秋葉と晶とラーメンと


 さてさて、朝夕涼しさを感じるようになった、九月の夕方のことでした。
「ひぃ――」
「な――」
「あら、瀬尾に兄さん、こんなところで奇遇ですね」
「あはーっ」
「――――」
 なんだか修羅場の匂いがしたとか。



 そこは、頻繁に列車が走る、高架線の真下でした。町で秋葉の後輩、瀬尾晶とばったり会った志貴は、じゃあラーメンでもおごろうかと、ここにやってきたので した。以前、ちょっとした事件をきっかけに知り合って以来、志貴は晶を年下の友人として遇し、時々呼び出したり呼び出されたりしては、晶の買い物につき あったり、お茶をごちそうしたりする仲になっていました。晶が、志貴の知る女性としては唯一と言っていいくらい、構えることなく付き合える相手だというの もありますが、晶から聞かされる学校での秋葉の姿が、志貴には意外で、楽しいものであるという点も大きかったでしょう。秋葉のことを慕っている様子の晶 が、秋葉のことをうれしそうに語る姿を見ているだけで、志貴は大いに和まされるのでした。
 今日は、そんな晶にサービスしようと、ラーメンをごちそうするつもりだったのですが……。
 とっておきの屋台を紹介しようと、高架下に足を運んだ途端、横合いからひょいと現れる三つの影。なんと、遠野家の娘三人でした。
 衝撃に固まる志貴の横で、さらに大きな衝撃に硬直している知り合いの女の子。真正面には妹、お手伝いさん、メイド。これはもう、修羅場としかいいようが……。
 いや、待て待て――と、志貴は思い直しました。何一つやましいことをしているわけではありません。秋葉もよく知っている後輩の女の子に、日頃のお礼にご馳走しようとしているだけです。堂々としていればいいんだ、と思い直しました。
「や、やあみんな。こんなところで奇遇だな――」
「兄さん、こんな夜中に私の後輩を連れ出して、なにをなさるつもりですか!」
「うわぁ、ごめんよ、秋葉」
 一瞬で降参するお兄さん。年長者の威厳ゼロです。
「瀬尾も、こんな夜中に出歩くなんて。しかも男性とだなんて、ふしだらにもほどがあります!」
 晶は恐怖のあまり、真っ青な顔でがたがた震えています。
「まあまあ秋葉さま。そんなに怖い顔でお怒りにならなくても。志貴さんも瀬尾さんも、別にやましい行為に及んでいた訳じゃないんですから」
「あ、あたりまえです。兄さんだって瀬尾だって、そこまで堕落するはずがありません――」
「ですから、話を聞いて差し上げましょうよ、秋葉さま。雷を落とすのは、お二人の言い訳を聞いてからでも遅くはないですから」
 さすがに琥珀、秋葉に仕えているだけのことはあります。秋葉の怒りの方向を読みとって、巧みに助け船を出してくれます。
「そ、そうだよ。晶ちゃんと知り合いだってのは、秋葉だってよく知ってるだろう? いつも秋葉の事を教えてもらってるから、そのお礼にと思ってね」
「あら、瀬尾が私のことをなんて吹聴していたか、大いに気になりますわね」
「晶ちゃんからは秋葉の学校での様子を話してもらってたんだ。秋葉は、家じゃ話してくれないだろう?」
 それはそうですが……、と、秋葉はいつもの彼女らしくない、どことなく煮えきらない態度をとります。なにか思い当たる節があるのでしょう。
「それに、夜中っていうけど、まだ宵の口じゃないか。この時間なら、晶ちゃんにご馳走して、駅まで送っていっても、門限に余裕で間に合うよ」
 手応えを感じた志貴は、あえて畳みかけるのではなくて、少し引いて再考を促すようにいいました。そりゃあ志貴もある部分では恐ろしいほどに鈍いですが、お おむね人並み以上に気が回るのですから、いい加減に秋葉の扱い方も分かっています。分かっていて、なお分が悪い面もあるのですが――
「ま、まあ、そうまでおっしゃるのでしたら、信じなくもありませんわ」
 今回は、志貴が何とか言いくるめることが出来たようです。秋葉はなんとなくばつの悪い顔をしています。
「――」
 不意に、どこか気まずい瞬間がやってきました。志貴にすれば、これ以上強く出るわけにも行かず、一方で秋葉も言葉を途切れさせています。秋葉は、なぜかそ わそわしています。それは秋葉の、無意識の内のサインなのですが、実は肝心な点で鈍い志貴にはうまく解読できません。これはまずい、と志貴は焦りました。 今までにも、こうした謎のサインを読みとれず、かえって秋葉の怒りを何層倍もかき立てることになった経験があるからです。しかし、迂闊な口を利けば、これ また別方面の爆発を促すことになりかねません。
「あ、あの、遠野先輩もご一緒にいかがですか?」
 その時、その存在すら失念していた晶が、絶妙のタイミングで助け船を出してくれました。
「そ、そうだな。秋葉も、たまには外食なんてどうだ?」
 ある部分の感受性には乏しいけれど、生存のための野生の勘というモノが研ぎ済まされている志貴です。晶の提案に乗らなければならないと、とっさに悟った点はみごとです。
 秋葉は、ハッとした顔になって、それからなぜか恥じらいつついいました。
「そうね。兄さんと瀬尾が是非にというのでしたら――」

 小さな屋台です。屋台といっても、駅前の専用スペースなどに建つのは、半ば恒久的に使える大きなもので、繁華街に出没するそれだってリアカーを元にしたそ れなりのものです。しかし、志貴たちが訪ねたのは、どうやら原付を改装したらしい、それはそれは小さなものでした。カウンターといえるのは店主の向かいの 一つだけで、他の席は周囲に並んだキャンプ用の折りたたみイスだけみたいです。むしろ、よくも原付に載るだけのもので、ラーメンの調理など出来るもので す。
「店の方、兄さんのご学友のお兄さまなんですか」
「うん。そいつから、今日の出現地点を教えてもらったんだ」
「ずいぶんと、その、寡黙な方ですね」
 実際、秋葉たちが注文する間、わずかな身振り手振り以外、一言も口を利きませんでした。そのくせ、ちゃんと意思は通じていると理解できたのですから、どこかただ者ではありません。
「そういえば、秋葉はそもそも、なんでこんなところに――むぐっ」
「と、遠野先輩はチャーシュー麺でよろしいですよね!」
 この場合、明らかに口にしてはならない質問をしようとする志貴を押し退けて、晶は慌ててフォローを入れます。
「それは、確かふつうの支那そばに、焼き豚を増量してあるものよね。それで結構です」
 秋葉は超然としています。そもそも、なにを頼めばいいのか分かってなかったようですが。
 みんなチャーシュー麺、肉がだめな翡翠だけが肉抜きネギラーメンを頼みます。寡黙な店主は、寸胴に麺を落とすと、傍らに並べた器にタレを入れ、別の寸胴か ら汲み出した出汁を注ぎ、手際よくスープを作ります。タイミング良く茹であがった麺を素早く湯きりし、スープにそっと潜らせると、アイスボックスから出し てあった具材を、手早く載せて行きます。海苔とネギが最後にあしらわれて、もう出来上がりです。
「秋葉さま、冷めないうちにどうぞ」
 みんなに丼が回され、琥珀は秋葉にも手渡しました。
「少しだけ胡椒を振りかけると、秋葉さま好みの味になるのではないかと」
「あら、そうかしら」
 翡翠の助言を受けて、秋葉は一振りだけ胡椒をかけて、それから麺を楚々として口に運びます。それを見届けてから、晶も箸をとりました。本音を言えば、もう腹ぺこだったのです。
「うう〜、おいしいです〜」
 美味しそうに麺を口元に運ぶ晶と、無言ですが楽しそうな秋葉の横顔を見て、志貴も少しうれしそうです。
「ちょっと味が濃いですけど、このスープはとても美味しいわね」
 秋葉は、麺を少し口に運び、味を確かめているようです。
「今は夏場なので、少し薄味に仕上げておられるようです。ご店主は、冬場には魚醤を足して、さらに濃い味に仕立てられているようです」
 秋葉の横で、翡翠がそう解説します。
「季節によって味を変えていたのか。それは気づかなかった。それにしても、翡翠、妙に詳しいじゃないか」
 志貴の横では、楚々としたメイド服の翡翠が、急がず、慌てず、麺をつるりと食しています。なんともミスマッチであり、基本は労働者であるメイドに似つかわしくもあり。
「翡翠ちゃんはですねー、前にわたしがここに連れてきてあげてから、この店にご執心なんですよー。『姉さん、あのお店、今夜はどこに現れるのかしら』って。おかげで、お姉ちゃんも調査しがいがあって」
 琥珀は、おかしそうにいいます。
「ね、姉さん。わたしは、ただ自分の味覚音痴を直そうと思って――」
「同じ店でばかり食べたって、味覚は鍛えられませんよー」
 恥ずかしがる翡翠を、琥珀は親しげにからかいます。それが、周囲の人々をに、暖かな笑いを誘います。
 ただ、晶の反応はちょっと違いました。なぜだかボーッとして、見とれているようです。
「瀬尾、どうかして?」
 それに気づいた秋葉が、晶に声をかけます。
「はわわっ、いえ、なんでもないんですよー」
 いつものふにゃっとした笑みを取り戻して、晶は慌てて首を振ります。
「それでですねー、翡翠ちゃんが『もしかして、今夜辺り、志貴様が屋台に寄られるのでは』なんていったもんですから、秋葉さまが――むぐっ、きゅう〜」
「あら、琥珀どうしたの? ダメねえ、こんな時に脳卒中だなんて」
 鉄の肘が、おしゃべりのわき腹に密かに刺さってたりもするのですが。
「秋葉はラーメンなんて初めてだろう」
 そんな雰囲気ですから、志貴も自然にからかい口調になって、秋葉にいいます。
「あら、残念。以前に東京でさる方と会食したとき、その場でいただきましたわ」
「秋葉さま、あれは中華のタンメンですから、そこらへんのラーメンとは毛色が違うんですよー。名高いシェフさんの余興みたいなものでしたから」
「あら、そうなの?」
「秋葉のことだから、一食数万なんて本格中華も、そこら辺のカレーパンも、値段の差なんて気にしてないんだろうなあ」
 志貴は、いかにも嘆かわしげにいいます。
「美味しければいいんです。どうせわたしは物知らずのお嬢様よ」
「わかったわかった。そんな怒るなよ」
 志貴はそういって宥めますが笑いながらなので効果はありません。
 それを見る晶は、またさっきのようにボーッとしてます。なんだか、少し羨ましそうです。
「瀬尾さん、どうかなさいましたか?」
 それに気付いた琥珀、そっと声を掛けます。
「あ、いえ、なんでも――」
「うふふ、なんだか羨ましそうですけど」
「はわわ、そういうわけでは――」
 琥珀が小声でささやくと、晶は目に見えて慌てました。
「そういうわけでもない、わけでもないです」
 が、ふと思い直して、晶は続けました。
「わたしは一人っ子だから、こういう親密なスキンシップが羨ましいです。昔から、兄弟が欲しいなって……。だから、志貴さんは頼れるお兄さんって感じで、会えると嬉しいんですよねー」
「ふふふ、その言葉、秋葉さまには決して聞かれないようになさいませ」
「は、はい、それはもう」
 まだまだ賑やかな志貴と秋葉を横目に、晶もくすりと小さく笑い返したのでした。

 一番遅かった秋葉が箸を置くと、店主に礼をいって屋台を後にします。
「あら、瀬尾、ちょっとお待ちなさい」
「は、はい、なんでしょう」
 秋葉に急に呼びとめられて、晶は半ば条件反射的に背筋を伸ばして立ち止まります。
「もう、レディは身だしなみに気をつけなさいって、いつもいってるでしょう」
 秋葉はハンカチを取り出すと、晶の口元を拭ってやります。脂っこいラーメンを食べたのです。元気良く啜っていた晶の口元には、スープがこびりついています。
「はわわっ、と、遠野先輩、すいません!」
「ふふふ、瀬尾らしくていいですけど」
 秋葉は腰を少し屈めて、自分より背の低い瀬尾の口元を優しく拭ってやります。そんな秋葉と晶を、志貴は目を細めて見守っています。
「それ、いいなー。晶ちゃん、秋葉の妹みたいだ」
「はわわわっ、そ、そんなー」
 晶は、ふにゃっと嬉しそうに笑います。秋葉の妹ということは、志貴の妹ということでもあり――などと、頭の中で連想してしまったようです。もちろん、憧れの秋葉と姉妹みたいといわれたことも、舞い上がりそうなくらいなのです。
「あら、兄さん。私は瀬尾のことを妹だと思ってますよ」
 でも、それは周囲の勝手な想像だから――と、晶は少し先走って考え始めていたのですが、この秋葉の一言に吹き飛んでしまいました。
「と、遠野先輩。そんな、妹だなんて――」
 今度は色んなものを想像してしまって、赤くなったり青くなったり、なにか算段を始めたりと、晶の表情はコロコロ変わります。
「だって、瀬尾の事は将来の生徒会の柱石として隙無く育てなければならないのだし、浅上の後輩として名を汚さないように厳しく指導もしなければなりませんから」
「うわあ、ハードな姉妹プレイなんですねえ」
 琥珀が少し、いや大きくずれたことをいいます。
「いいこと、瀬尾。私の妹分として遇する以上、ふざけた真似は決して許しませんからね」
 秋葉が、まるで覚悟を促すようにいうと、晶は顔をあげて、きっぱりと答えます。
「はい、妹として、遠野先輩の顔を汚さないように頑張ります!」
 恐らくは、浅上でもこうなのでしょう、締めるべきところは締め、しかしいつも仲良くしている秋葉と晶。それを見守る遠野家の人々の目にも、自然に暖かな笑みが浮かんできます。
 晶へのご馳走が思わぬ形になりましたが、でも仲良く肩を並べて歩く秋葉と晶を見られて、志貴はちょっと得した気分になったのでした。


「それはそうと、妹分として扱うからといって、あなたが兄さんの妹になったということではないのですからね」
「はい……」

<了>

TOP / Novels