこぼれるようになって来ました。美味しい料理に舌鼓を打ち、艶やかな桜に目を留める。そして志貴を肴に美酒を味わううちに、時間は過ぎてゆきます。
「せめて、都古ちゃんだけでも引っ張って来ればよかったかな」
 志貴がポツンとつぶやきます。
「あら、私一人ではご不満ですか?」
 秋葉はわずかに目尻を吊り上げ、早速食いつきます。
「い、いや、秋葉は理想の妹だし、不満なんて無いよ?」
 志貴が慌てて言い繕うと、秋葉は急にクスクスと笑います。
「そんなに身構えなくて結構ですよ、理想のお兄さん」
「またブラフかよ。勘弁してくれ」
 志貴は辟易しています。
「うーん、わたしはやはり、都古さんは強引にでもお誘いするべきだったと思いますけどねえ」
 アルコールランプでお湯を沸かしながら、琥珀はいいます。
 本当は、都古も連れてくる予定でした。ところが有間家の両親が気を利かせすぎたのか、遠慮してしまったのでした。さらに、翡翠が来ないと知った都古は、なにか勘違いしたのか『翡翠ちゃんが行かないなら、都古も行かない!』と、常に無くはっきりと表明したのでした。
「仕方ないでしょう。翡翠も都古も、変なところで意固地なんだから」
 秋葉がヤレヤレといわんばかりに、肩をすくめて見せます。
「あら、お車が戻ってきましたよ?」
 談笑するうちに、ふと琥珀は車道を登ってくる車に気づきました。予め打ち合わせてあるスケジュールでは、日暮れ時まではやってこないはずなのですが。
「忘れ物かしら?」
 秋葉も首を傾げます。
 ほどなく、車は眼下の車道を上ってきて、駐車場に止まりました。そして後部ドアが開くと、見慣れた姿が現れたのです。
「まあ、翡翠ちゃん」
「都古も?」
 連れだって現れた二人に、三人は喜び半分、戸惑い半分です。
 都古は元気よく、翡翠はその都古に手を引っ張られて、三人の下にやってきます。
「どういうこと?」
 秋葉の問いに、都古たちではなくて、汗を拭き拭き現れた運転手が答えます。いわく、麓の上り口で休んでいたら、道を歩いて登ってくる二人を見つけたのだとか。歩いて登るのはあんまりなので、車で送ってきたのだとか。
「そうだったの。それはどうも、ご苦労様」
 秋葉は運転手を労います。
「わたくしは屋敷の留守を守るつもりだったのですが、都古様がやってこられて、一緒に行こうとおっしゃるもので。そのうちに、都古様が一人でも行くと仰るようになられたもので、心配で心配で、とうとう着いてきてしまいました……」
 翡翠は、まるで自分のしでかしたことに驚いているかのようでした。実際、あれほど外出を嫌がった翡翠が、こんな遠くまで歩いて来ようとしていたことに、他三名は驚いているのでした。これも、翡翠の都古を心配する気持ちが故のことだったのでしょう。
 ふと思い至って、秋葉は都古になにかを問うような視線を向けました。すると都古は、してやったりという笑顔で応えたのです。なるほど、都古は都古で、案外に色んなことを企んでいるようです。
「ほらほら、翡翠ちゃんも都古ちゃんもいらっしゃい。一番の見晴らしですよー」
 翡翠と都古は、琥珀に手を引かれて、一番見晴らしのいい東屋へと案内されます。そこからは、真っ青な空と、周囲を囲む緑の山、そしてそこに散りばめられ た桜の艶やかな賑わいが見て取れます。眼下には三咲の街が。ずっと遠く、屋敷のある丘と、その背後の森が、確かに望見できます。
「ほら、あれが三咲の駅で、その向こうに公園が見えるだろう? そしてあの辺り、小高い所の天辺にあるのが遠野の屋敷だよ」
 志貴はいちいち指し示しながら、優しく教えてやります。その指先を辿り、遠野の屋敷の方に目をやった時、翡翠は目を細め、ほぅ、と息を吐きました。
「遠野のお屋敷があんなに遠くに。ずいぶん長い距離を歩いてきたのですね」
「でもたった10kmくらいでしょう。この先にだって、もっと色んな街があるのよ。そしてそこには遠野のお屋敷みたいな家や、もっと普通の家がたくさんあって、たくさんの人が居て、たくさんのお店があるのよ」
 秋葉はにこにこしながら言います。翡翠は秋葉の言葉を聞きながら、三咲の街を見ています。なにかをかみ締めているようです。
「でも、まだそんな遠くには行けません。今日だって、街の雑踏を通り抜けるときには、ここで迷ってしまったらと思うと恐くて恐くて――」
 ふと、翡翠の顔が曇りました。屋敷から出たことの無い翡翠には、きっと大冒険だったのでしょう。
「大丈夫だよ」
 志貴は笑いながらいいました。
「だって、都古ちゃんがいるじゃないか。都古ちゃんは冒険のエキスパートだよ」
 翡翠は都古へと、自然に顔を向けます。すると都古は、満面の笑みと共に、親指を高く突き出して見せたのでした。すると、翡翠も自然に笑みを浮かべます。笑顔は、いつしかみんなの顔に広がって行きました。

 宴も終わりが近いようです。山に懸かる空も、ようやく赤みを帯びてきました。風も涼しく、早くお帰りなさいと告げられているようです。
 琥珀はそろそろと片づけを始めています。あまるほど作ってきたご馳走も、援軍二人を得て無事に片付きました。重箱も酒瓶も、てきぱきと片付けてゆきます。
 秋葉はすうすう寝息を立てています。さすがの酒豪も、これだけの美酒を相手にしては、勝ち目がありません。でも、とても幸せそうな寝顔です。
 志貴は、そんな秋葉に膝枕してやっています。秋葉の髪を指で梳いてやりながら、少し可笑しそうに寝顔を見守っています。
 翡翠と都古は、見晴らし一番の東屋にいます。手を繋いで、日暮れ時の茜色に沈んでゆく街を、飽きもせずに眺めています。お日様は、赤く染まった雲の間にかくれんぼしながら、二人を暖めてくれる最後の陽射しをくれます。
「今日は楽しかったですね」
 翡翠は都古に、やさしく語りかけます。
「こんなにお屋敷から離れたのは初めてです。あんな人込みの中を歩いたのも、お屋敷を外から眺めるのも」
 すると、都古は精一杯背を伸ばして、どこかを指差してみせます。どこか、そう、遠野の屋敷や、三崎の街のもっと向こうを。もっともっと先にも、色んなものがあるよ。そういってます。
「三崎の他にも街があって、そこにもいろんな建物や、いろんな方がいらっしゃるのでしょう。わたしは、今まで臆病すぎたのかもしれませんね。都古様、この次は海に参りましょう」
 翡翠は、滅多に見せない笑みを浮かべます。すると都古もにっこりと笑みで応えたのでした。
「約束です」
 翡翠と都古は、にこにこしながら指切りします。そしてそんな二人を、琥珀は優しく見守っています。
 空にはお山に帰るカラスの声が。そろそろ、迎えの車が来る時間です。

<了>

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