Rain Song(Old Ver.)


「止みませんね」
「止まないね」



 寒い冬が終わり、芽吹く頃も過ぎ、青く草萌える春が深まってきた。暖かな日が続いたかと思うと、冷たい風に震え上がる日もある。だが着実に肌着は薄くなってゆく。そうして春が一歩一歩深まってゆくのは、秋葉には喜ばしい変化だった。陽射しは暖かく、風は温み、雨も暖かで、好ましい。
 今日はずっと雨が降っている。いつものように早起きした秋葉は、窓の外で若葉がしとしとと雨に打たれているのを見た。今日はちょっと寒くなりそうですから――と、いつもながら気の良く回る琥珀は、昨日より一枚、薄物を足した着替えを用意していた。
 今日は休日だが、この分では外に出かけるのは無理だろう。少し気落ちしながら、居間に向かう。雨が高窓を叩く音が、さらさらと聞こえている。

 髪が十分に伸びた春、秋葉は久しぶりに屋敷に帰った。素っ気無いのに気の良く回る親友と、ペットみたいにべたべたしてくるのに干渉はしない親友との暮らしは楽しかった。しかし、やはり最愛の兄に会いたいという思いは、なによりも強いものだった。覚悟はしていたけれど、迎えてくれた兄の腕の中で、秋葉はうっかりと涙を見せてしまった。最愛の人に抱きしめられながら、秋葉はやはり帰ってきてよかったと思ったものだ。
 春休みに入ると、秋葉は久しぶりに屋敷でゆっくり過ごす時間を持った。そして兄との逢瀬を楽しんだ。目くるめくような二週間だった。だがそれが終わる頃、秋葉はやはり寄宿舎に戻る決意をしていた。兄と会うのは楽しい。愛し合う時間は切ないくらいだ。でも、それに溺れてはいけないと思った。少しだけ兄と距離を置ける時間を作ろう。その代わり、週末には自宅に戻り、思い切り可愛がってもらうのだ。
 志貴は寂しそうではあったが、妹の決意を受け入れた。そして、毎週末には、必ず時間を空けて、妹を思いっきり可愛がってやった。兄として、そして恋人として。
 黄金週間を旅行地で楽しく過ごした彼らは、次の週末にも少し足を伸ばそうと話し合っていた。緑萌える富士山麓を歩こうと。ところが、この雨がそれに水を差してしまった。

 旅行が無くなったので、秋葉の朝はいつも通りだ。朝食を取った後はまずお茶の時間。それから午前中は執務の時間で、当主として決済しなければならない書類を、琥珀、翡翠と三人がかりで処理してゆく。もっとも、込み入った件は随時久我峰斗波が携えてきて、秋葉と膝詰めで処理することになっている。だから、未成年の女性三人だけで処理するのは、もっぱら遠野家自身の家政に関わる出納と、企業から定期的に上がってくるサマリーの類だった。それらに関して、いちいち決裁、あるいは付箋をつけて保留する。決裁書類は、単に法律上の要請から親権者の署名が必要な場合は有間家に、一族としての重み付けが必要な場合は後見人の斗波の元に送付される。保留されたものはそれぞれの発送元に送り返される。これを三人がかりで、午前一杯かかって処理するのだ。ということは、決裁書類の大部分が送りつけられる名目上の親権者、有間啓子も同じだけ処理しているわけだ。半分は我が事ながら、秋葉としても頭が下がる思いだった。それくらい、処理すべき書類は多い。
「ほとんどは家の買い物に関するものなんだろう? ちゃっちゃっとサインしちゃえばいいんじゃないかな」
 いつの間にか起き出してきて、茶菓子をつまみながら、気楽そうな顔で言っている、最愛の兄がいる。秋葉はため息をついた。
「はあ、兄さんおはようございます。朝から寝ぼけたことをおっしゃいますね。お金の絡む話なんですよ? そんないい加減に処理できるわけが無いじゃないですか」
「でも、家くらい裕福なら、少しくらいの誤差なんて問題じゃないだろう?」
 志貴が口を出してきたのは、一方的に金の話を軽んじている訳ではなく、もっと合理的に振舞えば、というつもりらしい。
「その『少しくらいの誤差』が積もり積もって、大変な額になることもあるんです。単純な間違いならまだしも、犯罪行為だったらどうするんです。遠野ほどの資産規模だと、最終的には大規模な犯罪に繋がる事だって考えられるんです。見逃せるわけが無いじゃありませんか――特に我が家には要注意人物がいますしね」
 秋葉の目が、その“要注意人物”に向くと、件の人物は、あはー、などと冷や汗を浮かべているようだ。
「あー、わかったわかった。秋葉の気の済むようにすればいいさ」
 志貴が笑いながら話を打ち切ると、秋葉はますますムッとした顔になった。でも、兄のあけすけな笑顔を見ていると、これ以上追撃する気が失せてしまう。
「秋葉様、志貴さんはきっと、秋葉様のことが心配でいらっしゃるんですよー」
 一息入れる目処がついたと見たのか、茶器の乗ったワゴンを押してきた要注意人物――いや琥珀が、さりげなく割って入った。翡翠は、処理が済んだ書類を、発送先別にまとめ始めていた。
「ずーっと書類と睨めっこでは、気疲れしますからねえ。さあ、お茶にしましょう。今日処理しなければならないものは、それで全部ですから」
「そうね。そろそろ疲れてきたわ。翡翠、これは“保留”でお願い」
 秋葉は、ずっと読んでいた書類に、なにか書き付けた付箋を貼り付けると、“保留”の箱に置いた。それも翡翠がまとめてしまうと、秋葉の仕事はお終いだった。
「――それにしても大変だな。今度から俺も手伝うよ」
「お気持ちは嬉しいですけど、兄さんにお任せすると、なんでもほいほい決裁してしまいそうで怖いですね。琥珀の思う壺というところでしょうか」
「ずいぶんな言われようだな」
 志貴は頭を抱えて見せた。
「志貴さん、秋葉様はとても喜んでらっしゃるんですけど、愛情表現が複雑なだけなんですよー」
 琥珀が笑いながらフォローする。本当にフォローになっているかどうかは、いささか疑問ではあったが。
「なっ――琥珀、なにが愛情表現なものですか!」
「はいはい、お茶にしましょうねー」
 琥珀にあしらわれ、お茶を差し出された秋葉は、本気で叱る気はなかったのか、あっさりとお茶を受け取り、矛を収めた。元々、秋葉の感情表現はひねくれてはいるが陽性で、ドンと爆発したら、もう後を引かないものだ。
「でもまあ、志貴さんもそれなりの大学に入られて、それなりに学習されたら、きっと秋葉様を助けてくださるようになります。それまでの辛抱ですよー、秋葉様」
「兄さんが、そんな私たちの思惑通りに動いてくださる人ならいいんですけどね」
「はは、は」
 実は大学に進む意欲があまり無い志貴は、もう笑っているしかなかった。とはいえ、本当に秋葉の役に立てるというのなら、大学で学ぶのも悪くないかなと思った。

 休日の昼食は、四人でテーブルを囲む。たまに有彦や秋葉の友人たちが加わることもあり、楽しい時間だった。今日はその予定も無かったので、志貴を除く三人で、志貴の未来について(もっぱら辛辣な)考察を加えるという流れになった。志貴にしてみれば、苦笑いするしかない時間だったが。
 食事の後はどうするか。今日は本当なら富士山麓に足を伸ばすつもりだった。しかし、その予定がつぶれたので、ぽっかりと時間が空いていた。
「秋葉様、たまには息抜きされて、ごろごろなさるのもどうでしょう」と、翡翠。
「そうね。この雨だと、外に出かけても行くところが無いし」秋葉もそのつもりになっていた。
「じゃあ、俺は出かけてくるよ」と、志貴。
「兄さんはどちらに? 買い物ですか?」
「買い物っていうかさ、ただ歩き回ってるだけでも楽しいんだぞ。十分に時間をつぶせるさ」
「そうですか」
 秋葉は一時、思案顔になった。
「では私もそうします」
「えっ、ついてくるの?」
「あの、お嫌ですか?」
 ちょっともじもじしながら、上目遣いに志貴を見る秋葉。志貴は、胸がきゅんと高鳴った。その目は、志貴にしてみれば反則技だ。
「い、いや、もちろん嫌じゃないさ。でも、大したところを回るわけじゃないぞ?」
「構いません、兄さんと一緒なら」
「秋葉様、ナイスな恥じらい顔です」と、琥珀は親指を立てて見せた。
「琥珀っ、茶化さないのっ!」
 たちまちのうちに姦しくなるテーブルで、志貴は苦笑しながら女たちを見守っていた。

「じゃあ、行って来ます」
「行って来るわ。留守をお願いね」
「はい、ご心配なく。行ってらっしゃいませ」
 琥珀と翡翠に送り出されて、志貴と秋葉は街へと歩き出した。大き目の傘で、相合傘しながら。ちょっと肌寒いからか、秋葉は普段着の赤いワンピースの上に、これも赤いジャケットを着ていた。いかにも金持ちのお嬢様らしい着こなしだ。ちょっと自分と釣り合わない気がして、志貴は少々居心地の悪い思いをしていた。
「ところで兄さん、今日はどちらに?」
 兄の腕に自分の腕を絡めて、肩越しに甘えるようにたずねる秋葉だった。
「そうだなあ。まず本屋に行って、繁華街をうろついて、それからスーパーにでも寄ろうと思ってる」
「今日は、兄さんの日常を垣間見られますね」
 本屋では、志貴はいつも雑誌を立ち読みして、それから新書、文庫本のコーナーをうろつくことにしている。だが、腕に秋葉をぶら下げている状況では、立ち読みのしようがない。パラパラとめくって見せる程度だ。
「兄さんは、そういうものがお好きなんですか」
 志貴が手にしている本を見て、秋葉は興味深げな顔になった。季刊で発行されている、ナイフの専門雑誌だった。
「うん、別に使いたいわけじゃないんだが、見てるのは好きでね」
「ふうん……」
 本当は成年向け雑誌だって立ち読みするのだが、厳しいお嬢様が脇に控えている状況ゆえ、それはパス。
 新書、文庫本コーナーをうろつく。志貴は前から欲しかった作家の最新作を前に、ずいぶん悩んでいたが、結局は買わなかった。
「買われないのですか?」と、志貴のやることにはなんでも興味津々なお嬢様。
「うーん、正直、すぐに欲しいとまでは思わないから。他に買いたい物もあるしね」
「ふうん……」
 秋葉は、視線を落として、ちょっと考え込んだ。
「兄さんは、本はいつも買って帰られるのですか?」
「はあ?」
 質問の意味が分からなくて、志貴は首を傾げた。
「そりゃ欲しかったら買うしかないけどさ」
「いいえ、なんで私や琥珀たちに言ってくださらないのかと。そういうことでしたら、よほどの物でもない限り、無条件に買って差し上げるのに」
「あー、うん、なるほど。そういう手があったか」
 確かに、欲しいものがあれば入手しますと、秋葉にも使用人姉妹にもいわれてきた。
「別に遠慮なさることは無いんですよ。どうせ毎週、それなりに購入しているんですから」
「うーむ、そうか。考えておくよ」
 気の無さそうな志貴の答えに、秋葉はがっくりしつつも、苦笑しているようだ。
「そういえば、秋葉は毎週そんなに本買ってるの?」
「はい。これでも本は読んでいる方です。毎週の学校への行き帰り、車の中で退屈しますから」
 ああ、そうか、と志貴は納得した。学校の寮でも読んでいるんだろうと思った。
「じゃあ、車で本屋に寄るの? それとも学校から外出できるのかい?」
 週末を一緒に過ごしている間、秋葉が本屋に出かけるところを見たことが無い。
「いいえ、本屋から届けてもらいます」
「ん? どうやって本を選んでいるの?」
「それは、なじみの本屋の店主が、私の好みに合わせて選んでくれます。もう十年来の付き合いですから、私の好みは良く分かってくれます。雑誌や文芸書、理系書の選択で、私の好みから外したものを送ってくるのは、もう稀ですね」
「本屋の方で選ばせてるのかよ」
「はい。その代わり、私の好みを理解するまでは、好みでない本に関してはいちいち文句をつけてました。それも含めて、送ってきたものは、必ず購入していたんですけど。その代わりにということです」
 さすがに金持ちは違うと思った。志貴のような一般人とは、発想が違う。

 結局、志貴は雑誌を買っただけで、本屋を出た。また、相合傘で繁華街を歩いてゆく二人だった。
「クロスワードパズルの雑誌ですか。兄さんらしく、ずいぶん長く楽しめそうですね」
 秋葉が感心しているとも、揶揄しているともつかない口調でいった。
「いいじゃないか。頭を使って、しかも時間を潰せるんだぞ」
「悪いとはいってません。兄さんらしく実直で堅実な選択だなと思って」
「それ、褒められてるのかなあ」
 ちょっと小腹がすいたねと、志貴が誘ったのは、ファストフードの店だった。
「人が多いですね」
 案の定、秋葉はガヤガヤと混みあっている店内を、目をぱちくりさせて見ていた。志貴は、そんな秋葉を、期待のこもった目で見ている。
「さあ、奢ってやるから、注文しなよ」
 秋葉はカウンターの前に立って、にこやかに0円商品を振舞っている店員と、その背後のメニューとを見比べていた。戸惑ってる戸惑ってる――志貴は思わず、笑いをかみ殺した。
「あ、あの――」
「はいいらっしゃいませ。ただいまトリプルチーズバーガーセットがお得になっておりますが」
「えっ、ええっと、それはどういう商品ですか?」
「期間限定の特別メニューでダブルチーズバーガーのお値段と同じと大変お得になっておりますが」
「じゃ、じゃあそれをお願い――」
「かしこまりましたお飲み物は何にいたしましょう」
「紅茶を――」
「アイスティーでございますねかしこまりました」
 そこで志貴が割り込んで、自分の注文と併せて支払った。
 ハンバーガーは後ほどお持ちしますといわれ、まずは飲み物とポテトフライをテーブルに載せ、空いている席を占拠した。
「物凄く慌しいんですね。びっくりしました」
 秋葉は、正直にそういった。
「そりゃ秋葉が行きつけてるような店に較べれば、こういう業種は回転が勝負だからね」
「それにしても、店員さんが物凄く早口なのが驚きです」
 店員の、句点の無さそうな早口にもびっくりしたようだ。
 秋葉はアイスティーに口をつけて、案の定、顔をしかめた。
「どうした、甘すぎる?」
「いえ、単に香りが無いだけです。紅茶と思わなければいいだけです」
 ちょっと自棄気味にいった。
 ポテトを口にしては、その脂っこさに辟易しているらしい秋葉を観察していると、店員が二人のハンバーガーを持ってきてくれた。
「――なんですか、これは……」
 秋葉は、自分の前に置かれたトリプルチーズバーガーを見て、絶句している。絶対に秋葉のお上品な口には入りきらないくらい、堂々たる高さを見せていた。秋葉にはダブルチーズバーガーでさえ無理だろう。
「自分で頼んだんだろう。ほら、奢ってやったんだから、食えよ」
 志貴がわざと冷たく言い放つと、秋葉は真っ青になった。
「そんなことおっしゃいますけど、食べられるわけ無いじゃありませんか。顎が外れちゃいます――」
 秋葉が泣きそうな顔になるのを見て、志貴はさすがにやりすぎたかと後悔した。
「わかったわかった。じゃあ俺のチーズバーガーと交換しよう。これならいいだろう?」
 どうせこうなると思って、志貴の方は一番小さいサイズのものを頼んであったのだ。
「はい。ごめんなさい、兄さん」
「い、いや、気にするなよ」
 さすがにべそを掻くまでいじめるのはやりすぎたか、と思いつつも、普段のちょっとした復讐を果たせて、志貴はちょっとだけ溜飲を下げてもいた。

「兄さん、分かっててやったんでしょう」
「ごめんごめん、ちょっとした可愛いいたずらじゃないか」
 店を出て、また相合傘で、ちょっとじゃれ合いながら歩いている。
 あの後、志貴がふと周りを見回すと、妙に冷たい視線が集まっているのに気づいた。どうやら、あんな可愛い子をいじめて――などと、反感を買ってしまったらしい。その雰囲気に志貴の方が耐えられなくなって、ハンバーガーを詰め込むと、慌てて店を出る破目になった。しかし出たら出たで、今度は秋葉がさっきのことを蒸し返してくる。とはいえ、相合傘の雰囲気が殺伐たる空気を和らげるのか、口論とはいえ可愛いものだった。
「もう、知りません」
 秋葉はぷいとそっぽを向いてしまう。だが相合傘をして、腕を絡めあって歩いているのだから、意味が無いのだが。
 志貴はゲームセンターに入ると、秋葉のためにと、クレーンゲームでぬいぐるみを取ってやった。すると秋葉は大喜びで、さっきまでの不機嫌ぶりはどこかに行ってしまったようだった。
「ありがとうございます。兄さんからプレゼントをいただいたのは初めてです」
 なんてことないワニのぬいぐるみなのだが、秋葉は本当に大切な宝物のように抱きしめている。あ、そうか、と志貴は気づいた。志貴はいままでずっと、秋葉から何かを貰って生きてきた。生活費がとかいったレベルではなく、生きる意味も、そして命さえも。だというのに、志貴は自分が、秋葉に何かを与えてやったことが無いのを思い出した。
「……そうか。今度ゲーセンに寄ったら、また取って来てやるからな」
 胸に迫ってきたものを飲み込みながら、志貴は優しく答えた。
「はい。期待してます」
 秋葉は、兄が急に優しくなったことを不思議に思いつつも、やはり嬉しいのか、ぬいぐるみを抱きしめたまま、兄に着いて歩いた。

 繁華街をうろつき、小さな店をはしごして行く。秋葉が疲れたようなら、適当なベンチに座って休憩する。なんてことの無い散策なのに、秋葉は楽しそうだった。
「こういう場所、あまり歩かないの?」
「そういうわけでもありませんけど……。大体は目的があって街に出ますので、こんな風にあてどなく歩くことなんて無かったです。それに、だいたい琥珀と一緒でしたから、私が困るようなことも無かったし」
「じゃあ、さっきのハンバーガーの件も、社会勉強だよ」
「ふふふ、そういうことにしておいて差し上げます」
 最後に立ち寄ったのが、繁華街からわずかに外れたスーパーだった。買う気も無いのに生鮮食品コーナーをうろつき、売り子の差し出す試食品を味わう。
「なにか買わないと、罪の意識が――」と、秋葉が気にするので、志貴は適当なペットボトルと、袋ラーメンをいくつか買って、スーパーを出た。
「いつも買われているのですか?」袋ラーメンを指して、秋葉が不思議そうに問うた。
「うん、たまーに夜中に腹が空くことがあってね。琥珀さんに頼んで、台所の棚に置いてもらって――」
「まあ兄さん、そんなはしたないことをしてらしたんですか。夜中に部屋を出てうろつきまわるのは控えてくださいと申し上げたじゃありませんか。琥珀も琥珀です、そんな風に兄さんを甘やかせるから――」
 うわっ、薮蛇だ。志貴は慌てて秋葉を宥めながら、屋敷へと戻り始めた。

 雨がしとしと降り続く中、屋敷への坂道へと続く道を戻ってゆく。やっと、なんとか秋葉を宥めた志貴は、秋葉の手を取って歩いていた。この道を歩く時、ある記憶が蘇って、それが志貴の表情を重くする。秋葉は、そのことに、かなり前から気づいていた。だから、今日この時、訊いてみようという気になった。
「――兄さん」
 秋葉は足を留め、兄を見上げた。
「ん?」
「弓塚さんの家は、この近くなんですね」
「――ああ」
 志貴は、秋葉に横顔を見せたまま、丘の向こうに目をやった。立ち止まった志貴に、秋葉も付き合う。
「あれから半年が過ぎたんだな」
「はい」
 秋葉はなにか決意した顔で、志貴に問うた。
「ねえ兄さん。兄さんは、弓塚さんのこと、どう思われていらしたんですか?」
「そうだな――」
 志貴は、鉛色の、しかしなぜか不思議と光を感じさせる空を見た。
「わからないよ。好きだったのか、気にしていたのか、どうでもよかったのか、今になってもわからないよ。俺が弓塚さんを気にしたのは、あの時が、屋敷に戻ってきた時が初めてだったからな」
 志貴は、ふっと遠い目をして見せた。
「俺は薄情な奴だ。弓塚さんはずっと俺のことを気にかけてくれてたってのに、俺は全然気づいてなかった。弓塚さんがあんなに思ってくれていたのに、俺はちっとも思ってあげられなかった」
 志貴は、秋葉にも目を向けた。
「秋葉、お前にだってそうさ。俺は八年前、お前に命を分けてもらって、なんとか命を繋いできた。お前は俺のためにずっと苦しんできたのに、俺はのほほんと過ごして、気にしたことも無かった。俺はお前から奪うばかりで、お前に与えてやることが出来なかった。弓塚さんにだってそうさ。俺はきっと、そういう冷たい心に生まれついたんだ」
「まだそんなことをおっしゃるんですか?」
 秋葉は、わざと怒ったようにいってみせた。
「兄さんは、まだそんな馬鹿なことをおっしゃるんですか。それでは本当に、弓塚さんは浮かばれませんよ。そんな、ご自分がなにも与えてなかったなんて」
「でもな、秋葉――」
「いいえ、聞きたくありません」
 秋葉はぴしゃりといってみせた。
「私が今まで生きてこられたのは、兄さんのおかげです。兄さんがいたから、私は生きてこられたんです。兄さんがいなかったら、私は生きてなんか行けなかった。ねえ兄さん、人間にとって一番幸せなのは、好きな人を想うことなんですよ。私、兄さんを想うときが一番幸せでした。その時間がなければ、あの屋敷での退屈な時間に耐えることなんて出来なかった。兄さんは、私に生きる意味を与えてくれたんです。きっと、弓塚さんだって同じことです。それに――」
 秋葉は志貴に身体を寄せて、なおも言い募った。
「それに、兄さんは弓塚さんのことを想い続けている。確かに生前の弓塚さんと兄さんは縁が希薄だったかもしれない。でも弓塚さんを失ってから、兄さんはちゃんと想い続けてあげている。だから、弓塚さんだってちゃんと報われているはずです。吸血鬼にされて、苦しんで死んでいった弓塚さんだって、兄さんが想い続けてあげていることで救われているんです。本当に、兄さんは、そんなこともわからないくらい鈍感なんだから――」
「――そうか」
「そうですよ。だから兄さん、そんな辛そうな顔をしないでください。そんな顔をされたら、弓塚さんだっておちおち天国で和んでいられませんから」
 志貴はそのことを否定も肯定もせず、秋葉の身体に手を回し、抱きしめた。そしてその目は、自分の手で消し去ったクラスメートの幻を、じっと見つめていた。

 屋敷の門を潜ると、志貴はつと足を裏庭へと向けた。屋敷を回りこんで、裏庭の少し奥に入ると、こぢんまりした、真新しい東屋が建っている。すぐ傍には小さな水面が広がっている。この辺り、水はけが悪いせいで、いつの間にか水がたまり始めていた。それなら、ということで、小さな池を作り、東屋を建てたのだ。
「庭に池があるってのはいいもんだろう?」
 東屋のベンチに腰掛けて、雨降る水面を眺めつつ、志貴は少し得意げに言った。いっそのこと池にしちゃえば――などと提案したのが、誰あろう志貴だったからだ。
「落ち着きますね。私、よく一人で池を眺めてます」
 そういえば、秋葉の部屋からは、この池が良く見えているはずだ。
 そうだ、と志貴は思った。
「あのさ、今日は山に行けなかったけど、来週はどこかの湖に遊びに行かないか? ボート浮かべてさ」
「なんだか、『ボート転覆で兄妹水死』なんて新聞の見出しが思い浮かびますね」
 憎まれ口は叩くものの、秋葉もまんざらでも無さそうだった。
 二人は言葉も少なく、雨滴が波紋を静かに広げる水面を、ただ眺めていた。
「止みませんね」
「止まないね」
 降り続く雨に苦笑しながら、こんな日もあっていいかと思う二人だった。

<了>

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