鏡の中の志貴と秋葉



「少し考えてみてはいただけませんか、兄さん?」



「秋葉、ちょっといいかな」
 志貴が、なぜか後ろめたそうな顔で声をかけてきたのは、秋口のある日、夕食後のことでした。
「なんでしょうか、兄さん」
 応える秋葉の顔には、別に警戒するような色はありません。機嫌も悪くは無さそう。それに力を得た志貴は、言葉を続けました。
「あのさ、その、こんな事を聞くのは馬鹿みたいなんだけど」
「はあ」
 秋葉は、少し首を傾げました。愛らしく、華奢な頤に、黒髪がしゃらりと掛かります。
「でも、俺はいつも言われてるように鈍いし、特に女心は分からないし、結局は直接聞くのが一番いいかなって思ってさ――」
「兄さん、なんのことをおっしゃってるんですか?」
 秋葉は、少し可笑しそうです。どうやら、志貴がなにを聞こうとしているのか、彼女にはピンと来た模様です。
「うん、だから、その、自分が間抜けにしか思えないようなことなんだけどさ――」
「要するに、志貴様は秋葉様の誕生日に何を差し上げたいか考えあぐねて、秋葉様に直接お尋ねしようとされているわけでございますね」
 もしかしたら、志貴の煮え切らない口調に腹が立ったのでしょうか、翡翠が横合いからズバリと口を挟みます。
「ちょっ、翡翠ちゃん、それはお姉ちゃんの役目でしょう」
 まさにそのタイミングで口を挟み、ちょっと志貴いじりを楽しもうと狙っていた琥珀は、機先を制されて地団太を踏みます。
「う、うん、そういうこと」
 非常に言い難い内容をズバリと晒してもらえて、志貴はむしろ助かった気分です。
「ふうん、確かに兄さんらしく、可愛らしくも愚鈍な質問ですね」
 秋葉は、明らかに嬉しく感じながらも、彼女らしく皮肉を込めて揶揄します。
「まあ、さ、何とでもいってくれよ。実際、なんにも思いつかなかったんだからさ」
 志貴は頭をかいてます。
「俺なりに一生懸命考えたんだけど、秋葉は金持ちだろう? 大概の物じゃ喜んでくれないかなって思ってさ。秋葉のためなら俺の時間なんていくら使ってもいいんだけどさ、秋葉自身が忙しいじゃないか」
  確かに、夏が終わってからの秋葉の忙しさは異常でした。来月に控えた体育祭、再来月の文化祭と、生徒会にとっては大きなイベントが差し迫っているのも一因 です。しかし、それ以上に秋葉の時間を奪っているのは、遠野家としての資産管理の仕事のようです。かくして、秋葉は公私共に多忙を極めることとなっている のです。
「そうですね。今の状況では、休みにでもどこかに連れて行ってくださるというわけにも行きませんね」
「うん、だから、俺も考えあぐねてさ。やはり秋葉の欲しいものは、秋葉に聞くのが一番と思ったんだ」
 やっと話が通じたと感じたのか、志貴は幾分ホッとした様子です。が、秋葉は、なぜかにっこり笑うと。
「ですが、お答えするわけには行きません」と、答えました。
「ええっ、なんでだよ」
 志貴は頭を抱えんばかりです。
「だって、私の気持ちも分かっていただいてないような方からのプレゼントなんて、ちっとも嬉しくないじゃないですか」
「いや、だから教えてくれってさ――」
「兄さんは、私が『これが欲しいんです』っていえば、なぜそれが欲しいのか察してくださるほどに鋭い方なのですか?」
 秋葉の答えに、志貴はウッ、と声を詰まらせました。
「兄 さん。私は、確かに物質的に差し迫った欲求を持ち合わせてません。なにせ、それなりにお金は持ってますから、大概のものは欲しいと思えば手に入るのです。 それとも、兄さんは私でも買えないほど高価なプレゼントを下さるおつもりなのですか? 自慢じゃありませんが、兄さんの経済状況なんてお見通しです」
 それは、秋葉が小遣いくれないからだろう、という言葉を、志貴はかろうじて飲み込みました。
「まあ、確かに高いものには手が出ないけどさ」
「で しょう? だから、私は別に高価なプレゼントなんて望んでませんし、そもそも欲しいものというのを思いつきません。物質的には満たされてますし、節制する ことも弁えてますから。ですから、下さる物の値段だとか、形だとかはどうでもいいのです。問題なのは、下さる方の気持ちなのです」
「うーん――」
「お分かりになりませんか」
 秋葉は、やはりそうなのかと思いつつ、ため息をついた。
「ごめん、秋葉の気持ちは分かってるつもりだし、秋葉の気持ちに応えてやりたいよ。でもさ、プレゼントとなると、物の形をしてないとダメだろう」
「ですから」
 秋葉は声を荒げかけて、しかし自制して、ため息を吐きました。そして小さな子供に話すように、少し優しい声で諭します。
「――問題なのは兄さんの気持ちなのです。形なんてどうでもいいのです。下さる物を通して兄さんの気持ちが垣間見える、そういうプレゼントが嬉しいのです」
「うーん」
「少し考えてみてはいただけませんか、兄さん?」
 秋葉は、突き放しように言って、それから冷めた紅茶に口をつけました。志貴は、途方に暮れた顔になると、悩ましげな顔のまま居間から出て行きました。
「今日はまた、ずいぶんとお優しかったじゃありませんか」
 すかさず、熱い紅茶を入れなおしながら、琥珀はからかうようにいいます。
「兄さんは、時々びっくりするほどに、人心の機微というものに鈍感なんだもの。たまには教育して差し上げないと」
「さて、志貴さんはなにを下さるのか、これは見ものですね、秋葉様」
 本当に可笑しげに言う琥珀の横で、翡翠は少し心配そうな顔でした。

「――んで、俺にバイトの斡旋をしろと」
 翌日、学校で有彦に会った志貴は、頭を下げて頼み込みました。
「ああ、きつくても構わないから、出来るだけ実入りのいいのを」
「秋葉ちゃんのためでもあるんだから、そりゃ構わんが、なにを買うのか決めたのか?」
「ああ。三咲の映画館から一本入った裏通りに、小奇麗な小物屋があるだろう。あそこで綺麗な手鏡を見つけて――」
  店主の話では、明治の頃にフランスから輸入されたものを、最近補修したものだということでした。修飾はむしろシンプルですが、素材そのものを奢った、瀟洒 な年代物です。かなりの値段を覚悟していましたが、店仕舞いするつもりなのだそうで、想像以上に安く譲ってもらえそうです。
「それが、福沢さん五名様」
「なるほど、あれは値打ちもんだぞ。福沢さんが分隊で要るくらいだ。そりゃあ安いな」
 さすが有彦、妙な目利きが出来ます。
「しかし五名様か。おまえの懐具合では、蓄えを残らず吐き出しても、後二名様は必要ってことだな」
「なんで俺の懐具合を知ってる」
 志貴はいささか憮然とした顔になりましたが、有彦がバイトの話を始めると、熱心に耳を傾けました。秋葉の誕生日は二日後。あまり時間はありません。

  志貴が、その手鏡を見初めた理由は、その美しさだけではありません。一つには、、それが秋葉の手に収まったところを想像するに、まるで誂えたようにぴった りだったからです。秋葉の、長い黒髪の、古風な美しさ。その華奢な手のたおやかさ。その秋葉が、この典雅な手鏡を覗き込んでいるところを想像すると、 ちょっと他に考えつかないくらいにぴったりに思えたのです。傍から見ているだけで、幸せな気分になれそうです。
 そしてもう一つ、手鏡に込められた志貴なりの願いがあります。つまり、秋葉には、いつまでも美しく、幸せで居て欲しい、と。
  それが、志貴のたどり着いた結論でした。秋葉は『兄さんの思いが分かるものを』といいました。裏を返せば、志貴の願いをうかがえるような物が欲しいという ことなのでしょう。ならば、志貴の願いなんて、それほど多くはありません。ただただ、秋葉と使用人姉妹とともに、ここで末永く、幸せに暮らしたいのです。 恙無く生きてゆきたいのです。それだけが、志貴の本当に願っていることでした。
 だから、この手鏡を贈って、秋葉に志貴の気持ちを知ってもらいたいのです。本当は値段なんてどうでもいいのですが、秋葉に釣り合いそうなのは、この高価な手鏡くらいでしょう。

  その午後、志貴は学校をサボってしまうと、有彦に紹介されたアルバイトに出かけました。ビルの内装工事の手伝いです。まだエレベーターの使えないビルの上 まで、細々とした資材を担いで登るのです。ビルの外壁に取り付けられたリフトが、重い鋼材を運び上げるのを横目に、志貴は黙々と働き続けました。
  夜九時前に終わっても、家には戻れません。屋敷に電話を入れ、琥珀に有彦の家に泊まると伝えます。なにかピンと来たのでしょう、琥珀は『秋葉様はちゃんと 丸め込んでおきますよー』と言ってくれました。それから、有彦の家ではなく、繁華街のファミリーレストランに向かいます。バイトはダブルヘッダーです。閉 店後の店内清掃のアルバイトです。これが想像以上にきつい仕事で、広いフロアをスタッフと二人で担当させられ、重い椅子を上げ、大きなテーブルクロスを取 り替え、ぶんぶん唸る掃除機で床を清めて行きます。
 その日の全てのバイトが終わったのは夜中の二時過ぎでした。さすがに疲労困憊した志貴は、有彦の家に泊まると、崩れ落ちるように眠りにつきます。
  翌日の昼は辛いものでした。いつもなら少し辛くても、教室の机に突っ伏していれば凌げるし、教師たちも大目に見てくれます。ところが、その時には志貴があ まりに辛そうだったからでしょう、さっさと早退しなさい、とまで言われてしまったのです。志貴もバイトの事を考えるとそうする方が良さそうだと思い、早退 して有彦の家で寝ることにしました。おかげで、多少はすっきりしたものの、この後にはまたダブルヘッダーでバイトが待ってます。
 夕方、また内装 工事の現場に向かいます。まだふらついてはいるものの、無理に起き上がって仕事場に向かいます。昨日よりもさらにきつい仕事でしたが、少し寝たのが幸いし たのでしょう。なんとかこなしました。二日間のバイト代は意外に高く、ファミレスでのそれを足せば十分に必要を満たせそうでした。後はファミレスでの仕事 です。
 昨日と同じく椅子を上げ、カーペットに掃除機を掛けているときでした。カーペットについたゴミを取ろうとしているうちに、カーペットの模様にふと目が回るような感覚を覚えました。いかんなあ、ちょっと休むかとどこか遠くで考えている自分を意識した途端でした。
「ちょっ、バイト君、大丈夫!?」
 背中の方で誰かが叫び、なにかを投げ出すような音が聞こえました。かろうじて、それが自分の倒れる音なんだと気付きましたが、もうどうしようもありません。体が動かないのです。カーペットの柔らかさを頬に感じつつ、志貴は気を失ってしまいました。

 誰かの話し声に気が付きました。老爺のしゃがれた声と、若い娘の声です。若い娘の声は心配そうですが、年寄りの声はそれを宥めるようです。いつもの事じゃ――などと言っているようです。しかし娘は、それでも心配そうです。
 なんだ、秋葉と時南の爺さんか、と志貴は気付きました。背にしたシーツのパリっとした肌触りは、確かに翡翠の仕事です。屋敷の、自分の部屋に寝かされているようです。
 薄目を開けると、部屋の電気は消されていて、入り口のドアで秋葉と時南老が話し込んでいます。廊下の明かりに仄見える、秋葉の必死な表情に、志貴は心が痛みました。また、心配を掛けてしまったのかと。
 志貴に配慮しての事なのでしょう、会話は聞き取れないくらいの小声で続きます。声色からして、秋葉がひたすらに要らぬ心配をして、それを時南老が宥めているというところでしょうか。それを遠くに聞いているうちに、志貴の意識はとろとろとした眠りに落ちてゆきました。
 どれくらい経ったでしょうか、再び意識が表層に浮かび上がってきました。物憂い気分で目を薄く開けても、闇しか目に入りません。どうやら明かりを消され、部屋に一人で寝かされているようです。いいえ――
 ポタリ、と手に冷たいものを感じました。その時になって初めて、誰かに手を取られているのに気付きました。真っ暗な部屋で、誰かが枕元にいて、志貴の手を取り、撫でています。
 また、ポタリと感じました。その冷たい感触が何であるか、志貴はようやく悟りました。誰かの流す涙です。
「――どうして心配ばかりさせるんですか」
 枕元にいるのは秋葉でした。志貴の手を、愛しげに撫で擦りながら、くぐもった声でつぶやいています。
「どうして私の気持ちをわかっては下さらないのですか。私は、私は――別に欲しいものなんて無いんです。兄さんがここに居てくださるなら、別に何もいらないんです。そう、申し上げたじゃありませんか――」
 秋葉の手は、細かく震えています。
「――」
  志貴の心を悔恨の念が満たしました。秋葉に要らぬ心配をさせたこと、浅はかにも物に頼って気持ちを伝えようとしたことを。秋葉が欲しかったのは、志貴の気 持ちが分かる『物』ではなかったことなど、さすがの志貴にももう分かりました。秋葉は、単に志貴の気持ちを、秋葉を思ってくれる気持ちを知りたかっただけ なのです。言葉だけでも、抱きしめてあげるだけでも良かったのです。
 起き上がって抱きしめてやりたかったけれど、今の志貴にはその力がありません。その代わりに、手を伸ばすと、秋葉の頭をそっと撫でてやりました。
「――兄さん」
 秋葉は、目尻の涙をぬぐいながら、びっくりした顔になっています。
「秋葉」
 志貴は、秋葉に微笑むと、「ごめんな、また心配させて」と詫びました。
「いいえ、兄さんごめんなさい。私が、あんな意地悪なことを言わなければ……」
「気が付かない方が悪いんだ」
 志貴は手を伸ばすと、秋葉の涙を拭ってやります。秋葉も、やっと微笑むと、志貴の手を握っていました。
「翡翠にね、怒られましたよ。兄さんは、本当にご自分の事なんて眼中に無い方だから、時々驚くほどの無茶をしてしまうんだって。それをちゃんと察して、気をつけて差し上げなければならないんだって。その通りですね、私も、兄さんの気持ちを軽く考えすぎてました」
  ああ、そうなんだ、と志貴は思いました。言葉はいつだって不完全だから、二人はこんなすれ違いを、いつまでもいつまでも繰り返すことでしょう。でもこう やって手を取り合えば、それだけで気持ちは通じ合うはず。この手の中のぬくもりは、百万の言葉よりも雄弁なのですから。それでも、生きてゆく限り、すれ 違って、傷つけ合ってゆくのでしょう。だから、その分だけ寄り添って、癒してあげればいいのだ、と。
「そうか。俺も秋葉も、これであいこだな」
「ふふ、そういう事にしておいて差し上げます」
 ふと、大切なことに気付きました。
「なあ、今は何時だ?」
「二十二日の晩ですよ」
「なんだ、もう間に合わないな」
「プレゼントならご心配なく。後々でも、ちゃんと頂いてあげますから」
 秋葉は冗談めかして答えます。
「だから、ちゃんとお体を休めて――」
「やっほー! 秋葉ちゃん、お兄さんの具合はどうかな?」
 突然、背後のドアが勢い良く開かれると、賑やかな女の子たちが姿を現しました。秋葉のクラスメートたち、そして後輩たちでした。志貴と面識のある娘も何人か。
 陽気にドアを突破してきた彼女たちでしたが、秋葉が志貴と、まるで抱き合うようにして、顔を寄せ合っているのを見ると、一様に気まずそうな顔になりました。
「うーん、これは羽ピン、決定的瞬間を目撃しちゃったかな?」
「あー、遠野、別にお前さんが特殊な性癖を持っているからって、決して軽蔑したりはしないからな」
「と、遠野さん、違うの、羽居さんにむりやりひきずられて――だから延髄切りはもう、イヤーッ!」
「先輩、それ違います。先輩は攻めじゃなきゃダメなんです!」
「あ、あなたたちは――」
 秋葉の肩が震えます。さっき、志貴の前で見せた可愛らしいそれではなく、女帝の黒き怒りでした。
「はーい、みんな撤退。琥珀ちゃんにほうこくー」
 絶妙のタイミングで逃げ出す羽居です。一拍遅れて逃げ出す面々。
「ちょ、ちょっと待ちなさい!」
  秋葉は髪を振り乱して追いかけます。さすがに心配になった志貴は、しばらく耳をそばだてていましたが、琥珀や羽居の宥めるような声に、しばし秋葉の怒声が 飛んでいたものの、しばらくすると女の子らしい華やいだ笑い声が湧き起こり、みんなで誕生日を祝う歌を歌い始めたようです。
 志貴は、ヤレヤレとばかりに苦笑すると、格好の肴にされているだろう妹の身代わりを務めるべく、宴の続く階下へと足を向けたのでした。そして、やはり最愛の妹を祝う歌に加わるのでしょう。
 紆余曲折ありましたが、今日の事はきっと良い思い出になるのでしょう。

 さて、作者からも一言。誕生日おめでとう、秋葉。


<了>

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