Maybe Next Time



「また明日、学校で会おうね」



「おはよう遠野くん」
「――えっ」
 わたしが遠野くんに声をかけた時、遠野くんはちょっと驚いていた。なんだか失礼しちゃうな。わたしから声をかけたのが、そんなに意外? ――そうかもね。思い出す限り、わたしからそんなことをしたこと無いし、あれ以来話す機会も無かったから。
「遠野くん、さっき先生が探してたよ。なんかお家のことで話があるとかいってたけど」
 気を取り直して、とりあえず用件だけ伝えると、遠野くんはわずかに考え込む顔になった。
「……ふうん。家の事って、引っ越しについてかな」
 その呟きが耳に入って、わたしは思わず遠野くんの顔を見た。引越し? 遠野くん、まさか――
「えっと……おはよう、弓塚」
 どうやら我に返ったようで、遠野くんはようやくわたしに挨拶を返してくれた。遠野くんの優しい目が、やっとわたしを見てくれた。
「うん、おはよう遠野くん。わたしの名前、ちゃんと覚えていてくれたんだね」
 お澄ましして答えたけれど、遠野くんがわたしの名前を憶えてくれていたという事実に、少し心が弾み出してしまう。
「クラスメイトの名前ぐらい覚えているよ。その、弓塚さんとはあまり話をしたことはなかったけど」と、遠野くん。
「そうだよね。うん、だからわたし、遠野くんに話しかけるのはちょっと不安だったんだ」
 本当に、遠野くんはどこかぼーっとしてる感じがある。ぼんやりしてるんじゃなくて、茫洋としてるっていうのかな。つかみ所が無くて、些細なことなんか簡単に忘れちゃいそう。たとえば、わたしの名前とか。でも、わたしの名前は覚えていてくれた。それがちょっと嬉しかった。
 でも、さっきの呟きが気になった。聞こうかどうしようか迷ったけど、ほんの少しの勇気が後押ししてくれて、結局は口に出していた。
「遠野くん。その、ちょっと聞いていいかな」
「はあ、俺に答えられる事ならいくらでもどうぞ」
 相変わらず、その気があるのか無いのかつかみ所の無い口調。でも遠野くんは優しいから、本当に答えられることなら全て答えてくれそうな気がした。
「うん……その、こみいったコトならごめんね。その、いま引っ越しって言ったけど、遠野くんどこかに引っ越しちゃうの……?」
 わたしがそう問うと、遠野くんはわずかに表情を変えた。
「急な話だけど、もしかして転校とか、するの?」
 そう口に出したとき、わたしの胸は、少しドキドキし始めていた。だって、せっかく遠野くんと同じクラスになれたのに、別の学校に行っちゃうなんて。そうしたら、もう会えなくなるかもしれない――
 でも、遠野くんは笑いながらこういった。
「ああ、違う違う。住所が変わるだけで学校は変わらないよ。引っ越し先もこの街だし、そんなに大した事じゃないんだ」
「そう――――よかった」
 わたしは、思わず胸をなでおろした。
「……?」
 そんなわたしを、遠野くんは不思議そうに見ていた。ちょっと、変な女だと思われたかな。でもどうせ変に思われたのなら、いつもなら聞きにくいことも聞いちゃえ――
「でも遠野くん、お家が変わるって言うことは、もしかして有間さんのお家から出ることになったの?」
 わたしがそう尋ねると、遠野くんはわずかに寂しそうな顔になった。
「ああ、名残は惜しいけどいつまでもお世話になってるわけにもいかないし――」
 そうか。そうだったね。いくら義理の、育ての親とはいえ、遠野くんはそこで八年も暮らしてきたんだ。きっと、本当の親御さんのように思っていたはず。でも、そんな思いまでして有間さん家を出て行くだなんて、もしかして遠野くん、あのお屋敷に――?
 その時、不意に隣に男の子がやってきた。
「いよぉう、遠野!」
 朝からテンション極めているのは、遠野くんの親友、乾くんだった。わたしは思わず首をすくめた。なんだか、乾くんは苦手な相手だ。テンポに着いていけないっていうか、テンションに押しやられるっていうか。
「おっ、弓塚じゃんか。珍しいな、オマエと遠野が話してるなんて」
 乾くんは急に振り向くと、わたしにそういった。
「……おはよう、乾くん」
 一気にテンションを下げながら、わたしはとりあえず当り障りの無い挨拶を返した。とにかく、乾くんに真正面から話し掛けられるのは、ちょっとごめんして欲しいことなんだもの。
 それから、遠野くんも乾くんも、わたしのことを忘れたように、二人だけの会話に入り込んでいった。遠野くんは乾くんを邪険に扱うし、乾くんは乾くんで遠野くんをからかうんだけど、そこにはずっと深い部分で繋がった思いやりが見え隠れしていた。
 悔しいな。そう思った。乾くんは、遠野くんの足りない部分を補ってあげて、なおかつ支えてあげていた。わたしの知る限り、乾くんは有間のご家族よりもずっと遠野くんの真情に近かった。本当なら、わたしがそうなりたかったのに。わたしが遠野くんを支えてあげたかったのに。でもそれは、今の弓塚さつきには無理なことなんだ。せめて、遠野くんの側にいられますように。せめて遠野くんの目が、わたしを見ていてくれますように。
 遠野くんと乾くんは、このところ続いている殺人事件を話題にし始めていた。思わずぞっとするような事件だった。でも乾くんが、なんだか適当なことを口走っているので、わたしはやっと口を差し挟む隙をみつけた。
「……違うよ、乾くん。殺されちゃった人はみんな、体内の血液が著しく失われている、でしょう?」
「ああ、そうだったそうだった。現代の吸血鬼かっていう見出しだったもんな、アレ」
「ふうん。詳しいんだね、弓塚さん」と、遠野くんは感心してくれた。こんなことで感心されても――でもちょっと嬉しいな。
「そんなコトないよ。この街で起きている事件なんだもん、ニュースを見てればイヤでも覚えちゃうことだと思う」と、わたしは奥ゆかしく謙遜して見せた。
「――とまあ、そういうコトだよ遠野。いくらオレでもね、夜中に殺人犯が出歩いているうちは夜遊びはしない。そういうわけで最近はまじめに朝七時に目を覚ましているのだ」
 乾くんにしては、珍しくもまともな理由だったみたい。
「……なんだ、そんな理由だったのか。まともすぎてつまらないな」
 遠野くんも、同じような印象を持ったみたいだ。
「なんだよ、つれないな。さてはアレか、朝から貧血でぶっ倒れたのか」
 遠野くんの憎まれ口に、しかし乾くんはそんな心配を口にした。悔しいけど、乾くんのこういうところに、わたしはとても敵わない。こんな風にさりげなく心配りが出来るなんて。男の子同士の関係って、わたしには羨ましかった。
「いや、今朝はまだ大丈夫。心配してくれるのはありがたいんだけどね、そう四六時中貧血を起こしていたら体がもたないよ」
 そうだよね。遠野くんは前ほどには虚弱体質じゃないし。でも、今でも無理すると、倒れてしまうことはあるんだ。わたしには、それがとても心配。
「ああ、そりゃもっともだ。遠野が大丈夫っていうんなら、まあ大丈夫なんだろうよ」
「ほら、授業が始まるぞ。早く席に戻れ」
 時計を見ると、もう始業時間までわずかだった。
「それじゃあね、遠野くん」
「あ――うん、弓塚さんも、付き合わせて悪かったね」
 遠野くんに声をかけ、その答えを聞きながら、席に戻った。ちょっとしたことだったんだけど、思いがけず遠野くんといっぱいしゃべれて、ちょっとだけ幸せ。

 わたし、遠野くんのことをずっと見ていた。あの時から、遠野くんのことをずっと見ていた。遠野くんの優しさ、強さ、そして怖さを、わたしはずっと見ていた。だから、遠野くんのことを世界で一番良くわかっているのは、きっとわたしのはず。なのに、わたしは遠野くんから遠く離れている。遠野くんを、遠くから見ているだけ。乾くんほど、遠野くんの側にはいられない。でも遠野くんを見ていられるだけ、幸せなんだと思っていた。
 でも、今朝の出来事があって、そんな遠野くんとわたしの関係も、もしかしたら変えて行けるかもと思い始めた。ちょっとした勇気、ちょっとしたきっかけ、そんなものがあれば、きっと変えて行けるはず。遠野くんのクラスメートの一人という立場から、特別な一人に変わる事だって――
 ううん、それは望みが高すぎるっていうもの。わたしは、遠野くんの目がわたしに向いてくれるだけでうれしい。わたしをわたしだとわかってくれるだけで嬉しいんだもの。特別な一人だなんて……高望みが過ぎるというもの。
 それでも、その日一杯、授業を受けながら、わたしはずっと暖かい気持ちでいられた。もしかしたら、遠野くんはこれっきりでわたしのことを忘れて、またわたしのことを“その他大勢”の囲いに放り込んでしまうかもしれない。それでも、わずかな勇気と、きっかけがあれば、また遠野くんと一杯おしゃべりできるんだ。そう思えるだけで、それが事実なんだと思えるだけで、わたしは今までよりもずっと幸せな気持ちになれた。遠野くんを見ているだけで幸せだったのに、それよりもずっと幸せになれるんだ。もう、切なさすら感じるくらいに。
 だというのに、少しうきうきしながら、のんびりと歩いていた帰り道。わたしのそんな認識が、またしても壊されてしまった。だって、わたしのいつもの通学路をとぼとぼと歩いているのは、遠野くんに間違いなかったんだから。
「あれ、遠野くんだ」
 思わず声をかけると、遠野くんもびっくりした様子でわたしを見た。
「あれ、弓塚さんだ」
 わたしは遠野くんのところまで歩み寄ると、その顔を思わずまじまじと見つめてしまった。だって、遠野くんが、なぜここにいるの?
「えーっと、弓塚さん? 俺の顔に何かついてる?」
 思わず見つめすぎてしまったみたい。遠野くんは、微妙にたじろぎながら、そう問い返した。
「だって、どうして遠野くんがここにいるのかなって。遠野くんの家、反対方向だよ」と、わたしは素直に疑問を口にした。
「あ……まあ、昨日まではそうだったけど、今日からは別だよ。これからはあっちの住宅地の奥にある、坂の上の家に住む事になったから」
 遠野くんは、ちょっと情けなさそうな笑みを浮かべて、そう答えてくれた。
「あ、朝に言ってたのはその事だったんだ」
「そういう事。弓塚さんは知ってるから隠しても仕方ないよな。俺さ、預けられていた有間の家から今日づけで実家に戻ることになったんだよ」
 あの時、遠野くんの口からは聞きそびれたけれど、遠野くんの新しい家というのは、どうやら――
「実家って、その……遠野さんのお屋敷に?」
「ああ。自分でも似合わないって思うんだけど」
 そうたずねると、遠野くんは笑みにほんの少し憂鬱の色を混ぜて、答えた。
「そっか、遠野くんってば本当は丘の上の王子さまだもんね。わたしと乾くんぐらいしか知らない秘密だったのに、これじゃみんなにバレちゃうかなあ」
 そんなことを知っているのは、付き合いの深い乾くんと、遠野くんのことなら何でも知りたがるわたしくらいだろう。そのことを思い返して、わたしは少しだけ優越感を覚えた。
「でも大丈夫? 自分のお家だって言っての、もう八年も離れているんでしょう? その、恐いなー、とか不安だなー、とか思わない?」
 ふとそのことが気になって、遠野くんに聞いてみた。
「そうだね、実際不安ではあるよ。もとから俺はあの屋敷が好きじゃなかったし、今じゃ他人の家みたいに感じるしね。けど、それでも――」
 ふっと遠野くんの目が、遠い誰かの姿を思い浮かべたようだ。
「――やっぱり自分の家なわけだから。そこに戻るのが一番自然な形だと思うんだ」
 そう口にする遠野くんの目は、実際には自然だから帰るんじゃないって主張していた。本当は遠野くんが思い浮かべていた誰か、きっと大切に思っているはずの誰かのために戻るんだって。
 ちょっと、心の底が熱くなった。それはきっと、ほんのわずかな嫉妬なんだ。名前も、顔も知らない誰かに、わたしは嫉妬したんだ。だって、その人は、遠野くんにとっては、特別な人に違いないんだから。
「……そっか。あ、呼び止めちゃってゴメンなさい。遠野くん、急ぐんでしょ?」
 とりあえず、遠野くんをこれ以上引き止めるのは悪いから、そう口にしてみた。ま、今日は朝夕と二回も遠野くんと話せたから、ラッキーだったかな。ん、待ってさつき、遠野くんが丘の上のお屋敷に戻るということは、つまり――
「いや、別に用事はないよ。のんびり散歩がてら帰ろうとしていただけだから」
 そう答えてくれる遠野くんの笑顔がまぶしい。
「あ――そう、なんだ」
 そう答えるのが精一杯だった。
 どうしよう。遠野くんが丘の上の屋敷に戻るということは、丘の下まではわたしと同じ道を通るということ。だから、その、一緒に帰るのが自然だと思う、ん、だけど……。で、でも、遠野くんにそんなこと言い出せないよ。だって、わたしは遠野くんにとっては特別でもなんでもないし。でも、同じ道を通るのに、この先を別々に歩くなんて、なんだかおかしいし――
「……弓塚さん? どうしたの、気分でも悪いの?」
 頭の中が沸騰寸前のわたしを心配したのか、遠野くんの声が遠くに聞こえた。
「…………」
 そ、そうよ。朝のことを思い出すの。あの時だってずいぶん逡巡したじゃないの。でも先生の言伝があるからって自分を納得させたんじゃない。そう、帰り道は一緒なんだから、一緒に帰ろうって誘うのはおかしくない。おかしくないんだってば。
「あ、あのね」
 ありったけの勇気をかき集めて、わたしはやっと口を開いた。
「うん、なに」
 優しく問い返してくれる遠野くんの目を、わたしはまともに見れなかった。
「あの、そのね、わたしの家と遠野くんの家って、坂に行くまで帰る道が一緒、なんだ、けど……」
 ありったけの勇気をかき集めて、なんとか唇から押し出したのはそこまで。その先の肝心要の言葉は、とうとう口に出来なかった。あー、さつきの馬鹿。これじゃ肝心のことには鈍い遠野くんに、わかってもらえるはず無いじゃない……。
 わたしの乙女心は千々に乱れた。泣きたい気分。どうしてわたしは、弓塚さつきは、あとほんの少しの勇気を持てないんだろう。自分が情けなくなる。
 そんな風に遠野くんの反応を勝手に予測して、わたしはがっくりとうなだれそうになった。だというのに、遠野くんはわたしの予想を超えた反応を示してくれた。
「そうなんだ。それじゃ途中まで一緒に行こっか」
 まるで当たり前のように、そういってくれたのだ。
「――え?」
 その途端、わたしの中の暗いものは、あっという間にどこかに消えうせてしまった。
「う、うん――そうだよね、帰る道が一緒なんだから、途中まで一緒でもおかしくないよね!」
 現金にも、たちまち弾んだ気持ちになってしまう。
「丁度よかった。俺、このあたりの道に不慣れだからさ、弓塚さん案内してくれないかな」
「うん、それじゃあこっちの道に行こっ。坂道までの裏道があるんだ」
 思わず口調も弾むわたしを、遠野くんはやさしく見守ってくれていた。

 歩きながら、色んなことを話した。学校での出来事、世の中の事件、わたしの家のこと――
 振り返ってみると、わたしが話してばかりだったかもしれない。でも遠野くんがわたしの話を聞いてくれるのは嬉しい。ぽつぽつと返って来る反応も嬉しかった。
「――ふふ」
 そんな気持ちにこらえきれなくなって、わたしは思わず笑いをもらしていた。
「なに、いきなり。なにかおかしなこと言った、俺?」
「ううん。単にね、わたしと遠野くんは明日から同じ通学路になるんだなあって」
 本当に、明日からは毎日だって、遠野くんとお話しながら帰れるんだ。それどころか、朝一緒に学校に行く事だって。夢みたい。昨日までは、遠野くんのことを遠くから見ているしかなかったのに、今はこんなに近くにいてくれる。
「ね。中学二年生の冬休みのこと、覚えてる?」
 衝動的に、口にしていた。
「――?」
 遠野くんは不思議そうな顔をしている。
「やっぱりなあ。遠野くんの事だから、絶対に覚えてなんかないと思った」
 その点、やっぱり遠野くんだなあと思って、わたしはため息をついた。
「ほら、わたしたちの中学校って体育倉庫が二つあったでしょ? ひとつはおっきな運動部が使う新しい倉庫、もう一つはバドミントン部とか小さな運動部が使ってた古い倉庫。で、この古い倉庫っていうのが問題でね、いつも扉の建て付けが悪くて、開かなくなることが何回もあったの」
 昔話を始めながら、わたしは遠野くんの様子をうかがった。ま、ぽかん、という感じ。それでもなにか思い出したみたい。
「ああ、あの倉庫か。一度生徒が中に閉じ込められてから使われなくなったっていう」
 なんだ、憶えてるんだ。
「そうそう。その生徒っていうのが当時のバドミントン部の二年生」
「――ああ」
 遠野くんは、自分の記憶を探るような顔になった。
「……そういえば、そんな事もあったな。でもそんな話をよく知ってるね。あれ、閉じ込められてたバドミントン部の主将が、“部の存続にかかわるからこのことは秘密にしなさい”って、俺に脅しをかけてきたぐらいなんだけど」
「もうっ。遠野くんってば中に誰が閉じ込められていたか、まったく興味がなかったんだね。いい? わたしはそのころバドミントン部の部員だったんだよ」
 わたしが少し拗ねてそういうと、遠野くんは、あっ、という顔になった。ようやく、その閉じ込められた部員のことを思い出したのかな。
「――わたし、ちゃんと憶えてるよ。今にして思えばただ倉庫に閉じ込められただけだったんだけど、あの時は寒くて暗くて、すごく不安だった。このままここで凍死しちゃうんだーって、みんな本気で思ってたんだから。おなかだってぐうぐうに減ってたし、ほんとーにダウン寸前だったんだ」
「はあ。それは、タイヘンだったね」
 あいかわらず、遠野くんは気の抜けたような、いい具合に力の抜けたような反応をしてくれる。とりあえず、気にしないことにしよう。わたしは昔話を続けた。
「そうしてみんなが震えてる時にね、遠野くんがやってきたの。いつもの、自然で気負ったところのない口調で、“中に誰かいるの?”って。見てわからないのかーっ、て主将がカンシャクをおこしたの、覚えてる?」
「ああ、それは覚えてる。ドカンって扉にバットを投げつけた音だろう。アレ、びっくりしたよ」
 そうそう、ってわたしはちょっと笑った。
「でも、先生方はみんな帰ってるって聞いて、わたしたち本当に絶望したんだから。あと一分だって耐えられないのに、もしかしたら明日までここに閉じ込められるかもしれないって思って。そうしてわたしたちが世をはかなんでいる時にね、コンコンって扉がノックされて、遠野くんはこう言ったんだ。『内緒にするなら開けられないこともないよ』って」
「ああ。そこでまたドガンって音がしたっけ。“かんたんに開けられるなら苦労しないわーっ!”って、すごい剣幕だった」
「あはは。うん、主将はわたしたちが閉じ込められた責任を感じていたから、ちょっと余裕がなかったんだ。でもね、そしたらすぐに扉が開いたんだよ。みんな主将のバットが効いたって喜んで外に飛び出したけど、わたしは扉の横でぼんやりと立っている遠野くんをちゃんと見てたよ」
 わたしは立ち止まると、遠野くんをまっすぐに見た。
「その時ね、わたし、すごく泣いてたの。まぶたなんか腫れに腫れちゃって、もうクシャクシャ。そんなわたしを見て、遠野くんはなんて言ったと思う?」
「わからないな。なんて言ったの?」
 本当に、遠野くんは、その時の細かいことなんて、みんな忘れてしまったみたい。
「それがね、わたしの頭にぽんって手をのっけて、“早く家に帰って、お雑煮でも食べたら”って。わたし、よっぽど寒そうに震えていたんだなって恥ずかしくなっちゃった」
「…………」
 遠野くんは、むむむ、と考え込んでいる。どうも、自分自身の意図を掴みかねているみたい。
「きっとね、遠野くんはお雑煮を食べれば体が温まるよって言いたかったんだと思う」
「……そっか。正月の後だったからね」
 ようやく合点がいったのか、遠野くんの表情が和らいだ。
「わたしね、あの時に思ったんだ。学校には頼れる人はいっぱいいるけれど、いざという時に助けてくれる人っていうのは遠野くんみたいな人なんだって」
 そんな遠野くんの優しい目に釣られたのか、わたしはついついそんなことまで口にしていた。
「まさか、それは買い被りすぎだよ。ほら、ひよこが初めて見た人間を親と思うのと一緒。たまたま俺が助けられただけっていう話じゃないか」
 遠野くんは、少し慌てながら、そんな微妙に外したたとえ話を持ち出した。
「そんな事ない……! わたし、あの時から遠野くんならどんな事だって当たり前みたいに助けてくれるって信じてるんだから」
 ついつい、熱くなってしまうわたし。
「弓塚さん、それ過大評価だよ。俺はそんなに頼れるヤツじゃないんだけど」
「いいの。わたしがそう信じてるんだから、そう信じさせて」
 わたしが遠野くんをまっすぐに見詰めながらいうと、遠野くんは少し困った顔になった。
「――まあ、それは弓塚さんのかってだけど」
「でしょ? だからまたわたしがピンチになっちゃったら、その時だって助けてくれるよね?」
「そうだね。俺に出来る範囲なら、手を貸すよ」
 まるで当たり前のことのように、気負わず、そう答えてくれる遠野くん。わたしは嬉しくなった。
「うん。ありがとう、遠野君。随分と遅れちゃったけど、あの時の遠野くんの言葉、嬉しかった」
 ちょっと胸に迫るものがあって、わたしは遠野くんをじっと見つめた。ちょっと、目が潤んでたかも。
「わたし、遠野くんとこうして話せたらいいなって、ずっと思ってた」
「……なにいってるんだ。話なんていつでもできるよ」
 遠野くんは軽い口調でそう答えてくれる。でも、わたしはなぜか、今日この日が、かけがえの無い、二度と来ない日のような気がした。
「だめだよ。遠野くんには乾くんがいるから。それに、わたしは遠野くんみたいになれないもの」
 遠野くんの側には乾くんがいるから。遠野くんは一人きりでも生きてゆける人なんだけど、それでも乾くんにある程度支えられているんだ。そしてそのポジションは、本当ならわたしが入り込みたいところ。でももう無理。そのことが、わたしにははっきりわかってしまったから。だって遠野くんには、他にも大切な人がいるんだから。その人のために、有間のご家族に未練を残しているのに、それでも実家に戻ろうと決めてしまえるくらいに。もう、遠野くんの心のどこにも、きっとわたしが入り込める隙なんて無いんだ。
 わたしは自分の中に湧き上がってきた、暗い予感を追い払った。だって、また明日があるから。また明日、遠野くんと会えるんだから。遠野くんといい仲にはなれないかもしれないけれど、今までよりもずっと近くにいられるんだから。わたしは、心を強いて落ち着かせると、遠野くんにお澄まししていった。
「それじゃあ、わたしの家はこっちだから。また明日、学校で会おうね」
 そう、また明日会えるんだから。それだけが嬉しくて、わたしはどうしても顔がほころんでしまうのを抑えられなかった。さっきの暗い予感なんて、どこかにやってしまったように。


 そう、また会える。これからは、毎日だって遠野くんとお話が出来るんだ。今までとは違う、この楽しい時間が、わたしの日常になったんだ。
「おはよう遠野くん」
 遠野くん、少し驚いてる。うふふ、失礼しちゃうな。毎日のように、朝の挨拶を欠かしてないのに。
「うん、おはよう遠野くん。わたしの名前、ちゃんと覚えていてくれたんだね」
 そう、遠野くんは、ちゃんとわたしの名前を憶えていてくれたんだもの。こうして会話しているだけで、嬉しい。遠野くんの中に、ちゃんとわたしがいることが。
「でも遠野くん、お家が変わるって言うことは、もしかして有間さんのお家から出ることになったの?」
 わたしたちは秘密だって共有している。だから、こうして遠野くんの、内向きのことも聞けるんだ。遠野くんとの距離を近く感じる瞬間。
「……おはよう、乾くん」
 ……ちょっと邪魔は入るけど。でも、乾くんから学ぶことは多い。わたしが気づかないような、遠野くんの些細な変化を、乾くんはちゃんと気づいているんだ。今度からは、わたしがちゃんと気づいてあげないと。
「だって、どうして遠野くんがここにいるのかなって。遠野くんの家、反対方向だよ」
 こんなうれしい変化だってある。これからは、遠野くんと同じ通学路になるんだ。そう、毎日一緒にいられる時間が増える。二人っきりでいる事だって出来るんだ。
「でも大丈夫? 自分のお家だって言っての、もう八年も離れているんでしょう? その、恐いなー、とか不安だなー、とか思わない?」
 そしてほんのちょっぴりだけど、遠野くんの悩みを共有できたりもする。これも秘密を共有している役得だよね。わたしの中の遠野くんも、どんどん大きくなってゆくんだ。
「う、うん――そうだよね、帰る道が一緒なんだから、途中まで一緒でもおかしくないよね!」
 その上、思いがけず、遠野くんがわたしの気持ちを酌んでくれたりもする。遠野くんの目が、わたしの方をちょっぴり向いてるんだ。きっと、遠野くんの中のわたしも、今までよりも大きくなっているはず。その他大勢から、ちょっとだけ抜きんでることが出来たかなあ。
「もうっ。遠野くんってば中に誰が閉じ込められていたか、まったく興味がなかったんだね。いい? わたしはそのころバドミントン部の部員だったんだよ」
 こんなたわいない昔話をして。
「そんな事ない……! わたし、あの時から遠野くんならどんな事だって当たり前みたいに助けてくれるって信じてるんだから」
 ほんの少しだけ、わたしの気持ちを打ち明けて。
「それじゃあ、わたしの家はこっちだから。また明日、学校で会おうね」
 そして別れを告げる。また明日、会えるんだから。

 また明日、また明日――そういい交わして、別れてゆく。そうして明日を待ち焦がれる気持ちの、なんて切ないことなんだろう。また遠野くんと時間を共有できる日が来るのを待つ気持ちの、なんて暖かなことなんだろう。
 そしてまた。
「おはよう遠野くん」
 一日が始まる。
「また明日、学校で会おうね」
 一日が終わる。

『おはよう』で始まって、『また明日』で別れる日々。これって充実した毎日だよね。まるで春とお祭りが一緒に来たみたいに。遠野くんがいて、わたしがいて、みんなもいる毎日。ずっとわたしが待ち焦がれてきた日常だった。
 本当に遠野くんの中で、わたしの存在が大きくなってくれてるのかどうか、それはわからない。でもね、遠野くんのぬくもりを、今までより傍で感じることが出来るだけで、わたしの胸は一杯になってしまうんだ。切ないくらいに幸せで、暖かい気持ちになれる。これからずっと、遠野くんの傍にいられますように。そして、ほんの少しずつでも、遠野くんの中のわたしが育ってくれますように。この日々が、永遠に続きますように。わたしは祈る。ありふれた幸せの中で、この平凡な一日が、永遠に続きますように――わたしはそう祈る。

 でも、もうわかってる。
「おはよう遠野くん」
 これは夢なんだって。
「そうだよね。うん、だからわたし、遠野くんに話しかけるのはちょっと不安だったんだ」
 これは、こんな日が続けばよかったなっていう、わたしの夢なんだ。
「そう――――よかった」
 だって、わたしはさっきから。
「あれ、遠野くんだ」
 同じことを繰り返してばかりなんだもの。
「あ、朝に言ってたのはその事だったんだ」
 これはわたしが、遠野くんと一番幸せだった時を、思い出しているだけなんだ。
「実家って、その……遠野さんのお屋敷に?」
 もう、遠野くんの顔は見えない。
「……そっか。あ、呼び止めちゃってゴメンなさい。遠野くん、急ぐんでしょ?」
 遠野くんの声も聞こえない。
「あの、そのね、わたしの家と遠野くんの家って、坂に行くまで帰る道が一緒、なんだ、けど……」
 わたし、気づかなかった。
「う、うん――そうだよね、帰る道が一緒なんだから、途中まで一緒でもおかしくないよね!」
 こんなたわいない一言が。
「ううん。単にね、わたしと遠野くんは明日から同じ通学路になるんだなあって」
 こんなささいな出来事が。
「それがね、わたしの頭にぽんって手をのっけて、“早く家に帰って、お雑煮でも食べたら”って。わたし、よっぽど寒そうに震えていたんだなって恥ずかしくなっちゃった」
 こんなささやかな時間が。
「そんな事ない……! わたし、あの時から遠野くんならどんな事だって当たり前みたいに助けてくれるって信じてるんだから」
 こんなにも尊くて。
「いいの。わたしがそう信じてるんだから、そう信じさせて」
 こんなにもかけがえの無いものだったなんて――――

「それじゃあ、わたしの家はこっちだから。また明日、学校で会おうね」


「――ごめん。俺は、弓塚を助けられない」
 どこか遠くで、遠野くんがわたしに、そう謝っている。ほんのつかの間だったけど、なにか楽しい夢を見ていた気がする。そして今、厳然たる現実に向き合うときが来たんだ。
 遠野くんのナイフが、吸血鬼になったわたしを貫いている――――
 そっか――――やっぱり一緒には行ってくれないんだね、遠野くん。わたし、遠野くんと同じような生き物になれた気がしてたんだけど、結局はどこかで思い違いをしていたんだね。わたしは、どこまでいっても、遠野くんみたいにはなれなかった。そして遠野くんは、最後の最後で、わたしを拒んだんだね。
 でもいいんだよ。だってわたし、うれしかったんだもの。ほんの少しの間だったけど、遠野くんはわたしを選んでくれたんだもん。……うん、これならこのまま死んじゃっても悪くないかな。あれだけいっぱいあった痛みもないし、こわい気持ちも魔法みたいに消えちゃったし――それに、今は少しだけあったかいや。えへへ、これって遠野くんの体温かな。
「――ごめん。俺は――無力で、最低だ」
 遠野くんはそういってる。泣きじゃくりながら。あは。遠野くんったら泣いてるんだ。……優しいなあ。わたし、ひどいこといっぱいしたのに、それでも泣いてくれるんだね。……うん、そんなトコ、誰よりも好きだった。中学校からずっと遠野くんだけを見てきたから――そんな誰も知らないことだって、わたしはお見通しだったんだから。
 ……わたし、もっと遠野くんと話したかった。ほんとうに普通に、なんでもないクラスメイトみたいに話したかった。だから、いま死んじゃうのはホントウにイヤだよ。
 でもね、謝らなくていいんだよ。遠野くんは、こんなわたしのために泣いてくれたじゃないの。たくさんの人をこの手にかけた、罪深いわたし。わたしには、もう死んでしまうことしか、救われる道は無かったんだ。きっとこれが一番いい方法だったんだよね。――だから、泣かないで、遠野くん。あなたは、正しいことをしてくれたんだから。
 遠野くんは、わたしじゃない誰かを、とっくの昔に選んでたんだね。ダメだよ、わたしの言葉に惑わされちゃ。だって、その人に会えなくなっちゃうでしょう? 遠野くんは、もっと自分を大切にしなければならないよ。そうしないと、結局はみんなを悲しませちゃうんだから。
「――――」
 やっと遠野くんの顔が見えた。遠野くんは、わたしを見てくれている。わたしを見て、悲しんでくれている。たくさんの人にひどいことをした私なのに、それでも遠野くんは手を差し伸べようとしてくれた。それだけで十分なんだよ。本当に――
 あ、もう声を出すことができなさそう。それじゃあ、わたしの家はこっちだから。そろそろお別れだね。
「弓――塚……っ!」
「うん、ばいばい遠野くん。ありがとう――それと、ごめんね」


 一握りの灰が風に飛ばされて霧散した時、涙が一粒、灰の上に落ちた。


<了>

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